マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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農とつながる伝統祭事フォーラムinかしはら万葉ホール

2017年07月22日 09時47分58秒 | 民俗を聴く
機会を設定してくださった高取町住民N。

参加申し込み手配をされた催しは奈良県庁農村振興課の主催事業である「農村文化フォーラム」。

会場は橿原市立かしはら万葉ホールの4階研修室。

受け受けを済ませて席につく。

当フォーラムで基調講演をされるのは和歌山大学紀州経済史文化研究所の吉村旭輝氏。

3年間に亘って奈良県文化財課の緊急伝統芸能調査したときにお世話になった氏である。

何カ所かで同じ現場に出くわしたことがある。

県発行の『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』の「第五章 奈良県の神楽―巫女神楽と湯立神楽―」を執筆している。

個別に調査・報告されたのが「興ケ原・天満神社の翁舞」だ。

そのときの宵宮取材が一緒であった。

また、他に個別調査・報告したものに「十津川村 平谷の盆踊りと餅つき踊り」や「橿原市 十市のだんじり」がある。

司会・進行役は県内事例調査に度々出合ったことがある吉野町教育委員会・吉野歴史資料館館長の池田淳氏。

前述した『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』に個別調査・報告した「吉野町 国栖の太鼓踊り」がある。

お二人が専門の民俗に関しては造詣が深く、教わることは多々あった。

壇上に上がればチャンスを失ってしまうが、その前にと狙っていたときを待つ。

職員らの動きでわかった楽屋入り。

締めたドアをノックして入室。

お二人と合うのは久しぶり。

お元気な姿もそうだが、本日の講話が楽しみですと告げたら笑っていた。

さて、ここからは会場で吉村旭輝氏が講話される基調講演だ。

テーマタイトルは「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」だ。

氏が作成された資料は分厚い。

21頁からなる資料のタイトルは「農村に息づく行事と祭礼」。

日本の年中行事は農事暦に深く関係している。

自然サイクル、リズムが支配する農事暦にそって年中行事が行われてきた。

農業、漁業、林業における年中行事は太陰暦に配列されている。

お盆や彼岸・・先祖を祭る。

海外に移住した人々は神社をそこへ遷しても仕方がない。

移住した家人が亡くなれば祭りごとをもって継承する。

そういうことで移住先には寺を建てた。

なるほど、である。

農耕儀礼と密接に絡み合っているのが年中行事。

日本の場合は宮中行事から始まる。

それは中国古来の行事の伝来に基づいている。

話される話題は配られた資料に沿って進められた。

御所市のとんどは土台に松の木を据えている。

市内50カ所でそれぞれの地域ごとにとんど焼きがある。

植生環境の変化によって松の木が減少している。

それが一因でもある材の窮乏。

そのことがあって行事が衰退する。

やむなくというわけだ。

松の木は正月迎えの門松立てにも影響している。

その事実は私がでかけるあらゆる地域で聞かれる。

門松は雄と雌が揃ってのこと。

植生していた地域からそれが消えていく。

仕方がないから雄・雌の区別ができなくなった。

またまた、仕方なく植木屋さんに発注することになった。

いつかは氏神さんに飾る正月迎えの在り方も変容していく地域が増えていくことであろう。

春祭りの称する大祭は奈良県や滋賀県に多く見られる。

滋賀県の愛荘町に三つの垣内がある。

オーコで担いできたお供えは唐櫃ごと神社拝殿横に並べる。

映像を写しながら解説される唐櫃の脚の長さがある。

三つの唐櫃の脚の長さはそれぞれ。

よく見ないとわかり難いが脚が長いものから短いものも。

差はそれほどではないが、その長さは水利権を示す。

水上は脚高であるが、水下は脚が低いのである。

中世の郷の祭りは水利の力強さを意味する。

尤も中世以前は荘園時代。

そのころであるのか言説はなかったが、水利権力はそのころから・・・か。

夏にかけて行われてきた雨乞いは水の行事。

夏祭りはそのうちの一つ。

稲に虫がつかんように松明へと・・。

虫送りは和歌山にはない行事。

奈良県や滋賀県に多く見られる。

秋の祭礼はお月見から始まる。

二百十日、二百二十日は三大厄日。

農村はそのころに休む。

休んで祭礼をする。

断片的に紹介される絵解き行事。

次々と映し出される年中行事に詳しい説明をすれば絶対的な時間がないから端折られる。

行事をよく知る人であればついていけるが・・身近でない人はたぶん流されているのでは、と思った。

能は猿楽と云われて調査された「興ケ原・天満神社の翁舞」を解説する。

12月14日の伊勢の祭礼から全国に散らばった伊勢の大神楽。

さまざまな地に伝播する。

三つの型があるだんじり。

一つは船型、二つ目に住吉型。

三つ目が堺型である。

船型だんじり「は大阪市内にある。

後方に幕がある。

それ以前は彫り物人形の山であった。

そのすべては夏祭りにある。

大阪の天神祭りである。

京都で云えば祇園祭り。

疫病祓いに御幣をだんじりに取り付ける。

尤も祇園さんのだいじりはだんじりと呼ぶことはない。

山鉾である。

その鉾に御幣がある。

各地域に神輿があるだろう。

それに御幣を立てていることに気づく人も実は少ない。

御輿は神輿であるなら神の依り代が御幣なのだ。

大阪岸和田のやりまわしは秋祭り。

大阪泉州は五社の祭礼。

放生会として供養するだんじりとが組み合わさった。

堺型は4本の支え。

住吉型は3本の支柱であるという。

そこでだ。

何故に大阪住吉、堺のだんじりが奈良県にあるのか、である。

明治時代、奈良県の豪商の絡みと堺の大喧嘩が関係するという。

堺の人が売却しただんじりは豪商が購入して奈良にやってきた。

さらに区分けしただんじりは南河内型と石川型がある。

中世の南河内は和歌山の根来文化圏。

泉州の貝塚や泉佐野文化と交流した。

和歌山の粉河に傘鉾がある。

それはだんじり以前の形であることなどお話くださるが、文章化し難い。

さて、奈良にだんじりがやってくるまでの形は何か。

本来の神輿である。

明治29年、大阪堺の中之町大道で地車(だんじり)のすれ違いで大喧嘩になった。

それがあってだんじりの曳行が禁止された。

住吉大社周辺地域も曳行禁止が増え続けて曳行しなくなっただんじりは各市域に売却された。

明治末期から大正年間において泉州の和泉や泉大津、河内長野に売却された。

そういうことがあってだんじり文化が廃れていくのである。

尤もすべての地域ではないが、元々だんじり文化がなかった奈良に伝播していく過程があったことを知る。

尤も橿原市の十市のだんじりは江戸時代末期から明治時代にかけて製作された船形だんじり。

吉村氏が報告された「橿原市 十市のだんじり」によれば、だんじり舞台の内部に「住吉さん」が祭られているそうだ。

小屋根の唐破風の形態から文久二年(1862)に泉州岸和田市の大工町で新調されただんじりに見られる特徴があるという。

農とつながる伝統祭事フォーラム第二場は「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」をテーマにしたパネルディスカッション。

先に紹介したお二人の他、奈良佐保短期大学講師の寺田孝重氏に御所市鴨都波神社鴨の会若衆会会長の三井秀樹氏がディスカッションする。

地域の歴史はかけがいのないもの。

歴史を形作るのが伝統的な行事。

日常の「食」は特別な日の「食」にかけがいのない「食」であるという池田氏。

農村は大きな転換期を迎えている。

人、それぞれが暮らす。

暮らしの中で、どう子孫を残していくか、これまでどうしてきたのか、今を生きる私たちはどう未来に伝え、何をすべきかをディスカッションしていきたいと冒頭に話した。

過去のものを掘り返して歴史、輝きを知ることが未来へと繋げられる。

その際、何を指針にすべきか・・・。

「復興の年、2年は学生たちが復興、マスコミも報道してきたが・・・。学生は水もの。6年も経てばマスコミは取材に来ない。マツリを継承は、いかにどれだけのエネルギーがいるのか、である。和歌祭の、32曲からなる御船歌を復興してきた。生まれ育った泉州の和泉大津池田町でだんじりにのめり込んでいた。来年にやる、やらないの、の打合せばかりだった。五穀豊穣に新興住宅は盛り上がらない」と話すのは吉村氏だ。

「ケの世界に茶があるかもと云われて引っ張り出された。茶粥は消えているのか・・。天平茶の復元を平城遷都1300年祭にかりだされた。奈良から消費が始まった茶・・」と自己紹介される寺田氏。

「上社の鴨神社は御所市の高鴨神社。中社も同じく御所市の葛木御歳神社。下社も御所市の鴨都波神社。その神社に属する鴨の会若衆会。鴨都波神社の春の祭りの御田植祭はトーヤの家から出発する。ススキ提灯は江戸期から明治時代にかけて始まった。だんじりはそれ以前からあったと古文書に書いてある。ススキ提灯は秋の収穫後に刈り取った稲藁を積む“穂積み”に似ていることからその名がついた。昔は静かに参拝する提灯だった。いつのころか、たしか、ある自治会が提灯をグルグル回し始めた。それから我も我もと繰り出すようになった。宮司はその行為を停めなかった。若衆会はやりたいようにやらせてもらっている。行事の一環にある“ロクロキリ”がある。お祭りの火をロクロで回して火を起こす。厳かな作法に涙がでる。平成5年に発足した若衆会。何よりも楽しく祭りをしている」と話す三井氏。

四者四様の祭りに思いを伝える語り口である。

「那智の田楽は僧侶がしていた。動きを見て担い手が村の人に替わった意味合いがわかった。伝統はどうカスタマイズされていくのか。吉野山で行われているおんだ祭も僧侶がしていたが、廃仏毀釈の折に村人が演じることになった。すくすく育つ木やからススキ。形は稲と同じ。来年も同じように、ススキのように育ってほしい」とフォローする池田氏。

「茶粥を食べている人は4人。過去も食べていた人も手を挙げて欲しい」と云えば増えた。

「食べる茶から飲む茶になった。ひきちゃ(挽茶)やぶくぶく茶と呼ばれる茶は橿原市ある。中曽司町(なかぞしちょう)に共同墓地の池堤がある。茶を挽いて・・泡が立つからぶくぶく茶。その泡で食べるのがぶくぶく茶。豊かな稔があるから生活の中で使われる」と話す寺田氏。

「若人は村から出る。提灯も消える。若衆が立ち上がる。提灯回してパーフォ―マンス。ここ4、5年は高齢者の祭り離れが生じている。若いもんについていかれん。祭りはもうえーわ、という。宮司がひとこと言った。昔は伊勢音頭があった。棟上げのときに伊勢音頭を唄っていた。それを鼻唄で唄っていた。高齢者に歌を・・ということで平成28年4月、正式に高齢者組織を立ち上げた。皆が唄いやすい伊勢音頭バージョンができあがった。集合する公園に並んで唄った。そこに合いの手を打つ人もいた。皆が楽しめる祭りになった」と話す三井氏。

「御所市の南郷地区を調査したら伊勢音頭があったものの、生歌ではなくテープが唄っていた。30代、40代は働き盛り。その人たちが村から出ていって仕事がある都会に・・・。原因は研究者が紹介していること・・。カメラマンが行くと村は注目する。人気があるからである。逆に人気がないところは見にくる人が少ないから寂れる」といったのは吉村氏。

「茶とかが一番広がったのは明治時代。奈良県全域に亘って茶生産をしていた。茶はどこにもあったが、生産が減少したのは大正時代。地ビールに対抗して地紅茶も・・」と語る寺田氏。

それぞれが思いを会場に伝えるパネルディスカッション。

今あるものは、形を替えて継承すべきか。

形だけなのか。精神面はどうなのか。

村から離れる理由は何なのか。

気持ちが離れるのは何故か。

信仰はなぜに消えていくのか。

祭りは集合でないといけないのか。

ハデさがないと祭りではないのか。

そんなことを思いつつディスカッションの幕が下りていく。

テーマはたしか「伝統祭事を育んできた農村文化の魅力を未来へ伝える」ではなかったのか。

これでは“祭り”と“茶”だけで終わってしまう。

農村栽培の中心をなすのは稲作に畑作。

農作を営む人たちが継承してきた伝統祭事の事例紹介が違うように思えた。

振り返って開場の壁に貼ってあった6枚の行事ポスターをあらためて拝見する。

そこには“農村”の目線がないことに気づく。

写真的にも動きがあるハデ姿。

晴れ姿でなくハデな状態を表現するポスター。

すべてがすべてではないが、もっと“農”寄りに集約して欲しかったと思うのは私だけであろうか。

(H28.11.16 SB932SH撮影)


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