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マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

松尾・H家の正月のイタダキ

2017年09月23日 08時42分44秒 | 山添村へ
通院しているT病院でばったり出会った平成28年6月14日

お会いした人は山添村松尾に住むHさん。

奥さんとともに3カ月おきに検査する診察だった。

医師は違うが循環器内科医師の診察を仰ぐ。

奥さんも足の障害をもっているが、いたって元気に暮らしている。

平成23年のマツリに当家を務めたHさん。

その年よりマツリの度に伺うようになった。

昨年の平成28年の8月14日はお盆の習俗である「サシサバのイタダキサン」も収録させていただいた。

尤も「サシサバのイタダキサン」は平成24年の8月14日にも撮らせてもらった。

前年に撮らせていただいた「サシサバのイタダキサン」の際にも家の習俗取材をお願いした。

何度もお家の習俗を撮らせてもらうは遠慮したいところだが、同行していた写真家Kさんの願い事も叶えてあげたい。

そう思って無理な願いであるが、本日の「正月のイタダキ」も取材させていただくことになった。

この場を借りて厚く御礼申し上げるところである。

昨夏にお願いしたときは息子さん夫婦にしてもらう予定であったが、所用があることから高齢のH夫妻の出番となった。

昨夏にお願いしてそのままでは申しわけない。

そう思って年末の12月26日に伺った。

正月準備をしている最中であったにも拘わらずお相手してくださるのが嬉しかった。

さて、「正月のイタダキ」とはなんであるか、である。

山添村など奈良県内の東山中で今もなお行われているお家の正月祝いである。

県内平坦では滅多に見られなくなった元日の習俗は過去数カ所において取材させてもらったことがある。

但し、である。

一部を除いてほとんどが祝いの作法を終えたそのお飾りというか、祝いの膳を拝見したにすぎなかった。

本来の作法時間は除夜の鐘が鳴って正月を迎えた直後の時間帯。

地域や家によっては朝日が昇る前の早朝時間帯。

一般的にいえば起床時間のような場は遠慮すべきと判断して無理なお願いはしていなかった。

奈良市長谷町のN家のイタダキの膳は平成23年1月1日だ。

作法時間は例年よりも遅らせてもらった。

天理市福住町別所のN家のイタダキの膳も平成23年1月1日である。

ここは膳だけを拝見した。

奈良市丹生町のF家のイタダキの膳も平成23年1月1日

家族が膳を廻す作法も拝見した。

山添村大塩のK家の祝い膳は平成24年の12月31日である。

除夜の鐘が鳴るまでに奥さんが調理をして配膳した祝い膳。

作ったばかりの祝い膳を拝見した。

宇陀市室生下笠間のⅠ家のイタダキサンの膳は平成22年の1月4日に拝見した。

膳の作法は1月1日であるが、4日もそのままにしているからと云われて撮らせてもらった。

松尾のH家の作法も同じようなものであるが、膳の盛りが異なる。

膳の盛りはこれでなくてはならないというものはない。

家によってそれぞれ、区々なのである。

あけましておめでとうございますと声をかける取材日は元日の朝。

本当にもうしわけないと思う取材日にはお年賀を準備した。

H家の「正月のイタダキの膳」は2種ある。

右にあるのが「十二月さんのモチ」。

一年の月数を表現するモチの数だ。

大の月がある旧暦閏年であっても12個のモチである。

モチは他にも「ミカヅキさんのモチ」に「オツキさんのモチ」もある。

弓なりの三日月の形にしているのが「ミカヅキさんのモチ」。

その上に載せた丸いモチがお月さん。

形どおりの名がある「オツキさんのモチ」である。

「十二月さんのモチ」の餅は家族とともに正月七日の七草の日に食べるが、「オツキさんのモチ」を食べられる男性に限るそうだ。

ウラジロを敷いて数個のミカンも盛る。

そこに“ニコニコナカムツマジク”の干柿10個を串挿ししたクシガキも添える。

これを「十二月さんの膳」と呼んでいた。

左側の膳は「イタダキゼン」の名がある。

白餅は「イタタダキのモチ」。

この餅は1月15日の小正月に食べる。

数個のミカンに日高昆布。

祝い袋はお年玉。

この膳に特徴的なのはサイフに現金、預金通帳があることだ。

これらはお金が貯まりますようにという願いである。

おもむろに始まった正月のイタダキの作法。

まずは当主のご主人が「イタダキゼン」を両手で抱えて前方にもつ。

頭を下げて降ろす。

特に祈りというか願いの詞は述べずに頭を下げる。

ご主人は位置を移動して、今度は「十二月さんの膳」を抱えて、同じように頭を下げる。



その際には奥さんも横について、ご主人と同じように「イタダキゼン」を抱えて頭を下げる。

奥さんは持ち上げる力がないと云って揚げるのが辛そうだ。

少しでも恰好つけたいと思って抱えるが、ここまでだ。



その様子を優しい眼差しで見守るご主人。

二つの膳のイタダキ作法を終えたご主人は退いて、奥さんは「十二月さんの膳」に移った。

これもまた重たい膳であるから持ちあがらない。

「申しわけないことで・・」と云われるが、「もうそこで良いですから・・・」と思わず口がでた。

「十二月さんの膳」はコモチであるが十二月のモチが10個。

三日月のモチもあればお月さんのモチも。

しかもミカンは6個もある。

総量を計ってみればわかるが、若い者なら楽々と抱えられる膳であっても、高齢者や腕に力が入らない人にとっては揚げるのが苦痛である。

息子夫妻がいたら男、女の順で同じように家族全員がする正月の作法である。

「イタダキ」作法をしてからは半帖の紙に包む。

「半帖」は「はんじょう」。

「半帖」が繁盛に繋がる洒落であるが、半帖の紙に包むことによって「家が繁盛」するという願いを込めているのだ。

H家が正月の朝5時に拝む方角は決まっている。

まずは、お日さんが昇ってくる東に向かって拝む。

次は西、その次は南、そして北に向かって拝む。

東におられる神さんは南にもおられるということらしく、四方を拝して拝むと話す。

つまりは東西南北に向かってこの新しき年を祈念して、お日さんが出る前の5時ころに拝む四方拝である。

こうした正月のイタダキ作法を撮らせていただいたH家。

「我が家のお正月のお節や雑煮を食べてや」と云われる。



別室に運んでくれたH家の正月料理の盛りに感動する。

雑煮は云わずと知れたキナコ雑煮。

ご自宅にある井戸から若水を汲んで、その水で炊いた雑煮のだし汁。

昆布出汁で炊いたという。

味噌は白味噌でなく合わせ味噌。



でっかいカシライモ(頭芋)に豆腐とダイコンが入っている。

この中には雑煮餅もある。

これを取り出して添え皿に盛ったキナコにつけていただく。



奈良県特有の、といってもすべての地域でなく、特定地域であるが、こうしてキナコをつけて食べる習慣がテレビで放映されて放送を見ていた全国に激震が走ったようだ。

県民ならどこの家でもしていて、誰もが食べていると紹介された特定地域の風習は放映で特徴づけた。

誤解の放映が全国に拡がったテレビ効果が怖い。

お節も食べてや、と云われるがご主人はもう出なくてはならないと正装姿になっていただけに大慌て。



折角の料理だけにそれぞれの品物を一品ずつ、口に入れて美味しさを味わう。

なかでも美味しかったのは煮凝りのある甘辛く味付けしたエイである。

年末に訪れた室生下笠間のカケダイ作りを拝見したM商店も売っている甘辛味のエイである。

実は初めていただくエイである。



大阪生まれの大阪育ちの私の家ではエイの料理はなかったから初めての味覚である。

こんなに旨いとは、はじめて知った。

舌鼓に感動に浸っている場合ではない。

軽トラに乗って走っていったご主人の行先は峯寺に鎮座する六所神社である。



初詣する姿をなんとかとらえることができた。

大字松尾の氏神さんは松尾に鎮座する遠瀛(おおつ)神社。

地区の神社の初詣は1月3日にしているという。

Hさんが参拝を済ませた午前8時過ぎ。

初詣の六所神社は鎮座する峯寺の他、松尾、的野の三カ大字の神社。

それぞれの大字の宮総代らも集まっての初詣参拝。

みなさん顔を合わせるなり「あけましておめでとうございます」と年頭のご挨拶である。



隣町に住む奈良市丹生町の神職もおいでになった。

神職をはじめとして何人もの宮総代は存じている。

「あけましておめでとうございます。今年も、どうぞよろしくお願いします」と挨拶させていただいた。

(H29. 1. 1 EOS40D撮影)

松尾・H家の正月準備

2017年08月29日 09時31分25秒 | 山添村へ
6日後に行われる家の正月行事を取材させていただくH家に立ち寄る。

今夏のお盆のときにお願いしていた家の正月行事はイタダキサン。

あらためてご挨拶というわけで訪れた。

Hさんはお家の裏山に登って伐りだしの真っ最中だった。

正月の飾り付けに必要な木材は松やシキビにフクラシの木などがある。



松はチンチロが付いたものでないとおさまらない。

フクラシの木は芽出たい木。



正月に飾るのは赤い実がついているものだ。

神社の門松にフクラシを添える地域もあるが、H家では自宅に、である。

豪華で大層な門松ではないが決まりもの。

集まる樹木はセンリョウにユズリハ、ウラジロもある。

ユズリハは代々継ぐという意味は全国的。

センリョウも祝いごと。

フクラシが赤い実ならセンリョウは黄色い実。



お正月の晴れやかになる。

先日に空いた時間を利用して予め作っておいた七、五、三の下がりがある注連縄もある。



輪っか作りの細いワジメ注連縄は23本も作った。



ユズリハ、ウラジロを取り付けて玄関、小屋など家廻りに神棚、仏壇までも飾るだけにそれだけの数が要る。

これらは31日の大晦日に飾り付ける。

お正月の準備を調えてお正月を迎える。

来年もよろしくお願いしますとお声をかけて失礼した。

Hさんから、これ持って帰りと云われてもらった赤と黄色のセンリョウをブルーベリージャムの瓶に飾った。



チンチロの松も添えたら一層、良うなった。

ところで夏のころに聞いていた話しでは息子さん夫婦も来られてイタダキサンをすると聞いていたが、家族旅行が決まったのでそちらで正月を過ごすそうだ。

(H28.12.26 EOS40D撮影)

大西稲荷神社の新嘗祭

2017年08月09日 09時08分31秒 | 山添村へ
前日の夕刻から夜にかけての数時間はトンド焼きの火焚き祭りをしていた山添村の大字大西。

行事は稲荷神社で行われたという。

その火焚き祭の翌日は新嘗祭。

かつては陰暦11月中の卯の日に斎行されていたが11月23日の祝日に移した。

その後に移した行事日は12月初めの日曜日である。

かつて祭事日だった卯の日は当月にいくつかの卯のある日。

決め方は12月に卯のつく日が何かいあるか、である。

月に2回ある場合は最初にでてくる卯の日。

3回あれば2番目の卯の日になる。

今年のカレンダー状況であれば「丁卯」の12月11日が初め。

23日は「巳卯」の2度目にあたる卯の日になるから、行事日は12月23日となる。

年末が迫った日に行わなければならない新嘗祭。

当月の卯のつく日によっては行事日程が大きく替わりわかり難い。

或は今年のように日々の寒さが増し、年末の忙しい時期に被ってしまう。

そういうことがあって改められた行事日を11月23日の祝日に移行したのであるが、現在はそれも移した12月の第一日曜日に改定された。

新嘗祭はその年の新穀感謝祭。



収穫した稲穂を奉納して豊作に感謝する日である。

大西の新嘗祭は稲穂だけでなく特徴ある神饌御供もある。

一つは青豆をすり潰して作ったクルミをたっぷり塗したサトイモである。



県内事例に亥の子のクルミモチがある。

同じようにすり潰した青豆を塗すのであるが、塗すのは芋ではなく搗きたての白餅である。

クルミモチは神社に供えることなく各家が作ってそのお家の人が食べる。

いわば郷土料理であるが、亥の日にするのが特徴である。

11月22日の日にすると決まっている室生下笠間の事例もあれば、秋のマツリに当家のふるまいに亥の子のクルミモチを作って手伝いさんらと食べる事例もある。

区々さまざまな亥の子のクルミモチもあれば細かくサイの目に刻んだサトイモを入れてご飯炊き。

餡子で包んで食べる東吉野村鷲家のイモモチ事例もある。

大西の神饌御供のクルミは蒸して柔らかくしたサトイモに塗す。

もちろんであるが、蒸したり、茹でたりしたサトイモは芋の皮を剥がしやすい。

つるっ、と捲れるので剥がしやすい。

そうしてできたサトイモにたっぷりのクルミで塗すのだ。

青豆クルミは若干の塩に砂糖も入れて混ぜて味付けした。

味付け具合はその年の当番にあたる当家の人が作る。

当番が替われば、また違う味になる家庭の味付けである。

大西ではそのサトイモをやや太めの竹の串に挿す。

個数は3個と決まっているが、芋の大きさによっては2個になっても構わないという。

3個の芋を串に挿したらふと口ずさんでしまうのがだんご三兄弟の唄。

NHK教育テレビの「おかあさんといっしょ」の番組で歌われた今月の歌は大ヒットして日本全国どこでも歌われた。

それはともかく大西のクルミイモは串に挿した状態でどっさりと青豆クルミを塗すように盛る。

ドロドロになったクルミは青豆の香りがほのかに鼻に吸い込まれていくが、神饌に供えるがゆえ、清潔さを保つために透明シートでくるんでいる。

神饌に供える芋串は8本。

昔は50本も作って供えていた。

ちなみに当家が云うにはこの日に供えるクルミイモの青豆はミキサーで挽いて潰したそうだ。

かつてはどこの村でも石臼があった。

その石臼に茹でた豆を一粒ずつ穴に投入して臼の重みで潰す。

豆は完全な状態で潰すことはない。

僅かであるが潰し損ねる。

その食感が口にある。

また、ミキサー挽きあれば熱をもつ。

豆は熱をもつことで味わいが変わる。

かつて石臼でしていた奈良市茗荷町の民家を訪れたことがある。

石臼を廻す木の棒がない石臼だったから臼そのものを抱くように廻して挽いた。

お年寄りにはキツイ石臼挽き。

いつしかミキサーやジューサーで挽くようになった。

挽く道具が文化的になったが、クルミの味はとても美味かった。

これからの時代には石臼の姿は見ることはないが、味わいは継承されていくことだろう。

クルミイモに字数が多くなった。

もう一つの神饌に話題を戻そう。

三方に盛った左側は八つの赤飯握り。

これを「キョウ」と呼んでいる。

よくよく見れば赤飯一つずつに白いものをのっけている。

これは練った上新粉である。

この神饌は先々月に取材した大西の座祭りにも登場していた赤飯饗であるが、大きさ、形は異なる。

座祭りの場合はお茶碗に盛ってそれを逆さにする。

てっぺんに練った上新粉をのせていた。

今では上新粉で作るが、かつては石臼で挽いた粳米の米粉を水か、湯で練って作っていたシンコと思われる。

シンコは、材料、作り方から推定するにシトギ(粢)である。

さて、これより始まる神事は新嘗祭。

奈良市阪原町から出仕された神職が斎主を務める。

前述した2品の神饌や新嘗祭に相応しい収穫した稲穂付きの新穀に新穀で作られた神社庁指定の白酒(香芝市醸造元大倉本家御用酒)なども供えて神事が始まる。

境内には氏子一同揃って参拝する。



まずは祓の儀である。

神前に参られるのは区長に上老人、当家。

拝殿内で斎行される祭典を撮っているときに気づいた印がある。

切妻造り拝殿屋根の鬼瓦である。

それを支えるかのような様式は龍の姿。



もとより目を引いたのは鬼瓦の文様が牛玉の寶印なのだ。

神事の進行中はずっと見惚れていた鬼瓦の紋様。

これはと思ったのが座祭りに見た幕である。

八王子神社の扁額をあしらった幕にあった牛玉の寶印。

「座」の儀式を行った場は旧極楽寺である。

新嘗祭の祭り場は稲荷神社である。

旧極楽寺より相当離れている地に鎮座する。

八王子神社は旧極楽寺のすぐ傍にあるから旧極楽寺は神宮寺と思っていたが、稲荷神社拝殿にあるような牛玉の寶印はなかったと思う。

見逃していたら申しわけないが、旧極楽寺から見れば稲荷神社は鎮守社にあたる。

そう思ったわけはもう一つの建造物だ。

稲荷神社拝殿脇を固める建造物がある。

それは獅子狛犬ではなく稲荷大明神の神使の狐(眷族)さんである。



右に建つ狐の台座に三つの牛玉の寶印があった。

私はこういう建造物を見たのは初めてである。

県内事例はもとよりこのような建造物は他にもあるのだろうか。



狐は左側にも建つが、台座は牛玉の寶印ではなく、巻物である。

しかも彩色がある。

それもまた珍しい。



さて、神事が終われば、奉った稲穂付きの新穀は拝殿の柱に括られる。

これもまた事例が少ない奉りの在り方である。

そして、一同は参籠所に移る。

上座に座るのは左から区長、神職、一老、二老、三老。四老は右列の上座に座る。

一同、着座されたら区長の挨拶と村の諸事項報告。



続く直会に当家が動く。

ジャコと竹輪は上老人の席に運んで下げたお神酒をよばれる。

半時間ほど過ぎた時間帯だったと思う。

お酒を注いでいた当家手伝いの与力(よりき)が右手に銚子。



左手には四つの猪口をもっている。

これは大字大西の返杯の在り方。

他所でも同じような形があるのかどうかわからないが、はじめて見る返杯の在り方。

その様相に猪口をもつ姿を撮らせてもらった。

与力は酒を氏子らに注ぐ。

注がれた人はぐいと飲んで与力に空になった猪口を渡して逆に酒を注ぐ。

一般的な会社の宴会でも見られる在り方。

私は勤めた会社で30云年間も大宴会でそうしていた。

注ぎ側にまわっても注がれる側になっても返杯を要求した。

ごく普通にみる酒宴の返杯である。

大西は一対一の返杯であるが、数個の猪口を片手の指で挟む人もあれば、猪口重ねをする人もいるのは何故か。

話しを聞けば酒を飲めない人のためにあるそうだ。

つまりは飲めない人が酒のみに頼む。

頼まれた酒のみは一個、二個と増える。

人の数だけ猪口が重ねる。



頼まれた人の分だけ飲まなきゃならんといって猪口が増えるようだ。

笑いが絶えない大西の直会は実に楽しそうに思えたが、飲めない人は逆に辛いのかも・・・。

ちなみに与力は本家筋、或は分家筋にあたる家筋の人たち。

当家にあたる家筋であれば自主的に動く。

与力制度はここ山添村のほとんどの大字がその制度組織化している。

今では奈良市に属している旧月が背村もそうであるし、三重県の伊賀地方にもあるという。

探してみたネット資料によれば、「山添村の多くの大字に与力制度がある。隣村の月ヶ瀬村も同じような組織体がある。この辺りの地方は昔から相互扶助の自主的組織として与力制度を確立しているのである。この制度はいわば同族の本家、分家の組織のようなものであり、一般に“縁者は一代、与力は末代“といわれているほど強固な結合関係をもち、今日に至るまで社会生活の上で大きな役割を果している。旧月ヶ瀬村で与力という言葉を使っているのは大字の石打、長引。また、大字尾山、桃香野では同族共同体を一統の名で呼んでいる。一方、大字の嵩、月瀬では組と呼ぶ。一統の中で誰の与力は何某というように互に与力関係を結んでおり、分家が分れるに従って歴史的に自然に決っていくのである。与力は冠婚葬祭などの場合に万事その家の面倒をみる。紛争が起った場合などは当事者の与力同志が話合い折衝してその解決に当り、その決定には異議なく従わなければならない慣習になっている。即ち生活の上においてこの制度は極めて有意義なものとされている。なお、与力は同族の代表としての資格と責任をもち、土地売買、借金等の場合にも重要な証人となることもある」ということである。

直会時間はそれほど長くはないが、合間に拝見した参籠所掲げの古い写真に目がいった。



写真に写る大勢の人たち。

撮影地は稲荷神社境内であろう。

大人の人たちすべてが着物姿のように思える。

ほとんどの人は大正時代にみられる特徴ある一文字麦藁帽子を被っている。

前に大太鼓を据えてバチをもつ白装束の子どもたちも大勢いる。

女性は少ないがいずれも着物姿。

幼女もいる一枚の記念写真は「大正十四年九月吉日に奉納された大字中勇踊實況」である。

今から92年前に記録された「勇踊り」の写真は実に貴重である。

直会が始まってから1時間後に動きがあった。



区長が一枚ずつ氏子に手渡すお札である。

お札は神波多神社の護符。



天照皇大神宮の護符とともにお守りも。

もう一つは神社庁刷りの山辺暦も配布される。

そのころ同時進行する神饌御供下げの鯖も直会〆に配膳される。



二枚におろした焼き鯖は脂がのってとても美味しい。

海苔も果物のバナナも配膳されるころは日暮れどき。



幕締めに失礼して場を離れた。

自宅に戻って神饌下げの芋串と赤飯饗(キョウ)を皿に盛る。

供えていたときは透明シートを被せていたので、どういうものなのかわかりにくかったが、我が家の照明で撮ったらよくわかる。



記録の写真を撮ってからはいただき、である。

そのときの感想を綴ってみれば、こういう具合だ。

フォークで切る。

すっと切れる。

難なく切れる芋串はとても柔らかい。

口に入れたら溶けてしまうほどに柔らかい。

噛む歯はいらないほどに柔らかい。

刺してあった竹串は力もいれずにすっと抜けた。

僅かに塩と砂糖の味もあるが、青豆が勝っている。

郷土料理の味の一つに挙げてもいい料理である。

一方の御供の赤飯饗(キョウ)もよばれた。

ご飯はモチゴメで炊いた赤飯だ。

てっぺんにちょこっとのせていた白いものはシトギの名がある。

シトギだけを口にした。

堅い以前にこの味は、と思った。

それは食べたらすぐにわかる味。

片栗粉のようだ。

シトギの本来は米を挽いた粉。

つまり米粉である。

前述もしたが、シンコ作りは地域によって異なるが、水または熱湯を少しずつ混ぜて練ったもの。

奈良市佐紀町にある二条町氏子の亀畑佐紀神社の行事でよばれたシンコは上新粉で作っていた。

米粉と違ってやや甘い。

私はそう思う。

ところがこれは片栗粉の味。

我が家のかーさんもそう感じながらも食べた。

(H28.12. 4 EOS40D撮影)

毛原八阪神社の宵宮参拝

2017年06月21日 10時32分56秒 | 山添村へ
月ヶ瀬嵩の宵宮取材を終えて山添村の毛原を行く。

この日は毛原も宵宮行事。

陽もどっぷり暮れた時間帯で行われる八阪神社の行事。

かつては10月16日であったが、現在は第三土曜日。

今年はカレンダー事情で第四土曜日になった。

毛原の氏神さんは八阪神社。

創始は不明であるが、貞享二年(1685)の古文書記録によれば牛頭天王社であった。

明治時代まではそう呼ばれていたであろうと推挙される事例が境内にある。

本殿下にある手水鉢に刻印である。

明治時代初期までは山添村中峯山(ちゅうむざん)神波多(かんはた)神社に属する旧波多野村の郷中であった。

神波多(かんはた)神社もまた江戸時代までは「牛頭天王社」と呼ばれていた。

俗に「波多の天王」と呼ばれていた。

ところが明治8年ころより旧都介野(都祁)村の友田に鎮座する水分神社の郷中に移り替わったと伝えられる。

毛原八阪神社の宵宮は16日だった。

集まりやすい16日に近い土曜日に移したのは近年。

マツリはその翌日日曜日の午後から行っているそうだ。

氏子の四人トーヤは礼服で出仕する。

4年前までは和服であったが今は形式を略した礼服である。

社務所に集まってきた人たちは氏子総代に区長。

ホンカン(本音)、ジカン(次音)に2人のミナライは村神主。

主にホンカン(本音)が年中行事を務めているが、この日は神職も出仕される。

時間ともなれば大勢の村人たちが宵宮参拝に訪れる。

本社殿下の階段両脇に立てた高張提灯に番傘がある。

雨に打たれても良いようにしているのであろうか、県内事例ではあまり見られない珍しい形態である。

提灯や本社殿などの灯りに照らされてなんともいえない雰囲気を醸し出す。

訪れる参拝者は階段下で手を合わす。

そして本社殿に登って拝礼する。

その状況をみながら登っていく神職やホンカン(本音)、ジカン(次音)の村神主。



草履に履き替えた氏子総代や区長も階段を登って神事が行われる。



四人トーヤにミナライは階段下で立ち続けて神事を見守る。

村人たちはその周りに立ってこれもまた厳かに行われる神事を見守っていた。

神事を終えたら直会である。

ホンカン、ジカンにミナライは直会の準備にとりかかる。

お神酒に供えた鏡餅を下げる。



鏡餅は餅切り器で適当な大きさに切断する。

社務所は直会の受付場。

行列ができるころには準備が整った。

参拝者は手にした朱塗りの椀にお神酒を注いでもらってぐいっと飲み干す。

肴は黄色いコウコだ。

甘くて美味しいコウコはお代わりをしてしまうほどに美味しい。

お神酒の肴はもう一品ある。

切った餅は厚くもなく薄くもない適当。



その餅を供えた白昆布をのせる。

これもまた美味しい肴である。

白餅は糯米の味。

そこに丁度いい塩加減の昆布が口の中で絡み合う。

乙な味とはこういう味である。



子どもはお酒を飲めないが、美味しいコウコも昆布餅に手が出る。

(H28.10.22 EOS40D撮影)

室津戸隠神社祭りのオドリコミ

2017年06月11日 08時35分39秒 | 山添村へ
村の祭りに神歌(ウタヨミ)を奉納した山添村室津の渡り衆は当屋とともに戸隠神社を離れて当屋家に戻ってきた。

例年であれば行きは歩きの渡りで戻りは車に乗せてもらって戻ってくる。

近隣の松尾や的野もそうである。

かつては往復とも歩きの渡りであったが、渡り衆の高齢化に伴って近年は車で送迎する場合が多くなっている。

距離もそうだが、当屋家が高地にある場合は急な坂道に苦労される。

そういう負担をなくすのも無理はないと思う。

この年の室津の当屋家は距離が短いこともあって宵宮、祭りのお渡りは往復とも歩きにされたことを付記しておく。

戻りのお渡りはリラックスモード。

奉納をし終えた渡り衆に囃子はみられない。

当屋家の門屋に着いた一行は何やら手にして入ってきた。

手にもっているのは笹である。



当屋を先頭に渡り衆も続いて参進する。

四人の渡り衆が楽器も持っている。

鳴らすのは玄関前に並んだときだ。



「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を3回囃す。

そして、座敷に上がるのは縁からである。



これを「オドリコミ」と呼んでいる。

ブルーシートを敷き詰めていた座敷。

中央に置いているのは桝に盛った小豆入りの洗米だ。

座敷に上がった一行は笹を振りながら時計回りに廻る。



廻る際に謡う唄がある。

「あーきのくーにの いつくしまのかわぎしの べんざいてんのいざや たからをおがもうよ」と云いながら周回する。

笹の降り方は上下である。

そして、「なーんのたーね まーきましょ ふーくのたーね まーきましょう」と囃して小豆洗米を持って座敷にパラパラと落とす。



これを3回繰り返す。

3回目は「やー」と声を揃えて福の種を撒いた。

かつては10月1日に門屋に立てた注連縄の笹を手で折っていたらしい。

後日というか、半年後の5月に訪れて話を聞いた当屋家当主。

福の種撒きはおとなしかったやろという。

パラパラと落とすのではなく天井とまではいかなくとも元気よく撒くのだが・・と、当主が云っていた。

私もそう思っていたが、そうであっても写真は当屋家当主の記録はシャッターを押して撮らねばならない。

ちなみに渡り衆らがもつ扇子に詞章があるらしい。

平成26年3月に奈良県教育委員会の編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』によれば調査年の詞章は「安芸の国の 厳島の 弁財天の いざや 宝を 拝もうよ」であった。ところが今年は厳島のに続いて「川岸の」の詞章は失念せずにきっちり唱えていた。

また、「何の種 まきましょう 福の種 まきましょう」は「種播唱」と題していたそうだ。

参考までに大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』によれば「あきの国の厳島の弁才天の川岸の いざやたからを おかむやう」である。

「帰レバ先キニ座敷ノ中央ニ洗米ト小豆各壱升宛ヲ膳ニ盛リ準備シ置ケバ、各々其レヲ手ニツカミ座敷中廻リツヽ「福の種を蒔きませう」ト座敷中ニ捲(※撒)キツケルナリ。之ニテ儀式全ク了ルモノトス」ということで、当屋家に福の種を撒いた一行はすべての儀式を終えて慰労会が始まる。

参考までに現在に伝わる神歌の詞章も以下に記しておく。

壱番は「平(※西」洋の春の明日には 門に小松を立て並べ みおの治るしるしには 民のかまどに立つ煙り 松から松のようごうの松 住吉の松屋入道 ハァー」。

弐番は「ようごうのおうごうの 松から松のようごうのおうごうの松 暁おきて空見れば 黄金まじりの雨降りて その雨ようて空晴れて人皆 長者になりにけり 住吉の松屋入道 ハァー」。

参番は「おうまいなるおうまいなる 亀は亀 鶴こそふれて舞い休み 鶴の子の やしやまごの そだとうまでは ところはさかえたもうべき 久しかるべき ためしには 神ぞうべけん かねてぞうれ 住吉の松屋入道 ハァー」。

こうして宵宮、祭りの二日間に亘って奉納したウタヨミ。



当屋家では祝いの福を撒いて繁盛を祝った。

渡り衆への慰労は当屋家のもてなし。

お疲れさまでしたと乾杯する。



二日間とも渡り衆に寄りそうように付いていた子どもたちは普段着に戻ったようだ。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

室津戸隠神社祭りの神歌

2017年06月10日 08時36分59秒 | 山添村へ
古くは葛大明神の名で呼ばれていた山添村室津の戸隠神社の境内社は九社ある。

本社殿、戸隠神社がある二ノ鳥居内にもう一社ある。

それは春日神社である。

本社殿に上り下りする階段左右にそれぞれ4社。

右端から金毘羅神社、杵築神社、五穀神社、春日神社があり、階段を挟んで宗像神社、山神社、水神社、二柱神社の並びである。

拝殿は舞殿のような形式であるが拝殿である。

室津の祭りの神歌(ウタヨミ)を奉納する場は本社殿の前であるから階段下の建物が拝殿であることがよくわかる。

ただ、雨天の場合は本社殿ではなく拝殿で行われる。

そういうこともあって舞殿でもあるわけだ。

山添村室津と奈良市北野山町の戸隠神社は、戦国期の一六世紀初めに山添村桐山の戸隠神社から分祀された伝えがある。

大正四年調の『東山村各神社由緒調査』によれば、「往古本社ハ桐山村に鎮座シ、室津・北野山ノ三ヶ村共社タリシニ、永正五年間(1508~)に現在ノ社地に分離セシ事、口碑ニ伝ハル」とある。

元々は山添村桐山に鎮座する戸隠神社は室津と北野山町も関係する三村共同体の神社であった。

村別れするまでは桐山を中心に桐山はもちろん、室津、北野山の三カ大字が一年交替に桐山の戸隠神社に奉納する「神歌」であった。

その三村が交替奉納する形態は隣村の峰寺、松尾、的野も同じである。

峰寺に鎮座する六所神社の祭りに峰寺はもちろん、松尾的野の三カ大字が一年交替に、今もなお峰寺の六所神社に「ジンパイ(神拝)或は豊田楽」奉納しているのだ。

桐山から別れた室津、北野山の「神歌」の謡いの詞章がよく似ている。

詞章は長い年月を経て変化してきたと考えられる。

所作もそうだが、詞章に多少の違いがみえる。

それぞれが独自に発展した可能性もあるだろう。

平成26年3月、奈良県教育委員会が編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』にある青盛透氏の「奈良県の翁舞・田楽・相撲―東山中の秋祭りに伝承される中世的芸能の緒相―」、藤田隆則氏の「民俗芸能保存の仕組み―奈良県の民俗芸能から―」の各論が参考になる。

室津は19戸の集落。

南出、北出、下出の三垣内からなる。

村にはオトナと呼ばれる年長者が居る。昔は四人だったというオトナは氏子総代役目を終えて引退する。

引退した者の中から76歳までの上の者がオトナになる。

現在のオトナは5人。

「今日は滞りなく云々・・」と挨拶されるのがオトナ。

昔は一老が神主を務めていた。

そして、3人の氏子総代が宮さん関係の奉仕活動をする。

大正四年調の『東山村各神社由緒調査』によれば、「本村ニテハ一老ヨリ四老迄アリテ是レヲ俗ニ「オトナ」ト名ケ、各四老ハ壱年交代ヲ以テ三大祭、毎月々並祭ノ神饌物及御供物ヲ献納スル慣例ニシテ、神職ノ接待、渡式ニ列スル者ノ斡旋指揮ヲナス・・・中略・・・神社事務ニ付キテハ余リ四老ハ関渉セズ」である。

早朝に当屋家に集まった渡り衆は大御幣など祭り道具を作っている間、神社ではオトナや神社総代が忙しく動いていた。



オトナが作る御供にモッソがある。

蒸しご飯は五つ。

三升の餅米を二度も蒸したご飯を提供したのは村人の御供当番のモッソ当番。

一方、一年に5回も御供する白餅を提供する餅当番もいる。

いずれも一回辺りが三升になるという御供当番の役目。

前夜の宵宮に白餅を提供していたのは餅当番であった。

なだらかな山を想定できる円錐形に調えるモッソ作りに藁の紐でモッソ周りを締めてできあがる。

結び藁は七段、五段(2個)、三段(2個)とそれぞれ。

これを七・五・三と呼んでいた。

このモッソの形は桐山の祭りとほとんど同型である。



拝殿に並べたモッソ御供は左から7本、5本、3本、3本、5本。

違いがわかりにくいが、藁の先をピンと伸ばしたところに特徴がある。

モッソ状況を確認して当屋家に向かう。

それほど遠くではないが、お家に向かう道は急坂だ。

心臓リハビリの運動と思って力を込めて登った。

当屋家では神歌(ウタヨミ)の稽古を終えて祭り道具を作っていた。

当屋持ちの大御幣と渡り衆の一人が持つ中幣はできあがっていた。

テーブルを囲んで幣切り作業をしていた渡り衆。



緑色、黄色、赤色、白色、紫色の幣は5枚重ね。

すべて同じサイズに切る。

錐で穴を開けて通した紅白の水引で結ぶ。

これを渡り衆に当屋も被る。



形を調えてできあがり。

後ろから拝見するとこのように揺らいでいることがわかる。



この形式は峰寺の六所神社に参詣する峰寺、松尾、的野と同じように侍烏帽子(つば黒烏帽子)に付けるが、幣は赤紙一枚にそれを取り外せるようにピン止めしていた。

こうした作業を終えて祭り道具が揃ったら出発だ。



お渡りは始めに当屋家の玄関前に並んで楽奏する。

音色は「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

これを3度繰り返す。

宵宮のときとの違いは御幣である。

当屋主人の息子さんが持つ御幣は大御幣。

渡り衆の一人は大御幣よりやや小型の中幣。

その次に並ぶのは擦り鉦、締太鼓、ササラ(※ビンザサラ)に横笛である。

御幣持ちは手前にやや下げて傾けるような角度で支えながら先頭を行く。

御幣の持ち方は捧持(ほうじ)。

高く奉げて持つことをそういう。

一同は下駄履き。



カランコロンとお渡りの音がする。

実はここでは映っていないが、実際は当屋主人の子供さんがついていた。

宵宮もそうした子供さんは正装である。

当屋家から出発して道中それぞれの箇所で「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を3回打ち鳴らして囃す。

幾たびかの間を開けて楽奏する。



稲刈りを終えていた田園景観に祭りの音色が広がった。

当屋家は宵宮のときも映っていたが、辺りは真っ暗。

窓明かりだけが輝いていたが、この日は快晴。



美しい室津の山間の田園風景を写し込んで撮っていた。

石垣の上に鎮座する神社境内には村の人たちが待っている。



戸隠神社の鳥居下の階段前に着けば整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



階段を登って朱の鳥居も潜る。

参進はあっという間に着く拝殿前。



小社が並ぶ位置に並んでここでも3回打ち鳴らす「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

この日の祭り御供はモッソと白餅である。

拝殿にもモッソ御供がある。



本社の神饌御供に献ずるモッソにコイモが三つ。

サイラ(開き)の生干しカマスが一尾。

一膳の箸を添えている。

かつてはカエデの木で作っていた箸であるが、今は市販品に替わったようだ。

ちなみに『添上郡東山村役場 神社調査書』には「十月十五日ハ毎年例祭ニテ當日ハ午前中ヨリ当屋ニ集リ御幣二本ヲ造リ午前十一時ヨリ神社ニ渡式スルモノトス。其儀式ハ宵宮祭りト同様ナリ。サレド当屋主人ト楽人最年長者ハ御幣ヲ捧持シテ渡ルモノナリ。式了ヘ皈(※帰)路左ノ歌ヲ繰返シ謡フ」と書かれていた。

下駄から草履に履き替えた渡り衆と当屋は本社に向かうために石段を上がる。

下からでは一切が見えないが、本社に捧持した大御幣と中幣は左右に振って高く突きあげたようだ。

この作法は神さんに御幣を奉げる奉幣振りの作法であろう。

宵宮と同様に神饌御供。

村神主によって献酒されたようだ。

それから始まる渡り衆による神歌奉納。

宵宮と同様に壱番、“せ(※へ)いやうの はるのあしたに(※わ)” (ハー) “かと(※ど)に小松をたてならべ 治る御代のしるしには たみのかまとにたつけむり 松からまつのようごーのまつ” <住吉のまつや入道>を謡う。

弐番は“ようごーのをうごーの松から まつのようごーのをうごーのまつ”  (ハー) “あかつきをきて そらみれば こかねませ(※じ)りの あめふりて そのあめやうて 空はれて 人みな長者になりにけり”  <住吉のまつや入道>だ。



参番は“をうまいなるをうまいなる かめはかめ” (ハー) “つるこそふりて まいやすみ つるのこのやしやまごの そた(※だ)たうまでは 所はさかへたまふべき 君か代が” (ハー) “ひさしかるべき ためしには 神ぞうゑ(※え)けん かねてぞうれし”  <住吉のまつや入道>。

この参番の所作だけが神前より右に廻りつつ四方に礼拝される。



神前に神歌を奉納し終えた一行は下って横一列に並び一礼して終える。

本殿にある当屋の御幣に向けてだろうか、拝礼して下がる。

そして、宵宮同様に公民館に移動する。



公民館の前に並んで囃す「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

この作法を済ませてから公民館に上がる。

上がるのは玄関からではなく縁からである。

後に行われる当屋家に上がるときも同じく縁からである。

こうした在り方は近隣の桐山、峰寺、松尾、的野も同じである。

尤も当屋家を公民館に移した大字もあるが、いずれも縁から上がるのである。



御供下げしたモッソ御供は公民館に運んで調理される。

生干しカマスはコンロで焼いて直会の肴にだす。



上座の席についた一行を迎えるのはオトナや氏子総代、氏子たち。

女性はこの場に上がることはない。

白餅は高坏ごと下げて目の前に並べた。



一行が侍烏帽子(つば黒烏帽子)につけていた五色の幣を外して座に置いている。

この五色幣は参拝していた子どもたちに配られる。

実際は取りにくる子どももなく代理の者が受け取って直会が終わってから配るらしい。

オトナが一同を迎えて、「おめでとうございます」と口上を述べる。

それからよばれるモッソ御供。



手伝い役は御供台ごと持って酒を注ぎ回る。

その際にいただくモッソはカエデで作った箸摘まみ。



尤も現在はカエデで作ることもなく市販品の箸になったが、席についた村の人たちは手で受けていただいていた。

焼いたカマスは手で摘まむわけにはいかず用意された一般的な箸でいただいていた。



直会の肴はそれだけでなく宵宮と同様にジャコもある。

神さんに神歌をもって奉げてもらった渡り衆を慰労する直会である。

直会はおよそ20分間。

退座された一行は上がるときと同じ縁から下りる。

そしてお礼に「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



神社鳥居下に並んで「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

こうして村の祭りを終えて当屋家に戻っていった。

(H28.10.16 EOS40D撮影)

室津戸隠神社宵宮の神歌

2017年06月09日 10時07分39秒 | 山添村へ
ハザカケの形態が特徴的な山添村室津の宵宮に披露奉納される「神歌」がある。

「神歌」の呼び名でなく近隣村では「ウタヨミ」の呼称もある神事芸能である。

大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』によれば大字室津の例祭神拝(じんぱい)の儀式は豊田楽(ほうでんがく)の渡式があるという。

装束は素襖に侍烏帽子(つば黒烏帽子)を着用する五人の楽人と当屋主人と之にして当たり、当屋は毎年氏子の順番にて儀式一切の準備をなすものとするとあった。

毎年の10月1日。

「オトナ」はその年の当屋と楽人を集め神酒を供える。之を下げて幣串を渡して解散する。

当屋は祭りの日まで自宅に祭り、門口に竹を立てて注連縄を張る。

忌むべき者は屋内に入れざるようにするとあった。

その注連縄を立てているときに伺った当屋の当主は前述した大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』を現代文字に翻刻したO宮司だった。

O宮司が翻刻してくださった史料はたいへん役にたった。

奈良県の伝統芸能緊急調査員を務めたときは大いに活用させてもらった。

また、O宮司とは出仕される兼社地の取材もたいへんお世話になっている。

お世話になった宮司に礼を尽くしたく室津の行事はいかなることがあっても外せない。

先約していた吉田の行事には申しわけなかったが、そうさせてもらった。

『添上郡東山村役場 神社調査書』に沿って書き記しておこう。

10月13日、楽人は当屋家に集まり儀式の打合せ、並びに楽器および神歌の稽古をなす。

14日、午後6時より当屋家を出発し、神社に渡る。

其の儀式は笛、太鼓、櫂金、簀の四楽器を合奏し当屋を先頭に年長者順に整列し、神社に至れば拝殿の所にて神に向かい一列横隊となり、一同礼拝し其れより神前に進み、左右各三人宛別れ設けられたる座に付くものとする。

而して楽人の年長者の次の者より一人宛交代にて神前に進み、右手を前に延ばし掌を下にして扇子の中央を握り、左手は拇(おやゆび)を後に他を前にして腰骨上に置き、臂(ひじ)を左に張り、起立の侭(ことごとく)にて礼拝し、第一神歌を唱う。

第三次の楽人のみは、神前より右に廻り四方に礼拝し、神前に向かいしとき神歌を唱うるものとす。

了れば神酒神饌供えし参集所に下り、氏子と共に御酒を戴き当屋に帰り、酒肴の饗応を受けるものとする。

之を宵宮祭と云う。



午後6時ともなれば当屋家に参集される五人衆が宵宮に奉納される神歌の稽古をすると聞いて訪れた。

その時間までは当屋主人とともに歓談の会食をしていた五人衆。

室津はおよそ30戸の村落。

選ばれし五人衆である。

会食を済ませた一同は素襖に着替えて楽器を鳴らす。

楽器は締太鼓に横笛や擦り鉦、ササラ(※ビンザサラ)がある。



ビンザサラの名前もあるが、室津ではジャラジャラとも呼んでいた。

今では使っていないが古いジャラジャラもある。



年代を感じる風合いになったジャラジャラはモッソウ竹(孟宗竹)を割って作ったもの。

すべて同じ年代でもなさそうな虫食い状態のものもある。



また、これら楽器道具の箱もあれば装束を納めている箱もある。

その箱の蓋裏に「宮年寄 源三郎 小四郎 利七 重介 世話人 金四郎」。

その「金四郎」はひいひい爺さんの名前だ。



親父の父親から三代前の人物だったというのはこの日の渡り衆を務めるNさんだ。

室津は19戸の集落。

渡り衆を務めるが何度もあるという。

実際、「東山地区神事芸能保存会」会長のⅠさんは渡り衆でもあるし代表総代でもある。

今年は特別なことに春日大社の20年に一度の造替事業・奉祝行事に東山中で継承されてきた数々の神事芸能を奉納することになっている。

村を代表することもあって気合はもちろん入るが、大和高原にある大字ごとされている神事芸能が一挙に奉納されるもので、他村の在り方を初めて見ることになる。

それを楽しみにしているとⅠさんは云う。

ちなみに奉納された大字の神事芸能は山添村の北野、峰寺、的野、松尾、桐山、室津。奈良市は阪原、柳生、狭川、邑地。

他にも山添村菅生のおかげ踊りや奈良市田原の祭文音頭に同市大柳生の太鼓踊りが上演されたそうだ。

素襖を納めている蓋の表は「文政二年(1819) 室津村 青襖(※素襖) 六通 卯九月 氏子中」。

雨天の場合は傘をさしてお渡りをする。

隣村の松尾では宵宮、本祭とも雨天になったことがある。

その場合でも番傘をさしてお渡りしていたことをある。

室津もやはり同じであるが、その場合は古い衣装を使うそうだ。

神歌の詞章は三番ある。

前述の大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』に沿って詞章を並べる。

(※)印の箇所はさらに翻刻された補足であるが、先に挙げた素襖納め箱の蓋裏に詞章を墨書していた。

神歌壱番は“せ(※へ)いやうの はるのあしたに(※わ)” (ハー) “かと(※ど)に小松をたてならべ 治る御代のしるしには たみのかまとにたつけむり 松からまつのようごーのまつ” <住吉のまつや入道>

弐番に“ようごーのをうごーの松から まつのようごーのをうごーのまつ”  (ハー) “あかつきをきて そらみれば こかねませ(※じ)りの あめふりて そのあめやうて 空はれて 人みな長者になりにけり”  <住吉のまつや入道>

参番が“をうまいなるをうまいなる かめはかめ” (ハー) “つるこそふりて まいやすみ つるのこのやしやまごの そた(※だ)たうまでは 所はさかへたまふべき 君か代が” (ハー) “ひさしかるべき ためしには 神ぞうゑ(※え)けん かねてぞうれし”  <住吉のまつや入道>

稽古に就く当屋主人。

台詞もそうだが打ち鳴らす回数や所作などの指導にあたられるのも、祭りに登場はしないが室津の宮司の役目であるかもしれない。

席についた五人はこれより宵宮に奉納する社殿に座る位置にそれぞれがつく。

笛役が「ピッ ピピー ホーヘッ」の音色を吹けば、一瞬の間をとって締太鼓も横笛も擦り鉦もササラも同時に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を三回打ち鳴らす。



これを三回繰り返したら一番目に謡う者が前に進み出て中央につく。

扇を横に右手で持って前に差し出し本殿に向かって立つ。

笛役が「ピッ ピッ ピー」と笛を鳴らせばそれに合わせて扇子も腰も三段階に下げつつお辞儀をする。

その姿勢のままで「せ(※へ)いやうの はるのあしたに(※わ)」を唱えたら、他の4人の渡り衆が「ハァー」と声を合わせて発声する。

続いて「かと(※ど)に小松をたてならべ 治る御代のしるしには たみのかまとにたつけむり 松からまつのようごーのまつ」と囃せば、これもまた他の4人の渡り衆が「住吉のまつやにゅうどー」に一呼吸開けて「ハァー」を囃す。

次の二番手も三回繰り返す「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を合図に中央に出る。

そして二番を謡いながら所作をする。

最後は三番手。

一番、二番同様に「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を合図に中央に出るが、ここからが若干の違いがある。

笛役が「ピッ ピッ ピー」と笛を鳴らせばそれに合わせて三段階に下げつつお辞儀をするのだが、正面だけではなく四隅に向かってそれぞれお辞儀をするのだ。

その作法からおそらく四方拝である。

「をうまいなるをうまいなる かめはかめ・・・・ひさしかるべき ためしには 神ぞうゑ(※え)けん かねてぞうれし」を謡って囃す「住吉のまつやにゅうどー」。

最後の最後に「ハァー」を囃すときも違う。

その「ハァー」に合わせて演者は右周りに一周するのである。

〆の舞のように思えた所作は最後に三回繰り返す「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



和やかに稽古を終えた一行はお茶で一服。

当屋主人も席について出発前の緊張をほぐす。

当主は宮司を務めているだけに当屋主人は息子さんに委ねることになった。

息子さんも神職。

禰宜を務める身である。



出発する際には当屋家の玄関前に並んで一曲を披露する。

一曲といっても謡いの所作はなく楽奏のみである。

当屋主人は提灯を持って先頭を行く。

本来はそこまでであるが、当屋主人の息子さんも提灯を持ってさらに先頭を歩いていく。

息子さんは二人。

ときおり交代するなど提灯役を務めていた。



まこと珍しい光景に記念の写真を撮るが真っ暗な渡りにピントの合しようが難しい。

僅かに光る提灯の灯りをピント合わせ。

お顔もわかるようにストロボ発光させていただく。

当屋家から出発して道中それぞれの箇所で「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を打ち鳴らす。

始めが家を出発するとき。道中の数か所で「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

真っ暗な中で楽奏される。

何度も何度も間を空けてされる楽奏である。

これもまた稽古のように思えたが・・・。

戸隠神社の鳥居下の階段前では整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



そして階段を登れば氏子たちが待っていた。

御神燈の灯りも迎えの灯り。

社殿には明かりもなく真っ暗である。

僅かに明かりがあるのは雨天の場合に所作をする舞殿になる拝殿である。

それがあってもやや暗い。



社殿に上がる階段下に整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を打ち鳴らす。

左右に小社が並ぶ。

そこには白餅を盛ったお供えがある。

予め供えていた小社の御供餅である。

そして献饌。

白衣の村神主は先に社殿にあがって当屋も登る。

渡り衆は階段にそれぞれが位置について参集所から運ばれる神饌は手渡し受けをして上げていく。



いわゆる御供上げであるが、神主、当屋、渡り衆全員は履いていた履物を階段下に並べていた。

村神主は一人であるが、実は白衣を着ている人は四人もいる。

前述の大正四年調の『添上郡東山村役場 神社調査書』を要約すれば「最年長者を一老と云い、其れより順次四人四老まであり。是を俗にオトナと名付け、各四老は一年交代にて三大祭、毎月の月並祭に神饌物を献供するの例にて神職の接待および渡式に列するものの斡旋指導をなすものとす」である。

つまり一老が村神主を務めていたのであった。

渡り衆は階段にそれぞれがついて献饌する。

神主は御神酒を供える。

そして神事芸能を奉納される。

社殿前に敷いたゴザの上に座る。

当屋家で稽古したときと同じ位置に座って一番の神歌を奉納する。

氏子たちは拝殿の後方から、或は周りから離れて拝見する。

暗闇の中で行われる所作は見ることもできない。

これは隣村になる奈良市の北野山町と同じである。

ましてや宵宮である。



申しわけないが、三番手が奉納される所作を階段下から撮らせてもらったが、ニノ鳥居の向こう側。

鳥居に括ったサカキの葉もあるので到底わかりようのない写真になった。

渡り衆が座る位置については平成26年3月に奈良県教育委員会の編集・発刊した『奈良県の民俗芸能―奈良県民俗芸能緊急調査報告書』を参照する。

その記述によれば左に向かって当屋がつく。

その横につく渡り衆は二番目、四番目。向かって右は一番目、三番目、五番目になるそうだ。

壱番、弐番、参番の神歌を奉納されたら撤饌。

献饌と同じように階段の立ち位置で御供を下げる。

そして降りてきた当屋に渡り衆は社殿に上がるときと同じように階段下に整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」を打ち鳴らす。

壱番から参番までの時間はおよそ5分間。

それほど長くはない所作である。

神さんに捧げた次は村の人たちに慰労される公民館に移る。

廊下の扉を開放してそこから上がる一行。



上がる前に整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

御供下げした白餅とジャコを肴に直会の場が始まる。



まずは一行に宵宮奉納のお礼に頭を下げる。

感謝の気持ちを込めて頭を下げる。

お礼の儀式が終われば神社行事の世話をする何人かの「ドウゲ」が接待をする。



白餅を配ったり、お酒を注ぐ役目である。

まずは渡り衆が並ぶ前に御供を揃える。

しばらくしてからこれを下げて氏子に餅を配る。



それから神酒を注いで廻る。

ジャコも摘まんでお神酒をいただく。



こうした慰労の在り方は隣村の桐山も同じである。

しばらくという十数分後には退席される一行。



座を降りて慰労のお礼かどうかわからないが公民館に居る氏子たちに向かって「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

こうして宵宮奉納神事を終えた一行は当屋家へ戻っていく。

室津の神社が建つ場は村落から下った位置にある。

お渡りの行きは歩きであるが、戻りは上り坂になるため、車利用になる場合が多いらしいが、宮司家でもある当屋家も急坂になる登りの道。

距離はそれほどないと判断されたのか、往復とも歩きの渡りにされた。

その戻る道中においても「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。

当屋家に着いて出発時と同じように整列して「ピッピピ ホーヘッ」に「ドンドンドン(ジャンジャンジャン)」。



そうしてから玄関から上がっていった。

被っていた侍烏帽子(つば黒烏帽子)も素襖も脱いでようやく寛ぐ慰労の場は当屋家。

座敷に座って膳を配った席につく。



当屋家の当主であるO宮司が謝辞を述べて和やかな直会の場になった。

こうして夜は更けていく。

当屋家の灯りが消えるのは数時間後のようであるがそこまで滞在するわけにはいかない。



宴の灯りに礼をして帰路についた。

(H28.10.15 EOS40D撮影)

吉田岩尾神社の宵宮

2017年06月08日 09時32分00秒 | 山添村へ
石売りをする子どもたちは3歳児から小学生まで。

今年は4人になると聞いた1カ月前

立ち寄った山添村の吉田。

岩尾神社で行われる石売り行事の取材願いであったが、当日はどうしても都合がつかなくなった。

お詫びを申し上げるついでといえば叱られるが、祭りの前日の宵宮に伺った。

岩尾神社の石売り行事は平成24年10月21日に取材したことがある。

この日に石を売っていた子どもたちは5人だった。

同日、石売り行事を終えたら場を替えて座の饗膳が行われる。

それも取材させてもらった。

ところが前日に行われる宵宮は伺うことができずに数年経っていた。

座の料理は簡略化され、かつての面影もないと話していた。



こうして訪れた吉田は明日の祭りの場を調えていた。

神社に登る参道道には屋根付きの提灯立てに提灯を架けていた。

座の饗応の場になる会所の前に幕を張っていた。

昭和48年3月に寄進された白幕は岩尾大明神の御紋を染めている。



その場は外に設えた仮宮。

女性が座って膳をよばれる場である。

この日は宵宮。

会所の外では婦人たちが翌日の饗膳の汁椀に入れるサトイモを茹でていた。



プロパンの火力が弱いからなのか、それとも買ってきた冷凍のサトイモだからなかなか煮たらないのか時間がかかる。

もっと柔らかな感じにならんと云いながら火の番をしていた。

定刻時間ともなれば男の人たちは座に上がる。

本尊を安置する自作寺でもある会所の床の間は岩尾大明神。

正面に掲げる掛軸は天照皇大神。

お伊勢さんであるが、両側の神さんのうち左側が岩尾大明神のようで「岩尾大御神」が名号。

床の間に当屋の御幣を祭ってお神酒を供えた。

本殿に登ることなくこの場で祭典が行われる宵宮の日。

実は午前10時は宵宮。

次年度の当屋決めをしていたそうだ。

詳しくはお聞きしていないが、『やまぞえ双書』によれば、帳箱を開き、故人となった祭中の帳消しや新氏子の帳付けならびに次年度の当屋決めである。

今は会所になっているが、かつては大当屋の家で座をしていた。

当屋は長老というか年齢順に下っていた。

戸数が少なくなり、いつしか家並びの順になった。

婿入りの人も当屋になれば御幣を奉げる。

引き渡しの箱の中にはそういったことを書いている帳面があるらしい。

この場に集まった人たちは老大人(おとな)衆に一老の村神主、当屋である。

今年は服忌が多くて欠席の人が多いらしい。

石売りに登場する子どもの家も服忌で参列できない。

対象の子どもは13歳の小学生まで。

その家の49日も済んでおれば参列できるが、明日のことでは到底無理である。



参拝者は少なくなったが祭典が始まった。

特に拝礼もなく座中に差し出されるアゼマメ。



塩茹でした枝豆である。

膳に載った枝豆が廻ってくれば枝から千切って半紙を広げた我が席の場に置く。

そうすれば一献。

簡略化するまでは献に口上を述べていた。

これもまた『やまぞえ双書』の引用であるが、月番が「例年のとおり、お神酒をいただきましたので、回りましたらお上がりください」と述べる始まりの口儀であった。

が、これもまた改正されて口儀も廃止された。

廃止されるまでの饗膳料理は枝豆と塩漬けした大根青葉の重箱であった。

平成24年に訪れた祭りの日に塩漬けの大根青菜は辞めたと聞いていたから枝豆だけである。

その昔の平成4年当時の宵宮饗膳は小皿に盛った大根青葉に鰯の昆布巻きもあった。

牛蒡に芋、大根の煮しめもあったし、高盛りの蒸しあげ餅米のつくねに茄子の汁椀もあった。

手間のかかる膳料理は大幅に改正されたのである。

冷酒の一献が一回りすれば枝豆を食べる。



二献目は冷酒から熱燗に移る。

これは祭りと同じである。

そして、三献はとりあえずのダメ酒だと云って「あとはご自由に」の声に酒杯は延々と続く。

吉田の当屋は6人もいる。

当屋は寺行事も務める交替制の月当番当屋である。

昔は子供ができたときに村入り・氏子入りとなり祭帳に記帳される。

大字で生まれた子ども、婿入り養子も村入り・氏子になる。

その入り順に従う年齢順に3人の本当屋が決まる。

そのうちの年長一人が大当屋を務めていたそうだ。

大字吉田は40戸もあったが今は32戸。

春の3月に田楽講がある。

秋の11月はホンコ(本講)がある。

60歳の還暦を迎えた人は老大人(おとな)入りする。

老大人はおとな講がある。

うち一人が宮守を務める。

宮守はおとな講のなかでも最長老の神主となる。

その下に氏子総代が続くという。

床の間に奉った御幣は大当屋が祭りに渡るときにもつ。

会所に集まって9時半には岩尾神社を目指して出発する。

昔は大当屋の家からであったから遠い、近いで渡りの時間に左右する。

今は会所が大当屋の家に見立てているからすぐそこだ。

神社の裏手にあった道は伊勢街道であった。

山ももっていたし伊勢講もあった。

お伊勢さんに参って吉田に戻ってきたときは「オドリコミ」もしていた。

かれこれ20年前のことである。

その当時の伊勢講のヤドは家であった。

伊勢講は7、8軒が組んで一組の伊勢講を営んでいた。

講組織は吉田に3、4組もあったという。

今だからこそ言えるが昔は「どぶ」を作って飲んでいた。

「どぶ」はどぶろくの酒である。

そんな話題を提供してくれた宵宮の座もそろそろお開きである。

1カ月前に応対してくれたOさんは服忌で来られなかったが、4年前に務めた前区長のYさんや老大人、氏子総代、大当屋たちが温かくもてなししてくださった。

(H28.10.15 EOS40D撮影)

切幡の豆たばり

2017年06月07日 10時06分08秒 | 山添村へ
今夜は十三夜。

聞きなれない名であるが暦をみればよくわかるし、昨今は天気予報士が季節の情報として紹介することが多い。

十三夜は十五夜の中秋の名月に対してこの夜は旧暦の九月十三日。

「後(のち)の月」とも呼ばれる月夜である。

十五夜に次いで美しい月と云われる今夜は昔から月見をして楽しんでいた。

十五夜は中国から伝わった風習であるが、十三夜は日本古来から伝わる風習の一つ。

秋の収穫を祝う。

収穫は秋の稔り。

お米もあるが十三夜のお供えは豆や栗である。

その豆や栗にちなんでこの夜の月を「豆名月」とか「栗名月」と呼ぶようになった。

この頃の天候はといえば晴天が続く日。

「十三夜に曇りなし」という詞もある。

かつては旧暦の九月十三日だったという山添村切幡の豆たわり。

現在は新暦に移って10月13日。

13日という人もおれば「十三夜」の日にしているという人もいる。

今年は旧暦の十三夜にあたる10月13日。

いずれであっても合致した日になった。

尤も「豆たわり」とはどういう行事なのであろう。

「豆たわり」の「たわり」は賜るということだ。

各家が収穫した枝豆は茹でて家の玄関土間とか玄関前とかに置いておく。

暗くなれば村の子どもたちがその豆を一軒、一軒巡って貰いに来る。

「貰う」を敬語でいえば「賜る」である。

この「賜る」の詞が縮まって「たわる」になった。

やがてそれも濁り詞になって「たばる」になった。

「おばちゃんマメダワリしてや」と云って豆貰いに村の各戸を巡る

山添村の切幡の豆貰いの行事名は動詞連用形の「たばる」が名詞化した「豆たばり」である。

この行事をしていると知ったのは平成22年の10月16日、17日に訪れた宵宮祭、本祭のときだったと思う。

旧暦九月十三日の十三夜に村の各家が塩ゆでした枝豆や蒸した栗を十三夜の名月に供える。

切幡はかつて60戸の集落であったが現在は40戸。

その各家を上出、中出、下出と順番に巡る。

うち何軒かは稲刈りを終えて「カリシマイ」をしたという。

カリシマイ(刈り仕舞い)は平成24年9月25日にO家を訪れてその在り方を取材させてもらったことがある。

山添村など東山間の稲刈りは早い。

田植えもそうだが平坦よりも1カ月も早いから時期は必然的に稲刈りもそうなるのだ。

皆で決めていた集合場所にこれもまた決めていた集合時間に遅れることなく集まった子供たちは男女8人。

年長の子が下の子たちの面倒をみながら巡っていく。



ちなみに年長の子を子どもたちは「分団長」と呼んでいる。

いわゆる大将格になる子をそう呼んでいるが強面ではなく可愛い子たちだ。

行先、巡る順は分団長が決める。

その指示通りについていく下の子どもたち。

真っ暗な情景の村を巡る。

あっちの道の方が近いでと云いながら先の見えない里道に懐中電灯を照らして歩いていく。

集合場所から道路を隔てた北側を一歩、奥に入れば急な坂道に遭遇する。

右や左に点在する民家を巡っては「おばちゃんマメたわらしてー」と大声をあげる。

玄関土間に灯りが点いている家は屋内から家人の声が反応して顔をだしてきた。

用意していた枝豆や栗はお盆に盛っていた。



手が伸びる子どもたちにあっという間に消えてなくなる。

お家の人はすかさずこれもまた用意していたお菓子を手渡す。

すぐさま消えるのは子どもたちがもってきた袋に入れていくからだ。

枝豆や栗がお気に召さない子どもはお菓子に手が動く。

逆に枝豆や栗が好きな子どももいる。

その場で枝豆を食べる子どももいる。

それぞれがそれなりの嗜好に合わせて手や口が動く。

そうこうしているうちに子どもたちの姿が見えなくなった。

村の人たちに昔の様相などを聞いている間に見失ったのだ。

追っかけをするにも村内は真っ暗。

どこをどう行ったのかさっぱり掴めない。

もしかとしたら南の方に行ったのではと思ってそっちに行ったが声は聞こえず。

はぐれた処で時間を過ごしていたら声が聞こえてきた。

どうやらもっと奥の方まで巡っていたようだ。

見失ってからあっちこちの玄関辺りを見ていた。



何軒かは子どもたちがすぐに見つけられるよう玄関前に出していた家があった。

屋内の灯りがそれを照らしていた。

枝豆や栗は秋の味覚の収穫物。

床の間に置くことはない。

十三夜を愛でるお供えである。



中秋の名月の十五夜さんのようなススキやハギは見られない。

枝豆や栗は十三夜のお供えもの。

お盆に供えた枝豆や栗の名をとって、十三夜の夜は豆名月とか栗名月の行事名で呼ぶ地域もある。

ちなみに十五夜は芋名月。

収穫物は十三夜と異なるのである。

かつては男の子だけで巡っていた切幡の豆たばり。

家で供えた枝豆や栗を食べていた。

枝豆はクルミにして搗きたての餅にくるんで食べたという人もあれば、サツマイモを蒸して食べていたという人もいる。

40年前のことを思い出される村の人たちの記憶の証言であった。



そんな昔の体験談を伝えながらも今の子どもたちにはお菓子も袋に入れてやる。



かつては大勢いた子どもたち。

揃っていく場合もあれば人数を分けて巡っていたこともあったそうだ。

平成5年11月に発刊された『やまぞえ双書1 年中行事』に切幡の豆たわりのことが掲載されている。

調査ならびに編集は山添村年中行事編集委員会・同村教育委員会である。



切幡の氏神祭りを目前に控えた旧暦九月十三日の十三夜にしていると書いてあった。

当時の人数は20から30人の子どもたち。

この日の2倍、3倍にもなる人数だけに相当な量を準備していたことだろう。

各家では外庭に供える台を持ち出して、ススキなど秋の草花に蒸した栗に枝豆を供えたとある。

最近は子どもが喜ぶお菓子も供えるというから昔はなかったようだ。

やがて4、5人の小児グループが一団となってやってくる。

子どもたちは保育所園児から小学生まで。

年長の統領株を先頭に門口にやってきて「おばちゃん、豆たわらしてー」と声を揃えていうとある。



昔も今もかわらない呼び出し台詞である。

「何人や」と家人が尋ねる人数を返す。

聞いてからその人数に見合ったお供えをすれば、神妙に手を合わす。

そして統領が下の子どもたちに分けると書いてあった。

午後6時より始まった切幡の豆たばり行事。

すべての家を廻りきって終えた時間は夜の9時を過ぎていた。

途中ではぐれたが、およそ1万歩の行程を行く子どもたちは元気度が満ち溢れて笑顔は全開だった。



行き先々でお会いする村の人たちが作った枝豆に栗がとても美味しかったことを付記しておく。

(H28.10.13 EOS40D撮影)

大西の座祭り

2017年06月01日 10時06分01秒 | 山添村へ
朝8時に一番太鼓を打って座祭りに供える饗(きよう)の膳を作ると聞いて山添村の大字大西を訪れた。

饗の膳の主役はシンコモチを頂点に載せた赤飯饗(せきはんきよう)と白飯饗の2品。

これを拝見したくて取材願いをしたのは写真家Kさんだ。

予め訪れて山添村観光協会局長にお願いしたところ大字大西の大当家を紹介してもらった。

取材の承諾を得てこの日に訪れたのである。



調理した饗の膳を盛りつけるのは大当家と相当家の婦人方。

次の年を担うことになっている婦人も予備学習に手伝っていた。

盛り付けを拝見しているのは区長さんに両当家である。



赤飯饗、白飯饗はお椀に盛って逆さにした円錐型。

予め作っておいた。

ナスビとシイタケにサトイモの煮しめ。

ダイコンやサヤマメにダイコン、結びコンニャクなどもそれぞれ煮たもの。

茹でた頭付きのエビもある。

この他に生の鰯もある。



これらの黒塗りの椀に盛りつける。

高膳も黒塗り。

祝いの膳は黒一色である。

そこに載せる桧葉がある。

ヒノキの葉だからヒバである。

饗の飯がくっつかないように皿代わりのヒバを敷く。

二尾の鰯も同じようにヒバを敷いたところに載せる。

手前に添えるのは一膳の箸。

杉材の箸もあればその横に木片もある。

斜めにカットしている形から刃物のようにも思えるが、そうではなく楊子である。

この楊子の形、大きさともは隣村の大字春日のオトナ祭り(若宮祭)の饗応膳と同じである。

これまでずっと刀と思い込んでいたが・・・。



作り終えて八王子神社に運んで供える大当家の後方に見られる黒字染めの白い幕がある。

中央に扁額も描いた文字は八王子神社。

その左右にある紋様は牛玉の宝印である。

大きな牛玉の宝印に三つの炎がある。

牛玉の宝印といえばごーさん札である。

ごーさんに押す朱印は牛玉の宝印。

その形をあしらっていた。

会所は旧極楽寺。

正月初めの6日にオコナイが行われる。

春日の不動院住職がオコナイの法要に神名帳詠みやオリン鳴らし机叩きのランジョーをされる。



その日に初祈祷されるハゼウルシに挟んだごーさん札が床の間に置いてあった。

村人の話しによれば正月初めに同寺で行われる初祈祷されたお札であった。

早朝に大字春日の不動院住職が来られて祈祷法要をされる。

話しを参拝、神事を斎行される八王子神社に戻そう。



大当家が運んだ高膳盛りの本膳・饗の飯は八王子神社の祭壇に供える。

三尾の生鮎に丸餅のように形成したシンコ餅(シンコダンゴとも)、祝い昆布、洗米、お神酒、水、塩、ゴボウ、葉付きダイコン、シイタケ、海苔に果物などの神饌は予め供えておく。



現在は生鮎であるが、かつては生きた鯉だった。

神事中に鯉が跳ねないように紙片を眼にあてておとなしくさせていた。

また、今ではシイタケであるが、かつてはマツタケだったと話す。

なお、八王子神社の左にある社は津島神社である。

こうして始まる本祭に合図がある。

1番太鼓は朝8時。

本祭の始まりであるが、そのときより本膳の盛り付けならびに八王子神社に供える神饌ものの準備である。

準備が整ったところで打ち鳴らす2番太鼓は朝8時半。



呼び出し太鼓を打つ時間は決まっている。

ちなみに打つ回数はだいたいが5回のようだ。

この日は小雨の祭り日。

八王子神社にはテントを設えた内部で神事が行われる。

定刻時間は8時45分。



上老人(かみのおとな)によって祝詞を奏上される。

実はそれより2時間ほど前は宵宮祭を行っていた。

7時過ぎに集まって本祭同様に上老人が祝詞を奏上する。

宵宮祭に供えた神饌御供のすべてを下げて本祭の神饌を供えていたそうだ。

神饌の違いは二つ。

本膳の饗の飯はもちろんであるが、宵宮は鮎ではなく一尾の鯖であった。

また、宵宮祭の直会膳に塩もみ一重の大根葉や煮しめ料理もあったが、改正されて現在はその献立はないようだ。

こうした宵宮祭を終えた一行は旧極楽寺でもある会所で直会をしていた。

酒杓子に注ぐ燗の酒。

当家は上座に座る上老人に「酒を出してよいでしょうか」と尋ねて「出してくれ」と云われてから一老、二老の前に進み出る。

お重を置いてから酒杯に移る。

酒を飲む。

頃合いを見計らって上老人に「お神酒を下げてよろしいでしょうか」に尋ねる。

「よろしい」と云われたらお神酒をヤカンの酒に混ぜて燗をする。

献の直会をこうして終えた直後に訪れていたのであった。

平成20年までの直会は煮しめや大根葉があった。

これを廃してジャコとチクワの直会食になった。

お菓子、饅頭接待もあったが、これも廃したそうだ。



さて、本祭を終えた上老人、当家はその場で本祭の直会。

御供下げしたスルメや昆布でお神酒をいただく。

氏子たちは境内下で同じように直会をする。



その間には境内下で待っていた婦人たちも八王子神社に登って参拝していた。

こうして八王子神社の本祭を終えたら会所にあがる。

最長老四人衆の上老人は上座に並ぶ。

長老以下の61歳以上の人のすべては老人(おとな)と呼ぶ。

村入りした村の男たちは17歳になれば座入りする。

それを記帳した『座祭典下り記帳』がある。

まずは区長が中央に座って名前を読みあげる。

『座祭典下り記帳』に沿って読みあげた名前を告げられてから席につく。

上老人も、老人も次々に読上げられたら「ハイ」と応えて動く。

欠席の人も読上げる。

読上げられた人たちは中央を一番に二番は左席、三番は右席の順で席につく。

以下順に左、右、左、右の順に席につく。

こうして全員の名を告げた『座祭典下り記帳』は上老人が座る席に置いて区長は下がる。



この『座祭典下り記帳』は回覧される。

これより始まる大当家、相当家の引き渡し儀式の前に行われる記帳検分である。

検分を終えて下座に着いた大当家はお礼と当家渡しの始まりの口上を述べる。

「ご一同さま、本日は八王子神社の祭典が行われます。おめでとうございます。早朝よりご参集いただきありがとうございます。また、本日は八王子神社の祭典に区よりご神酒をいただきました。ありがとうございました。当家渡しの儀式が行われるまで、みなさま方、ご歓談をよろしくお願いします」だった。

当家が上老人の前に出て儀式を始める断りを述べる。

「当家渡しをしてもよろしいいでしょうか」と尋ねれば「どうぞしてください」と伝えられてから下がる。

当家の引き渡しに「渡し膳」がある。

膳にヒバを敷く。

その上に生の鰯を二尾載せる。

朱塗りの盃は三枚。

下から大、中、小の大きさであるが大きくもない。

酒杓子も添えた膳をもって出る手伝いの与力とともに上老人の前に出る大当家。

鰯は上老人から見て頭が右になるように載せている。

膳を中央に両者が向かい合う。

まずは盃を手にする上老人。



そこに神酒を注ぐ。

一口で飲み干して懐紙で盃を拭く。

今度は大当家の番になる。

同じ盃を手にして神酒を注ぐ。

一口で飲み干して懐紙で拭う。

次の返杯は上老人に戻る。

「渡し膳」はその都度に膳を回して神酒をいただく人から見て鰯の頭が右になるようにする。

そして、上老人が述べる口上は「本年度の八王子神社祭典の大当家、無事にあいすみましたことご報告します。ご苦労さまでございました」と礼を述べる。

こうして大当家の献が終わる。

膳を抱えて下座に戻る。

次に登場するのはこれより次年度の大当家を引き受ける人である。

新しく載せ替えた鰯の渡し膳をもつ手伝いの与力とともに進み出る。

神酒の献も同じように三杯。

上老人、受け大当家、上老人の順で神酒を飲み干す。

そして上老人が述べる口上は「次年度の八王子神社祭典の大当家をしていただきます」と伝えられて下がる。

下座についた次の大当家に対して上老人が口上を述べる。

「今年度の八王子神社祭典に大当家を受けていただきます。よろしくお願いします」に対して受けた大当家は「ご一同さまに、来年度の八王子神社祭典に大当家を私が務めさせてもらいます。何卒、よろしくお願いします」と応えたら、一同は揃って「よろしくお願いします」と述べて頭を下げる。

こうして受けの大当家が決まれば、これまで務めた大当家が挨拶を述べる。

「ご一同さんに、本年度の八王子神社祭典の大当家を務めさせていただきました。みなさんのおかげであいすませていただきました。ありがとうございました」と礼を述べて下がる。



次に登場するのは今年度の祭典を務めた相当家。

鰯はこれもまた新しく載せ替えた渡し膳をもう一人の手伝いの与力に替わって上老人の前にでる。

出向いた上老人は二老に替わる。

盃を手にする上老人に注ぐ酒は三度注ぎ。

これを退く相当家も三度注ぎ。

再び戻って上老人も三度注ぎ。神酒をいただくときも口は三度。

一口、二口の三口目は一気に飲み干す。

いわゆる三献の儀の酒杯の作法である。

上老人は「本年度、八王子神社祭典の相当家をお願いしましたところ、無事、目出度く済まさせていただきました。ありがとうございます。」と正面に座る相当家に向けてお礼を述べる。

下座についたときも同じように口上を述べるがご一同に対してである。

「ご一同さまに、本年度の八王子神社祭典の相当家をお願いしましたところ、無事、目出度く済まさせていただきました。ありがとうございました」と礼を述べる。

そしてこれまで務めた相当家が挨拶を述べる。

「ご一同さまに、本年度の八王子神社の相当家をお受けさせていただき、みなさま方のご協力をいただきまして、無事にまっとうさせていただくことができました。ほんとにありがとうございました」と礼を述べて席を外した。

最後に登場するのは受けの相当家。

先ほどに上座で口上を述べていた上老人の二老であった。

立場は上老人であるが、受けの相当家を務めることになった。

下座についてから上座に出向く。

受ける上老人も長老。

おそらく順番からいえば三老であろう。

上老人、受け相当家、上老人の順で神酒を飲み干す三献の作法である。

次もこれまでと同じく「・・・相当家をお願いします・・」といえば受け相当家は「本日、相当家は療養中の身、欠席とあいなるため代理の与力(上老人)が代わりとなりまして務めさせていただきますのでよろしくお願いします」と挨拶された。

一同は揃って「よろしくお願いします」と述べて頭を下げる。

やむない事情もあるが、こうして大当家、相当家は八王子神社祭典の当家受けをされたのである。

まことに厳格な儀式をもって両当家は受けて務めることになったのである。



両当家は年齢順の廻り。

大西の戸数は30戸であるから15年に一度の廻りになるそうだ。

これをもって大西の座は酒宴の直会に移る。

上座に座る上老人席の前には八王子神社に供えた本膳・饗の飯が置かれる。

そして酒杯を上老人に渡されて神酒を注ぐ。

一口飲んで、手伝いの与力は左右それぞれに分かれて座中にも同じように酒杯をして飲んでもらう。

これを「流れ酒」と呼ぶ。

このときは儀式で緊張していたが、うってかわって気を許した座中は声もでる。

ひと通り飲み干したら座も賑やかさを取り戻す。

ほっとした場にパック詰め料理の膳を座中席に配っていく。

準備が整えば受け大当家が「直会の準備が整いました。ごゆっくりお召し上がりください」と申し上げて始まる。

しばらくは杓が進む最中に当家は上老人に、本膳の品々を下げて、座中に分けてもいいか尋ねる。

許しがでれば「渡し膳」の鰯も下げて焼く。



焼き終わった鰯は上老人に食べていただく。

一老から右の座中。

二老からは左の座中それぞれに回す。

本膳の海老は皮を剥いて四つ切。

四人の上老人に食べていただく。



煮しめのシイタケ、コンニャクに白飯、赤飯などは少量ずつに分けて座中に配られて酒宴の直会に移った。

(H28.10. 9 EOS40D撮影)