未熟なカメラマン さてものひとりごと

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上田重安(宗箇)と塙団右衛門直之 島根県・櫻井家住宅を訪ねて

2019-12-10 22:05:08 | 歴史

駐車場から山道を歩く。振り返ってみたところ


可部屋集成館の正門


裏山の美しい紅葉

先月の初め、美しい日本庭園で有名な足立美術館に向かう途中、紅葉スポットで知られる可部屋集成館櫻井家住宅を訪ねました。
奥出雲町の国道432号線から少し山道を入ったところに、駐車場がありました。
事前の情報で、この駐車場脇にあるのが、評判の蕎麦店「清聴庵」でしたが、時間的にまだ営業前のようでした。
駐車場から傾斜道を数分歩くと、小高いところに可部屋集成館があります。
入館料は、櫻井家住宅と合わせ、1000円でしたが、JAFカードの提示で900円でした。

まず、櫻井家住宅を先に見学することにしました。国の重要文化財に指定されているこの住宅、ご当主が実際に住んでおられるので、座敷にあがることはできませんでしたが、玄関先の土間からは、座敷が何部屋も続きその立派さがわかります。
この住宅の奥にあるのが、松平不昧公が命名したという日本庭園「岩浪」です。
圧巻なのは、山の上の方から、幾筋にも分かれて流れ落ちる滝です。
滝は、庭園の池の水となり、そこには悠々と泳ぐコイがいて、まるで江戸時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えます。



重要文化財・櫻井家住宅 現存する建物のもっとも古いものは享保20年(1735)の記録があり、母屋も元文3年(1738)に建てられた


大名茶人として名高い松江藩主・松平治郷(不昧)が初めて櫻井家を訪れると聞き、6代当主の苗清(なえきよ)が1803年、滝を中心とする庭園と屋敷に「上の間」を造った


日本庭園


櫻井家住宅は、このような山の谷あいにある


治郷公は、滝を「岩浪(がんろう)」と命名。 滝は高さ約15メートル。1キロ上流の内谷川から水を引き、岩の上から落としている。
この滝が、お成りの際、もてなしの心で造られた人工の滝と知る人は少ない。


池の澄んだ水


ゆったりとコイが泳ぐ


深い谷


秋には美しい紅葉を見ることができる


水車小屋


生成されるそば粉。粒子が相当に細かいので、つなぎがなくても十分打てるとのこと

紅葉は、事前の情報で色づき始めと聞いていたので、それほど期待はしていなかったのですが、住宅の裏山の木々の紅葉は見事でした。
そして、住宅の南側は、深い谷となっており、川を挟んでのカエデは、まだ緑でしたが、紅葉するとそれは見事だろうと推察できます。
これらのカエデは、五代の室が京都から輿入れの際に持ってきて植えたものと伝わっているようです。
こうして、立派な住宅と庭園を楽しんだ後、「可部屋集成館」で櫻井家の貴重な資料を拝見することにしました。
学芸員の方から、簡単に説明をしていただきましたが、その中で、当家は戦国の武将・塙団右衛門の末裔家です、との説明がありました。
このとき「塙団右衛門」と聞いて、どこか記憶の片隅にあったのが「宗箇が倒した相手」ということでした。
そのことを尋ねると「はい!その通りです」と興味ある話を聞くことができました。
部屋の入り口には、NHK大河ドラマ「真田丸」で登場する塙団右衛門の写真が掲示されていました。
また、その役を演じた俳優の小手伸也さんが、わざわざこちらにあいさつに来られたということです。

そこで、上田重安(宗箇)と塙団右衛門のことについて少し調べてみました。


上田重安(宗箇)とは?

数々の戦いで一番槍の功を立てた歴戦の武将、茶道を千利休ついで古田織部に学び、上田宗箇流の流祖となって、茶人、造園家として業績を残した。

・永禄6年(1563)現在の愛知県名古屋市南区星崎の出身
・代々、丹羽長秀の家臣
・本能寺の変が起こると、光秀の娘婿の津田信澄の首を挙げる
・長秀の死去後、秀吉の直臣となり1万石の大名となる
・関ヶ原の戦いでは、西軍につき敗戦、領地を没収され剃髪、以後宗箇と名乗る
・蜂須賀家政に請われその客将となり、徳島城表御殿庭園を作庭
・浅野家に請われて家臣となり、1万石を与えられる。
和歌山城西ノ丸庭園、粉河寺庭園を作庭
・大阪の陣(冬の陣)では、浅野長晟に従って従軍
・大阪夏の陣、樫井合戦では、敵方の大将の一人である塙団右衛門の首級を挙げる
・浅野氏が和歌山藩から広島藩に移封されると、現在の大竹市小方に1万2000石を与えられる
・以後は、茶道と造園を趣味として生活を送り、浅野家別邸縮景園、名古屋城二の丸庭園を作庭
・慶安3年(1650)88歳で没した
・茶道は、上田宗箇流として連綿とつづき、現在は16代・上田宗冏家元


塙団右衛門直之とは?

・出自は不明
・豊臣秀吉の家臣・加藤嘉明に召し抱えられ、度々武功をあげる
・1000石の知行をもらい鉄砲大将に出世、名を塙団右衛門直之と改名
・関ヶ原の戦いで、命令を無視したため嘉明の勘気を受けるが、憤慨し出奔
・小早川秀秋に召し抱えられ、1000石の知行で鉄砲大将となるが、主家が断絶して浪人となる
・その後、松平忠吉に仕えたがまたしても主家が断絶、その後福島正則に仕えたが加藤嘉明の抗議で罷免
・妙心寺大龍和尚のもとに寄宿して仏門に入り「鉄牛」を称する
・大阪冬の陣が始まると還俗し、豊臣方に参加
・浪人衆の一人として大将・大野治房の組に預けられ、志願して夜襲をかける
そのとき「野討ちの大将 塙団右衛門直之」と書いた木札を士卒にばらまかせる
・大阪夏の陣で武将の一人に任じられ、大野治房の指揮下で出陣し、浅野長晟と対戦
・樫井の戦いで、浅野家家臣の田子助左衛門、亀田大隅、八木新左衛門、および横井平左衛門(上田宗箇の家人)らと交戦
一説には、田子の弓矢を額に受けて落馬したところを、八木に打ち取られた、また異説では、亀田大隅あるいは横井平左衛門が打ち取ったとも、また上田宗箇本人と遭遇し、槍一本に突かれたとの説もある。
・直之の墓所は、大阪府泉佐野市南中樫井にある


実際のところどうだったのか?

上田宗嗣著「茶道上田宗箇流」には、次のように記述されている

大阪夏の陣の緒戦、浅野長晟は軍を泉州樫井まで進め、二万の大阪勢を待ち受けた。
このとき宗箇は浅野左衛門佐の隊に加わり、塙団右衛門に傷を負わせ、大阪方の猛攻をくい止める大功を挙げた。世に言う泉州樫井の戦いである。
戦の最中、急迫する敵を待ち受けながら、宗箇は平然として小刀を持って竹やぶの竹を切り、茶杓二本を作った。茶杓の銘を「敵がくれ」という。


津本陽「風流武辺」では、次のように描かれている

樫井の集落の道筋は城兵で混み合い、塙団右衛門は思うように馬を進められない。
宗箇は槍をふるって躍り出ると、団右衛門の家来山県三郎右衛門と付き合い、組内となり宗箇が下になった。
宗箇の家来二人が三郎右衛門を槍で突き、打ち取った。
団右衛門は脇腹に矢傷を受けたが、すさまじい勢いで槍をふるい、敵を寄せ付けない。
そのとき紺具足に黒母衣をつけた小柄な宗箇が、声をふりしぼり名乗りをあげた。
団右衛門は宗箇と突き合う。宗箇は槍を捨て斬りかかった。
団右衛門は宗箇の冑を槍で殴りつける。
宗箇はひるまず太股へ斬りつけ、組み付き、死力をふりしぼり、組み付いた腕を離さなかった。
剛力の団右衛門は宗箇を脇に抱え。締め付けて樫井村の出口まで引きずっていこうとした。
宗箇の家来たちはあとを追い、ひとりの小姓が団右衛門の冑の錣を両手でつかみ、後ろに引き倒す。
落馬したところへ顔を狙い十度ほど刀を突きこむ。
塙団右衛門はその場で絶命した。(一部省略)


櫻井家のその後

・大阪夏の陣で、始祖塙団右衛門討死のあと、嫡男直胤は母方の姓「櫻井」を名乗る
・広島の福島正則に仕えたが、同家改易の時、広島の郊外「可部郷」に住み、鉄山業を営む
・正保元年(1644)三代直重は、出雲領上阿井の地に移り、屋号を「可部屋」と称し“菊一印”の銘鉄を創り出す
・“菊一”は、最も良い鉄砲地鉄として認められ、松江藩より「御鉄砲地鉄鍛方」を命ぜられる
・松江藩に認められ、やがて五代利吉は、「鉄師頭取」の要職を拝命し、広く地域内の鉄山業を仕切る
・現当主は、13代櫻井三郎右衛門氏

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