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江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語

2012-08-06 23:44:37 | 歴史

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歴史ロマン 大黒屋光太夫 
江戸時代 苦節10年ロシアへの漂流民が帰国を果たした物語

(前回までのこと)
淡路島の高田屋嘉兵衛記念館を訪ねたことがきっかけで、江戸時代にロシアへの漂流民となった人たちのことをいろいろ調べています。前回は、大黒屋光太夫が、アムチカ島(アムチトカ島とも)へ漂流し、その後シベリアを横断し、イルクーツクに到着、キリル・ラクスマンに出会うまでを書いています。
(つづき)
当時の大黒屋光太夫を見たロシア人の記録に、「光太夫は他の日本人と比べてその態度と身なりは明らかに違っていた」とあり、誰もが彼を日本の大商人と思っていたようです。ロシアへの漂流民ですが、記録に残っているものでは光太夫たちが5回目だったようです。それ以前には、大阪商人の息子・伝兵衛(デンベイ)、薩摩の権佐(ゴンザ)、南部藩の多賀丸難民などがいました。「ただ日本に帰りたい」というその夢もかなわず、止む無くロシア正教に改宗しロシア人となり、多くが日本語学校の教師になって彼の地に骨をうずめています。そして誰一人、日本に帰ってきた者はいませんでした。
光太夫は、イルクーツクで、訪ねてきた多賀丸漂流民の子どもたちと会っています。そしてその中の1名が、光太夫が日本に帰るときのエカテリーナ号に乗船し、ロシア側の通訳をしています。
当時のロシアでは、日本という国の詳細な情報が入らず、漂流民はまさに日本の情報源そのものでした。日本が資源豊かな国であることを知り、是非、通商を始めたいと思っていました。ロシアの初代皇帝ピョートル大帝以降、シベリアの総督府や知事、出先機関に日本人がいたら是非連れてくるよう指示をだしていたのです。

さて光太夫は、イルクーツクでキリル・ラクスマンに支援してもらいながら帰国嘆願書を総督府に何度か提出していましたが、返事は、ロシアに帰化し日本語の教師になれというものでした。その状況に、キリル・ラクスマンは直接、皇帝に直訴するしかないと光太夫に告げ、共に帝都に出向くよう促しました。形としては、赴任先のイルクーツクでの研究の成果を科学アカデミーに報告するため帝都に赴くキリル・ラクスマンに帯同するというものでした。このとき、仲間をイルクーツクに残して、光太夫が漂流民を代表して一人で向かったのか、それとも全員で向かったのか諸説ありますが、ここでは、全員で向かったという説をとります。帝都・サンクトペテルブルグまでの距離、実に6000キロ。日本の北海道から九州までの距離は2000キロですから、気の遠くなる距離です。

このキリル・ラクスマンの存在と、時の皇帝が、エカテリーナ2世だったということが、運を大きく導いてくれました。カテリーナ2世は、ロシア皇帝の中で最も長い間、皇帝を勤めた温情のある、そして有能な女帝でした。何とかエカテリーナ2世に謁見できた光太夫は、何としても帰国したいという思いを伝えます。ラクスマンからも、漂流民を返すことが、日本との通商を始める一番の近道と、皇帝に申し入れたのでした。皇帝からの申し渡しがあるまで、漂流民は国賓の待遇でした。一流のホテルに泊まり、町を見て歩きます。あまりの華やかさに、驚き感動したことでしょう。漂流中、彼らの一番の幸せのひと時だったに違いありません。そして申し渡しがありました。日本に帰るか、ロシアに残るか、希望をきかれます。これには、光太夫他、3名が日本へ帰ることを希望し、2人がロシアに残ることを決意しました。皇帝は、キリル・ラクスマンの二男のアダム・ラクスマンをロシア使節に任命します。(日本史の教科書に登場するあのラクスマンです)
こうして、すでに改宗した2名(新蔵、庄蔵)がロシアに残りますが、新蔵は、後にやってくる津田夫をはじめとする若宮丸の漂流民の世話をすることになります。帰国組と残留組との最後の別れは、相当つらいものだったでしょう。オホーツクで船と船員が準備され、そして出航、根室に向かいます。ついに帰国の夢が実現することになります。(つづく)

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