未熟なカメラマン さてものひとりごと

ようこそ、おいでくださいました。

オリンピックに向けて 新谷仁美、重友梨佐 両選手に期待すること

2012-08-02 22:00:15 | スポーツ

オリンピック出場を祝う井原市庁舎前の懸垂幕

 興譲館OBの新谷仁美、重友梨佐両選手のオリンピック競技の日にちが近づいてきました。地元井原市、出身高校はもとより、岡山県内の期待は相当なものがあるでしょう。私もまさか町内の高校出身者からオリンピック選手が出るとはまったく思いもよりませんでした。本当にすごいことだと思います。オリンピック出場を祝う興譲館高校や市役所の懸垂幕が、晴れ晴れしく揚がっているのをみて誇らしく思います。
これも創部から、ずっと指導してこられた森政監督と、支援してこられたOBの方々、地域の皆さん、地元企業のおかげだと思います。

今でこそ、両選手の履歴が紹介されるときに、かならずあるのが、「陸上の名門興譲館高校の出身」、ということば。しかし興譲館の女子陸上部の歴史は、そう古いものではありません。
 高校女子駅伝のスタートは、平成元年です。年号と回数が同じなのですごくわかりやすいですね。岡山県大会では第1回から第9回大会まで就実高校の独断場でした。第10回大会が一度だけ倉敷南高校。第11回大会から昨年まで興譲館高校が代表となっています。ですので、名門も云えどもここ13年間ほどの話になります。それでも優勝2回、表彰台連続8回というのは素晴らしい成績です。いまも鮮烈に思い出すのが、車のラジオで聴いた新谷選手の活躍です。スイッチを入れるともう第1区はスタートしていました。飛び出して1位を走る選手がいたようで、アナウンスが「岡山興譲館の新谷です!」というのには正直驚きました。でも、最初だけだろう!と誰しも思ったことでしたが、何と最後まで走り切ったのでした。

 そして、次に思い出すのが、第16回大会で、山梨学院大学付属のフィレス選手との死闘です。抜きつ抜かれつの第1区、最後に抜かれて残念と思っているとき、また抜き返して区間賞をとりました。まさに感動を与えてくれました。このような華々しい活躍の陰に、重友選手の存在は、あまり目立つ方ではありませんでした。高校を卒業し社会人になって重友選手は、あこがれの天満屋に入社しました。今でこそ同陸上部のエースですが、入社後、足のケガで1年間思うように走れなくて悩んだとき、監督から「もう辞めろ」と云われたそうです。

 そのような時期、一度母校を訪ねたことがあったようです。監督と会い、在校生と一緒に走り、校庭の草むしりをしたとか。これだけで随分気分もリセットできたことでしょう。 一方、新谷選手も調子が上がらず、悩んで陸上がいやになり故郷に帰ってしまったことがありました。彼女も同じように母校を訪ね、監督や旧友からエネルギーをもらい再びよみがえって、現在の活躍に至っています。天真爛漫な新谷選手の明るい性格と、おっとりしているように見えながら、実はとても頑張り屋の重友選手。先日のNHKの放送でもありましたが、苦しいとき、自分自身に「こんなもんじゃないだろう、もっと頑張れるはず」と言い聞かせ、限界を鍛える走りをする、その粘りはまさに驚異的です。
 
ロンドンのマラソンコースは、カーブが多い難コース。しかし武冨監督は、ピッチ走法の重友選手にもチャンスはあると言っています。ただ、試合に合わせてタイミングよく調整するのは、結構難しいそうです。現に重友選手も高地合宿がうまくいかず本調子ではないようです。
 世界をみれば、女子マラソンの世界は、大きく様変わりしケニアやエチオピアの選手が上位を席巻しています。正直メダルを獲ることはきわめて難しいでしょう。選手のコメントで「期待していただいた国民の皆さんに申し訳ない」というのをよく聞きますが、この言葉こそがプレッシャーの証しではないでしょうか。そこで、両選手には、「悔いのない試合をして、持てる力を全力で出し切って欲しい」と思います。笑顔で語る「結果はともかく、精いっぱい頑張ることができたので、悔いはありません」という言葉を聞きたいと思うのです。



興譲館高校の懸垂幕
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする