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未熟なカメラマン さてものひとりごと

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飛騨高山・王道の観光ルートをゆく その1 世界遺産白川郷(前篇)

2014-09-16 21:52:43 | 古い町並み

荻町城跡展望台からの合掌造り集落

7月の終わり頃、何気なくテレビの旅番組を見ていたら、飛騨高山の特集をやっていました。白川郷から高山の古い町並み、そして郡上八幡。旅情を誘う内容でした。短絡的に「行きたい!行ってみようか!」と、とりあえずホテルの予約だけをしておくことにしました。おおよその予定をたて、一泊目は、奥飛騨温泉郷の平湯温泉、二日目は下呂温泉を予約しました。平湯温泉は、上高地や新穂高ロープウエイに近いということもあって、状況によっては、行けるのではという期待もあったのです。家計を圧迫しそうな出費ですが、大きい旅行は、年に1回のことですし、「行けるときに行っておかないと、あとで後悔する!」というのが、夫婦の共通の考えです。

台風さえ来なければと思っていましたが、日にちが近づくにつれて、何と絶好の観光日和になったではありませんか。雨の心配をしなくてもよい、というのが何よりも有難いことです。早朝、愛犬をペット美容室に預け、井原を出たのが7時半頃、渋滞がなければ午後2時半に到着の予定でした。しかし案の上、事故などの影響で計3度の渋滞に遭い1時間以上の遅れになってしまいました。ホテルにチェックインの関係もあるので、白川郷到着が、午後4時以降になりそうなら、当日はあきらめることにしていましたが、何とか午後3時半前に到着することができました。自宅から白川郷までの距離540㎞、途中2回の休憩をはさんで所要時間は実に8時間を要しました。 
 
日中、白川郷には車の乗り入れはできないので、村営のせせらぎ公園駐車場に車を入れ、歩いて荻町城跡展望台行きの荻町公園シャトルバス発着場に向かいます。何とか最終便に間に合いました。展望台まではわずかな時間ですが、途中の山道が細いので対向車が来ると、バスはたびたび立ち往生してしまいます。

この展望台、荻町の合掌造り集落を一望できるビュースポットなのです。展望台駐車場には、白人の観光客を乗せた観光バスも駐車していました。さすがに世界遺産です。ここに若くてテンションの高い女性カメラマン(業者の人)がいました。観光地には多い、撮った写真をよければ買ってもらうという手法です。
外国人観光客が多いためかどうかわかりませんが、このカメラマン、日本語の中にカタコトの英語が入り、聴いているだけで笑ってしまいます。

例えば、写真を撮るときの合図も、「シ・ラ・カ・ワ」「ゴー!(go)」という感じで、このゴーのときに、お客さんにも発声を要求します。お客さんが多いとかなり盛り上がります。このテンションの高さ、これには外国人観光客も大笑いでした。荻町の大部分の民家を見渡せるこの展望台は、写真では放水訓練の一斉放水や雪景色でよく見る光景ですが、まさか実際にこの目で見ることができるとは、感動もひとしおです。(つづく)



撮影を楽しむ外国人観光客

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吹屋の秋を求めて その3

2014-09-05 22:00:57 | 古い町並み

吹屋小学校 平成24年3月まで、現役の木造校舎としては、日本最古でした。

おばあちゃんと別れ、吹屋小学校方面に歩いて行くことにしました。おばあちゃんの話によると、道路は昨年の春頃、舗装し直されたようです。両端に細い排水溝のようなものがセットされ、金属板が少し目立ちます。これはこれでいいと思うのですが、ただ残念だったのは、舗装面の色です。薄いセメント色ですが、町並とセットで見ると、白く目立ち、一体感がありません。できれば道路もベンガラ色、とまではいかないでしょうが、薄茶系の色を彩色できなかったのでしょうか。古い町並みが好きでいろいろ訪ねますが、舗装の仕方で随分、イメージも変わります。

町並みを歩いているとよく目にするのが、ピンクや白のサルスベリです。特に濃い目のピンクは町並みの白い土蔵ととてもよく合い季節を感じさせます。通りの中ほどにある坂を登っていくと、だんだんと石州瓦の町並みの屋根が見えてきます。まさに「いらかのなみ」ですね。光沢のある瓦は太陽の光を受けてキラキラと光っています。まもなく吹屋小学校に到着です。左右対称の木造の校舎が、青空によく映えます。平成24年3月まで、現役の木造校舎としては、国内最古とされていました。

スマートフォンを持った女性が、左手に小さな人形を持って、校舎を撮影していました。きっと、この人形が吹屋小学校を訪ねたという設定でブログにでも紹介するのでしょう。なかなか面白いアイデアだなと思いました。
隣にあるのが、廃校になった中学校の敷地に建てられている「ラフォーレ吹屋」です。和洋折衷のとても美しいホテルです。数年前に一度だけ利用したことがありました。

吹屋小学校をあとにし、坂を下ったところにある食堂で、少し早いお昼にすることにしました。時刻は、11時10分ごろ。お店の名前は「お休み処」といいます。まったく商売気がないのかどうか、暖簾がかかっているだけです。知らない人は通り過ぎてしまうでしょう。ガラガラと戸を空けて入ると客は誰もいません。「いらっしゃいませ!」と店の人から声もかからず、やっているのかなと調理場を覗くと、ひとりの女性が、なにやら作業をしていました。
「いいですか?」と尋ねると、
「いいですよ」と返事。
「山菜うどんをお願いします」と注文し、5分ほど新聞を読みながら、待っていると太めの麺のうどんが出てきました。
ほんとうは、田舎そばを食べたかったのですが、歩いたあとなので、冷たいものにしたのです。(つづく)



サルスベリが白壁によく似合う
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しっかりもののおばあちゃん 吹屋にて

2014-09-03 21:44:39 | 古い町並み

重要文化財 片山家住宅

8月30日(土)、久しぶりに夏らしい青空が見えたので、初秋の被写体を求め、ひとり、吹屋に行ってみることにしました。吹屋は、昭和49年に岡山県のふるさと村に認定され、昭和52年には文化庁から、国の重要伝統的建造物群保存地区にも認定されています。山あいの小さな町ですが、その昔、銅山とベンガラで大いに繁栄した歴史がありました。

銅山の歴史は、平安時代にさかのぼりますが、特に繁栄を極めたのは、江戸時代、泉屋(住友の前身)の一次、二次の経営時代、そして、その後、明治に入ってから、三菱の岩崎弥太郎が巨額の資金を投じた頃です。当時、日本三大銅山と称され、従業員は1600名を超えたとも言われています。
住友は、その後、別子(愛媛県)に拠点を移しましたが、いずれにしても日本の2大財閥がこの吹屋でその礎を築いたことは、間違いありません。

吹屋の町並みの特徴は、石州瓦の赤い屋根と、ベンガラで塗られた建物です。ベンガラは、江戸時代、銅山の捨て石である硫化鉄鉱を焼くとベンガラの原料であるローハが出来たことから偶然に発見されました。この町並みの多くは、そのようなベンガラで財を成した者たちが建てたものです。
しかし、この町並み、あまりにも一体感が有り過ぎて、まるで映画村のセットのようにさえ感じられますが、これは、個々の屋敷が豪華さを競うのではなく、旦那衆が石州から宮大工の棟梁たちを招いて全体が統一されたコンセプトのもとに建てられたことによります。
さて、話は現代に戻ります。
今は、道も随分良くなりましたが、その昔、対向車が来たらどうしようと思うような細い山道を進んだ先に、こつ然と姿を現す町並みには、感動を覚えたものです。

観光駐車場に車を停めると、ちょうど観光バスが時を同じくしてやってきました。ナンバーを見ると、名古屋とありました。そして‘なにわ’ナンバーの車もありました。随分遠くから来ていることに、岡山県人としてうれしくもありました。駐車場の前から通りを見下ろすと、道はゆるやかにカーブし下っています。この下ったカーブが、町並にさらに情緒を与えています。

中ほどに修復中でしょうか、ブルーシートが張られた建物が一軒ありました。正面から町並みを撮ろうと思うとどうしても視覚に入ってしまいます。被写体として誠に残念ですがこればかりは仕方ありません。バスから降りた観光客が通りに出たため、あたりはいっぺんに賑やかになりました。お店の主人でしょうか、忙しく往来を走っていました。通りに相変わらず空き家が目立つのは残念ですが、建物自体はなんとか維持されているようなので安心しました。(つづく)



吹屋の町並み この辺りまでくると人影はほとんどありません。
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中山道・梅花藻の里・醒井(さめがい)を訪ねる 北近江の旅その4 平成26年7月20日(日)

2014-07-25 22:16:43 | 古い町並み

中山道 醒井宿

伊吹山から、今回最後の目的地である、米原市醒井に向かいました。時間にしてちょうど1時間ほどです。交通量の多い国道21号線を進むと右手にJR醒ヶ井駅と道の駅・水の宿駅醒井(みずのえきさめがい)が見え、駅前の横断歩道を行き来する大勢の観光客の姿がありました。道の駅の駐車場に停めようと思いましたが、駐車場案内の看板はあるものの、バスが停まっていてどう進んでいいかわからず、とっさに反対側の町並みの中に駐車場を求めて車を走らせました。

警備員の方に教えてもらって醒井宿の中ほどにある駐車場に停めることができました。それにしても暑い夏の日差しが照りつける醒井です。蝉の声も聞こえいかにも夏らしい風情が漂っています。それにしても観光客のなんと多いことでしょう。醒井の町並みは、街道と清流地蔵川を間に挟んでその両側に建物が建ち並んでいます。地蔵川の水はあくまで清らかで水量も多く、いたるところに川に降りる石段があります。川が生活の一部になっているのがよくわかります。
地蔵川に降りて水に手をつけると、とても冷たく気持ちのよいものでした。流れに揺れる梅花藻が見えます。小さな白い花がいくつもついています。その大きさわずか1㎝弱です。梅花藻は、キンポウゲ科の水生多年草で、清流でしか育ちません。7~8月頃に、梅の花に似た白い小花を咲かせることから梅花藻の名が付いたそうです。



清流地蔵川

住人と思われる人が、灰皿を洗いに降りてきました。その向こうには川に吊るされたスイカも見えました。一人の女性の観光客が住人に、「素晴らしいところに住まわれてうらやましいです」と語りかけていました。私も折角なので撮影しようと思いましたが、水中花、光が反射してなかなか難しいものですね。

カメラマンの中高年のグループがいました。梅花藻にカメラを向けて連写しています。連写に興味と疑問が湧いて、
「何を撮られているんですか?」と一人の老人に訊ねると、
「何をと言われても、藻を撮ってますやん!」と、見たらわかるだろうというようなつれない返事でした。藻は当然わかっていますが、連写の意味が分からなかったのです。



梅花藻 小さな花をつけています。

地蔵川の最初の地点、平成の名水百選に選定されたという、「居醒の清水」まで行って折り返し、醒井水宿駅内のランチバイキングのお店で食事を摂ることにしました。お店の名前はその名も「おふくろランチバイキング」といい、地元の旬な素材を使った地産地消の「おふくろ料理」だそうです。料金は、ひとり1,420円(税込)でした。情報誌で情報は得ていたのでどんな味か楽しみでした。

お昼過ぎということもあって、すでに満員で、順番待ちの先客が3組。20分ほど待ってやっと案内してもらいましたが、その味は噂にたがわず素晴らしいものでした。特にマスの握り寿司はおいしかったですね。

こうして今回の旅の予定をすべて終了し、近江をあとにしました。井原まで何事もなく予定の4時間ほどで到着。夕方の6時前には自宅に帰ることができました。まだまだ見どころの多い近江、今秋にでもまた訪ねたい、そんな気持ちになりました。(おわり)



醒井水の宿駅のおふくろランチバイキングの店内
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鞆の浦を歩く

2014-07-10 21:20:42 | 古い町並み

舟板塀の続く路地

7月6日(日)午前中は用事があったので、午後から鞆の浦方面に出かけました。残念なことに、鞆町に入る頃から、ぽつぽつと雨が降り始めました。海に風はないものの、どんよりとしていて、いつもなら見ることのできる、名物の小魚の天日干しも、今日は見ることができません。
釣りが禁止されている堤防なのに、相変わらず釣り糸を垂れる釣り人の姿がありました。そして、弁天島との間を、黒い平成いろは丸が、客を乗せて静かに通り過ぎて行きます。

景勝館前の市営の駐車場に車を入れて町並みを散策することにしましたが、まずその前に腹ごしらえと、向かったのが鞆シーサイドホテルの、バイキングのお店です。2階に自然食レストラン「よもぎの里」というお店があり、以前から気になっていました。ランチは、11:30~13:30(ラストオーダー)で、料金は1,250円(+税)でした。この時間、広い会場には先客が3組のみ、運が良ければ、生演奏も聴けるようです。

十分、お腹を満たしたあとは、少しだけ古い町並み散策です。対潮楼の前を通るころ、観光バス2台が停まり、観光客がどっと降りてきました。目指すは同じ鞆港方面です。鞆港には、小さな漁船が何台も係留され、波打ち際の茶色い雁木が歴史を感じさせてくれます。港のすぐ向こうには、いろは丸展示館の白い土蔵や常夜灯が見え、鞆の浦の変わらない風景がそこにありました。雨に濡れる石畳を大勢の観光客とともに散策しますが、一番風情があるのが、重要文化財の太田家住宅前の通りです。



ランタナの鮮烈な色彩が町並みになぜか映える

通りに面した土蔵の前にランタナが咲いていました。雨に濡れた石畳やしっくいの白壁の中にひときわ目立つ黄色やオレンジの花。色が際立ってとても美しく見えました。路地で数人のカメラマンが何かを写しているのを見ました。何があるのかなと、興味深々で近づくと、それは舟板塀でした。鞆の町にも舟板塀があったのかと、これはうれしい発見です。以前に訪ねた近江の五個荘や長浜の北国街道を思い出しました。

通りを進むと、T字路になり角に昔ながらの船具店がありました。客があったようで店のおかみさんの明るい声が響いていました。コースを右にとって進むと、道路は細くなりとても車が交わせるような道幅はありません。悪いとは思いながらも民家のわずかなスペースにぐっとハンドルを切って対向車を交わす運転手たち。これが日常ですから大変です。

そういえば、鞆の浦の架橋問題はその後、どうなったのでしょう。進展があったという話は聞いていません。これだけ長い時間をかけても解決策が見いだせないということは、次の世代にゆだねるしかないのでしょうか。何とも悩ましい問題です。それでも朝鮮通信使が泊まった潮待ちの港町、保命酒や箏曲・宮城道夫の「春の海」で知られる鞆の浦、またぶらりと訪ねてみたい、そんな気にさせてくれる町です。



鞆らしい風情のある通り
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