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未熟なカメラマン さてものひとりごと

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旬の奈良を訪ねて

2013-06-13 22:24:32 | 美術館・博物館

大和文化館 とてもシンプルな外観です。

華鶺大塚(はなとりおおつか)美術館友の会の観賞旅行で久しぶりに奈良を訪ねました。今回の行き先は、奈良市学園町の大和文華館と唐招提寺、最後に赤膚焼きの窯元を訪ねる予定です。個人的には、先週の京都に続くバス旅行になります。井原を朝7時に出発して、大和文華館に着いたのが、予定よりも少し早い11時前ごろでした。駐車場からは美術館の建物はまったく見えません。駐車場の横にあるレトロな建物が気になりましたが、こちらは奈良ホテルのラウンジの一部を移築したものだそうです。受付からゆるやかにカーブしたスロープ状の道を100mほど歩いて行くと、白壁の土蔵のような美術館の建物が見えてきました。とてもシンプルな外観です。玄関先にササユリの鉢植えがひとつあり、とても清楚で気に入りました。

玄関を入ると、右側にミュージアムショップが見えました。私たちは学芸員さんのお話を聞くため、講堂(ホール)に案内されました。とても斬新で立派な施設です。その中の話で、特に印象に残っているのは、私立の美術館としてはめずらしく、美術品を所有しているので美術館を造るのではなく、美術館を造るという目的で、美術品を収集したというところです。発案したのは、近畿日本鉄道の当時の社長でした。そして作品の収集等に14年を要し、昭和35年に開館しました。美術品を鑑賞する場所にふさわしいということで、この地を選んだのだそうです。住宅地の一角にありますが、池(菅原池)に面した丘陵地でとても静かなところです。

この美術館は、国宝4点、重要文化財31点を含む2000点以上の美術品を所有しています。ホールから展示室に会場を移し、主だったものの説明をいただきました。展示室は、ワンフロア―で中心部に竹が植栽され自然光が取り入れられる坪庭的スペースがあるとても珍しい作りになっています。展示ですが、「中国陶磁の広がり」と題した特別企画展が、開催されていました。世界の陶磁器に大きな影響を与えた中国陶磁の魅力と、その影響を受けた日本やヨーロッパの作品、88点が紹介されています。私が一番気に入ったのが、南宋・建窯で焼かれた「油滴天目茶碗」でした。小振りなお碗に、びっしりと油滴のように見える文様がくっきり。実に美しいものでした。ひととおり美術品を鑑賞したあと、建物の周辺を散策することにしました。遊歩道が整備され、沿道に季節の花を見ることできます。
アザミの紫色の花や、ザクロのオレンジ色の花は見られましたが、残念ながら丘陵の斜面に生えているササユリは、わずか一輪だけを残し、ほとんど終わっていました。池に面した遊歩道では、アジサイが咲き始めていました。こうしてゆっくり時間を過ごして大和文華館をあとにしました。バスは、本日の昼食場所「花鹿」に向かいます。そして昼食後は、いよいよ唐招提寺です。(つづく)



タニウツギが咲いていました。
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ジオラマに見る昭和の幻風景

2013-05-20 23:48:56 | 美術館・博物館

残念ながら館内は撮影禁止でした。撮影はこちらで、とあった梅ちゃん先生のポスター

5月18日(土)新見美術館で開催されている、「山本高樹・昭和幻風景ジオラマ展」に行ってきました。会期は5月16日から、6月30日までで、5月18日は最初の土曜日のためか、11時頃、すでに駐車場は満杯でした。この新見美術館、第一駐車場から正面入口に行こうとすると急こう配の石段を登らなくてはなりません。お年寄りには特に堪えるでしょう。現に、途中で座り込み、大きな息を吐いて休憩しているご老人を見ました。実は、ゆるい勾配の坂道もあるのですが、距離が長いので、誰もがこの急こう配の石段を登るのです。さて、駐車ですが、しかたがないので、正面玄関に続く車道の広いところに停めさせてもらいました。しかし、観賞中「駐車場が空きましたので、「倉敷500そ××××」のお客様は、お車の移動をお願いします」と館内アナウンスがありました。移動のお願いをされたのは生まれて初めてのことです。

JAFカードで値引きがあるかと思いましたが、こちらでは取扱いをしていないということで、入場料は、700円のままでした。この山本高樹さんのジオラマ展、京都、大阪、福岡など日本各地で開催されているようです。一番の楽しみは、NHKの朝の番組に使用された梅ちゃん先生の実物のセットです。カメラ撮影は、まずだめだとうと予測していましたが、まさしくその通りで、館内に入ったところで、大きなポスターがあり、撮影はこのポスターでお願いします、と書かれたお願い文が掲示されていました。
照明をかなり落とした館内にずらりと並ぶ昭和のジオラマ、あまりにも細かくできているので、ついついそばに寄ってしまいますが、あまり、近づくと係の方の注意を受けることになります。白熱灯の照明を模した灯り、おそらくLED、発光ダイオードを使用しているのでしょうが、障子越しやガラス戸越しのオレンジがかった灯りは、どこか郷愁を感じさせます。視覚に入るところはすべて中の中まで手を抜くことなく作られています。本当に詳しく見ようと思うと、双眼鏡が必要だと思いました。ついそのことを口に出すと、隣にいた女性が、ほんとね、とうなずきました。ジオラマの各作品の横には、説明と部分的に撮ったアップの写真がありましたが、背景が少しぼけて実物より、本物らしく思えました。
酒場の行灯型照明がずらりと並ぶ路地の飲み屋街が、私の一番のお気に入りでした。懐かしい銭湯では、男風呂と女風呂の様子が克明に作られています。まだ映画館の掲示板のポスターはそのまま小さく縮小されて再現されています。

部屋は3つに分かれ、階段を下りた部屋に梅ちゃん先生のジオラマがありました。NHKの依頼により作成されたものですが、展示中の作品では一番大きいものでした。小さな大人の人形は8センチほど。梅ちゃん先生は何体かありましたが、すべての作品に多く登場する、メガネを掛け帽子をかぶった中年の男性(おそらく荷風先生)、それとちょこんと座っている愛らしいねこもよく見かけました。この製作費はいったいどのくらいかかったのだろうと、つい尋ねてみたくなります。
ジオラマを堪能したあと、折角なのでご当地・千屋牛(ちやぎゅう)のお肉でも食べて帰ろうと、美術館の受付で千屋牛食べ歩きMAPをもらいました。予算のこともあり、これにしようか、それともこちらにしようかと迷いましたが、結局、この地を代表する観光施設、新見千屋温泉・いぶきの里のレストランでいただくことにしました。車はさらに180号線を30キロ北上し、もう数キロ先は鳥取県というところです。期待通りのおいしい食事でお腹が膨れた後、せっかくなので温泉に入って帰ることにしました。日帰り温泉は、もう何年も経験がありません。ジャグジーや、サウナ、露天風呂もある豪華な施設でした。この時間の利用者は少なく、ゆっくり贅沢な時間を過ごすことができました。
思えば、今日一日、被写体には恵まれませんでしたが、ゆっくりできた新見の旅でした。



新見千屋温泉・いぶきの里。数キロ、北に進むともう鳥取県です。
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川霧たちこめる山間の城下町 備中高梁

2012-12-06 22:44:17 | 美術館・博物館

町並みに残る商家の構えは見事

11月25日(日)華鴒大塚美術館友の会・秋の観賞旅行があり参加しました。今回は、高梁市の高梁歴史美術館、頼久寺、そのあと町並みを散策し、昼食のあと、新見市の新見美術館を訪ねるコースです。参加者は、32名と少なく、バスの中はいつもにもなくゆったりしていました。
 最初に向かったのが高梁歴史美術館です。高梁歴史美術館は、高梁市文化交流館の2階に設置されています。この美術館では、これまで寄贈等で高梁市に集積された美術品、あるいは、歴史資料を保存活用するとともに、高梁の歴史に関する資料、高梁ゆかりの作家の作品の収集、企画展の開催を行っています。

この日は、森下修三洋画展が開催されており、2階の美術館入り口のところで、当のご本人、森下修三氏がご挨拶をされ、引き続き絵の説明をしていただきました。氏は高梁市成羽町のご出身だそうです。絵の特徴ですが、被写体をカメラにおさめたものを基本とし、水の色、空の色などカメラでは写しだしにくい部分を、実際見たイメージで表現し、あとは感性で無いものを持ってきたり省略したりと、制作過程の裏の裏を教えていただき非常に参考になりました。おもしろかったのは、展示会に出品する作品を描く時間がなくて、家の前のお店を被写体に、3日間で急ぎ完成させたという話です。漁港がお好きなようで、因島には何度も通われたそうです。最近はファミリーなどシルエット的に人物を題材に描かれることが多いようです。日展には何度も入選されている実力者です。

次の目的地は、古刹頼久寺です。バスは国道沿いにある観光駐車場に駐車しました。こちらで町並みを案内していただくガイドさんから説明がありました。このガイドさん、今日が初めてとのことでした。知識が豊富で聞き取りやすくわかりやすい説明でしたが、どうしても話が長くなり、時間的にどうかとそちらの方が心配になりました。
高梁市は岡山県の西部、古くは備中国といわれた地域の中心に位置し江戸時代には、備中松山城とその城下町を中心とした備中松山藩として知られていました。町並みには、古い町屋もたくさん残っており、往時の繁栄を物語っています。観光駐車場の向かい側にその特徴をよく残した酒屋さんがありました。家の前の柱に、固定された鉄の輪があったので「これは何ですか?」と尋ねると、紐を留めるものでしょうか?とのことでしたが、私は馬をつなぐ金環ではないかと思っていたので、意外な回答に、はてなと思いました。

しかし自信がなかったので反論はできませんでしたが、帰って調べると、駒つなぎとありました。江戸時代の大名貸や、蔵元と呼ばれた商家の戸口に付けられている金具の事で、例えば、お客でお店にきたお武家さんが、乗ってきた馬をつなぐ為の設備だそうです。なお、駒つなぎとしての牛馬の使い分けは、金具を取り付ける位置で、高い位置にあるのは牛用、低い位置にあるのが馬用となっているそうです

町並みを散策しながら、頼久寺に向かいます。日本の道百選に選定されている紺屋川沿いの道や川を跨ぐ石橋の上に設けられた社、美しい教会の建物などを見ていると、もう頼久寺に到着です。石垣に囲まれた、城郭のような構えの石段を登ると、受付があります。当日はお茶会が開かれていたようでした。お目当ては、もちろん小堀遠州作庭の国の名勝日本庭園です。日本庭園大好きの私としては、縁側に腰掛けてじっくり見たいところですが、なにせこの人数、団体行動で、時間の制約もありそうもいきません。

このお寺は、1339年足利尊氏により再興され、備中国の安国寺とされました。永正年間に、備中松山城主、上野頼久が大檀越(だんおつ:寺や僧を援助する庇護者)となり寺景を一新します。1521年に、頼久が逝去したので、その2文字加え、安国頼久寺に改称されています。この枯山水庭園は、関ヶ原の戦いで東軍につき効をあげた小堀正次が、備中国1万4千石に封じられ、1604年に逝去したあと、あとを継いだ子の正一(小堀遠州)が、作庭したものです。小堀遠州というと、千利休のあと、天下一宗匠となった古田織部の弟子となった我が上田宗箇(筆者は茶道・上田宗箇流に席をおいています)と兄弟弟子の間柄であり、交友も随分あったそうですから、どことなく親しみもあるわけです。個人的には、この庭園を訪れるのは実は3度目でしょうか。ここは時間も忘れてのんびり眺めてみたい場所です。
この庭園の一番の特徴は、大胆なサツキの大刈り込み、青海波をイメージしているそうですが、大徳寺の孤蓬庵にも、打ち寄せる波を想わせる二段刈り込みが見られましたね。
肝心の撮影ですが、庭園の中にカエデの木があり見事に紅葉していましたが、畳の部屋から見ると逆光ぎみで、なかなかうまくいきませんでした。



遠州得意の大刈り込み

さて、頼久寺を見たあと、岡山県のふるさと村に指定されている、石火矢町の町並みを見て帰りました。その多くは、塀を残すだけのものですが、武家屋敷が二つ残っていて内部も見学できます。町並みには、駐車場も完備されていますので、ここを起点に散策するのもよいのかもしれません。JR伯備線を横断し、観光駐車場に戻ると、本日の昼食場所、高梁国際ホテルに向かいます。
昼食のあと、本日最後の目的地、新見美術館に向かいました。国道180号線をしばらく北上します。私は、こちらの美術館は初めてでした。バスは新見市の市街地から山手に向かいます。脇道に入り少し小高いところに美術館はありました。いきなり急こう配の石段が待ち受けていました。この道を登ると近道のようですが、正式には迂回するように大きくカーブした車道があります。玄関はちょうど反対側にありました。ロビーで、学芸員の方から、平松礼二展の紹介がありました。神奈川県足柄町立湯河原美術館に平松礼二館が設置されているそうですが、今回の展示会は、箱根芦ノ湖・成川美術館の作品を展示するものです。実際に、平松礼二氏もオープニングで解説をされ、絵も1点寄贈されたようです。絵は実に細かいものが多く、大作には気の遠くなるような時間を要したことでしょう。氏は、朝早くから、遅くまで几帳面に書き続けるそうで、書き上げた絵の数は相当なものだそうです。独特の世界観、じっと見ていると怪しい世界に引き込まれてしまいそうでした。

最近では、県北への通過点となっていた高梁市、久しぶりに町並みを歩き庭園もみることができました。新見市は正直何十年ぶりといったところです。こういった旅行でないと、なかなか来る機会もなく、そういう意味で、ありがたいと思いました。



新見美術館の紅葉もおわりです。
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美術展鑑賞旅行で京都に行ってきました。

2012-06-25 23:07:58 | 美術館・博物館

京都文化博物館別館は、元日銀京都支店

6月10日の日曜日、私が加入している華鴒大塚美術館友の会の美術展観賞旅行があり参加しました。今回は、私の大好きな京都で、京都文化博物館と細見美術館を訪ねます。個人的には両館とも初めてでした。華鴒大塚美術館前を早朝7時に出発。お天気はまずまずの薄曇り。途中でのトイレ休憩を含め、所要時間は、3時間半でした。
まず、最初に向かったのが、京都文化博物館です。案内書には、重厚な赤いレンガの建物が載っていました。国の重要文化財だそうです。博物館にはバスが駐車できるような場所はおろか、近くまでも行けません。ということで、御池通でバスを降り、高倉通を歩いて博物館に向かいました。

この狭い通りで見かける町屋が、いかにも京都という感じでした。そのままの民家もあれば、改装してしゃれたお店になっているものもあります。2階に垂れ下がる、すだれは下部が留められ丸みを帯びて京都らしい風情を漂わせています。通りに面したカフェテラスで新聞を広げ、主人を寝そべって待つ、ラプラドールレトリバーがいて、その光景がいかにも都会だなという印象を持ちました。
そして、京都博物館玄関前に到着すると、何と建物は近代的な7階建でした。その隣にあのレンガの建物が見えます。別館となっているようです。記念写真を撮り、館内へ。ロビーの隅で学芸員さんの説明を受けます。来週から「特別展=平清盛」が始まるところで、タイミングとしては今一つというところでしょうか。私が特に気にいったのが、デジタル技術でコピーされた絵巻物(北野天神縁起絵巻・平成記録本)が液晶画面に大きく写し出され、わかりやすく注釈も入って、ほんとに魅了されました。また時代ごとに次々と映し出される京都の歴史も見ていて飽きません。
そして、次に気になっていたお隣のあのレンガの建物へ入ってみました。広角のレンズを持ち合わせていなかったので、いくら引いて写しても入りきりません。この建物は、もと日本銀行京都支店だそうですが、その天井の高さには驚きます。今時、冷暖房のことを考えると不経済だと思いますが、他に何か理由があるのでしょうか。たしかに夏場は風がよく通って涼しいのかもしれませんね。
少し時間があったので、外に出て周辺を散策し、被写体となるものがあるかどうか探してみました。三条通りまで歩くと少し賑やかになります。途中に、レンガ造りのレトロな建物がもう一つありましたが、こちらは郵便局のようでした。

こうして、京都文化博物館の見学を終え、アミタ本店で昼食をしたあと、次の目的地、細見美術館に向かいます。こちらでもバスの駐車はなかなか難しいようで、岡崎公園内から歩いて行くことになりましたが、数分の距離です。
細見美術館、外観はとても斬新です。ワンフロア―はそれほど広くありません。受付を入ったところが、第一展示室で学芸員の方から説明を受けました。若冲、琳派など江戸時代中期を代表する絵画をはじめ、平安・鎌倉・桃山時代の優品も多く見応えがあります。 残念だったのが、茶の湯釜の展示がなかったことでした。私が一番気に入ったのが、パンフレットにも採用されたかわいいナデシコの花、どこかやさしくて控えめなところに惹かれます。

その後、2班に分かれて見学することになりました。私たちの班は、最上階の茶室でお茶をいただきます。お茶のお点前はなく、点て出しでした。竹を丸く編み込んだ竹製の涼しげな花入れが飾られた広間、着物の女性により、お茶とお菓子を運ばれました。この茶室は有名な方の設計だそうです。茶室の前のフロアーは、オープンとなっており、岡崎公園や、遠くの山々まで見渡すことができます。このあと地下にある二つの展示室を見た後、美術館を出て、岡崎公園集合場所の周辺を散策してみることにしました。京都市美術館、府立図書館、平安神宮大鳥居など。そして集合場所の京都市勧業館の前まで帰り、待っていると、舞妓さんが二人、目の前を通りました。これはラッキーとあわててカメラを構えましたが後ろ姿しか捉えることができませんでした。各花街の舞妓さんが交代で週に一度、京都の文化を紹介するため、この勧業館に出演しているそうです。
こうして、あっという間に時間が過ぎて、帰りのバスが到着し、京都をあとにしました。井原への帰着は、夜の8時の予定です。往復7時間はちょっとつらいですね。



細見美術館 古香庵で抹茶をいただく


正真正銘の舞妓さんです。
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大和ミュージアムで思うこと

2011-11-13 17:58:42 | 美術館・博物館


先日、華鴒大塚美術館の秋の美術展鑑賞旅行で呉市を訪ねました。当日の最終の訪問先が大和ミュージアムでした。天候は雨でしたが、相変わらず多くの入館者で賑わっていました。となりの敷地には、てつのくじら館もできて、ますます集客力がアップしているようです。この呉には、一方ならぬ思い入れがあります。といいますのも私の父が若い頃、呉の海軍工廠に勤めていて、戦争で焼け出されるまで、家族で呉に住んでいた、と聞いているからです。
大和ミュージアムの資料展示室には、あのゼロ戦もありました。型式には六二型とあり、この飛行機そのものは、琵琶湖に不時着し、湖底に沈んでいたものが引き上げられ復元されて、嵐山美術館に展示されていたものです。このゼロ戦で思い起こすのが、私の叔父(父の一番下の弟)のことです。神風特攻隊に志願し、二十歳そこそこで、アメリカの輸送船に体当たりし、亡くなりました。(亡くなったあと、少尉に昇格)
私がまだ中学生だったころ、母が手文庫を開けてなにやら読んでいました。そっと横から覗きこむと、それは亡くなった叔父の遺書でした。飛び立つ前に書いたものでしょう。文面は、「お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許しください。・・・・」で始まるあの文章でした。大粒の涙を流しながら、読む母のその時の様子は、今も鮮明に覚えています。
そういった時代に生まれてしまったばかりに、必然的に特攻隊に志願せざるを得なかったのでしょう、本当は怖い、でも口に出して言えない、そんなことを考えると本当に胸が痛みます。
わたしの父母は、もうとっくに亡くなっていますが、あの時の遺書はどこにも見当たりません。あるのは、仏壇の奥に立てかけてある、叔父の飛行服姿の写真一枚だけです。この写真を見るたびに、母のあの涙を思い出すのです。

茶道・裏千家の前の宗匠、千玄室さんも特攻隊に所属し、一度は死を覚悟したというのは、有名な話です。同じ特攻隊に所属していたのが、2代目水戸黄門の西村晃さん、その西村さんの話として、特攻作戦が近づいたある日、飛行訓練後に自分たちが乗る飛行機の機体の傍らで、手持ちの道具と配給の羊羹で茶会を催したことは、広く知られているところです。
そして西村さんは、出撃したものの、機体の故障で引き返し、玄室さんは出撃することがなかったため、隊で生き残ったのはこの二人だけだったそうです。まさに戦友ですね。

そのような時代があり、そのような若者がいたことを、私たちは決して忘れてはならないと思うのです。
海軍航空特攻隊員の戦死者数 2,531名(叔父はその中の一名)

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