写真は日本で行われた満漢全席のつどいのデザートに出されたいちごの仙草ゼリーとタピオカのデザート。満漢全席は清の時代に皇帝主催でその時代の漢人と満州および各民族の最高に(手間のかかる)料理を集めた集い。その内容も残されている。甘いデザートは重要な位置を占めている。
【満漢全席にも】
一方、雍正帝は清の名君の一人。
ウィキペディアの「龍のひげ飴」という日本語の項目があったので、転載しますと、
「あるとき清の雍正帝が文武百官を宴席に招き満漢全席をふるまうことにした。それを宮廷料理人に命じた皇帝が調理場をのぞいてみると、まさにこの菓子を作っているときで、料理人の手中で糸状になった雪白の砂糖が風に舞う龍のごとく引き伸ばされており、
その繊細な様がまるで吉祥を告げる龍の鬚に思えたので、皇帝は顔に菓子を張り付けて「龍になった」とたいそう喜び、皇妃から女官や臣下に到るまで大いにふるまった。
それとともにこの特別な菓子を”龍鬚糖(龍のひげ飴)”と命名したのである。以来、この飴菓子の美しい名前は長江の境を越えて中国全土に広まったという。」
別名「皇帝点心」とも。この話の元ネタとなる文献が見当たらないのですが、話としてはおもしろいですね。そもそも厳格な勤勉家としてしられる雍正帝におちゃめな伝説がある、と言うこと自体が珍しい話です。
皇帝の料理人にシルクキャンディーの作り手がいたとなると、彼の出自が気になります。漢民族に伝わった料理なのか、西方の対外工作にも熱心だった時代を反映して、西方の料理人がいたのか、ということで、龍のひげ飴の由来が変わります。いずれにせよ、満州民族の雍正帝にとっては新鮮な食べ物だったことは伝わります。
また、さらに移住時期にも興味深い事実が。
雲南・昭通のシルクキャンディが1730年(雍正八年)に清朝武官の蔡家地(サイジャディ)の馬姓の祖先である馬鱗燦公、馬鱗熾公が戦功によって、拖姑村に来たことがはじまり、となると、雍正帝がこのお菓子の普及に関わっているという逸話にもなにやら信憑性が出てきます。
ちなみに香港の新聞のコラムには「龍髭糖」は宋代の皇帝が愛し、広まったと書かれています。民間には「麵線糖」の名前で親しまれていたとも。
(http://hknews.hksyu.edu/index.php/%E9%BE%8D%E9%AC%9A%E7%B3%96)
いずれにせよ、中国の西方のお菓子が回族から伝わった、という方向でこれらの説は書かれていることがわかります。 (つづく)
※次週の更新はお休みします。もう少しでこの章の全貌が表れます。いま、しばらくおつきあいください。