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雲南、見たり聞いたり感じたり

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雲南でさかんだった屯牛2 明の移民とともに

2015-12-18 16:39:06 | Weblog
写真は昆明に近い宜良のメインストリートを一本入ったところにつながれていた牛。隣は新鮮な肉を売る市場だが、場は街より外れたところにあるので、この牛は農耕馬だろう。街中で出会う牛は農村の牛に比べて、なぜか目が悲しげだ。

【西へ西への大移動】
 明のはじめごろに四川で大量の牛がいたのか、を知るために当時の四川の状況を調べてみました。

四川がモンゴルの元から、朱元璋の明の勢力下に入ったのが洪武3年(1370年)。

当時、四川の政権の中堅にいた明玉珍という人が書いた族譜には、

明政府は隔年で兵を四川に集めていました。その結果の明の勝利でした。直後より国沿海部より人々が流入して人口が増加した様子が書かれているそうです。

これらを調べた楊文鑫氏の分析によると、

福建省の西寄りにある江西から移民が湖北に大量に流れ、その後湖北から四川に流れていたとのこと。
この大規模な人口移動はこの元末明初の時期だけでなく、約250年後の明末清初でも同じルートで行われたということでした。(※1)

また別の調査を行った林芹氏は、

沿海地区やそのほかの地区から洪武4年(1371年)に四川に人々が移住したが、なかでも湖北湖南付近の人が最多だった、と述べています。(※2)



つまり、雲南に送る牛を買い集めるころの四川は、長い戦乱で荒れ果てた中国沿海地区から西へ西へと流れてきた人々が居着いて17年が経とうとした時でした。

 人々の生活も落ち着き、たとえば移住後に生まれた子どもが立派な耕作人として成長したころ。当然、牛も増え、牛の市も立っていたことでしょう。

このような時期に買い集められた牛は四川土着のものというよりは、やはり中国沿海地区から西へと移動しながら、時にその土地土地の牛を吸収しつつ、漢族が連れ歩いた農耕牛だったと思われます。

※1楊文鑫「洪武的移民湖広」『移民社会与背景』(史碩三編、中央文化大学、91年)
※2林芹「洪武的移民川滇」『移民社会与背景』(史碩三編、中央文化大学、91年)
(つづく)
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