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もう一人の雲南回族の功労者・沐英3

2013-07-20 18:29:07 | Weblog
写真は福建省屏南の山奥の渓谷。福建省全体が中小の盆地の集合体のような地形をしており、人知れずの風情ただよう渓谷がひしめきあっている。福建での戦闘が分水嶺争いにあることは必定なのである(2001年8月撮影。)

【デビュー戦から華々しい活躍】
 さて、1363年、18才の時に帳前都尉(※1)に任命され、長江下流の交通の要衝地である鎮江(※2)を守護し信頼されます。
 さらに福建への征伐戦で、分水嶺の関所を破り、攻略戦では数々の手柄を挙げたため沐の姓に戻ることが許されました。(どうやら一家ののれんを掲げることを許された、ということの意味合いのようです。)

 さて、その後も数々の戦闘で活躍し、洪武14年(1381年)、37才の時に、征南将軍の傅友徳に従って、同じく副将の藍玉とともに征南右副将軍に任命されて雲南攻めに突入しました。

【補注・不思議な肩書き】
 沐英はデビュー戦以来、どんどん肩書きが登っていくのですが、最初に付けられた「帳前都尉」という肩書きはどれほどの位なのでしょう。じつは調べていくと、歴史上、沐英しか、見あたりません。インターネットで「帳前都尉」と入れると、「沐英」にダイレクトにヒットするほどです。

(※1)そもそも「都尉」とは、武官の中程度の位。今でいうと課長クラス。
 前漢時代に各地の軍を統括する位になったらしい。一度、後漢の光武帝が廃止したものの、三国時代やその後の時代にしばしば軍事行動の際に辺境地を治める役として設定されました。(「官位職官表」http://shuishanglouge.fc2web.com/guanwei.htmlほか)

 そして「帳前」。遼の制度を真似た西夏には中央侍衛軍より選抜した親衛隊がありました。その名は「帳前侍衛親軍」。弓術や馬術がすぐれた豪族の子弟が選ばれていたそうです。西夏を滅ぼした元朝に引き継がれ「御帳前首千戸」という宿衛軍となりました。
 つまり「帳前」は選び抜かれた親衛隊の意味のようです。元末の男子にはあこがれ響きがあったのでしょう。

 元末、明朝建国前の頃、朱元璋は気に入った配下に最初に与える位に「帳前」○○という肩書きをしばしば与えています。
 たとえば朱元璋の部下になろうと、母を軍中に置き、妻を捨てて臣従した趙徳勝には、「帳前先鋒」という位をまず与えました。数々の戦いで常に前線で活躍し、朱元璋の天下取りに大いに貢献した趙徳勝の肩書きです。常に戦闘の前線に立つことを期待された位だったようです。

 子どもがチャンバラごっこで「おまえ、親衛隊一番隊長な!」などとガキ大将がつけるような気楽さで、朱元璋が聞き知った肩書きを二つ合わせてつけたのでしょう。この肩書きからも沐英が朱元璋の子飼いとして期待されていたことが十分にうかがえます。

※2 鎮江:江蘇省西南にある。古くから長江と大運河の交差点として栄えた。古くは呉の孫権が都に置いたこともある。    (つづく)
コメント
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