写真はセブ島本島の代表的なショッピングモールの一つ、アヤラモールの土曜日のコンサート。歌手の近くにはチケットを持つ人しか入れないが、周辺で歌を聴くことはできる。歌手の人と舞台に上がって、一緒にデュエットするコーナーでは緊張と感激で泣き出す人も。
【フィリピンの人の英語習得法】
セブ島中心部の巨大ショッピングモールに週末、出かけたときのこと。フィリピンの大物歌手がショーを開いていました。
英語の歌を一曲披露した後、タガログ語で挨拶します。周囲には尊敬のまなざしで見つめるフィリピンの人たち。緊張の面持ちです。
そんなとき、ふと、ビサヤ語を交えたのでしょう。ちょっと風情の違う言語を交ぜて観客に語りかけたとたんに、客席からドッと笑い声が起きて、その場の親しみの度合いがぐっと上がるのを感じました。フィリピンで歌手として活躍するには英語、タガログ語の他に歌う場所に応じての言語に通じている必要があるようです。
この不思議な場面をみた翌日にさっそく授業で先生に写真を見せて尋ねると「ああ、往年の大歌手だよ。ラッキーだね。」
このときの歌手の言語の豊富さに感嘆した、と話すと、先生方が英語を話せるようになるためにたいへん苦労していることがわかりました。
セブ島出身の若い男性の先生は、小学校時代は英語が大嫌いで、英語を一切しゃべらなかったそうです。ところが大学になると授業はすべて英語。英語をしゃべろうとすると、言葉がでなくて固まっていた、と言っていました。
ある若い女性の先生は、おばあちゃんのお金で大学に行って英語の先生の免状をもらったときは、泣いて喜んでくれた、と話してくれました。
ボホール島で通訳をしてくれたグレン・ルマンタオさんは英語の先生の資格もあり、副業として教えているそうです。彼は、
「僕は英語を習得するために妹を相手に英語を使い、彼女が飽きて行ってしまうと飼い犬にも英語で話しかけ、日夜努力を重ねたんだよ。フィリピンに英語を学びに来る人も日頃からそれくらい努力しなくてはいけない」
と真剣に諭しました。
彼は芸術家としてフィリピン各地で展覧会をし、地元のラジオ局でディスクジョッキーもしているそうです。とても豊かな感性を持ったおもしろい人でした。英語になんの不自由もないように見えたのですが、そこまで努力が必要なのかと驚きました。
まず、そもそもフィリピンの大学で学問をしようとすると英語が必要になるようです。専門用語があまりフィリピンの言語に翻訳されていないのです。
そう考えると江戸から明治にかけて、専門用語に日本語をつけてくれた日本人
(たとえば酸素、水素、窒素といった元素名や金属、細胞、試薬、圧力、温度、物質、法則といった科学方面の学術用語を造語し、コーヒーに珈琲の漢字を当てた宇田川榕庵など)
の英知に感謝せずにはいられません。おかげで私たちはいま、日本語で難しいことまで考えることができるのですから。
現在、日本の大学は文科省の政策で授業の英語化が推進されていますが、日本語で考えられる強みについても、やはり考える必要があると思います。いや、その前にフィリピンに行くほど苦労している英語、なんとかしなさい、という突っ込みが入りそう。この悩みも日本では明治からずーっと続いていますね・・。
(つづく)