雲南、見たり聞いたり感じたり

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雲南の特色料理・過橋米線9

2008-12-11 22:44:42 | Weblog
写真は「蒙自駅」。現在は貨物のみが運行している。貨車の横では20人ほどの浅黒く焼けた男達が、煉瓦のかけたような石の積み卸しをしていた。力仕事をしているというのにカメラに向かって、つい陽気にポーズをとってしまう、とても気さくな人たちだった。

【デン南から昆明へ】
 過橋米線が、昆明より155キロ離れた建水を中心としたデン南の味から「雲南の味」へと昇格した鍵は、フランスが植民地化政策の一つとして建設し、1910年に開通したベトナムのハノイと昆明とを結ぶ「デン越鉄道」にあります。

 総延長857キロを当時、4日間で移動したこの列車は東南アジアと中国を直接結ぶ重要路線として、また途中、渓谷あり、急流ありと、目を楽しませてくれる鉄道として大変人気がありました。敷設には多くの中国人労働者の命が失われたそうです。

 1901年に上海にビジネススクールとして日本人によって開校された東亜同文書院の学生は、卒業年度に必ず中国各地を調査旅行に出かけました。なかで1928年にベトナムからデン越鉄道に乗ったグループが雲南省に入って110キロ付近の渓谷を次のように書いています。

「レールの枕木一本が山東苦力の命一つ宛に当ると言はれるのがこの辺りだろう。下を見れば何千尺と言ふ深い峡谷の間を青い谷川が急流し、上には頂上に雲を被った絶壁が切り立っている。」

 私など写真を見ただけでも、絶壁に浮かぶエッフェル塔の下部のような鉄橋に、クラリ、とめまいを覚えるほどの峻険な行程です。一度、乗ってみたいなあ、と考えていたのですが、どうも、雲南側のルートが洪水やらなにやら修復中で、途中の開遠駅で乗り換えたり、それすらも雨期には止まっていたりと、運行状況が劣悪で、事実上、乗れません。

 そこで2004年4月ごろに実際に乗った方に話しを聞くと、
「生活のために乗ってる人が多く、のんびりとしてたよ。窓からの景色は一篇の詩のようだった!」と言っていました。大雨が多く、崖崩れも頻繁にあるこの土地でよくぞ、100年近く生き長らえたものだと感心しました。(一度、日本軍が開遠駅で空襲し、レールを破壊している。)

 開設以来、蒙自縣は県内に6つもの駅をもつ一大交易地として、さらに発展を遂げていました。
 その蒙自を窓口にフランスが獲得を狙っていたのが、錫(すず)です。錫の都個旧は、西欧諸国とアメリカ、日本の思惑が交錯する場所となっていくのです。(つづく)

*風邪を引いてしまい、更新が遅れてしまいました。悔しいです。今年の風邪はひどい頭痛と吐き気が特徴なのかなあ? 
コメント
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