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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



室生寺のバス停から南に下り、登りとなる山道を15分歩くと、枝垂れ桜で有名な西光寺があります。・・・山道の途中

途中で見かけた黄色い花はレンギョウ、ピンクは桃、白いのはハクモクレンでしょう。

しばらく山道を登ると、融通念仏宗の寺、西光寺が見えてきました。左の太い幹が有名なシダレザクラでしょう。

宇陀市観光連盟情報サイトHPには、樹齢は約300年で、大野寺の桜の親木だとも伝えられていますが、大野寺にはシダレザクラが複数あるので、天益寺と、西光寺の二系統あるのでしょうか。

西光寺の枝垂れ桜は、「城之山桜」とも呼ばれるそうです。

境内にあった由来書によると、西光が天正8年(1580年)に開基とありましたが、平清盛と同時代にいた西光(?~1177年)とは別の西光のようです。・・・西側に畑と高台があるので、その方向からも撮影してみました。

また、寺にある位牌には元禄3年(1690年)、享保(元年1716年)、延亨(元年1744年、由緒書きの近享は、延亨の誤りでしょう)などの年号が記されているそうです。・・・畑の上の高台から見た西光寺の全景です。

そうなると寺に現存する古い位牌が置かれた時代にこの枝垂れ桜は植樹されたことになります。融通念仏宗の総本山は、大阪市平野区にある練供養で有名な大念仏寺ですね。

実は、岐阜県(飛騨国)にも同名の西光寺があり、そこのシダレザクラは、ここよりも古く、樹 齢800年、幹周り4.5m、岐阜県指定天然記念物となっているそうです。

このシダレザクラも、あと500年経つと樹齢800年、さてその頃はどんな世の中なのでしょうか。

 



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又兵衛桜から大宇陀高校バス停への帰路の途中、10分くらい歩くと天益寺(てんやくじ)の表示があり、ほどなく満開の桜が咲く丘が見えてきます。

そこが創建正和2年(1313年)と伝えられる天益寺で、かつて宇陀松山藩主、織田長頼(1620~1689年)が眼病平癒祈願で参篭したと伝えられています。

この辺り(宇陀松山藩)は、関ヶ原の戦いの後、福島正則の弟、高晴が3万石余で転封しましたが、大坂夏の陣(1615年)で豊臣方内通の嫌疑をかけられて改易、織田信長の二男、織田信雄が入封しています。

昨年末公開された映画「清州会議」(三谷幸喜監督)の中で、妻夫木聡が演じた織田信雄は、バカ殿のように描かれていましたが、実際はどうだったのでしょう。

実は、数多くいた信長の子息の中で、江戸時代に大名として存続したのはこの信雄の系統だけで、1630年に信雄が死去すると、大和宇陀松山藩(2万8千石)は五男織田高長が二代目を継ぎ、その二男の織田長頼(天益寺に眼病平癒祈願した人物)が三代目藩主となっています。

長頼が亡くなってから6年後(1695年)、長頼の長男信武は、藩内の混乱が原因で自殺、織田家は丹波柏原藩(2万石)へ減移封となり、宇陀松山藩は廃藩となっています。

丹波柏原藩に移封された織田家は、石高格式は落とされましたが、明治維新まで続いています。

さて天益寺ですが、1999131日の不審火(放火)により、本堂・大威徳堂・倉庫の三棟が惜しくも全焼しています。

境内にある枝垂桜は樹齢300年以上、 室生口の大野寺にある枝垂桜は、この株を移植したものと云われ、確かに帰りに通った大野寺の枝垂桜とよく似ていました。本堂のあった敷地



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近鉄大阪線榛原駅から路線バスで17分、大宇陀高校前で下り、西に10分ほど歩くと、山裾に巨大な桜が見えてきます。

これが有名な又兵衛桜(エドヒガン)で、樹周は3m、推定樹齢300年という枝垂桜です。

一昨年も足を運びましたが、満開よりも少し時期が早く、完全な姿を見ることができなかったので、今年再挑戦したのです。

今回は、事前にネットで開花状況を確認していたので、ほぼ満開状態の又兵衛桜をはじめて見ることができました。

この又兵衛桜は、長く無料で見ることができていましたが、数年前から維持管理協力金として100円を徴収するようになっています。

エドヒガンは、大切に管理すると千年近く咲き続けるようなので、その協力金を使ってしっかりと管理して欲しいと思います。

宇陀市観光連盟情報サイトHPには、地元では大阪夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛が当地へ落ち延び、僧侶となって一生を終えたという伝説が残っているとあり

又兵衛桜のある土地も、後藤家の屋敷跡だったことから、地元で「又兵衛桜」と呼ばれて親しまれてきたそうです。

その背後の丘には、ほぼ同時に開花する桃が植えられていて、その花が満開となると、又兵衛桜が一層映えるのですが、この日の桃は五分咲きくらいでした。

つづく



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昨日から大阪造幣局では通り抜けがスタートしましたが、これはその直前の桜之宮公園です。まだソメイヨシノは満開状態でした。

右が造幣局から伸びたサトザクラ

桜之宮公園のソメイヨシノは、例年通り抜けが始まると散ってしまう運命にありますが、この日はまだ満開でした。

柵の間から見えた造幣局のサトザクラ。一般にサトザクラは遅咲きですが満開となった株もありました。

川崎橋前のソメイヨシノ

川崎橋の上からソメイヨシノが密集した桜之宮公園を見てみました。左が造幣局、右が大川。

天満橋を潜り、南天満公園の桜並木に出てきました。対岸は八軒家浜です。

この先が天神橋で、川沿いの桜並木はこの辺りでおしまいです。

天神橋を潜ると、桜の無いスッキリしたいつもの大阪の風景が広がっていました。毛馬橋から淀屋橋までの散歩も、もうすぐ終わりです。



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大川沿いの遊歩道は、都島橋で途切れていたので、そこから天満橋筋に出て600mくらい南へ歩き、やっと大川遊歩道へ至る道を見つけました。すると見事な桜並木があるのに人通りがありません。

その桜並木の下から大川上流方向を見ると、見事な桜のアーチが完成していました。

その先にあるJR環状線のガードを潜ると、源八橋が見えてきます。この辺りでも花見客は少ないようです。

満開の桜の枝が川に張り出し、見事な景観です。

その先に帝国ホテル大阪があります。この辺りから下流は、花見客で混雑しはじめました。

帝国ホテル大阪の前の大川と対岸の桜並木です。

ちょっと行くと遊覧船の乗り場がありました。船の上から両岸の桜を見るのも楽しいと思います。

船着き場のすぐ下流にベニシダレの株があり、これも満開でした。

遊歩道から大川の対岸を見ると、こんな景色が続きます。

つづく



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大阪を代表する桜の名所の一つは、毛馬閘門から中之島までの大川両岸、毛馬桜之宮公園です。今週初め、毛馬橋から淀屋橋まで一気に歩いてみましたので紹介しましょう。・・・毛馬閘門

毛馬橋から大川の下流方向。阪神高速が川を横断、その先に桜並木が見えています。・・・今回は、大川の右岸を歩くことにしました。

毛馬橋の下流、大川右岸の遊歩道はフェンスで遮断されていました。そこでその西側道路を歩いてみたら、立派な桜並木を発見。なかなか気持ちの良い道でした。

長柄東公園の東側から大川沿いの遊歩道に入ることができました。下流には、桜並木の両岸を結ぶ飛翔橋のアーチが見えています。

飛翔橋を潜って大川の上流側を見ると、両岸の桜が満開でした。

阪神高速の下、すぐ西側には桜並木に囲まれた広大なグランドがあり、子供たちがサッカーの練習をしていました。

右は1992年完成したマンション・桜宮リバーシティ・ウォータープラザ、41階建、高さ135m

大川沿いを下流に歩き、桜宮リバーシティ・ウォータープラザを振り返ってみました。

この辺りの大川は湾曲していて、桜が川面に枝を広げていました。

つづく



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先月開催されていた此の花咲くや館のラン展に出品された見事なランの花と一緒に、大正時代から大東亜戦争突入までの日本陸軍の動きを紹介しましょう。

陸軍は大正4年~11年、第一次大戦からの教訓を学ぶため「臨時軍事調査委員」を設置、その研究から第一次世界大戦が日露戦争のような個別国同士が戦う武力戦ではなく、複数の主要国家がすべての力を動員して戦う長期間の激しい消耗戦へと変化していたことを明らかにしています。

陸軍参謀本部は、従来日露戦争の延長線上で編成、装備、動員、戦略、戦術などを研究実施していたのですが、新時代の戦争には通用しないと判り、日露戦争以来の国防方針を改定、米、露、中の三国を同時に敵として長期間の消耗戦を戦う、「大正7年国防方針」を制定しています。

それには国防資源の自給自足が重要課題となり、満州利権拡大とソ連へ備えるための北進、石油を確保するための南進、中国の経済力を利用するための中国本土進出など、国家戦略対象地域を東アジア全域に拡大し最終的に勝利する戦略が選択されています。

しかし大正9年、世界恐慌による財政危機、大戦後の世界的軍縮気運、帝政ロシアの崩壊などを背景として陸軍軍備縮小の世論が高まります。

陸軍は、総力戦を戦い抜くために必要な国家資源と重工業生産能力が欧米に比べて著しく劣っている現実に直面、その不足を中国本土の資源で補完する「日支自給自足体制」の推進と兵器の近代化と質を上げることを考えはじめます。

一方、陸軍には、兵力の劣勢を訓練による精兵主義と精神力で補い、開戦初期の奇襲攻撃で大打撃を与えて戦意をくじき、戦争を短期で終結させるという考えを持った首脳もいたのです。

敵を極東ソ連軍に限定し、短期決戦でソ連の撃破を目指す小畑敏四郎をトップとした「皇道派」、中国本土を制圧しその資源で国力を増進させ、英米ソとの総力戦の勝利を目指す永田鉄山をトップとした「統制派」。両派は鋭く対立することになります。

しかし、当時の日本の国力と米英ソの国力は、彼らが机上で考える以上に差があり、皇道派が撃破するとした極東ソ連軍にはノモンハンで敗退、統制派が容易に制圧できるとした中国本土は最後まで制圧できなかったのでした。計画は、思い通りに行かず、引くに引けなくなって次第に泥沼化してゆきます。

米国は、中国大陸からの撤兵を日本に勧告しますが、将兵の犠牲が無駄死であったと責任を追及されることを恐れた政府は太平洋戦争開戦を選択、国民のさらなる犠牲が敗戦まで続くのです。

参考文献:帝国陸軍の改革と抵抗 黒野 耐著

 



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昨日の記事に続き、大泉緑地を紹介しましょう。・・・地下鉄新金岡駅から大泉緑地へ向かう途中、桃が満開でした。

大泉池の南側には、蓮の群生があり、夏には見事な蓮の花を見ることができるのでしょうね。

公園の中で見かけたアオサギ

同じ場所にいたシジュウカラ。小さな鳥なのでちゃんと写すのが難しい。

公園の中のヒヨドリは、桜の花の蜜が大好物のようです。

双子山の桜

桜公園の桜

双子山から桜公園方向は桜だらけでした。

大泉池の南側から北方向の景色



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御堂筋線本町駅から地下鉄に25分乗ると新金岡駅に到着、そこから東に約15分歩くと大泉緑地があります。・・・途中の歩道で見かけた桃の花

一昨日、その大泉緑地まで桜を見にでかけてみました。・・・大泉緑地の中にある大泉池。池の対岸、桜が見えるのが双子山です。

大泉池の西側から時計回りに緑地を散歩してみました。・・・池の北側にソメイヨシノの並木が続きます。

池の東側にある双子山の頂上付近・・・丘の東側に、かなり成長した桜の木があり、ちょうど満開でした。

双子山の東側から南方向

双子山の東側には桜広場があり、絶好の花見ポイントとなっていました。

桜広場では、早朝から場所取りのシートが敷かれ、これから盛り上がるのでしょう。

大泉緑地の桜公園では、密集した桜も見ることができます。

桜は満開を過ぎて、散り始めていましたが、この景観、関西桜名所の上位にランキングされても良いかも知れません。



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スラバヤ沖海戦(1942年3月)で敵艦乗組員を救助した工藤俊作艦長(海軍少佐当時41歳、1901~1979年海軍兵学校51期)の話の続きです。・・・先々週の土曜日に万博公園に行ってきましたので、その風景と一緒に紹介しましょう。西大路の並木の葉は、まだ芽を出していません。

太平洋戦争当時の国際法上では、敵の攻撃をいつ受けるかわからない状況下では、漂流する敵の乗組員を放置しても違法性はなく、漂流者の救助中に攻撃を受けて犠牲となった事例は少なくなかったようです。・・・花の丘に咲いていたポピー

工藤艦長は、日本海軍史上極めて異例な命令「一番砲だけ残し、総員、敵溺者の救助用意」を発令、甲板下で勤務していた機関科員も甲板上に出てきて救助活動に加わっています。・・・水草の池に咲いていたミズバショウの花

「雷」に救助された漂流乗組員は、「雷」乗員(219名)の倍近い422名、救助した翌日にインドネシアに停泊中のオランダ病院船に捕虜は引き渡されています。・・・これも水草の池

工藤俊作艦長は、同年8月に駆逐艦「響」の艦長として転任、11月には海軍中佐に昇進、「響」艦長として激務をこなしていましたが、体調を悪化させ1945年3月15日に待命(予備役)となっています。・・・ハクモクレン

その間の「雷」は、1944年に敵の攻撃を受け沈没、かつて部下だった乗組員が犠牲となるなか、生き残ったことを罪と感じたのか、工藤中佐は戦時中のことを一切語らず1979年に亡くなっています。・・・紅白のツバキ

それから8年後(1987年)、アメリカの海軍機関誌が「雷」の救出劇を特集、機関誌編集者の巻頭文には日本海軍への大きな敬意が表記されていました。・・・これも紅白のツバキ

また「雷」に救助され、そこで手厚く扱われた別のイギリス士官が、1998年のロンドンタイムズ紙に投稿したことで、工藤艦長の世界の海軍史上稀に見る功績が明らかになっています。・・・紅白ツバキ

2003年、救助された元イギリス海軍中尉サムエル・フォール卿が日本を訪問、工藤艦長の墓参を果していますが、太平洋戦争の初期には、武士道精神を発揮するほどの余裕を持った駆逐艦艦長もいたのです。・・・当然、ソメイヨシノも咲いていました。

参考文献:敵兵を救助せよ!恵 隆之介著



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太平洋戦争の開戦直後(1941年12月10日)、マレー沖で英国戦艦「プリンス・オブ・エールズ」と「レパレス」が日本軍航空機によって撃沈された際、日本海軍は英国側の救助活動を妨害せず、乗員を救助した英国駆逐艦のシンガポール帰港を許しています。・・・一週間前に行った万博公園では太陽の塔の背後から東側に伸びる東大路は、ソメイヨシノの並木道となっています。

この事実を知ったシンガポールの英国海軍は、日本海軍の武士道精神に敬意を抱き、海戦で漂流しても、日本側に助けてもらえる可能性があると感じたようです。・・・左側が桜まつり陶器市の会場。右側は東の広場。三分咲きくらいでしたので、これからが見頃でしょう。

それから2月半を経た1942(昭和17)年2月27日~3月1日、英米蘭の連合国艦隊と日本艦隊が戦い、日本海軍が勝利を収めたスラバヤ沖海戦がありました。・・・東の広場の周囲にもソメイヨシノが植えられていて、万博公園全体で5500本の桜があるそうです。

そのス海戦で撃沈された英国巡洋艦と駆逐艦から脱出、漂流していた英国人乗組員は翌日、日本海軍の駆逐艦「雷」(いかずち)1680トン、全長118m、乗員219名に発見されています。・・・こちらは公園の西側にある「桜の流れ」沿いの広場です。

当時、インドネシア近海には連合国側の潜水艦が多数潜行していて、艦を停止すると魚雷攻撃を受ける危険な状況にあり、海戦のあと着水した味方艦載機を収容するための艦停止まで嫌がった艦長もいたといいます。・・・白いのは満開のソメイヨシノ、背後にある三分咲きくらいの花はヤマザクラでしょう。

そうした状況にもかかわらず、駆逐艦「雷」の工藤俊作艦長(海軍少佐当時41歳、1901~1979年海軍兵学校51期)は、漂流する敵乗組員を救助するように命令しています。・・・その広場の紅枝垂れとハクモクレンも満開でした。週末には散り始めるかもしれません。

兵学校で英語教育を受けていた工藤艦長は、救助された英国海軍の士官を集め、流ちょうな英語で「本日、貴官らは日本海軍の名誉あるゲストである」とスピーチし、彼らに感銘を与えています。・・・万博公園のハクモクレンは、ソメイヨシノより少し早く満開となるようです。

工藤艦長は、日露戦争時に上村彦之丞(1849~1916年)第二艦隊司令長官が蔚山沖海戦で沈没した巡洋艦リューリクの乗員627名を「敵ながら天晴れである。生存者は全員救助し丁重に扱うように」と命令したことに倣ったようです。・・・東の広場のソメイヨシノ

開戦から間もない時期の日本海軍では、戦に敗れて漂流している敵の乗組員をどう扱うか明確な指示は無く、発見した艦長の判断に委ねられていたようです。・・・水すましの池の上に枝垂れ桜の枝が伸びて、春本番は近いようです。

つづく

参考文献:敵兵を救助せよ!恵 隆之介著



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昨日紹介した記事に続き山科疏水の桜の紹介です。・・・この日の天候は。晴れたり曇ったりでスッキリしません。

山科疏水は、このトンネルの中から出てきていました。桜の遊歩道は、トンネルが貫通している山の裾を迂回してさらに東に伸びていました。

ちょっとした公園のある山の裾を迂回すると、トンネルの反対側に出ることができます。トンネルの手前は池のようになっていますね。

さらに上流に少し歩くと、両側に桜が密集している橋があります。

その橋の上から疏水の上流を見ると、花見客が楽しそうに弁当を食べていました。

遊歩道から少し離れた場所にはベニシダレザクラの大きな株があり、これも満開です。

疏水の上流側から桜の密集ポイントを振り返って撮影してみました。

疏水沿いの遊歩道は、さらに東にまだ伸びていましたが、歩き疲れたので、ここから引き返すことに。

近くに東海道本線をまたぐ陸橋があったので、ちょっと寄り道。山科疏水は右の桜並木沿いにあり、中央の白い花は立派なコブシの木でした。

山科疏水の桜、なかなか見事なものでした。



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昨日、JR山科駅からほど近い、山科疏水の桜を見に行ってきました。この日の朝は快晴でしたが、疏水に到着した頃には空の半分が雲に覆われていました。

従って、雲の合間から太陽が覗くタイミングを待ちながらの撮影です。

疏水を渡るこの橋は、紅葉で有名な毘沙門堂に至るルートとなっています。

その橋から疏水の上流を見ると、両岸に桜と黄色い菜の花が同時に咲いているではありませんか。

奥のソメイヨシノの手前、茶色い葉が出ている株は、これから咲くヤマザクラですね。

菜の花とソメイヨシノのコラボレーションです。快晴ならもっと鮮やかだったと思います。

これは、吉野山に多いヤマザクラ。ちょうど満開を迎えていました。

山科疏水の下流方向です。

雲の中から太陽が出れば、こうした春らしい景色となりるのですが、天候は安定しませんでした。

明日は、ここからさらに疏水の上流方向の景色を紹介しましょう。

つづく



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昨日は地下鉄天満橋駅で下り、八軒家浜から中之島に渡り、中之島公園を西に大江橋まで歩いてみました。・・・八軒家浜から堂島川右岸のソメイヨシノを見ると八分咲きくらいです。

カメラのホワイトバランスを変え、堂島川沿いに咲く桜のピンク色をちょっと強調してみました。

この朝は、満潮時間と重なったのか、河の流れが緩やかで、水面が鏡のようでした。

桜の色に合わせてホワイトバランスを変え、桜をズームアップ。こっちのほうが春らしい景観となりました。

天神橋を渡り、中之島公園から見た桜です。近所のサラリーマンやOLは、毎日お花見ができる利点がありますね。しかし、ここまで咲くと来週初めには散り始めるかも。

さて、中之島公園を淀屋橋に向かって散歩を続けます。天神橋のすぐ西側、堂島川左岸に桜の株があり、ここも満開でした。

天神橋から下流、堂島川右岸の並木には若葉が見えるのでソメイヨシノでは無いみたいです。

中之島公園を大江橋に向かって歩く途中、中央公会堂の北側、堂島川左岸にソメイヨシノの並木がありました。

堂島川に架かる水晶橋からその桜を見てみました。



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あべのハルカスの60階展望台は、今日から当日券が発売となるそうです。丁度この季節、大阪南港咲洲からは、あべのハルカスの背後から朝日が昇るのを見ることができます。

但し、東の空が晴れていなければ見ることはできません。・・・この日はどうでしょうか。

東の空全体に雲がありますね。

ワイドで見るとほとんど全面に雲が広がっていました。

しかし、ラッキーなことにあべのハルカス背後にある生駒山から朝日が昇るのが見えてきました。

この日の東の空は、あべのハルカスの背後だけ雲に切れ間ができていたようです。

これが咲洲から見える、あべのハルカス背後からの日の出です。

もっと拡大してみると、なみはや大橋の上をジョギングしている人が写っていました。

朝日は次第にあべのハルカスから離れてゆきました。



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