先月開催されていた此の花咲くや館のラン展に出品された見事なランの花と一緒に、大正時代から大東亜戦争突入までの日本陸軍の動きを紹介しましょう。
陸軍は大正4年~11年、第一次大戦からの教訓を学ぶため「臨時軍事調査委員」を設置、その研究から第一次世界大戦が日露戦争のような個別国同士が戦う武力戦ではなく、複数の主要国家がすべての力を動員して戦う長期間の激しい消耗戦へと変化していたことを明らかにしています。
陸軍参謀本部は、従来日露戦争の延長線上で編成、装備、動員、戦略、戦術などを研究実施していたのですが、新時代の戦争には通用しないと判り、日露戦争以来の国防方針を改定、米、露、中の三国を同時に敵として長期間の消耗戦を戦う、「大正7年国防方針」を制定しています。
それには国防資源の自給自足が重要課題となり、満州利権拡大とソ連へ備えるための北進、石油を確保するための南進、中国の経済力を利用するための中国本土進出など、国家戦略対象地域を東アジア全域に拡大し最終的に勝利する戦略が選択されています。
しかし大正9年、世界恐慌による財政危機、大戦後の世界的軍縮気運、帝政ロシアの崩壊などを背景として陸軍軍備縮小の世論が高まります。
陸軍は、総力戦を戦い抜くために必要な国家資源と重工業生産能力が欧米に比べて著しく劣っている現実に直面、その不足を中国本土の資源で補完する「日支自給自足体制」の推進と兵器の近代化と質を上げることを考えはじめます。
一方、陸軍には、兵力の劣勢を訓練による精兵主義と精神力で補い、開戦初期の奇襲攻撃で大打撃を与えて戦意をくじき、戦争を短期で終結させるという考えを持った首脳もいたのです。
敵を極東ソ連軍に限定し、短期決戦でソ連の撃破を目指す小畑敏四郎をトップとした「皇道派」、中国本土を制圧しその資源で国力を増進させ、英米ソとの総力戦の勝利を目指す永田鉄山をトップとした「統制派」。両派は鋭く対立することになります。
しかし、当時の日本の国力と米英ソの国力は、彼らが机上で考える以上に差があり、皇道派が撃破するとした極東ソ連軍にはノモンハンで敗退、統制派が容易に制圧できるとした中国本土は最後まで制圧できなかったのでした。計画は、思い通りに行かず、引くに引けなくなって次第に泥沼化してゆきます。
米国は、中国大陸からの撤兵を日本に勧告しますが、将兵の犠牲が無駄死であったと責任を追及されることを恐れた政府は太平洋戦争開戦を選択、国民のさらなる犠牲が敗戦まで続くのです。
参考文献:帝国陸軍の改革と抵抗 黒野 耐著