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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



紀貫之(866~945年)は、古今和歌集(912年頃)の序文に「春の朝、吉野の山の桜は人麻呂(柿本人麻呂、660~720年頃)が心には雲かとのみ(見)なむ覚えける」と記しています。

古今和歌集には、紀貫之の歌「越えぬ間は 吉野の山の 桜花 人づてにのみ 聞きわたるかな」があり、当時も吉野の桜のイ-ジは京都の貴族の間でも有名だったことが判ります。

また紀貫之の従兄で古今集の撰者だった紀友則(845~907年)の歌「みよし野の 山辺に咲ける 桜花 雪かとのみぞ あやまたれける」も古今集にあります。・・・シロヤマザクラの花弁は、ソメイヨシノよりも分厚いようですね。

古今和歌集の頃の吉野桜は、貴族の間で良く知られていましたが、平安末期に西行(1118~1189年)が吉野に入り、そこで桜を見ながら詠んだ多くの和歌を発表しています。その西行の歌で貴族以外の人々にも吉野のイメージが定着(今から830年前頃か)したようです。

新古今和歌集(1200年頃、1979首)には、吉野を詠った和歌24首のうち14首が桜を詠みこんでいて、西行が亡くなってからの和歌の世界では、吉野イコール桜となったようです。

新古今和歌集の発起人、後鳥羽上皇(1180~1239年)にも「み吉野の 高嶺の桜 ちりにけり 嵐もしろき 春のあけぼの」があり、そのサロンに集う側近達も後鳥羽院に倣って吉野の歌を詠んでいます。・・・これはヤマザクラとは別の品種のようです。

九条良経(11691206年)「吉野山 花の故郷 跡たえて むなしき枝に 春風ぞ吹く」・・・九条兼実の次男で早世しますが、長男の道家が祖父の庇護で摂政・関白となっています。

 藤原家隆(1158~1237年)「吉野川 岸の山吹 さきにけり 嶺の桜は 散りはてぬらん」・・・後鳥羽上皇の和歌の師匠、大阪上町台地の夕陽が丘に家隆の墓地があることで知られています。

慈円(1155~1225年)「花ならで ただ柴の戸を さして思ふ 心の奥も みよしのの山」・・・九条兼実の弟で天台座主

こうして吉野の桜のイメージは、後鳥羽上皇の時代(12~13世紀頃)に確固たるものとなります。・・・蔵王堂付近の吉野

後醍醐天皇の南朝(1336~1392年)は、吉野に置かれましたが、当時の吉野も桜の名所だったに違いありません。・・・後醍醐天皇陵は中千本の中、如意輪寺にあります。

参考文献:花をたずねて吉野山  鳥越 皓之著

つづく

 

 

 

 

 



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