又兵衛桜から大宇陀高校バス停への帰路の途中、10分くらい歩くと天益寺(てんやくじ)の表示があり、ほどなく満開の桜が咲く丘が見えてきます。
そこが創建正和2年(1313年)と伝えられる天益寺で、かつて宇陀松山藩主、織田長頼(1620~1689年)が眼病平癒祈願で参篭したと伝えられています。
この辺り(宇陀松山藩)は、関ヶ原の戦いの後、福島正則の弟、高晴が3万石余で転封しましたが、大坂夏の陣(1615年)で豊臣方内通の嫌疑をかけられて改易、織田信長の二男、織田信雄が入封しています。
昨年末公開された映画「清州会議」(三谷幸喜監督)の中で、妻夫木聡が演じた織田信雄は、バカ殿のように描かれていましたが、実際はどうだったのでしょう。
実は、数多くいた信長の子息の中で、江戸時代に大名として存続したのはこの信雄の系統だけで、1630年に信雄が死去すると、大和宇陀松山藩(2万8千石)は五男織田高長が二代目を継ぎ、その二男の織田長頼(天益寺に眼病平癒祈願した人物)が三代目藩主となっています。
長頼が亡くなってから6年後(1695年)、長頼の長男信武は、藩内の混乱が原因で自殺、織田家は丹波柏原藩(2万石)へ減移封となり、宇陀松山藩は廃藩となっています。
丹波柏原藩に移封された織田家は、石高格式は落とされましたが、明治維新まで続いています。
さて天益寺ですが、1999年1月31日の不審火(放火)により、本堂・大威徳堂・倉庫の三棟が惜しくも全焼しています。
境内にある枝垂桜は樹齢300年以上、 室生口の大野寺にある枝垂桜は、この株を移植したものと云われ、確かに帰りに通った大野寺の枝垂桜とよく似ていました。本堂のあった敷地