吉野山は、吉野水分神社の存在が示すように稲作に欠かせない水源地として古くから尊崇されていた山でした。
672年の壬申の乱では、大津にいた大海人皇子(天武天皇)が吉野山に移り、後に吉野を出て大友皇子を破り皇位を継承していますが、吉野が大和朝廷にとって重要な土地であったことの証拠でしょう。
その吉野山の神への捧げものとして古来より選ばれたのが桜の苗木で、吉野では桜の植樹が古来より連綿と続いていたようです。
また修験道の開祖、役小角(634頃~701頃)は、植樹されていた桜の木を用いて蔵王権現像を彫ったとされ、以降桜は吉野の神木となり、蔵王権現に祈願する際には桜の苗を寄進するのが供養となる風習が起っています。
吉野における桜の数は次第に増加し、紀貫之(866~945年)の時代には、古今和歌集に詠まれ、さらに西行(1118~1189年)や新古今和歌集の時代には多くの人に知られていました。
その後も一般庶民、貴族たちが吉野山を参詣する度に地位や財力に応じて桜を植樹し続けたようで、その様子は16世紀頃までの記録に散見することができます。
今から420年前(1594年)にあった太閤秀吉の花見では、当時の吉野に見事な桜があったことが確実なので、乱世の時代でも桜の植樹や維持管理は続いていたようです。
江戸時代に入ると吉野は日光輪王寺宮の所領となり、吉野山の桜を伐採することを禁止する掟が1669年に発布され、吉野桜は領主の権力によって守られるようになります。
江戸時代初期(1671年)に出版されたガイドブック「吉野山独案内」には、吉野山を訪問した人々に桜の苗木を売っている挿絵があり、当時でもまだ桜の植林が続いていました。
江戸時代の有名人では文人画家の池大雅、本居宣長などが花の吉野を訪ね、多くの和歌を残しています。
参考文献:花をたずねて吉野山 鳥越 皓之著
つづく