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駆逐艦磯風の乗組員だった特年兵の1期生、井上理二氏の書いた著書から、磯風の最後と咲くやこの花館のハイビスカスの写真を紹介しましょう。

昭和16年、海軍省は14歳から16歳未満の男子を海軍の中堅幹部として募集しはじめ、応募者の中から学業体力ともに優秀な者を採用(特年兵と通称)しています。

短期のスパルタ教育を受けた第一期生は2年8か月で卒業し、二等兵曹(陸軍なら伍長)に任官、将来は佐官への登用の道も開けていたそうですが、実際は終戦によって実現しませんでした。

その第一期生3700名のうち2500名(78%)が戦死、特年兵の死亡率は圧倒的に高かったのですが、国際法上(ジュネーブ条約で「兵士は満15歳以上」とされていました)問題のあったこの制度を日本は公式に認めていないようです。

さて、昭和19年1月、特年兵として駆逐艦磯風に乗艦したのは16歳の井上理二(二等兵曹、陸軍なら伍長)、17歳となった昭和20年4月7日、350名の磯風乗員と共に沖縄特攻に出撃しています。実は大学卒の見習士官は、戦後復興に必要な人材として全員特攻作戦参加除外となり、艦を下りたのですが、彼らよりも若い特年兵にはその特典が無かったのです。

沖縄に向かう途中、12時30分頃から始まった米軍機の攻撃で14時頃には戦艦大和は満身創痍となり、磯風が所属する第二水雷戦隊旗艦の巡洋艦矢矧も沈没寸前となっていました。

多数の敵機が攻撃してきている緊迫した状況下、磯風が属する第二水雷戦隊の旗艦矢矧から磯風に「近寄れ」の命令が出て、矢矧に急行すると「横付けせよ」との命令が下ったといいます。

半年前、戦艦山城に乗艦していた西村祥治中将(当時54歳)は、駆逐艦隊に「われを顧みず突撃せよ」と命令して最後を遂げていますが、矢矧の古村啓蔵少将(当時48歳)は「横付けせよ」と命令したのです。

米軍機の攻撃を高速で回避していた磯風が矢矧に横付けしようとしたとき、スピードの落ちた磯風の右舷側後部が空爆され大破、舷側からの浸水で右に傾き始めたといいます。ほどなく旗艦の矢矧も沈没。

救助された古村司令官は、大破した磯風を沈める命令を出していますが、磯風乗組員は「横付けせよ」の命令が無ければ磯風は無事だったと司令官を怨んだといいます。

 参考文献:「駆逐艦磯風と三人の特年兵」井上理二著



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