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駆逐艦雪風の寺内艦長(1905~1978年、沖縄特攻作戦時40歳)と、先日見てきた鶴見緑地のメジロの写真を紹介しましょう。栃木県出身の寺内正道艦長は、海軍兵学校55期(1927年、昭和2年卒)で、同期に岡田啓介(海軍大将で二二六事件当時の首相)の長男岡田貞外茂(1908~1944年)、鈴木孝雄陸軍大将(鈴木貫太郎海軍大将、終戦時首相の弟)の二男、鈴木英(1908~1985年)がいました。これだけで当時の海軍兵学校はエリートの集団だったことが良く判ります。

太平洋戦争当時の日本海軍の新鋭駆逐艦が雪風(約2000トン、全長約119m、幅約11m)で、日米開戦直後のフィリピン急襲作戦から大和との沖縄特攻まで主要な作戦に参加、途中8名の戦死者を出していますが、ほとんど無傷で終戦を迎え「奇跡の駆逐艦」と呼ばれています。

昭和18年12月10日付けでその雪風4代目艦長となったのが寺内正道少佐「体重86kg、柔道4段という猛者」と、駆逐艦雪風」の著者、永富映次郎氏は書いています。

永富映次郎氏は、寺内艦長は、豪放磊落な性格で斗酒なお辞せずという酒豪、その酒豪がたたって大尉を7年間も務めたという愉快な経歴の持ち主だったと書いています。なお、寺内少佐は雪風艦長赴任の半年後となる昭和19年5月に中佐に進級しています。

終戦から20年後となる1965年、アサヒグラフのインタビューに応じた寺内氏(当時60歳)は、<雪風に乗っていたのは昭和18年12月から20年5月まで。ずいぶんたくさんの作戦に出撃した。やはり戦艦大和の沖縄特攻作戦に従ったのが印象に残っているな>と語っています。戦艦大和の沖縄特攻については以前紹介したことがあります。

さらに沖縄特攻について<20年4月6日に徳山沖を出て7日の朝、戦闘開始だ。雪風には当時最新兵器だった電波探知機があったんで、それで敵機をとらえた。そのうち爆撃だ、雷撃だと、まるでシャモのケンカと同じだよ>と、

<私は艦橋で、操艦を指揮している。爆弾というのは、みんな自分の方へ落ちてくるように見えるんで、なかには「艦長、オモ舵とってください」なんていうアワテ者もおった>駆逐艦雪風手記編集委員会編集による手記には、寺内艦長の指揮と操艦は抜群だったと多くの乗組員が書いています。

また、<私は操艦には自信があったのさ。ボロ船にばかり乗ってたんだから。大和が撃沈されて、(大和以外の艦も含め)漂流している乗員を千人も助けただろうか。雪風が助かったのは、乗員も優秀だったが、やはり運だろう>と証言。

沖縄特攻作戦から帰還して1か月後の昭和20年5月10日、寺内艦長(終戦時40歳)は呉特別防衛隊司令として雪風から転出、戦後も専売公社などで活躍され、1978年に病没されています。

参考文献:駆逐艦雪風 誇り高き不沈艦の生涯 永富映次郎著

      :激動の昭和 世界奇跡の駆逐艦 雪風 駆逐艦雪風手記編集委員会編集



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