大阪城南外堀に面した二の丸石垣は、大阪城再築の最後となる1628年、西日本の57大名家を動員して完成しており、算木積みの工法で隙間無く積まれた最も完成度の高い石垣となっている。
東側から見た南外掘
石垣の建築時には、まずコーナー部分の角石を積むことからスタートし、この角石は長さ、幅、高さが同じになるよう規格化された石が大量に使われているのが特長である。
大手門南側の外掘の角石
従ってコーナー部分は、規格化された角石が交互に積み重なり、水面から三分の二くらいから上が次第に反り返る(忍び返し)カーブを持った石垣となっている。
6番櫓
多くの角石は、断面が2m×2m、長さが6m、この体積に花崗岩の比重2,8を掛けると、石の重量は約67トンと算出される。
偶然、本丸の空堀で石垣の調査をしている光景をみかけたので写真を撮っておいたが、人と比べると角石の巨大さが良くわかる。
1個が60トン以上もある角石の重さは、石垣の強度を確保するために重要であり、その重さがあったので400年間の風雪や大地震に耐えたのであろう。
しかし4番櫓の下にある角石は、上部の石の重さに耐え兼ねたか、あるいは地震のせいで中央部が割れてしまっている。
美濃高須藩5万石の外様大名であった徳永昌重(1581~1642年)は、石垣普請(2期工事)の作業が遅延したという理由で1628年領地を召し上げられているので、3期工事の普請に参加していた57名の大名は遅れないように必死に作業したようである。
本丸西側にある隠し廓の石垣の一部が徳永昌重の担当
各大名には、それぞれ工事の分担区域が決められ、積みあげた石垣の石に家紋や家印、符号、姓名などを刻印している。
南外堀に面した二の丸石垣の上部には、丸に木の文字が380年を経た今も鮮明に読み取れるが、豊後日出藩(3万石、木下延俊)のものである。
木下延俊(1577~1642年)の父は、秀吉の正室(北の政所)の実兄である木下家定で、姫路2万5千石の大名であったが、関が原の後には備中足守藩2万5千石に移封され、延俊の兄で関が原では西軍に加わっていた利房が大阪冬の陣の功績で相続している。
西から見た南外掘
木下延俊は、関が原で最初から東軍に就いていたために、本家を上回る豊後日出藩3万石の大名となり、大阪城石垣工事の忠勤が認められたのか、豊後日出藩木下家は明治維新まで改易も無く続いている。
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