徳川家康の次男秀康(1574~1607年)は、長幼の序列からすれば三男秀忠(1579~1632年)よりも先に徳川家の家督(将軍家)を相続できる立場であったが、家康の決断で2代将軍は秀忠となり、秀康は弟に臣従する立場となっている。
高野山にある秀康の墓所
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その秀康の長男である松平忠直(1595~1650年)は、越前75万石を1607年に相続したが、父親が将軍とならなかったことに屈託があったようである。
忠直は、大阪冬の陣に参戦しているが、兵力の損失が多かったと家康に叱責され、夏の陣では真田幸村の首を取り、大坂城へ真っ先に攻め入ったが加増もされず、官位も従三位参議と低いままであった。
安居神社にある真田幸村の碑
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1620年にスタートした大坂城再築石垣普請には、唯一の親藩大名として参加し、越前(大坂城普請丁場割之図には越前宰相とある)の石高に見合う合計85間=154mもの広い範囲を担当している。
大坂城普請丁場割之図
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この大坂城再築第1期工事では、京橋口(87間)を担当した家康の外孫に当たる池田忠雄(1602~1632年)が積極的に取り組み、枡形には巨大な肥後石(120トン)を運び込んでいる。
京橋口枡形
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池田忠雄は、姫路52万石の藩主であった池田輝政の3男、母親は徳川家康の次女富子(督姫)、大坂城再築第2期工事でも桜門と枡形を担当して城内最大の蛸石(130トン)を運びこむ入れ込みようであった。
大坂城普請丁場割之図の桜門と枡形(松平宮内少輔とあるのが池田忠雄)
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松平忠直が担当した石垣は、大阪城の東外堀で見ることができるが、この石垣が他の藩の石垣と比べて粗雑にできているように見えるのは私だけか。
松平忠直の担当場所の石垣
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1621年になると忠直は、病を理由に江戸参勤を行わず、また1622年には妻(秀忠の娘)の殺害を思いつくなどの乱行が目立つようになっている。
桜門(左が虎石、右が龍石)
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叔父の将軍秀忠は、結局1623年に忠直を大分に配流しているので、翌年からスタートした大阪城本丸築造の2期工事、1628年の3期工事には越前松平家は参加していない。
2期工事で完成した天守
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しかし忠直の嫡男光長(1616~1707年)は、後に高田藩(26万石)から津山(10万石)の藩祖、忠直の次弟忠昌が越前本家(32万石)、三弟直政は松江藩(19万石+支藩4万石)、五弟直基は前橋藩(17万石)、6弟直良は明石藩(10万石格)の藩祖となっているので、忠直兄弟の家系は幕府から厚遇されていたのである。
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