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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



堺で鉄砲の製造が開始された時代は諸説あるが、最も古いものは1510年に堺で鉄砲を買い求めた小田原の山伏が北条氏に献上した記録があるので、それ以前から鉄砲は製造されていたことになる。

南海堺駅前



1615年大坂夏の陣のあと、堺はすぐに幕府直轄地となって復興され、堺の鉄砲鍛冶集団は幕府の許可を受けて20軒の鉄砲鍛冶が江戸期を通じて鉄砲製造を続けている。

その鉄砲鍛冶集団は環濠都市堺の北部、今の北旅篭町、桜之町辺りにまとまって住んでいたようである。

明治20年台後半の堺市北部



明治中期頃には10数軒もの鉄砲鍛冶が残っていて、主に狩猟用の猟銃を手工業で製作していたというが、次第に大メーカーの工業化商品に押され、戦前には数軒にまで減ったという。



戦後まで残った堺鉄砲鍛冶が井上家であるが、鉄砲鍛冶の職人と技術は堺の特産品となる自転車部品や包丁製造の分野に移っている。

井上家



さて、大阪難波を始発とする阪堺鉄道(現在の南海電鉄)は、1885年(明治18年)に難波~大和川(のちに廃止)間を開業しているので、南海電鉄は大阪の私鉄としては最も古い歴史を誇っている。

1886年(明治19年)頃の大阪地図を見ると、阪堺鉄道難波ステーションの次が天下茶屋、次が住吉大社、終点が大和川ステーションとなっている。



ちなみに大阪を基盤とする他の私鉄の開業は、阪神1905年、阪急1910年3月、京阪1910年4月、近鉄1914年というので南海がダントツで1位で1888年(明治21年)5月には、大和川を渡る鉄道橋が完成して吾妻橋(現在の堺駅)まで延長されている。

1896年(明治29年)の堺市地図にはアズマバシ ステーションと載っている



吾妻橋は、堺を南北に分ける大小路が環濠を渡る場所に架かった橋で、今も堺のメインストリートである。




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