新靱町で干鰯などの海産物取引が活発になると、今度は海部堀川も混雑するようになったため、木津川に近い百間堀川の鷺島に靱町魚市場の出張所が1618年設けられ、大阪の魚市場は天満から鷺島まで3キロ以上も西に移るのである。
木津川大橋の北側

当初の鷺島は、文字通りの島であったようであるが、百間堀川に合流する江戸堀川と京町堀川が1617年に開削され、その土砂で埋め立てられて陸続きとなったようである。
江戸末期の大阪地図

鷺島の靱町魚市場出張所では、近海の生鮮魚類(雑魚)を扱ったので1650年頃から雑喉場(1908年の地図にはザコバとある)の地名がつき、1772年には、雑喉場に問屋株が交付されている。
1908年の地図にあるザコバは、未だ健在であった

江戸中期以降の大阪には、大商人が干物、こんぶ、干鰯等を扱う靱海産物市場と、生鮮魚類を扱う雑喉場魚市場の2箇所の魚市場があったのである。
1958年の地図には埋め立てられる前の百間堀川と雑喉場橋が載っている

靱海産物市場は、今の靱公園となにわ筋が交差する辺りにあり、雑喉場は土佐堀通りと新なにわ筋との交差点から2~300メートル南側付近にあったようである。
今は、雑喉場の前の百間堀川が埋め立てられ、さらに新なにわ筋と、その上に高架の阪神高速道路ができたために当時の面影を偲ぶものは全く残っていない。

唯一、「ざこばてい」という屋号の居酒屋が、この付近がかつての雑喉場であったことを物語っているかのようであった。

先日、雑喉場の近くから御堂筋と本町の交差点まで歩いてみたら20分くらいで到着できたので、江戸時代に船場の住人が、ぶらぶら散歩しながら毎日でも生鮮魚類を買って帰れる距離であった。
幕府からの問屋株交付以降、雑喉場はさらに賑わうようになり、雑喉場の商人は住吉大社に巨大な石灯籠を寄付できるまでに儲かっていたようである。

また生きの良い鮮魚を扱う雑喉場の商人は、明治、大正時代まで大阪の花柳界や演劇界の旦那としても有名であった。
しかし1931年、安治川の対岸福島に中央卸市場が開設され、雑喉場の商人がそこに収容されたことで雑喉場魚市場は159年の歴史を終え、きっぷの良い旦那衆も次第に姿を消したようである。

今は、マンションが建ち、魚市場であった面影は全く無いが、「ざこばばし」と書かれた橋の標識が、木津川の東側、本町通の歩道に残っているだけである。
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