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ROSSさんの大阪ハクナマタタ



真珠湾攻撃からほぼ1年後の1942年(昭和17年)11月30日夜、ガダルカナルへ物資を輸送する途中の日本海軍の駆逐艦8隻(田中頼三少将指揮)と、待ち伏せしていたアメリカ海軍重巡洋艦4隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦6隻(ライト少将指揮)計11隻とのルンガ沖夜戦がありました。

その海戦に参加していラッセル・クレンシャウは<ルンガ沖夜戦は、第二次大戦中のガダルカナル島争奪戦においてサヴォ島周辺で起こった最後の戦いであり(中略)ミッドウェイ海戦と同様の重要性があった>と書いていますので、鶴見のユリカモメと一緒に紹介しましょう。

この海戦では、アメリカ側は重巡洋艦(9千トン625名)1隻沈没、重巡洋艦3隻(合計3万トン、2069名)が大破する損害を受けていますが、日本は駆逐艦「高波」(2千トン、225名乗組)1隻が沈没しただけでした。

その主な要因は、日本の93式(酸素)魚雷とアメリカの魚雷との性能に大きな格差があったからです。(この後、アメリカ海軍はすぐに魚雷の改良に着手しています)

ラッセル・クレンシャウは、<(真珠湾への奇襲攻撃ではなく)もしも山本五十六提督が、(日米宣戦布告1年後となるこの時期に)米主力艦隊を太平洋上での決戦に引き込んだとしたら、日本海軍の魚雷の津波は、米艦陣のあちこちで高々と爆発の火柱を上げ、アメリカ艦隊を破滅させたであろう>と書いています。

その艦隊同士の決戦での<戦闘の結果は、真珠湾(のだまし討ち)よりはるかに大きなダメージを、アメリカ艦隊そのものと、アメリカ人のモラルに対して与えたであろう>

<真珠湾攻撃は、平和時に準備を整えないまま不意に巻き込まれた事例であって、フェアな戦いで打ち負かされたのとはまったく別なので、>アメリカ人はメンバーパールハーバーを合言葉に日本を徹底的にたたくまで許さなかったのです。

つまり、正々堂々の艦隊決戦に敗れたのであれば、アメリカ人のモラルとしては潔く負けを認め、日本との平和講和交渉をスタートさせた可能性があると示唆しているのです。

日露戦争で東郷平八郎提督が、ロシアバルチック艦隊と日本海で正々堂々と決戦、それに完全勝利したことが大国ロシアとの平和交渉につながった事例と同じということでしょう。

山本五十六連合艦隊司令長官の真珠湾攻撃は、戦略としては大失敗だったとアメリカ海軍砲術士官ラッセル・クレンシャウは指摘しているのです。

参考文献:ルンガ沖の閃光(日本海軍駆逐艦部隊対アメリカ海軍巡洋艦部隊)ラッセル・クレンシャウ著 岡部いさく訳・監修、岩重多四郎訳



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