遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   一昨日 母に誘われ木下大サーカスを観にゆきました。青い天幕の中はジャングルとサバンナの匂い、そして微かに吹き溜まりの匂いがしました。サーカスをひとことでいうなら緊張と弛緩です。サーカスの緊張といえば獰猛なライオンや虎のうなり声、調教師の運命は!!とか空中ブランコで手を放した一瞬!!...とか美女の輪切りとか...ですが、弛緩には大まかにいって二種類あるようです。ひとつは緊張が期待とおり解かれるとき、もうひとつは緊張が意外なことで解かれるとき、当然後者のほうがおもしろいですが、プログラムはその三つの繰り返しでできているのです。あの大河ドラマ”ガラスの仮面”でいい役者とは観客に緊張と弛緩のリズムを与えることができる...とあったような気がします。お笑いも芝居もおなじですね。そのことでもっと書きたいことがあるのですが、さきに進みましょう。


   永見子さんのワークショップでわたしは今日真っ白になりました。....昨年はほとんど欠席だったので台詞についてダメ出しを受けるのはひさしぶりであがりまくりでした。わたしはギリシャ悲劇の代表作オイディプス王からオイディプスの妻であり母でもあるイオカステの台詞にチャレンジしました。台詞と向かい合っているうちにイオカステはオイディプスが実はわが子ではないかという疑念を持っていたと感じました。オイディプスの名の由来になったかかとのキズそして年齢、妻として臥所をともにしていたら気がつかないはずがない。そしてその前に予言とおり父王を殺したかもしれないというオイディプスの重要な台詞があったのです。解釈はさまざまですが今回指示されたのはそんなことは考えないもともとのギリシャ悲劇とおりの強く強く押していくキャラでした。過去イオカステを演じた麻美れい、鳳蘭は元宝塚の男役ですし、それだけのキャパと強さを必要とする役なのでしょう。

   永実子さんから指摘されたわたしの台詞...男のひと(など)、母と供寝をする(こと)といってしまう...いつも曖昧にしているのです。そしてこれが洋子さんのパターン...と言われたのは台詞のトーンを途中で落としてしまうことなんですね。わたしってこんなに優柔不断!?押しが足りない?? 「日本人に特有な話法がある」と永実子さんは言いましたが、わたしのくせを知っていてこのような課題を出したのでしょう。もちろん語りと芝居は違いますがものがたりを伝えるうえで強いキャラクターを語る場合もあります...レンジが広ければさまざまなひと、さまざまなものがたりを語れる可能性がふえるのです。

   大昔..平成天皇と美智子皇后がお若くていらっしゃったころ聞いた話です。「....と思いますとか考えますとか語尾につけるのは自分のことばに自信がないひとだそうですが、わたしもそう思います。」と当時皇太子であった天皇がおっしゃいました。美智子さまは「..そう思われるのですか」と一矢返されたそうです。さて、このブログを読んでくださる方はお気づきでしょう。わたしも...思いますとかありましょう..とか...ではないかと...など....ということを多用しています。これはひとつには読んでくださる方に反感を持たれないよう配慮しているのですが、それだけではないかもしれません。

   曖昧にぼかす....以前はこれほどしていませんでした。もっと歯切れのよい文章を書いていたのですが、読んでくださる方の顔が見えないこともあり、ときどき誤解を招くこともあって 次第に文体が変わってきました。軋轢を極力減らして本質に近いことをなるべく多くの方に...というスタンスになったのです。...しかしこれは日常にも翳を落としているのかも知れない..と今日わたしは気づきました。ひとはそれぞれの場で使い分けがでじるほど器用でいられるわけがないのです。それでこれからしばらく考えますや思いますは使わないで書けるかどうか試してみようかと...オゥ 危ない 試してみます。

   聴く方の心に響くものがたりを語る一番の近道は自分自身の魂を磨くこと...とわたしは折にふれ書いてまいりました。それはほんとうだと今も思います。けれども 今わたしが試行しているのは魂はすこし置いて、発声も含めた身体の調整、そして語りを体系として見、体系のなかの要素を学んでゆくことです。それは学んでゆくというより、自分のクセを知る、自分を撓めているものから解放すことに近いでしょう。たとえばわたしの右ひざが不自由なのは軟骨が減ったことがそもそもの原因ですが、身体のバランスをとるためにある部位の筋肉が伸び、ある部位の筋肉が縮んでしまったことが最大の要因なのです。右の腰から両脚にいたる筋肉の凝りをほぐすことで症状は改善してきました。わたしにとっては上虚下実(下半身、腰を入れ 上半身の力をぬく)のための最初の関門です。発声についても本来自由で大きな可能性を持つ声帯の機能のなかで十二分に動かされていないところを目覚めさせ改善してゆく....イメージからも入ってゆけるが、まず意識し動かしてみる。


   以上のことは今年のはじめ語り手になろうと決意したことからはじまりました。心と身体のくせを直していくことがつぎのステップに欠かせない、これは直感でした。長年しみついたものから自由になるには時間が必要です。精神と身体性とわざがむすびつくまでの間ひょっとしたら語り自体が揺らぐかもしれません。それでもいつかはファルセットと地声がブレイクし溶け合うように魂と身体がほんのすこしずつ渾然と実ってくるのではないか...そこに期待をかけて進みましょう。もしわたしにとりえがあるとすればそれは、あきらめないこと、たとえ挫けても、もう一度立ち上がる意志のちから...だけです。

   
   

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