遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

きのう ひさびさに 佐藤響子さんのメビウス氣流法の教室に行きました。からだと心の静謐を求めていたからです。unit catari'catariのメンバーに 教えることは3月でやめるとつたえ それぞれが 自立した語り部になるための障害とその対処法のヒントをつたえてから わたしの心は波立っていました。障害とはおもにそのひとの持つ葛藤...(なかにトラウマもふくまれます)なぜ語るのか 語りたいのか ....およそ 葛藤のないひとはいないのですが パフォーマンスなり創作なり するひとは ことさら葛藤がつよいように思います。

語り手の持つトラウマは語り手の個性につよくかかわります。知らず知らず 自分を癒したいために語るからです。そのトラウマは7割がたが幼少時から思春期にわたる親子にかかわり またいじめであるとか 集団世界との軋轢であったりします。

すると ものがたりが ひとつの傾向をおびるようになる。それはわるいことではありません。そのようなものがたりは同じような傾向をもつ聴き手の心にヒットし すこしずつ解消されてゆくからです。けれども いつまでもそこに甘んじていてはならない そこから離脱し ものがたりのうつわである語り部となり さまざまなものがたりを降ろし 語り 魂振りの語り部となるために トラウマを解消してゆくことが必要だと考えました。エゴからの解消 真の脱力 リラクゼーションには トラウマが障害になるように感じていました。

ですから 個人的な生き方 生きるために身につけざるを得なかったこと ひとの顔色を見ることや より輝かしいひとのそばにはべること などにも言及してしまった。そのイタミがわが身に戻り これでよかったのか 傷つけはしなかったか と わたし自身が明晰でなくなっていました。

響子さんのワークはとても静かです。3R?のあと  さきごろ 亡くなったインドの演奏家のCDを聴く ティンシャと同じ 複数の金属でできている古楽器.... からだを自由に動かす CDを聴くまえからわたしのからだはゆれはじめ こころ?も凝縮し そのときを待っていました。.... 漆黒のそら 微細にまたたく幾億の星星 巨大な蓮の花.... わたしの眉間のそばになにかなつかしいもの がいました。わたしはなみだをしとどにながしていました。.... 曲がかわり 水音のような響き 一音一音が 糸のようにからまり にじみ 消えていった。 わたしはなつかしいものたちに いかないで そばにいて と懇願しました。..すると ずっと それは そばにいた わたしのなかにいたことがわかりました。

次のワークは ... ピアノ ... 生演奏 ... 鈴のはいった籠の玉を手に 自由におどる .... その場に5人がいましたが スタジオ? のはるか上空で いつつのひびき いつつのいろ いつつのひかりが またたき おたがいを感じあい 干渉することなく ひきあっているような感じがしました。じゆうにゆるやかにからだは舞い そこに道があり ささげるものがあり ひかりがありました。こころも身体もおだやかに鎮まって なお いきづいていました。

ワークのあと 食事をしながら話しました。 気流法の脱力とアレクサンダーテクニークなどの脱力は違う。アレクサンダー...は からだのひとつひとつを確認しながら 脱力し 最後は眠ってしまうことも多いのですが 気流法の脱力は 細い ほそーい 凛とした一弦が こころとからだにとおっている ... なぜだろうと問うたところ 気流法は 静から動に瞬間にかわる というような答えを響子さんがくださった。....今回は 気流方の50周年記念?の欧羅巴での研修会の準備のため 仏人の役者さんも参加していたので ここととからだについてお話できて 楽しかったです。 つづきはまた .....

 

月天子     宮沢賢治

私はこどものときから

いろいろな雑誌や新聞で

幾つもの月の写真を見た

その表面はでこぼこの火口で覆はれ

またそこに日が射してゐるのもはっきり見た

后そこが大へんつめたいこと

空気のないことなども習った

また私は三度かそれの蝕を見た

地球の影がそこに映って

滑り去るのをはっきり見た

次にはそれがたぶんは地球をはなれたもので

最后に稲作の気候のことで知り合ひになった

盛岡測候所の私の友だちは

──ミリ径の小さな望遠鏡で

その天体を見せてくれた

亦その軌道や運転が

簡単な公式に従ふことを教へてくれた

しかもおゝ

わたくしがその天体を月天子と称しうやまふことに

遂に何等の障りもない

 

もしそれ人とは人のからだのことであると

さういふならば誤りであるやうに

さりとて人は

からだと心であるといふならば

これも誤りであるやうに

さりとて人は心であるといふならば

また誤りであるやうに                       

 

しかればわたくしが月を月天子と称するとも

これは単なる擬人でない

 



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