リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

大陸の東は猛暑で西は低温、地中海は灼熱なんて不公平じゃない?

2024年06月18日 | 日々の風の吹くまま
6月17日(月曜日)。☁。ずっと寒々とした日がだらだらと続いていて、そろそろうんざりした気分。何よりもメンタルに良くないな。きのうの最高気温は13度、最低気温は9度で、1日中暖房が入っていた。それでも今週末にかけてはちょっぴり「夏」を味わえるらしいけど、夏が始まる「夏至」だから特別にってことのようで、やぁ~だっ。

おかげでせっかく植え替えたシソもプランターで芽を出したシソもさっぱり大きくなってくれない。カレシのトマトも花が増えないし、買ったときに咲いていた花には2本合わせて4個の青い実ができたけど、こっちもさっぱり大きくなる気配がなくて、かわいそうにバルコニーで寒そうに枝にぶら下がっている。個別のポットで大きくなるのを待っているレタスもさっぱり大きくならないもので、まだプランターの上に並んだまま。やたらと元気がいいのは植えた覚えのないキンギョソウと外に出したら俄然満開になったゼラニウムくらいのものかな。いつの間にか生えて来たキンギョソウはこれで3年目かな。初めの年にルーフデッキからバルコニーの大きいプランターにまとめて植え替えたんだけど、毎年あちこちに種を飛ばすらしくて、春になるとあっちでもこっちでもキンギョソウ。ぼっちゃりとしたきれいな花を咲かせるから、野菜の邪魔にならなければ好きなようにさせているので雑然としたバルコニーの彩になっている。


トマト三兄弟がかわいそう

州内いたるところで6月としては最高気温が記録的な低さで、まさにJune-uary(1月のジャニュアリーを6月のジューンにかけて「ジューニュアリー」)。猛烈なヒートドームに覆われていた3年前の6月29日にカナダ史上最高の49.6度を記録(翌日に山火事で焼失)したリットンでは15度という最低の最高気温を記録。内陸では120年ぶりに低温記録を更新したところもあって、地球温暖化なんてどこの話かいな。東部のトロントでは高温高湿で熱中症の注意報が出ているし、アメリカの中西部も猛暑で、シカゴもニューヨークも35度とか言う暑さ。行きつけのスーパーにもうアメリカ産のトウモロコシが出ていて、ちょっと皮を剥いてみると先っぽまでしっかり身が入っているのは、その暑さのせいかな。同じアメリカ大陸でも西の端は寒過ぎて、郊外の奥の農業地帯フレーザーバレーでは作物の生育が数週間の遅れとか。

もっとも、ドイツも寒いみたいで、エスターが住むウェストファリア州のライネでは暖房がいるくらい寒いそうだし、ハンブルクにいる友だちも雨がちで気温は低めだと言っているなあ。ところが南の地中海周辺では40度とかいう猛暑で、ギリシャではすでに数人の観光客が熱中症で死んだというから、夏の観光シーズンにはどうなることやら。行列ができる遺跡は軒並み閉鎖されたらしい。おい、戦争なんかやってないで、空の高いところから大気をわさわさとかき混ぜて暑さ寒さをうまく配分する巨大な自動運転しゃもじか何かを作る技術でも開発したらどうなんだ。宇宙船だ、飛行機だ、ミサイルだといろんなものを飛ばせてるんだから、できないはずはないと思うけどな。地球の自然を司るマザーネイチャーには公平になんて考えはないんだから。

父親に肯定されて育った女の子は自分の手で幸せを掴める

2024年06月18日 | 日々の風の吹くまま
6月16日(日曜日)。🌧☁。なぜか起床9時。今日は(少なくとも予報では)雨、雨、雨。朝から暖房が入っているし、きのうの最高気温は14度だったそうで、もしかしたら地球がひっくり返ってしまったんじゃいないかと思ってしまうくらいの低温。何でも長期予報によると、カナダ南西部の沿岸地方では40%から60%の確率で「平年以下」の夏になるらしい。やれやれ、この調子だったらエアコン設置を急ぐ必要はないじゃないの、もう。

今日は父の日。ワタシの父がまだ生きていたら今年109歳。世を去ったのは77歳になる年で、札幌から東京の病院に転院して、そのまま帰らぬ人になった。その年ワタシは44歳で、(母の時と同様)何とか臨終に間に合って、葬儀は東京では珍しい大雪の日。東京生まれの東京育ちながら、戦争中に召集されて旭川の第7師団に将校として配属され、そこで母と見合い結婚。通信部隊だったので常に前線の後方にいて、実際に戦闘を体験したことはなかったらしい。満州に行ったり、茨城県の八ツ俣送信所に配属されたり、カムチャツカの孤島に送られたりしているうちに、九州の指宿で終戦を迎え、母が待っていた北海道の釧路に直行してそのまま住み着いて、ワタシは9歳か10歳になるまで父が東京出身とは知らなかったくらい「北海道人」になり切っていた人。

母が先立ってからは札幌の家で1人暮らし10年。ワープロが登場すると、孤島に駐屯していた時に詠んだ短歌を『島守抄』としてまとめ、さらには自叙伝を書いて、印刷したものを2人の娘に残してくれた。孤島では1人で島の中を歩き回ったらしく、山の風景をスケッチした鉛筆画がある。芸術的な才能のある人だったんだと思う。若い頃は世界に雄飛する夢を抱いていたらしい。ワタシが生まれたのは結婚7年目のこと。母との間になかなか子供ができず、闇市で手に入れた排卵誘発剤を注射するという、今なら医療法違反で逮捕されそうな不妊治療をしてやっとワタシができたそうな。当時の日本はまだ連合軍の占領下にあって、闇市では何でも手に入ったそうで、買った薬はおそらくアメリカ軍からの横流し物資だったんだろうな。そこまでしてやっとできたのに、大幅に予定日を過ぎて難産の末に生まれてみたらへその緒を巻いて仮死状態。翌日には伊豆へ引っ越すという産科の先生と敬虔なクリスチャンの助産婦さんの必死の蘇生術でやっとふにゃぁ~と産声を上げたときは男泣きしたそうな。



さんざん苦労してやっと生まれたのは縮れっ毛の女の子で、小さい時は病気ばかりするし、おまけに左利き(父自身が生まれつき左利きだったらしい)。父は相当なイクメンだったようで、幼い頃には遊んでいるワタシの後ろでクラシック音楽を流していたし、校長に「女の子が知能が高すぎるのは将来困るからあまり本を読ませないように」と言われて来た母に「何でも読みたい本を読ませてやれ」と言ったそうだし(5年生の夏休みに『チャタレー夫人の恋人』を読んで、宿題の読後感想文に「よくわかりませんでした」と書いたワタシ・・・)、休日には「父と息子」がやるようなことを一緒にやったし、興味を示したものは何でも「やってみろ」。とにかく中学以降は(いじめられたから)学校嫌いで、男の子と取っ組み合いのけんかをしたり、高校では英語以外はいつも赤点すれすれで教師に「できるのになぜやらないんだ」と叱られてばかりという、規格外れもはなはだしいワタシのつっかい棒になってくれたのが父だった。もしかしたら父も規格外れの人だったのかもしれないな。その父が77歳を前にして逝ってからもう32年。来年ワタシは77歳・・・。