リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2013年2月~その3

2013年02月28日 | 昔語り(2006~2013)
女は男の3倍しゃべるようにできている

2月21日。木曜日。午前11時30分に目覚まし。カレシの耳のところで「起きろ~」と言ったら、「何にも聞こえないよ~」。(またいつの間にか耳栓をしている。)それではということで、ワタシの側のスタンドでピーコ、ピーコと鳴っている時計をつかんで、カレシの耳にくっつけたら、「あれ、なんかやたらよく聞こえるな。もう起きる時間かあ」。

あはは。世のダンナサマ族に多く発症するといわれる「突発性選択的聴覚障害」というやつね。このビョーキ、なぜか突発的に女性の声が聞こえなくなるのが特徴で、広い年齢層の成人男子に多発するという。人種や環境にはあまり関係がないようなので、ヒトのオスに何らかの共通する遺伝子異常があるのかもしれないな。

昼のニュースによると、遺伝子の転写調節因子のひとつに、FOX群に属するFOXP2という言語の発達と操作に関わるたんぱく質があって、これがヒトでは男の脳に比べて女の脳に30%も多くあることがわかった。(ただし、ねずみではオスの方がこのたんぱく質を多く持っていて、メスよりもよくチューチュー泣いてママねずみの注意を引いては世話をしてもらうんだそうだけど・・・。)なるほど、どうりで女の子は生まれつき口達者なはずだな。つまり、ヒトでは女の方が言語能力、ひいてはコミュニケーション能力が高いと言うことで、ワタシの生業では女性の同業者が圧倒的に多いのにもうなずける。

何でも、平均して女は1日2万ワードもしゃべるのに対して、男は7千ワードしかしゃべらないんだとか。え、たったの2万語?というダンナサマ族も多いだろうけど、ここはまあ、女が2万語もしゃべるから男の方はたったの7千語しか口を挟めないんだと思ってみたらどうだろうな。だから「突発性選択的聴覚障害」が起きるんだ、と。あんがい、男の脳の聴覚機能を掌る遺伝子を調べたら、耳に入ってくる声のピッチによって聴覚のオン/オフを瞬時に切り替えられる特殊なたんぱく質が発見されるかもしれないな。

そんなたんぱく質が発見されたとしたら、ワタシは「OUTFOXP2」と名づけるだろうな。おしゃべりなFOXP2をoutfoxする(裏をかく、出し抜く)たんぱく質という意味だけど、あまりピリッとした洒落にはならないか。でも、ワタシなんかしゃべらせると3万語は行っちゃいそうだから、突発的にワタシの声が聞こえなくなるらしいカレシには、もしかしたらこのOUTFOXP2があるのかもしれないなあ。

中国では女独身27歳は「残りもの」だって

BBCのサイトに「China’s ‘leftover women’, unmarried at 27(中国の「売れ残り女性」、27歳未婚で)」と言う記事が載っていた。中国版「クリスマスケーキ」というところだけど、27歳を過ぎても独身の大都会で働く高学歴の女性をよりによって政府がそう名づけたと言うところがおもしろい。なんで「27歳」なのか。中国でも都会では晩婚化が進んで、女性の平均結婚年齢が27歳になっているらしい。

英語記事に「sheng nu」とあったので、あちこちググッたら中国語では「剰女」。日本語的に字面を見ると「女性が余剰」という印象だけど、一人っ子政策で人口の男女比が狂った中国では女性は余っていない。30歳以下では女性よりも男性が2000万人も多いそうだから、現実は極端な「男余り」・・・。

じゃあ、中国の高学歴のいわゆるアラサー女性は結婚相手を選り取り見取りにできて、不毛な婚活でお疲れの日本の女性たちを羨ましがらせるんじゃないかと思われるんだけど、現実はそうは問屋が卸さないらしい。家族や周囲、はては国からの圧力が高まるのに、なかなか結婚(したい)相手が見つからない。北京でラジオ局に勤める29歳独身女性によると、年齢や教育水準で「A級の男はB級の女を探し、B級の男はC級の女を探し、C級の男はD級の女を探すから、最後にA級の女とD級の男が残るわけ。つまり、「剰女」はA級の女ってことなのよ」。な~るほどっ。

記事にあった国連の統計グラフによると、2012年の25~29歳の独身女性の割合はイギリスが一番高くて70%以上、次いで日本が60%くらい、アメリカが45%くらいで、中国はまだ20%程度。言い換えれば、80%が30歳になる前に結婚している勘定だけど、政府が先頭に立ってアラサーの未婚女性に「売れ残り」とラベルを貼って、早く結婚しろと圧力をかけているのは、高学歴の女性に子供を生んでもらって人口の「質」を向上させたいという思惑と、溢れかえっている独身男の欲求不満が社会不安を引き起こすのを防ぎたいという思惑があるらしい。

そういう中国政府の旗振り役をしている全国女性連盟は、「カワイイ子は大して教養がなくても金持と結婚できるが、それが難しい人並やブスは高等教育を受けることで競争力を高めようとする。悲しいかな、女の価値は年を取るにつれてどんどん下がるから、修士号や博士号を取得した頃にはとうの昔に古い「黄ばんだ真珠」になってしまっているのだ」と、国営のメディアで結婚相手を「選り好み」をする高学歴女性を批判したというから、ああ、男女平等のはずの「共産主義」中国でも「女の敵は女」ということか。

でも、29歳のプロフェッショナルな女性曰く、「独身はそんなに悪いものじゃないわ。ひとり暮らしだと何でも好きなことができるし、仲良しの独身友達もたくさんいていつでも遊べるし、仕事は気に入っているし、人生は楽しいわ」。そんな彼女もいつか「ぴったりの人を見つけたいとは思う」けど、それは成り行きまかせにしかならない。結婚しなければならないから結婚するなんてごめんよということか。誰に「残りもの」と揶揄されようが、中国の「A級女性」は意気軒昂で、頼もしそう。

ワンコのつもりのニャンコ

2月22日。金曜日(日本時間で仕事をしているとどうしても土曜日に思えてしまう)。いっときかなりの雨が降ったらしいけど、よく眠って、目覚めは午後12時30分。チキンベーコンを焼いて、目玉焼きを作っていたら、食べ終わる頃には夕食時になってしまうので、急遽いつものシリアルとトースト。

電話が鳴り出して、発信人はお隣さんのパット。「ハリスがねずみを捕まえて来た」と。パットは大の猫好きで、ハリスはそれを見抜いてちゃっかりと居ついたオスの元のら猫。ネズミ捕りが得意で、けっこうご近所さんから感謝されている。

これがまた精悍な面がまえのニャンコで、散歩しているパットの後を、あっちのやぶに鼻を突っ込み、こっちの隙間をのぞきしながら、のそり、のそりと歩いているのを見ると、もしかしたて自分はワンコだと思っているんじゃないかな。夜、パットが裏口からピュッ、ピュッと口笛を吹くと、外に出ていたハリスがどこからともなく風のごとく戻ってくるんだとか。う~ん、やっぱりワンコのつもりか・・・。

ハリスは我が家も自分の縄張りにしているようで、ときどきうちのガレージの屋根のてっぺんから世界を睥睨している。ある日、外から帰ってきたら、ゲートの外にハリスが不動の姿勢で座っていて、それが神社の狛犬のようだったので吹き出してしまった。当のハリスはワタシをちらっと見て、「お、帰って来たんか。じゃあ、またな」と言わんばかりにのそっと生垣の角を曲がって行った。猫にまたたび三度笠ってね。人にじゃれたがる犬と違って、猫にはなんとなく孤高の生き物という雰囲気があるけど、そのオーラを振りまくところは、ハリスもやっぱりニャンコなのだ。

ねずみ捕獲の報告を聞いたカレシ、「今日はキャットフードをおまけしてやってくれ」。

ケベックではパスタをパスタと呼べない

歴史的にイギリスとフランスは仲が悪い。どっちもそれぞれの歴史と言語と文化に強い愛情と誇りを持っているし、どっちもまさに遺伝子のレベルで頑固と来ている。だけど、世界史の中で見るとフランスの方が負けが込んでいるような感じ。おまけに、どういうわけかフランスには負け組を選ぶ癖があるみたい。

北米では18世紀の7年戦争でイギリスに負けて植民地ケベックを取られ、19世紀初頭にはナポレオンが広大なルイジアナを新興国アメリカに二束三文(現在の貨幣価値で1ヘクタール当たり100円くらい)で売ってしまって、おまけにそれを(最後には負けた)戦争ですってしまったし、その甥のナポレオン三世は東洋の島国の今にも倒れそうな幕府の後ろ盾になって、結局アジアでの覇権への野望が潰えたし・・・。

フランス軍を打ち破ってケベックを分捕ったイギリスは鷹揚な気分になって負け組ケベック人にフランス語とフランス型統治の維持を認めた。それがそもそもカナダの頭痛の種である「ケベック問題」の始まり。ケベックを慮ってフランス語を英語と共に連邦政府の公用語にしたのに、景気がいいときは自分たちのフランス語、フランス文化が優秀だからとでかい態度を取り、不景気になると独立をちらつかせて連邦政府に無心のし放題。前回の州民投票では独立が否決されたのはアングロフォン(英語系)が「外国人」を煽って反対投票させたせい。ケベックが衰退気味なのもアングロのせい。このままではフランコフォン(フランス語系)は絶滅危惧種になる・・・。

ということで、ケベックでは分離派政党が州政権に返り咲いて以来、反アングロの風潮が高まっているらしい。ケベックは看板や広告などでのフランス語以外の言語の使用を制限していて、違反を取り締まる「言語警察」と呼ばれる機関まである。最近その泣く子も黙る言語警察がメニューの料理名をイタリア語で表示していたレストランを摘発して、全国から「アホか~」と呆れられている。パスタは世界のどこでもパスタで通るのに、ケベックではpâteじゃないと言語警察のガサ入れを食うわけ。オーナーは「イタリア料理の名前をイタリア語で書いてどこが悪い。説明は全部フランス語で書いてあるじゃないか」と大むくれ。唯一イタリア語が認められたのはpizzaだったとか。ピッツァはもろにイタリア語なのに思ったら、相当するフランス語がないからOKなんだと。アホか、まったく・・・。

日頃から気位が高くて、金がかかって、怒ると「離婚届」を突き出して相手をねじ伏せようとする鬼嫁みたいなもんだと思うけど、大きな声では言わないけど、早くリコンして出て行ってくれないかなあと思っている人は多いだろうな。たしかにカナダ全体のフランコフォンの割合は低下するばかりだけど、生粋のケベコワは「じわじわと絶滅に追い込まれている」と被害妄想。まあ、フランスも純正フランス語とフランス文化の栄華の維持に必死だから、本家の血筋なのかもしれないな。そこへもってして、ドイツの大統領がEUを抜ける気満々のイギリスを懐柔する?ためか、英語をEUの言語にしようと提案したらしい。フランス語じゃなくて、よりによって宿敵の英語。はて今度はフランスが侮辱されたとむくれてEUを出るとか言い出すのかな・・・。

ため口で営業トーク?

2月23日。土曜日。近いところで何かが轟音を立てているのを夢うつつに聞きながら、わりとよく眠った気分で、起床午前11時40分。やった、正午前。外は上々の天気。轟音の主は電力会社のトラック。裏のレーンで何やら作業をしていたらしい。

朝食後、カレシは今夜の豆サラダを作り始め、ワタシはぼちぼちと仕事。期限は日曜日の午後4時。まあ、残りは1日分だから何とかなるか。次の仕事は期限までたっぷり余裕があるし。仕事と言えば、きのう来ていた引き合いのメールをどうしよう。ニューヨークの聞いたこともないところから10万語だかの大仕事があるという引き合い。そのメールの口調がもろにため口だったもので笑ってしまった。ざっと訳すと、

「よお。今度うちでで大型の仕事をゲットできそうなんだけどさ、○○協会のサイトで見たら、アンタ、経験がありそうなんで、ちょっとメールしてあげたわけなんだ。どお、やってみる?どんだけやれるか、メール、待ってるよ」

という感じかな。あのさあ、そっちが翻訳会社というビジネスなら、こっちだって翻訳事務所みたいな自営業ビジネスなんだからさあ、一応は。ちょっとばかりため口過ぎやしない?そもそも、仕事をゲットできそうってだけでしょ?ゲットしてから持ち込んでくれないかなあ、そういう話。取引実績も何もないんだから、「仕事を回してやろうと思ってさ」みたいなことを言っても、食指一本動かないんだけど。

アメリカでまた日本企業が絡む訴訟があるんだろうけど、推定10万語が正しいとするど、ひとりなら毎日休まずに作業をしても最低50日はかかるな。ま、そんな悠長な期限があるわきゃないので、フリーランサーをかき集めて分担させるわけで、何社もいっせいに同じことをやるから、同じ案件らしい引き合いが知らない会社2、3社から来たりする。俗に「生徒に教えられない先生は先生に教える」というジョークがあるけど、言い換えると「デキない翻訳者は翻訳会社を作る」。もちろん、デキる翻訳者が作ったデキる翻訳会社はたくさんあるけど、引き合いのやり方からしてプロフェッショナル度が違う。

まあ、こんなため口で営業トークするんじゃ、この会社の信用格付けは「疑問符3つ(???)」。名前はいかにもデキそうなかっこいい響きだけど、なにせ、取引実績のない翻訳者をかき集めるくらいだから、お手軽アルバイトに払うようなレートを提示して来そうだし、それさえ払ってもらえる保証もない。こっちはさあ、オトモダチに「アタクシ、翻訳やってんのぉ~」と言うために翻訳やってんじゃなくてさあ、ナリワイとしてまじめに誠心誠意で仕事してるんだよねえ。だから、アンタもさっ、ちょっとビジネス英語を勉強して、出直してくれる?もっとも、もう「削除」ボタンを押しちゃったんだけどさあ・・・。

バカていねい語もいいけれど

2月24日。日曜日。けっこういつもより早く寝たのに、なんで起床が正午過ぎなのか。季節の変わり目だからなのか。よくわからないけど、ここのところなんとな~くかったるい気分。天気は一転してまた雨模様・・・。

朝食後、読みかけのビル・ブライソンの本を一章だけ読んで「出勤」。午後4時の期限に向けて、最後の見直しにかかる。(あと2週間で「夏時間」。朝一番が午後5時になるのが待ち遠しい。)企業のウェブサイトに載る客向けの情報だから、原稿はこってこての「敬語」。そこまでへいこらする文章を書かなくても良さそうなもんだと思うけど、そこは「お客サマは神サマ」の国。それに、巷でも新種のていねい語を多用して、(相対的に)「人より格が上」の自分を演出しているようなところもあるから、企業の文書にもそれが現れて来るということか。

翻訳は言語Aを言語Bに正しい用語を使って置き換えるだけの作業ではなくて、分野ごとにそれぞれの文体があるから、何でも屋のワタシは弁護士になったり、裁判官になったり、学者さんになったり、企業の課長サンになったり、心療内科医になったり、お役人になったり、ちょっぴり気取った広告クリエイターになったりと、いろんな役を演じることになる。文書を通じて人さまの思考の中に潜り込むようなところもあるんだけど、この何かヘンなねちっこさを感じさせる今どき風ていねい語的な言い回しのビジネス文書に出くわすと、ため息のつきまくり・・・。

件の原稿はたぶん若い人が書いたんだろうけど、バカていねいなのはいいとしても、謙譲語の使い方を間違えて、神サマの方を格下げしてしまった文まであった。そのままで会社の公式サイトに載っていたら、知らないよ、キミ。まあ、神サマの方でもよくわかっていなくて上からものを言われたことに気づかないかもしれない。俗に「あまりにも遅れたもので、先頭に立ったかと思った」というジョークがあるけど、ていねい風表現も行き過ぎると、そのうちていねいでも何でもない、ごく普通の表現になって、そうなったら「格が上の自分」を演出できないから、さらにていねい感を高めなければということになるのかな。たぶん女性雑誌が競ってその上昇願望を後押しするんだろうけど、バカていねい化は現実がそうでないことを反映しているように見える。

きのうのため口の営業トーク(英語)はあまりの馴れ馴れしさに「うへっ」という感じだったけど、文字だけのチャットやメール、ツイッターに慣れ親しんだデジタル時代の落とし子たちは多かれ少なかれ言語の質が低下していて、思考もデジタル化して薄っぺらになりつつあるんだろうと思う。このウルトラていねい語的日本語がその目的?に反して薄っぺらく聞こえるのも、あんがい同じ潮流に乗っているからかもしれないな。まあ、ワタシの日本語も年々レベルが低下しつつあるから人さまのことを言えた義理じゃないのはわかっているけど、いったいどんな国語教育をしているんだろうな。

このままだと未来の翻訳者を泣かせそうな感じだけど、あ、未来はキカイが翻訳してくれるんだっけ・・・。

月曜の朝は何かと騒々しい

2月25日。月曜日。朝の9時に外の轟音で目が覚めた。寝ぼけた頭で、どこのどいつだ~と起きて窓の外を見たら、道路向かいの歩道の桜の木を剪定している。チェーンソーで枝を伐るだけならまだしも、その枝を粉砕するシュレッダと吐き出される残骸を受けるコンテナ車が来ていて、これがまた強烈な騒音。

カレシは「アホか、今ごろ」と大むくれだけど、そうだよねえ。そろそろつぼみが見えて来る時期なのに、遅いんじゃないのかなあ。でもまあ、15分ほどで他へ行ってくれたので、カレシは耳栓をして、ワタシはただ目を瞑って、寝なおし。

と思いきや、今度はごみ収集のトラックがゴゴォッと通過。やれやれと思いつつ、うとうと眠ったところで、レーンの反対側(我が家の側かな?)のごみの収集のために戻ってきて、ゴゴオッ、ゴトン、ゴォッと通過。今日は出すほどのごみがなくて容器を出していなかったから、我が家のところはただ通過しただけ。それでも、なにしろ超大型車両なものですごい轟音。カレシはシリコーンの耳栓のおかげですやすや・・・。

やっと静かになってどうやらまともな眠りに落ちたらしいけど、すっごくヘンてこな夢を見ていたなあ。パーティみたいなところで、いろんな人がいて、ちょっと知っている男2人が「ボクたち、ゲイなんだ」。あ、それはそれは(んなこと、知ってるってば・・・)。

正午を過ぎると言う時間に今度はリサイクル車がドシャン、ガシャン、ゴゴォッと通過。ああ、寝てられないよ、もう。まあ、正午だしということで、おなかすいた~と、カレシをひじでちょいちょいとつついて起こしたら、「あ、リサイクルがまだだったら雑誌を出そうかな」。寝るときはかなりの雨が降っていたので、雨の中にひと晩出しておいたらべちゃべちゃになるだけだからとブルーボックスも出さなかった。残念でした、ごみ関係はもうとっくにみんな通過済み・・・。

あ~あ、今日は2人とも何だかぼけ~っとした気分。

おうち業務は家事のうちに入る?

2月26日。火曜日。今度はまともにぐっすり眠って、普通に起床。でも、運動がてら出かけようと思っていたのに、雨。何だか機先をそがれた感じで、や~めた。でも、伸び放題の髪をそろそろ切らないと・・・。

今日は「おうち業務」に専念。カレシがメインフロアのバスルームのハンドタオルがかなり汚れて臭かったというので、それではと洗濯機を回しにかかる。ついでに、タオルはシンクの下のキャビネットに何枚もあるんだから、「汚れて来た」段階でさっさと自分で取り替えてよ~と言っておいたけど、明日にはたぶん忘れているだろうな。電球が切れていたら、仕事中のワタシに「電気のたまが切れてるぞ~」と報告しに来てくれるカレシなんだもの。で、はいはいと新しい電球を出して来て、椅子を引っ張って行くと、ワタシが取り替えている間がっちりと椅子を押さえていてくれるのがカレシ。もっとも、電球の取り替え方はやっとマスターしてくれたけど・・・。

洗濯機が回っている間にメールをチェック。新しい仕事はなし。(手持ちのは明日でいいか。)劇団の座席の入れ替えに寄付した人たちの名札のお披露目レセプションに「出席」の返事。メインの劇場と小劇場で始まる2つの芝居のオープニングナイトのレセプションは「欠席」の返事。まあ、「芸術監督サークル」のメンバーとして招待されるんだけど、3月は交響楽団のコンサートもあることだし、芝居を見ないでレセプションだけに行くのも何だし・・・。でも、入れ替わりに今度は劇団創立50年目のシーズン開幕パーティへのご招待。ダウンタウンの創立当時の「芝居小屋」があったところでやるんだそうで、これは4月だから「出席」の返事。やれやれ、カルチャー生活のソーシャルカレンダーって、けっこう込み合うもんだなあ。完全引退したら逆に忙しくなるかも・・・。

さて、次は銀行事務。カナダドル安に振れた先週はアメリカドル口座に貯まった翻訳料を移動しておいて、日本の銀行に貯まっていた翻訳料も送金してもらったら、換算して入金する過程で円がひょいと上がって、カナダドルがすとんと下がったもので、ちょっと得をした気分。イタリアさまさまというところだけど、実際は円高のときに帳簿に計上しているから、急な円安で損をしている公算が大かな。まずは、あさってが期限の個人年金への払い込み手続き。前年の勤労所得の18%か限度額まで入れられて、所得控除できるので、老後の蓄えだけじゃなくて、節税対策でもある。限度額がかなり上がっていて、バカ稼ぎしすぎて付加税2つに付加税の付加税まで取られていた頃に上げてくれたら、今頃は基金がもっと増えていたのにと思うけど、ま、ものごとはタイミング・・・。

洗濯は2ラウンド目。メールで「切れますよ~」と知らせてくれていた「Maclean’s」の購読継続の手続き。トロント視点なのが気に障るけど、カナダの有力週刊誌だから続けることにする。逆に、縁のないブランド品の広告ばかりで読むところがないCondé Nastの「Traveler」は購読キャンセルの手続き。ときどき香水やコロンのサンプルを折り込んで来たりして、アレルギーが治まった今でも香水には弱いワタシには迷惑な雑誌だったな。「TIME」もページ数が減って来て読み応えがなくなったので、こっちは更新せずに放置して購読打ち切り。キャンセルした雑誌に代わって、前から興味があったThe New Yorkerの購読を申し込んだ。これで講読する雑誌はEconomist、Maclean’s、The New Yorkerの3誌だけになる。週刊誌はあまり多いと読み古しが貯まり過ぎてリサイクルがタイヘン・・・。

それにしても、おうち事務の「To-do list」(やることリスト)って、なんだかんだとやってるはずなのに、どうしてこう長くなるばかりなんだろうな。でもまあ、今日はかなり片付いた感じ・・・。

返してもらうためにあげるプレゼント

小町横町をうろついていて、『お祝いをくれなかった友人』という愚痴トピックがあった。家を建てて、子供が生まれて、数年に1度会うような大学時代の友人2人が訪ねて来たが、1人は2つお祝いをくれたのにもう1人は手ぶらで来た。「何でお祝いをくれないんだろう」と。自分は(正当な理屈があって)どちらにも出産祝いや新築祝いをあげていない。でも、1人はちゃんとくれた。くれなかった1人は家庭の事情があるけど困窮しているようには見えない。あげなかったことを根に持っているのか?

『誕生日プレゼントはお返ししませんか?』という、プレゼントをあげたのにお返しをもらえなかったというトピックで、「お返しを2回もらい損ねている」と。もらったらそれ相応にお返しをしなければと考えないのか。お返しもないものに払うお金ももったいない。なぜかこういう損得勘定的な愚痴トピックが増えたなあ、最近は。バレンタインの後のホワイトデーにはバレンタインの三倍返しが常識とか。みんな値段がついていて、相場まであるからすごい。お祝いをあげたのにお返しが少なかった。 1万円のものをあげたのに、2千円のものしか返って来なかった。8千円の損・・・。

そういうのが日本に昔からある奥ゆかしい「互助」の習慣なのだと言われたら、「ああ、そうですか」としか返せないけど、これも「型ありき」の文化なんだろうな。プレゼントというのは贈る方が相手への気持を表すものとして贈るものだろうに、日本ではうかうかお祝いなんかもらったら、「うれしい。ありがとう」では済まなくて、後がタイヘン。何しろ「お返し」を選ばなければならないし、粗相のないように、非常識と言われないようにお返しをするには、まずもらったものを値踏みをしなければならない。(ネットで値段を調べたと言う人もいたな。)うっかりお返しの値段が低すぎたら、「お返しが少なかった。非常識」と小町に投稿されてしまうかもしれない。

だったら、初めから値札をつけたままくれたらこっちも楽なのにと思うけど、表をきれいに包み紙で覆う文化はそんなガサツで野蛮な行為を許すとは考えられない。まあ、返してもらう気満々で贈りものをするという思考からして矛盾していると思うんだけど、それを損得勘定とする観念はないらしい。それでも、「お返しをもらえないのにお金は使いたくない」とモヤモヤする人がけっこういるのは、日本的ダイコトミーで「贈」と「答」がワンセットになっているせいなのかな。贈に対して答がなければ儀式は完結しない。贈と答を釣り合わせるには数字が一番わかりやすい。而して、お金・・・。

極楽とんぼのワタシはKYでずぼらなもので、人の誕生日はよく忘れるし、ふと思い立ったときに思いついた人に「これ、いいな」と思ったプレゼントをあげて、喜んでくれたらそれで満足して終わりだし、人生のイベントでプレゼントがなくてもちっとも気にならないし、人からプレゼントをもらったら、素直にありがとうと言って受け取って手放しでうれしいと喜ぶな。それで、もらったことは忘れないけど、お返しをすることまではまず思いつかない。だから、半額がいいか同額がいいかなんて値踏みして苦悶することもないけど、これが日本だったらそうも言ってられなくて、しがらみで「贈答」をしなければならないだろうから、ストレスがたまって胃潰瘍になってしまいそう。現に、小町の風の便りでは、日本でお返し習慣を実行(あるいは期待)している人たちのストレスも相当のものらしい。

でも、考えてみると、「贈」と「答」をワンセットにして普及させるというアイデアは、市場経済の観点から見たら理に適っているようにも思うな。まずは華やかなイベントを盛り上げて、プレゼント用の商品を売る。これは値段が高ければ高いほどもらった人の自己評価を高める(ように洗脳してある)ので、ブランド品へと誘導し、イベントが終わったら返す刀の勢いで、倍返し、三倍返しが常識(つまり相場)だという情報を広めて、お返し用の商品を売る。元の「贈」が高価なほど「答」も高価な商品へと誘導する。釣り合いの取れたものほど美しいものはない。価額の釣り合いはお金の美学というところかな。そっか、そうやって国内需要の拡大に貢献しているということなのかもしれない。もしも贈答儀式を廃止したら、国の経済はどうなるのか・・・?

新聞の読み比べはおもしろい

2月27日。水曜日。午前11時50分に目覚まし。掃除の日。雨は降っていないようだけど、湿っぽい。朝食後、いつもより少し遅れてシーラとヴァルが到着。シーラがかって掃除のお客さんで今は一人暮らしの未亡人が病院へ透析に行く付き添いをしているので遅くなるらしいけど、ヴァルは「ほんっとにムカつくババアなんだから」と憤懣やるかたない様子。ふむふむ、そういう人間はほんっとに世界のどこにでもいるよね。

オフィスの掃除が終わっても、何となくすぐに仕事を始める気にもなれず、だらだらと新聞サイトめぐり。やや日が経っているけど、日本のサイバー空間を徘徊しているネット右翼に関するワシントンポスト紙お長い記事を見つけた。なんでも、沖縄の学校で英語を教えていた日系アメリカ人の先生が「日本にも差別がある」という授業をして、その成果を踏まえて作ったビデオをユーチューブに載せたらネット右翼の知るところとなって、日本を批判するやつは許せないとばかりの嫌がらせの嵐に困惑しているという話。最初に子供たちに「日本に差別があると思う人」と問いかけたら誰も手をあげなかったのが、アメリカでの差別問題を描いたビデオを見せ、差別の実例を「これは差別?差別じゃない?」と問いかけているうちに、漠然と「差別はアメリカ固有のもの」と考えていた子供たちの目が開かれて来たのだという。

最初は授業を賞賛した教育委員会までがネット右翼の圧力に屈して「削除しろ」と言っているそうだけど、ほめておきながら、トラブルの気配を嗅ぎ付けたとたんに手のひらを返したように、騒ぎが「ムラの外」に知られるのを恐れてのひたすらな事なかれ主義に鞍替えするのは、辛酸をなめさせられた沖縄も日本化が進んだということかな。事なかれ主義ってのはごみを畳の下に掃き込むようなもので、大掃除でもしなければごみはいつまでもそこにある。でも、畳の上に座っている人にはごみは見えないから、掃除の必要性も考えなくて済むけど。ワシントンポストによると、当の先生は削除したら理不尽な威嚇に屈することになると、削除を拒否しているとか。

ニューヨークタイムズ紙には、妊娠したけれど、公立の保育所が足りなくて預け先探しに苦戦している働く奥さんたのち現状を少子化に絡めて伝える、これまた長い記事があった。日本の文化は家に知らない人を招き入れないので、ベビーシッターを雇うということもほとんどない。お役所に行けば「子供を人に預けてまで自分の仕事を優先させるのか」と批判されたり、公立、私立を問わず空きのありそうな区に引っ越したり、保育所が4月「始業」なために法律が認めている産休を短縮しなければならなかったり、そのために「子供がかわいそう」とまるで母親失格のように言われたりと、働き続けたい女性たちの涙ぐましい「保活」の実情を細かに伝えている。

北米の新聞記事は日本の大手新聞のそれとは比べものにならないほど長くて、背景情報やさまざまな視点が提示されているので、特に有力な新聞の記事となるとごく読み応えがある。日本語にしたら原稿用紙10枚くらいの記事はざらで、途中で「XXページへ続く」というのが多い。日本の新聞ではそういうのはなかったような気がするな。一面にできるだけ多くの主要記事を載せるためらしく、記事の要旨を先に述べて、情報や論拠を裏づけしながら詳しく書いて行くスタイルが多いように思う。

さらに、新聞によって保守派だったり、革新派だったりするから、記事を読み比べるという醍醐味もある。日本の新聞は「報道の中立」にこだわって短く浅く起こったことだけを書くのかもしれないけど、実際には米ソ冷戦時代にNHKのニュース解説で「ニクソンさん」、「共産側」と表現を使い分けていたのと同じで、何をどこまで書くか(会員制の場合は何を無料公開するか)によって新聞ごとに右寄り、左寄りのカラーが手に取るようにわかってしまうからおもしろい。人間、いくら中立であろうとしても「心」というものがあるから、完全な中立は不可能だと思うけどな。その心が差別を生み、憎悪を生み、共感も生むわけで・・・。

カナダ連邦最高裁判所は、ある人が配布していたゲイを攻撃するプロパガンダを「hate speech(悪質な差別発言)」と認めて、カナダ権利・自由憲章で保障されている表現の自由に事実上の制限を加える判断を示した。(ネット右翼が聞いたら「オレたちも」ということになるのかな。)人間世界の多様化につれて人類の権利と自由も「あちらを立てればこちらが立たず」の膠着状態になりつつあるようで、はて、どうしたもんだろうねえ。

先日産経の経済面で見つけたコラムの一節はおもしろかったので、長くなったついでに引用してしまおう。
『独り善がりの希望的観測が蔓延(まんえん)するのは近代日本のDNAでもある。司馬遼太郎は西南戦争を描いた『翔ぶが如く』で述べた。「西郷と薩軍の作戦案は、いかなる時代のどのような国の戦史にも例がないほど、外界を自分たちに都合よく解釈する点で幼児のように無邪気で幻想的で、とうてい一人前のおとなの集まりのようではなかった」と。』

同じものが同じに見えていないのかも

2月28日。木曜日。午前11時30分に目覚まし。今日はカレシの英語教室ダブルヘッダーの日。

いつものように朝食のテーブルに着いて、積み上げた容器から、ボウルにグラノーラ、ひまわりの種、かぼちゃの種、小麦胚芽と入れて行って、燕麦のふすま・・・あら。

これも小麦胚芽だよ~。
「ほんとかよ~。似てるから間違えたじゃないか」。

たしかに似ていなくはないけど、色合いが違うし、間違えるほどは似ていないと思うけどなあ。でも、カレシがよく取り違えるので、容器の蓋にマジックでWG(小麦胚芽)、OB(燕麦ふすま)と書いてあるんだけど、黒々と。

蓋を見なかったの?
「蓋を取って横に置いたら、見えないよ」。
それもそうか。でも、袋は見なかったの?
「袋だってどっちもそっくりで区別がつかないんだよ」。

ええ?そんなにそっくりってほどには似てないと思うけど、冷蔵庫のバスケットから袋を出したときに何て書いてあるか見てないんだなあ。

結婚以来ずっと似たようなやりとりをして来たような気がする。いつも不思議に思うんだけど、カレシの目には存在するモノがワタシに見えるのと同じ色や形や位置に見えているんだろうか。探しものをすると戸棚や冷蔵庫の奥まで見ないし、棚にものを置くときは手前ぎりぎりに並べて置いて、後ろはがら空きなのに他のものを置く場所がないと言うし、鍋や保存容器に大きさの違う蓋をしようとするし、緑と青の区別がつかなかったりするし・・・。

もしかして、同じ物体を見ていても脳内に結ばれる「物体」のイメージがワタシとカレシでは異なるということはあり得るのかなあ。味覚や嗅覚、触覚、聴覚は人によって感じ方が違うのはわかるけど、視覚もそうなのかな。単に空間認識能力にちょっとばかり難ありってことなのかもしれないけど、やっぱりちょっと不思議だなあ、この人・・・。

あのさぁ(と、2人分が入るミルク入れを突き出す)、アナタが自分のボウルにどばっと入れたもので、ワタシのミルクが足りなくなっちゃったんだけど・・・。


2013年2月~その2

2013年02月21日 | 昔語り(2006~2013)
今日は靴を履いて歩行テスト

2月12日。火曜日。やっぱり正午過ぎに起床。ゆうべは寝酒もあまり飲まず、肴も少しだけにしたんだけどな。まあ、目覚ましなしで寝るときの睡眠時間はお酒の量とはあまり関係がなさそうではあるけど、ちょっとおなかの具合が良くなかったので自重。もっとも、自重するなら飲まないのがいいんだろうけど、お酒の棚のあるところへグラスを持って行って、1杯だけ注いでおかわりりなしというのがワタシ流の「自重」・・・。

きのうは夕食の後で突発的におなかの具合が乱調。真夜中のランチの頃までにはどうにか落ち着いたものの、かなり調子が悪かった。サルサに入っていた劇辛とうがらし(セラーノというメキシコの濃い緑色の唐辛子)のせいじゃないかと思うな。辛いのが苦手というのではなくて、何気なく食べたもので青天の霹靂みたいな乱調を来たす「不耐性」とかいう、あれ。今までにあったのはビーツのジュースとアヴォカドで、アヴォカドは普通に食べていて問題がなかなったので不意打ちもいいところ。ビーツは火を通せば問題ないし、アヴォカドも茶さじ1杯くらいの量なら大丈夫とわかったけど、今度は青唐辛子か。それでも、おいしいもの大好きのワタシには食物アレルギーだけはない(らしい)からラッキーだよね。

今日はどうやら普通に戻ったので、トートバッグを担いでモールへ出かけた。クロッグで大丈夫だったので、普通に靴を履いて歩いても大丈夫かどうかを運動をかねて試してみようというわけ。ワタシの靴はカレシとおそろいのNew Balanceのウォーキングシューズ。一見してごっつい「どた靴」風だけど、ベルクロ式なので、空港で脱がされるときに便利で、気に入っている。靴を履いても痛くない。歩き始めても痛くない。いいね!ボタンがあったら押したいところだな。まずはお掃除料を払うためのキャッシュを出しに銀行へ。入り口で女性がフォーチュンクッキーを配っていた。中国正月だからかな。バレンタインが近いから、チョコレートの方がうれしいんだけどなあ。ま、クッキーをトートバッグにぽんと入れて、次は郵便局で私書箱から溢れた郵便物を引き取って、ベイの地下売り場へ降りて行って、空になった炭酸カートリッジを新しいのと交換して、エスカレータで上がって来たら、あら、クリニークではボーナスタイム。

化粧品をいくつか買って、ついでに防犯装置のリモートの電池を買いにエレクトロニクスの店に立ち寄ったら、レジでさんざん待たされた挙句に「今追加で7ドル払っておくと切れたときに無料で交換」といういつものspiel(セールストーク)。わかってるの。この電池が切れる頃には無料交換のことなどすっかり忘れていると思ってるんでしょ。で、別の店で普通に買ってくれればおたくは丸々7ドルのもうけ。今どきは交換に来たら店がなくなっていたなんてこともあるし、その手は食わなの何とか。今はどうか知らないけど、昔はよくあったな、保証延長保険ってのが。カレシのVCRがよく壊れるので、地元で名の通った店で新品を買ったときに、価格の3割近い30ドルだかで保証を延長したことがあったけど、1年の保証期間中に修理1回、延長期間中に(修理不能で)新品との取替え2回。日本の有名ブランドだけど、製造は中国だった。日本製を売っていた頃はそんな簡単には壊れないし、値段も高かったから、保証延長保険は売る方の丸もうけだっただろうけど、その店、倒産して、今はないなあ。

トートバッグが重くなったので、「カレシ」タクシーを呼んで酒屋で落ち合うことに。ラッシュが始まる時間だけど、マティニを飲もうにも肝心のジンを切らしていたので、カレシもふたつ返事でお迎えサービス。ワタシもそろっとレミを補給して、今日のお出かけはおしまい。約1時間半歩いても足は大丈夫だったし、靴を脱いでもうずうず痛まなかったので、「歩行実験」も成功というところ。帰って来て、トートバッグの中身を出したら、あらまあ、銀行でもらったフォーチュンクッキーは袋の中でこっぱ微塵。せっかくの幸運を(あったとしたらの話だけど)逃したかな・・・?

赤ちゃんの目

2月13日。書箱を借りている郵便局はリテール郵便局なので、パスポートや証明書などの写真も撮ってくれる。

今日の「モデル」は赤ちゃん。白い背景幕の真ん中になるように、若いお母さんに高々と抱き上げられて、赤ちゃんはご機嫌そのもの。4ヵ月くらいかな。思わず頬ずりしたくなるようなかわいい笑い顔。

きょろきょろと周りを見渡しているその目の何と生き生きと輝いていること。あの年頃は見るもの、聞くもの、あらゆるものが好奇心の的で、何もかも「あれは何だろう?」

あれは何だろう。あっちのは何かな。動くのかな。音がするのかな。さわってみたいな。きらきらした赤ちゃんの目がそう言っている。先入観も、偏見も一切ない純粋無垢で、無限の好奇心。

その赤ちゃんが大きくなって学校へ行き、やがて社会人になり、年を重ねて行くにつれて、あの好奇心の輝きが目から消えていくのはどうしてなんだろう。誰でも無限の可能性を持って生まれて来たはずなのに。その可能性を探求する駆動力が好奇心なのに。

「名前は何と言うんですか?」
「ハドソンです」
「は~い、ハドソンく~ん、こっちを見て~」

ぱちり!

あの笑顔そのものがハドソン君の未来でありますように。

ウマいものもほどほどに食べるのがいちばんおいしい

2月13日。水曜日。午前11時50分に目覚まし。シーラとヴァルが来るので、さっさと起きて朝食。ゆっくりとコーヒーを楽しみながら、ローカルのテレビ番組雑誌に連載のヒスター先生の医療コラムを読む。今週のトピックはコーヒー。健康記事で悪玉にされたり、善玉として賞賛されたりと評価がくるくる変わるけど、いつも飲む人は飲まない人に比べて口腔がんのリスクが低いという話。でも、だからといってがぶがぶ飲めばいいってもんじゃないだろうと思うけどな。何であれ「ほどほどに」がやっぱり一番だと思う。

ラスベガスの「Heart Attack Grill」(文字通り「心臓まひグリル」)というレストランの非公式の「顔」だった客が心臓まひで死んだというニュースがあって、その店の「トリプルバイパスバーガー」は6000カロリー。うぇ~、聞いただけで千カロリーくらいの胸焼けがしそう。去年も食べていた客が心臓発作を起こして危うく死にかけたとか。店のキャッチが「Taste worth dying for(死んでもいいくらいウマい)」だそうで、けっこう繁盛しているらしい。見ただけで気が遠くなりそうな3段構えのハンバーガーを、ほんとに死んでもいいくらいウマいから食べるのか、それともbragging rights(「ドヤ顔権」とでも訳しておくか)が欲しくて食べるのか。どっちにしても、そういう怖いもの見たさはほどほどにしておかなきゃ。死んで花実が咲くものかというじゃないの。

ハンバーガーそのものは特に不健康というわけでもないけど、特大サイズのフライ、特大サイズのこってりミルクシェイクや特大コーラを合わせるとタイヘンなカロリーになる。ニューヨークではブルームバーグ市長のお達しとかでファストフードレストランやチェーンレストランのメニューにカロリーが書いてあったけど、そういうところで人気のメニューはどれも高カロリーで、食べたいけど、う~ん、カロリーが高いからやめとこうかなあ。でも食べたい・・・と悶々。ケベック州発祥の「プーティーン」。フライドポテトに固める前のチーズをどっさり載せて、グレヴィーをどろ~っとかけたもので、カナダの代表的料理だと書いてあったりするけど、西部ではあまり見かけなかったのが、近頃急にファストフードチェーンの人気アイテムになっていて、どこにでもある。このプーティーンもすごくおいしそうで食指が動くんだけど、小サイズでも700カロリーはあるそうだから、う~ん、ど~しよう・・・。

日本でも「高カロリー」が売り物の肝だめしみたいなアイテムがあるらしい。700何カロリーというコンビニのデザートの記事があったし、在日英語人のサイトに東京で「2千カロリーのカレー」を(ランチタイムに)発売したカレー屋があって若い人で賑わっていると言う動画が載っていたことがある。好奇心で見たら、巨大なお皿半分にご飯がどで~ん、もう半分にカレーがどろ~ん。(あまり実が入っているようには見えなかったな。)食べている人はかなり一生懸命の顔だった。日本のカレーは大好きなんだけど、なにしろルーがものすごい高カロリーで超高塩分なのがつらいところ。つい「ふぐは食べたし、命は惜しし」の心境になってしまう。(たま~に誘惑に負けて食べるけど・・・。)

健康食扱いの日本食だけど、まぐろの大トロや脂をちりばめた和牛は(豚の脂身ではそれほど感じないのに)ワタシの舌には「脂」を食べているように感じる。カロリーもかなり高そうに見えるけど、日本でそういう脂身が受けるのは、あんがい野菜や魚介類を常食して来た日本人の生理的な欲求なのかもしれないな。だって菜食と動物食ではエネルギーの質がまったく違うもの。でも、何を食べるにしても、ほどほどにしておくのがやっぱり一番の美食的楽しみ方ということになるのかな。

バレンタイン昨日今日

2月14日。木曜日。小雨模様。バレンタインデイ。昼間のテレビニュースはさしずめ「バレンタイン特集」。

オンラインデーティング(出会い系)やマッチメーキング(婚活系)が花盛りのデジタル時代だけど、何かのアンケートによると、オンラインやバーなどで未来のバレンタインに出会ったのはそれぞれ数パーセント。

オンラインサイトを通じてのお相手探しはカタログショッピング化しているという話。つまり、スペックありきということか。ちょっとした欠陥があったらさっさと返品して別の商品を探す・・・と。もちろん、掘り出し物もあるだろうけど。

職場での出会いは14%だったか、15%だったか。ワタシが勤めていた会計事務所には将来有望な若い見習いクンたちがたっくさんいたけど、ほとんどは大学で出会った奥さんか恋人がいた。それもなぜかほとんどが看護師や教師。伝統的に特定の学部の間で男女交流があったらしい。事務職の女性と結婚したケースはなかった。(独身の子が少なかったこともあるけど。)女性の会計士の卵たちは聡明な美人ぞろい。中国系で南米生まれのロッタは香港系の億万長者のイケメン息子に熱烈求愛されて、彼女のオフィスはいつも大きな花束の山で足の踏み場もないくらいだったな。

でも、一番多いのはやっぱり家族や友達のつながりでの出会いで、30%近い。昔ながらの健康的なパートナー選びもまだまだ廃れてはいないと言うこと。

カレシとワタシの出会いは切手蒐集がご縁。1969年3月だったから、もう44年。切手集めはとっくに忘れてしまったけど、まあ何とかまだ一緒。いい老夫婦になろうね。

ハッピーバレンタイン!

バレンタインはお弁当

だけど、カレシは英語教室ダブルヘッダーの日。普通に朝食をして、普通に送り出して、今日が期限の仕事を済ませて、キッチンへ。恋人たちのディナーラッシュが過ぎたら久々に食事に行こうと決めていたので、カレシはワタシの企みには気づいていない・・・。

今日のメニュー:
 バレンタイン弁当
 白米ご飯、豚肉のしょうが焼き、鶏ももの中華風から揚げ、
 ほうれん草のゴマ炒め入り卵焼き、魚シューマイ、蒸しインゲン)
 豆腐とわかめの味噌汁

[写真] 昔カレシが勤め人だった頃の弁当箱。お弁当はカレシだけだったので同じものが2つない。それでも幸いに2つ残っていた。どちらも日本へ行ったときに東急ハンズで買ったもの。ちょっとなつかしい・・・。

[写真] カレシの弁当箱は二段式。なぜか蓋の上に「A foreign-style pear」と書いてある。

[写真] ワタシのは一番良く使った透明なポリカーボネートの箱。

午後の教室を終えて帰って来たカレシが昼寝をしている間に、38歳になるサンヨー電気釜でご飯を炊いて、鶏を挙げて、豚肉とたまねぎと針しょうがを炒めて醤油で味付け。ほうれん草をごま油で炒めて黒ゴマを混ぜ、卵1個でだし巻き風の卵焼き。フレンチインゲンは半分の長さに切ってさっと蒸して、魚シューマイは冷凍食品を電子レンジでチン。味噌汁を作って、2つのお弁当箱にうまく詰めて、ご飯には白ゴマをぱらぱら。かっこよく割り箸も添えて、ごは~ん!

テーブルに着いたカレシの前にうやうやしくお盆を置いたら、「おっ、ベントーだ。エキベンだ~」と一気に目が覚めた様子。覚えてる、この2つのお弁当箱?「え、これ、ボクのベントーボックス?」そう、アナタが毎日持っていた弁当箱。どんなに夜なべをしても毎日早起きして作った愛妻弁当だったのに、感謝も忘れてよそ見なんかしちゃって、もうっ。(でも、毎日おいしかったと電話してくれたよね。)あのですね、この先、この「おうち鉄道」は終着駅まで途中下車なしですから、お忘れなく・・・。

じゃあ、夜の部に、行ってらっしゃ~い!

考えれば考えるほど・・・

2月15日。金曜日。正午過ぎに起床。空がまぶしいくらい明るい。ポーチの温度計は10度。春うらら・・・。よく眠ったはずなのに、なんとなく寝たりない気分で、やたらと大きなあくびが出る。あ、春眠は暁を覚えずというんだっけ。年齢を重ねるに従って、体がこの季節の変わり目というのに敏感になるらしい。春眠は暁どころか午後の日差しも覚えず。

でも、お客さんにどっさりとバレンタインデイのプレゼント(仕事)をもらってしまったもので、うらうらとした気分に浸っているわけにはいかない。たまたま日本は金曜日で、納期はどれも「月曜日の朝」の置きみやげ仕事。人使いが荒いなあ、日本。でも、予算消化の季節で、「じゃ、これもついでにやっておくか」という翻訳注文が集中する地獄の3月が目前に迫っているから、そろそろ地獄の釜の蓋が開き始めているのかもしれない。仕事は文系でビジネス系でパスワード付の「ひそひそ文書」。こういうのはわりとのぞき見願望を満足させてくれるから、「ガン見」(すごい表現!)しながらやると仕事が速い。でも、まず資料探しとググッているうちによそ見。仕事とは関係のないことをつらつらと考えて、早くも脱線・・・。

Dichotomyは「ダイコトミー」か「ディコトミー」か。カタカナで「どう書くか」だけでもすでに二通りあるのに、この単語の日本語版、英和辞書で調べてみると、文系、理系をとりまぜていったいどれだけあるのやら。まあ、理系はそれぞれの分野でのdichotomousな現象を(たぶん元から)日本語で表したものが多いから、日本語に訳すときはその分野での「正しい」用語を見つければいい。英語に訳すときは、分野が何であれ用語辞典を見れば「dichotomy」・・・。でも、文系はそう簡単には行かない。

論理学用語では「二分法」。「二項対立」という訳語もある。つまり、物事を2つの対立的な概念に分ける論法・・・だそうな。日本語にはそういうdichotomousな漢字2つの単語が多い。思いつくままを挙げてみると:

明暗、強弱、善悪、可否、愛憎、賛否、生死、優劣、貧富、真偽、上下、高低、有無、自他、正邪、軽重、動静、安危、尊卑・・・など等々。

日本語的には「単語」なんだろうけど、英語だとひとつの単語(a word)では表せないから、訳を英語文にうまく収めるのはけっこう難しい。翻訳者泣かせでもある。英語やフランス語ではひとつの単語に訳せないということは、文字の間に何かがあるってことじゃないのか。意味の相反する2つの文字の間にあるのは、本当に「対立」なのか。それとも、文字の間には中黒(・)が隠されているのか。隠されているとしたら、それは「and」なのか、それとも「or」なのか。あるいは、文字の間に空間的な広がりがあるのか。たとえば、「明――――――暗」という感じのスペクトラムのようなものがあるのか。それとも、何もないのか・・・。

ひとつだけワタシにわかることは、dichotomyというのは「物事を2つの対立的な概念に分ける」ことであるけど、その根底には「一方が存在して初めて他方も存在し得る」という概念があること。「明るさ」があるから「暗さ」がわかる。この世に「明るさ」がなければ「暗い」と感じることもないわけで、「明暗」という対照的な事象は存在し得ない。じゃあ、明暗のない宇宙があるとしたら、どんな感じかな。「――――――」的なもやもやした存在なのかな。(聖書はそんなようなことを言ってるな。)それが人間に当てはめてみると、「他人」がいるからこそ「自分」も存在し得るということになるけど、もやもやするのは「自他」の概念が確立していないからなのか、あるいは「自」と「他」の間の「――――――」を把握できないからなのか。

考えるほどに深みにはまってしまって、仕事の方はどうなるの?

くしゃみとしゃっくりとげっぷ

2月16日。ねじり鉢巻で1日中がんばったかいがあって、仕事、ファイル4件をまとめて完了。これであしたの日曜日は休み。しばしの間、ワタシ北向き、カレシ南向き(つまり背中合わせ)で、ゲームをしたり、ネットサーフィンをしたり・・・。

AHHHH-CHOOOO!!!

カレシの盛大なくしゃみ。くしゃみの大きさは生まれつき決まっているという説がある。ワタシも女としてはかなり大きいけど、カレシのはもっと大きい。

意識、ちゃんとしている、アナタ?
「何とか・・・」(Ahhh-Chooo!)

きゃっきゃと笑ったら、今度はワタシがヒック。(しゃっくりが出やすいたち・・・。)
「あ、しゃっくりだ。止めてやる」
やめてよ~。(ヒック)
「一発で止まるから、やらせて」
いやだ~。ノーサンキュー(ヒック)!
「いや、止めてやる」(Hic)
あっ、しゃっくり!止めてあげようか?
「げっぷだってば。げっぷ!」
しゃっくりに聞こえたよ~。
「Burrrrrp!ほら!」

カレシのげっぷはまるでオンデマンド(おならもかなあ・・・)。ワタシなんかケポッと小さなげっぷをするにもひとしきり苦悶するのに。そういえば、カレシのしゃっくりって、聞いたことがないなあ。

「Ahhh-Chooo!ふは~」
Bless you!(くしゃみをしたはずみに魂が抜けてしまうといけないから、「神のご加護があらんことを」。)ね、魂、ちゃんとある?
「何とか・・・」

ワタシのしゃっくり、いつのまにか止まったみたい。カレシのくしゃみも止まったみたい。めでたし、めでたし。まあ、家の中では二人っきりだから、いい年をして、いつまでもこうやっておちゃらけていられるんだよね。そろそろ寝酒の時間だよ。

わたしの耳は何の耳?

2月17日。日曜日。起床午前11時40分。外はくらくらしすなくらいにまぶしい。下り坂の予報なんてもったいないな。バスルームで身支度をしていたら、キッチンから朝食の用意をしていたカレシの「何てこった~」というあわてた声。何をやらかしたんかいなと思って、急いで下りてみたら、コーヒーメーカーの周りをペーパータオルでせっせと拭いている。カウンターの上はちょっとしたコーヒーの洪水。「他のことに忙しくて、ポットをセットしないでスイッチを入れてしまった」。ははあ、何かに気をとられちゃったのね・・・。

あっちもこっちも溢れたお湯と一緒にフィルターから流れ出したコーヒーの粉だらけ。「挽きたてだったのに」とカレシ。それでも、とりあえず後始末を完了して、コーヒーをセットし直して、朝食。コーヒーの粉が乾いたところで、テーブルのパンのくずやら何やら、キッチン中のカウンターのごみを盛大に床に払い落として、ルンバ君にご登場願った。いす(2脚)をリビングに移して、2ヵ所にバーチャルウォールをセットして、ボタンをポンとやるだけで、ピッポッパーンと出動。こういうときにはほんとに頼りになるね、キミは。(どうして「ルンバちゃん」じゃなくて「ルンバ君」なのかなあ・・・。)

キッチンの床掃除が終わったところで、ささって着替えて、買出し用のトートバッグを持っておでかけ。カレシは郊外の園芸センターへ。ワタシは途中で降ろしてもらってHマートへ。大きなスーパーなんだけど、日曜日の午後とあってけっこう込んでいる。まずは野菜から。台湾キャベツ、貝割れ、大豆もやし、ごぼう、長ネギ、にら、大根、しめじ、金柑。そこから魚と肉の売り場に進んで、薄切りの牛肉と豚肉(1キロくらいのパック)、刺身用の大西洋サケ、冷凍のビンナガまぐろ、ほっけ、さば、アサリの剥き身、ポンパーノ。冷蔵品の棚に回って、寝酒の肴になる魚肉ソーセージ、しらたき、ミックス山菜、カレシの好きな白キムチ(2リットル入り!)。乾物の類はうどん、そうめん、八穀米、ジョンのミックス、パン粉、たらこスパゲッティ、味の素の「豆腐チゲの素」、めんつゆにごましゃぶソース。冷凍食品はおでんのパック、醤油ラーメン、からし明太子、なると、加ト吉のたこ焼き(50個入り)。ついでに「おかずコーナー」で茎わかめのごま油漬けと海草サラダ。カートが重くなったので、カレシに電話してからレジへ。しめて296ドル。レシートの長さ、ほぼ60センチ。お迎えのカレシは目をむくだろうけど、これで当分は食いっぱぐれる心配はないよね。

Hマートはアメリカ東部で創業して、アメリカ、カナダ各地で展開している韓国系スーパーで、韓国から輸入した食材と並んで名の通った日本の食材も豊富にある。(品揃え、値段ともに零細な日本食品店は太刀打ちできないけど、日本人移民が絶対的に少ないからしかたがないな。)今日はひとりなので、(ハングルは読めないから)漢字のラベルのものをじっくりと見て歩いたら、味の素、キッコーマン、ミツカン、明星、S&B、ハウス、グリコ、キューピー、永谷園、紀文・・・。米売り場にはいろいろな韓国米に混じって「ひとめぼれ」、「こしひかり」の文字。ただし、最近の出回って来たカリフォルニア米だけど、古くからの「錦米」や「田牧米」、「国宝ローズ」も健在。麺類も日本のうどん、そば、そうめんが何種類もある。味噌もあるし、醤油も酢もとんかつソースもあるし、キューピーマヨネーズだってある。

だから、カートを押して歩いていると日本語も聞こえて来る。店内放送もほとんどの人の会話も韓国語なので、日本語ならすぐにキャッチできると思うんだけど、なぜかワタシの耳はすぐには日本語だとわからないらしくて、韓国語だと思っていたら日本語だったり、日本語かな?と思ったら韓国語だったり。2つの言語を聞き分けられないのはもちろん意識して聞いていないせいもあるかもしれないけど、耳から入って来る日本語を瞬時に日本語と検知できなくなったのはもうずいぶん前からだったような気もする。それよりも、日本語が耳から入ってくる機会がほとんどなくなってしまった。声に出して話すこともあまりないなあ。もしかして1年に何回と片手で数えるくらいかもしれない。これじゃあ耳も声帯も錆び付くわけだ・・・。

アドレナリンは仕事の必需品

2月18日。月曜日。小雨のち曇りの模様。目が覚めたらもう午後12時40分!まずい。(今どき風には「やばい」というのかな。)今日は飛び込みの置きみやげ仕事があるんだった。

のんびりと真夜中のランチを済ませて、ひと遊びする気分でベースメントのオフィスに戻ったら、あら、赤い「緊急事態」マーク付きの仕事メール!

発信時刻は日本時間で月曜日午後5時。納品期限は火曜日の午前9時。そのとき、太平洋のこっち側では月曜日の午前1時。てことは、期限は同じ月曜日の午後4時。その6時間の間に寝て、起きて、朝ごはんを食べて、仕事をやっつけるということで、なんともまあ忙しない話だけど、そういうのをついつい「よっしゃ~」と引き受けてしまうのが極楽とんぼのワタシ。

フリーランスでやっていると、よくあるなあ、こういうの。ワタシのINBOXに「朝イチでお願いしま~す」なんて仕事を投げ込んでおいて、ご当人たちは飲み会なんてことはないだろうな。ま、翻訳会社のコーディネータさんの仕事がどんなに大変かよく知っているから、たぶん飲み会どころじゃないだろうな。

案の定、メールがあわただしく行き交って、期限を延ばしたり、「いや、やっぱりだめ」と早くなったりで、「それでは」となった頃には日本はもう夜の7時過ぎ。フリーランス稼業もタイヘンだけど、お客サマが神サマになって威張りまくっている日本では働くこと自体がタイヘンそう。サラリーマンが気楽な稼業だったのはそんなに昔の話なのか・・・。

コーヒーカップを片手にオフィスにかけつけて、コンピュータを立ち上げて、ファイルを開いて、パカパカパカと仕事。なんか日本の働きにくい世相が垣間見えるような、ちょっと気の滅入りそうな内容だけど、そんなところに思いを馳せている暇はないのだ。ひたすらパカパカパカパカとキーを叩いて、早くなった期限よりも早く仕上げて、それっと送って、おしまいっ。気分、爽快。(引退したら、こんなアドレナリンが噴出しまくりのエキサイティングな場面はなくなるのかなあ。)

ああ、おなか、すいた~。ご飯にしようっと。

ぶんぶと言うてうるさきはヘリコプターペアレント

2月19日。最近テレビのニュースや新聞の記事で、カナダでも子供への過干渉が度を越した親たちの存在が社会問題になっているという話を聞いた。大学を卒業した子供の就職面接について来たり、給料の交渉をする母親、父親がいて、人事担当者を驚かせているとか。学校での授業に注文をつけ、成績を細かくチェックし、はては勉強の手伝いをする親が増えているんだそうな。そして、ついには子供のキャリアの舵取りまで始めたということらしい。専門家はこれからそういう光景が「あたりまえ」になると警鐘を鳴らしているという話だった。

いつも子供の頭の上を旋回しているから名づけて「ヘリコプターペアレント」。そういう親の下で過保護で育つ子供は「バブルラップキッズ」と呼ばれる。バブルラップは壊れものなどを包むあのつぶつぶのシートのこと。このヘリコプターペアレントという言葉ができてもう20年以上になるから、最初の頃のバブルラップキッズは大学生か社会人になる年頃で、親はちょうど「X世代」の年代かな。X世代(Generation X)はほぼ20年続いたベビーブームの後に生まれ、人生のあちこちで元気なブーマー世代の後塵を拝して来たちょっぴり不運で、不安神経症的で、被害妄想的な、ある意味で失われた世代。自分の子供には、という感情はわからないでもない。

でも、ヘリコプターペアレントの下で育った子供たちは青年期になってうつ病を発症することが多いということだっ。無理もないよ。ごく小さいときからあれはダメ、それは危ない、これはこうしてと、鵜の目鷹の目の親の視点で危険を吟味されて、本人の意思に関係なく「安全な」人生のお膳立てをされていたら、おとなだって抑うつ状態になる。してやまるで親におもちゃのように私物化されて育って、自我に目覚める思春期にその基盤を見いだせなかった、自分の存在感まであやふやになってしまうかもしれない。そうなったらもう甘やかしの域を超えて、虐待に近いよに思う。(心理学の本にも書いてあったな。溺愛は虐待に等しい、と。)

それにしても、どこかで聞いた話だなあと思ったら、そうそう、子供のお勉強、お受験、習い事とお世話をしては些細なことで学校や役所にクレームをつけ、大学生になれば講義にも口出しをし、就職活動では会社説明会に同し、はては面接に付き添い、いそいそと入社式に現れて、子供に代わって「具合が悪いので休みます」と連絡を入れ母親たちの話をつい最近どこかの新聞の記事で読んだけど、あれはアメリカじゃなくて日本で起きている話。モンターペアレント、略して「モンペ」と呼ばれる日本の親たちのこと。親バカを通り過ぎて、今や少子化社会で子供を武器にして徘徊する怪物。思わず炎を吐きながら東京を踏みつけにしてのし歩くゴジラを連想してしまった。

いろんな記事を読み比べてみると、「ヘリコプターペアレント」は捜索救助ヘリで、「モンスターペアレント」は攻撃ヘリという印象かな。子供への「危険」を察知する、前者はさっと降下して子供を救出するのに対して、後者は「危険」に攻撃をかける。社会の仕組みや風潮も違うから、違いが大きいのは当然だと思うけど、どっちにしても、子供のためというよりは、「親として完璧な自分」としての自己肯定や自己顕示の道具にしているような感じ。だから子離れができない、というよりはあんがい子供を手放したくないのかもしれない。そうやって親に手作りのアクセサリーのように育てられた子供は、自分で見て考える「分析力」を培うことができず、社会に出てキャリアや結婚や人間関係で遭遇するちょっとした違いや問題に自力で対処できるだけのヒューマンスキルを身につけずに「成人」になるんだろうな。

子供は成長の過程で乗り越えるハードルとして同性の親を反旗を翻すことが多いようだけど、その点からすると、保護・過干渉の親が父親なら女の子が、母親なら男の子が「何もできない」おとなに育つという勘定になるのかな。長時間労働があたりまえの日本では父親不在の家庭が多そうで、つまり男の子は乗り越えるべき父親が身近にいない。一方、女の子には母親がいつもべったり。こういう状況で、もしも親がモンスターペアレントだったらどうなるのか。ワタシが思うに、父親が普通に家に帰って来ない家庭では、男の子はママにひたすら服従の優しい「マザコン」で、女の子はママそっくりの「モンスターワイフ」になるんじゃないのかな。

そういうモンペママにそっくりなモンスターワイフ、あるいはヘリコプターワイフが、小町横町にはたくさん棲息しているらしい。「育児ってタイヘンなんだから、家事や育児を平等に負担してね。お願いしたことはちゃんとあたしの基準に合わせてやってね。ああ、どうしてちゃんとできないの?だらしがない。マナーがなってない。気が利かない。ああっ、手を洗わないであたしの赤ちゃんに触らないでって言ったでしょっ」。(ボク、おうちに帰りたくない・・・。)夫婦は対等の関係だと言いながら相手を子供扱いにしているような過干渉ぶりは、妻子を養う気概に溢れた頼もしくて完璧な夫に育てようと言うことかな。でも、ヘリコプターペアレントが世界中に広まっているなら、やがてバブルラップキッズが家庭を持つようになると、今度は「ヘリコプターワイフ」が新しい現象として話題になるかもしれないな。昔は亭主をお尻の下に敷いたもんだけど、今は頭の上をぶんぶん・・・。

春はいろいろな季節

2月19日。火曜日。今日は比較的まともに「午前中」に起きた。外はまぶしい。道路向かいの大きな桜の木も、心なしか枝につぶつぶが付いて来ているように見える。いつも花が早い方だから、3月に入ったらぽつぽつと花を開くかな。この木が開花したら、道路が見える限り遠くまでピンク色に染まる日も早い。

朝食後、ワタシはしばしの読書。カレシは好天を待ちかねたように外へ出て行った。温室の北側の床に作ったプランターが冬でもレタスやほうれん草、からし菜といった新鮮な葉っぱものを摘み菜として収穫するほどの大成功だったもので、反対側の床にも作ることにしたらしい。改装工事の余りものの材木やら防水シートを持ち出して、ガレージの中で作業をしているけど、前からカレシなりに準備してあったとみえて、あれはどこだ、これはどこだと聞いて来ない。カレシの温室はポリカーボネート製のかまぼこ型で、幅が約2.5メートル、長さ約5メートルあるので、床置きのプランターもかなり大きいものを作れる。もちろん入れる土の量も相当なものだけど、これが昼の間に蓄積した熱を夜の間に放出して、ある程度の節電になるという効果もあって一石二鳥。

今日は仕事がないので、のんびりと州政府予算の発表を読む。去年はすごい大赤字だったのが、一転して黒字ってのは、何だかちょっと眉唾ものだなあ。法人税と年収15万ドル(1500万円)以上の高所得者の所得税が少し上がるくらいで、後は政府保有の資産を売却したり、歳出を大幅に削減したり、公務員を1200人レイオフしたりして帳尻を合わせるらしいけど、やっぱり何だか眉唾ものだな。まあ、5月に迫った総選挙では与党が99%負けることになっているから、最後まで責任を持たなくてもいいやという破れかぶれのいたちの最後っ屁予算だったりしてね。その予算だって、たった4議席の過半数では、何がどう転んで否決ということになるかわからない。左巻きの新民主党はワタシの支持政党じゃないけど、何だか今回はチャンスをやってもいいかなあと言う気分にさえなる。

選挙と言えば、次の連邦総選挙では議席の数が増えると言う話。カナダでは国勢調査の結果を元にして、選挙区の線引きをし直すことになっていて、人口の増減に合わせて、連邦議会も州議会もそれぞれに各選挙区の人口がほぼ同じになるように、分割したり、統合したり、境界線を移動したりする。国勢調査は5年ごとにあるから、選挙区の境界線はけっこうひんぱんに変わるわけで、長い間日本で違憲だとして法廷で争われているような「1票の重みの格差」といった問題は起こらない。国民の1票の重みが地域によって大きく違うと言う不公平は民主主義に反することだから、誰よりも選挙民が黙っていないと思うな。日本だって国勢調査をやっているんだから、選挙区の境界の見直しくらいできそうなもんだけど、たぶんいろいろに利権が絡むんだろうな。

不公平是正といえば、ブリティッシュコロンビア州では3月18日から「家族法」の改正法が施行されて、同棲カップルにも別れるときに法律婚と同じ財産分与の権利ができる。カナダではほとんどの州で税制や社会保障の上で法律婚、事実婚、同性婚の区別が取り払われたけど、改正法では「2年」以上「同棲」したカップルにもその間に取得した資産や相手所有の資産の値上がり益を半分請求する権利が認められる。おそらく2年が2人の関係が続くかどうかの平均的な節目ということだろうけど、男は同棲を相手の「オーディション」と考え、女は相手との「結婚へのステップ」と考える傾向があるという調査もあるから、デート市場はおもしろいことになりそうだな。(イジワルなおばちゃんだこと・・・。)

でも、結婚せずに事実婚の配偶者として永住権を申請する場合への影響はどうなんだろうな。カナダでは、1年間継続して「夫婦同然」の生活をすると事実婚のカップルとして、カナダ側のパートナーがスポンサーになって「家族」カテゴリーで永住権申請ができるので、相当数の日本人が利用しているらしい。だけど、1年の同棲を経て永住権を申請しようとすると、書類の準備やスポンサーの申請や何やらで手続きに1年くらいかかってしまう。つまり、BC州で申請すると、永住権が取れる頃には財産分与を受ける権利ができるわけで、そうなると同棲相手のスポンサーになることを躊躇する人が出てくることも考えられるな。まあ、どこまでの関係なのかが試されるようなもので、こっちの婚活市場もおもしろいことになりそうな気がするな。春は恋の花が爛漫の季節だけど・・・。

差し向かいのお風呂も乙なもの

2月20日。水曜日。目を覚ましたら正午直前。きのうはあんなにいい天気だったのに、今日は雨。週末まで雨。ま、春の雨は滋養の雨・・・。

きのうは力仕事をやりすぎたカレシ、体中が痛いと言いながらギクシャクと起床。ゆうべは久しぶりに2人でお風呂に入って、背中の汗をごしごし落としてあげたのにな。いつもはさっさとシャワーで済ませることが多いけど、たまには2人で熱いお湯に浸かるのもいいもんだ。

西洋風呂は基本がおひとり様の「個浴」だから、伝統的なバスタブはすごく浅くてまるで腰湯みたいな感じになる。でも、ジャクジーが小型化されてバスタブに組み込まれるようになって、それまではどれも同じに見えたバスタブのデザインが多様化して来た。中には寝室の中に据え付けるハリウッド映画みたいなのもある。ベッドインの前にロマンチックで贅沢なカップルの時間というところか・・・。

実は、我が家にはジャクジー付のバグタブがあったんだけど、ひとり用だし、ジェット噴流にもまれている時間もなかったので、めったに使うことがなくて、宝の持ち腐れ状態。そこで、改装のときに「ジャクジーもムードライトも不要。2人で入れる大きなバスタブ!」と注文。(お風呂の中で色が変わるムードライトって・・・。)元の場所に置けるサイズを探し回って、1人用だけど2人が向かい合って入れる幅があって、座って肩まで浸かれる深さがあって、端が背もたれのように傾斜していないものを見つけて来た。

深さに合わせてデッキの枠を作り直して、重くなるので下にセメントを流して、給湯タンクもひと回り大きい(250L)のに変えて、けっこう工費がかかったけど、ディマースイッチで照明をちょっと落として、テレビからもコンピュータからも離れて、背中を流し合って、のんびりと差し向かいでおしゃべりするもの乙なもの。ワインの一杯もあったらもっといいかなあ。いや、そんなものがなくても、ゆったりとしたクオリティタイムは2人でお風呂に浸かるだけでいいんだよね。


2013年2月~その1

2013年02月12日 | 昔語り(2006~2013)
今日で満23年。老後のイメージが見えた

2月1日。金曜日。起床は正午。日が差している。ポーチの温度計は8度。おお、春の気配かな。今日からもう2月。ほんとに年を重ねるごとに時間の足が速くなるような感じで、だんだん追いつくのが大変になって来た。

早いもので、今日2月1日はワタシのおひとり様ビジネスの創業満23周年。学歴も、これと言った専門知識もなくて、あるのは聞かん気とのん気だけ。それで年金が入って来るこの年までよく続いたもんだと、我ながら感心する。極楽とんぼよ、微風にも負けず、台風にも負けず、乱気流にも負けずに、墜落せずにここまで飛んで来たキミはエライと思うよ(自分で言うのもなんだけど、ま、今日だけはいいか)。実は、勤めを辞める直前から仕事が入っていて、2日前に風邪を引いたと言って残っていた「病休」を取った。後任がいたからできたことだけど、創業からもうすでに納期に追われていたわけか・・・。

あれから23年経って、ワタシのオフィスの隅っこにこじんまりと落ち着いた作業スペース。英語も日本語もコンピュータ1台で済むようになったのは技術の進歩のおかげ。今はオフィスの半分が趣味のスペースになっている。[写真]

それにしても、このオフィスチェア[写真]。1991年に腰痛に悩まされるようになって、思い切って買ったスウェーデン製の人間工学設計の椅子。高かったけど最良の設備投資だったなあ。あれから22年間、座業のワタシを支えてくれて、ありがとう。

今日はパルミーダと会う予定で、Arts Club劇団のオフィスがあるグランヴィルアイランドまで。1時間もかからないだろうということで、カレシは終わるまでぶらぶらしているつもりだったけど、「携帯がない」。あ、玄関の靴箱の上にあったけど。「それを持って来るのを忘れた。終わってからどこで落ち合うか連絡できないじゃないか」。うん、できないよねえ・・・。「いいよ、オレは家に帰る。終わったら電話しろよ」。自分で忘れたのにぷんぷんして走り去ったカレシ。携帯を忘れて良かったね。だって、1時間もかからないはずだったのが、芝居に関する話であれやこれやと意気投合して、しまいには女同士のおしゃべりに花が咲いて、延々と2時間・・・。

年金受給を契機にこれからだんだんに業務を縮小して行くにあたって、カレシがボランティア英語先生に「打ち込める」ことを発見したように、あれこれとやりたいことが多すぎるワタシも「これが一番」と打ち込めるものを見つけたいと思っていたけど、パルミーダと話しているうちにそれが見つかった気がする。エレクトロ二クスに依存するエンターテインメントに押されて苦戦している生の演劇を支援して行きたい。ワタシは劇作家にはなれそうにないし、役者にもなれないけど、Arts Clubには劇作家を育成するプログラムがあるし、劇団を存続させて行くための基本財産も構築中。その活動の端っこの端っこでワタシにできることをしたい。お金の余裕のある限り寄付をしよう。完全に引退したらボランティアも引き受けよう。遺言状でも、ワタシが後に逝くことになったら、どれだけ残っているかはわからないけど残ったものをすべて劇団に寄贈しよう。

考えているうちに、心がワクワクして来た。ワタシは人間が好き。だから、ワタシは生の舞台が好き。遠い古代ギリシャの時代から(きっと世界のどの民族もそれぞれに何千年も昔から)続いて来た「演劇」という、生身の人間が生身の人間の前でリアルタイムに演じる一種の「語り部」と言える伝統芸術の火を絶やしてはならないと思う。ああ、今から興奮しちゃっているけど、何かとっても刺激的な新しい世界が開けそうな予感がしてならない。23年もの長い間ひとりで籠っていた「在宅自営業」の穴ぐらから出たら、いろんな人との出会いがあるかもしれない。新しい交流の輪が広がるかもしれない。ワタシの人生の第3楽章はアレグロだな。まあ、オープニングはそろりとアレグレットぐらいで・・・。

カワイイが売りのアイドルも坊主頭になったら・・・

2月2日。土曜日。目が覚めたら首がごりごりに凝っていた。どうしてだろう。今日はグラウンドホッグデイ。毎年この日に冬眠していた穴から出て来たマーモット(リス科の動物だけどずんぐりむっくりしていて、あんまりリスらしくない)の一種が、自分の影を見たらまだ6週間の冬、影を見えなかったらもうすぐ春、と占ってくれる。まあ、北米版の「啓蟄」みたいなものか。各地にいるグラウンドホッグの予報が一致することはめったにないんだけど、今年はアメリカ代表のフィル君とカナダ代表のウィリー君の2頭が「もうすぐ春だ~」と一致したのに、ノバスコシアとケベックでは「まだ冬の真っ盛りじゃん(何で起こすんだよっ)」。(ま、カナダとアメリカの経済予測でないのが幸い・・・。)日本でも「立春」で、春めいてもいいみたい。

さて、今日は仕事をするか、しないか。急がずに3日分くらいの仕事で、納期まで6日。どう見たって急ぐことはないなあ・・・ということで今日はさぼり。のんびりとサイバー横丁の散歩。「お泊りデート」とやらをすっぱ抜かれて丸坊主になったアイドルちゃんの映像をタレント事務所が削除したとか。あれ、世界中にヒットしちゃったもので、事務所も処置に困ったのかな。BBCのサイトにも載ったし、Guardianにも載ったし、タブロイドにも載ったし、フランスでもアメリカでもカナダでも映像と一緒に報道されていた。坊主になる前の写真は13、4歳の中学生(たぶん北米人の目には10歳くらい)に見えるけど、坊主頭になってみたら、なんだハタチの大人のごく人並みの顔じゃないの。すごい落差だ・・・。

この一件でも、おもしろかったのは各サイトに載っていた読者のコメントで、「長い髪は日本女性にとっては命なんだよ」と(たぶん青い目をウルウルさせて)書き込んでいる人がいたり、「日本はタリバーンの国かよ」とか「プライベートまで拘束するのは奴隷扱いと同じ」とか憤慨する人がいたり、「20歳の大人が人間らしいことをしただけなのに、坊主になって泣いて許しを請わなければならないとは、pathetic(救いようのない)社会だ」と嘆く人がいたり。まあ、日本在住で日ごろから日本の内情?を見聞きしている外国人たちのコメントによると、このAKB何とかと言うアイドルグループは、タレントというよりは、幼げな子とのバーチャルな恋に萌えるオタクたちや、ストレスを溜めているエロい中年のオジサンさんたちに売るために「カワイイ女の子」としてパッケージされた「商品」らしい。つまり、生の男とお泊りデートなんかされたら「処女っぽい」イメージが台無しになるということで、イギリスの某新聞が報じたように「品行方正」が求められているわけじゃないってことか。

だから、お役所のおじさんたちはいつまで経っても児童ポルノの所持を禁止したがらないのかな。「実際に子供がやっているんじゃないから法律には触れない」と。まあ、映像は小学生か中学生みたいでも、実はハタチを過ぎた「おとな」が子供を演じているわけで、その通りといえばその通りか。デジタル新聞だと、そういう記事の横に「52歳。すごいと、妻が・・・」という思わせぶりなサプリか何かの広告が勝手に出て来て、にっこり笑っているその「妻」はどう見ても20代だし、同じ企業の「パパ、いいニオイ♪」と上目遣いに見ている広告には「26歳、会社員」と書いてあるけど、モデルはどう見ても高校生。広告を作る方は商品の対象顧客にはそういう「若い子にもてる」イメージが一番だと思うから、そういう年令のモデルを使って、「これを飲むと若いヨメさんをゲットできるかも/女子高生との援助交際も夢じゃないかも」といった思わせぶりなコピーを考えるんだろうな。

ほんと、広告ほどそのときの世相を鮮明に反映するものはない(そうでないと商品が売れない)か。でもまあ、日本のオジサンたちの「カワイイ萌え」もここまで来ると、中身のない記事を見るよりも、広告を見て「おいおい」と突っ込みを入れる方が楽しくなってしまいそう。ワタシもひねくれて来たのかな・・・。

明日から1セント硬貨が使えなくなる

2月3日。日曜日。正午ぎりぎりにのんびりと起きて、のんびりと朝食で、1日の始まり。外は小雨。天気予報は週末までほぼ連日の雨。でも、最高気温はほぼ平年並みだし、最低気温はちょっと高めで、日の出の時刻はだんたん午前7時半に近づいて来たし、春の気配が濃厚と言ったところ。もうずっと昔になったけど、冬至の前後には通勤する2人の車がダウンタウンに旧キャンビー橋を渡っているときに、朝日が昇って来た。夜通し晴れた朝は冷え込んで、朝焼けも昇ってきた太陽も寒色系の色合いだったな。

今日はアメリカンフットボールのスーパーボウルの日。今年はニューオーリンズ。ハリケーンカトリーナのときに避難場になったスタジアム。セインツの拠点だけど、決勝チームはサンフランシスコのフォーティナイナーズとボルティモアのレイヴンズ。(北米のプロスポーツについて報じるのに、日本のメディアはチーム名で呼ぶのに対して、北米では都市名を使うことの方が多いのはおもしろい対照。)今回は両チームの監督が実の兄弟同士ということで話題になっていた。はて、観戦に来るという家族はどっちを応援したらいいのやら。スーパーボウルに関してよく話題になるのが「チキンウィングの品不足」。ずっと前はポテトチップやポップコーンとビールが主流だったけど、最近は(たぶんコマーシャルの影響で)仲間同士が集まって鶏の手羽先をかじり、ビールをがぶ飲みしながらテレビで試合を見るのが定番になっているらくて、去年やおととしはその手羽先が全国的に品不足になったという話。でも、今年はやや値上がりしたものの、品不足は起きなかったらしい。とすると、月曜日には甘辛ソースたっぷりの脂っこい手羽先を食べ過ぎた人たちが薬局に押しかけて胃腸薬が品不足になるのか・・・?

カナダでは明日の月曜日から1セント銅貨が使えなくなる。1セントという単位がなくなるわけではなくて、あくまでも店頭での現金取引の場合の話。なにしろ世界的な銅の値上がりで、1セント玉1個を作るのに1.6セントかかるんだそうな。つまり、100万個(1万ドル分)作るのに160万ドル!去年の春にすでに製造を中止して、年末商戦の混乱を避けるために2月4日から硬貨の使用は廃止ということになった。つまり、合計が1ドル2セントであれば切り捨てて1ドルに、1ドル3セントなら切り上げ、1ドル7セントなら切り下げてそれぞれが1ドル5セントに、1ドル8セントなら切り上げて1ドル10セントになるわけで、たとえば1ドル2セントの買い物なら1ドル硬貨1個で済んで得だけど、1ドル3セントだと5セント玉を出しておつりが来ないから損。長い目で見れば収支トントンになるらしいけど、人間の心理はおもしろいもので、「損」の方にだけ注目して「釣りを寄こさないのはぼったくりだ」と怒る人がいる。今まで道に落ちていても誰にも拾ってもらえなかったペニーなのにね[写真]。

オーストラリアもニュージーランドも20年以上前に1セント硬貨を廃止していて、2009年の今ごろオーストラリアに行ったときには最初の1、2回だけ何となく違和感があったけど、小銭がごちゃごちゃたまらなくて楽だった。帰りに寄ったシンガポールでも1セント玉がなかったけど、そのときには「へえ、ここもか」と思っただけだった。ニュージーランドでは5セント硬貨も廃止してしまったとか。(カナダでも「次は5セント玉の番だ!」と意気込んでいる議員さんがいる。)ヨーロッパではオランダとフィンランドで1ユーロセント硬貨の使用を止めたそうだし、アメリカでも廃止の議論があって、世界的に通貨の最小単位は帳簿上の数字だけになりつつある。そこかしこに放置されている1セント玉を集めて、50個ずつのロールに包んで銀行に持って行けば「使えるお金」に換えてもらえるという話だけど、ロールが10個(5ドル)にもなったら、重たくて運ぶのが大変だろうなあ。

日本のあのアルミの1円玉。ふわふわと軽すぎて実に扱いにくかったけど、もしもあの1円玉の発行をやめて、102円なら100円玉1個、103円なら100円玉と5円玉でおつりなしという、切り下げ/切り上げ方式に変えることにしたら、はたしてどういう反応が起きるのかな。ま、日本の人は暗算が速いから、すぐに慣れるだろうとは思うけど・・・。

なつかしいね、昭和の雪まつり

2月4日。月曜日。起床は午後12時50分。飲みながらああだ、こうだと取りとめのない話をしているうちに、就寝は午前5時。これが夏だったら空が白むどころか、日が昇ってくる頃だけど、カレンダーを見たら「夏時間」が始まるのは3月10日。。公式の「春」は春分の日に始まって、「秋」は秋分の日に始まるから、時計の上の「夏」は春より先に来て、秋よりも先まで続くわけで、毎年のことながら何だかなあ。いっそのこと4ヵ月しかない「標準時間」を廃止して、1年中「夏時間」にしたら気分的にも爽快で良さそうに思うけどなあ・・・。

今日は何としても仕事日にしなければと、先月から懸案で、ちょびっとかじってはぐずぐずと放置して来た仕事にかかる。続きのファイルがもう来ているから待ったなしの状態。何でも屋の翻訳稼業は世の中の実にいろんなことに遭遇できて、そのたびに何かしら新しいことを学べるところがいい。姪のローラが勤め先のコンサルタント会社で日本語を話せる人材を探しているけど心当たりはないかと言って来ていたので、相当な専門職だからとその方面の同業に声をかけていたら、ベテランがいろいろとアドバイスをくれ、ローラとも話をしてくれた。フリーランスはおひとり様ビジネスではあるけど、知らないうちにいろんな人たちとのネットワークができるものらしい。極楽とんぼのワタシなんか日本とアメリカの2つの協会の会議に行ってはもっぱらパーティで騒いでいるけど、それでも「長いつき合い」の人たちができたし、一生の親友もできた。「運命の赤い糸」というのは男と女の関係だけじゃなくて、生涯の友だちにもあてはまるのかもしれない。人間の関係って、ほんとに不思議・・・。

ともかく仕事を始めたんだけど、新聞サイトをちらちらとのぞいていて、毎日新聞の「昭和毎日」という昭和時代前半の大きなニュースの写真を集めたようなサイトに行き当たったのが運の尽き。終戦直後の昭和20年から高度経済成長期が東京オリンピックで頂点に達した昭和39年まではワタシが釧路で生まれ育った時代。とうとう仕事を放り出してのめり込んでしまった。『古き良き昭和の時代へタイムとラベル』という謳い文句だけど、ほんとに「良き時代」だったんだろうか。大きな自然災害が多かったし、悲惨な公害病が多発したし、政治家の汚職なんか今どきの疑惑がみみっちく見えるくらいだし、東京のスモッグの写真は今の北京とそっくり。でもまあ、バブル崩壊後の何となく鬱々として見える世相と比べたら、良き時代に見えるのかもしれないな。テレビやトランジスタラジオがワタシが覚えているより何年も前に登場していたのは、あの頃は新しいものが北海道の最果てまで届くのに何年もかかったということだろうか。

仕事をしなきゃと思い直して、その前にニュースを読んで、と別の新聞サイトを見たら、お、札幌雪まつり開幕。なつかしいな。毎朝バスを降りて、自衛隊が「訓練」の名目で大雪像を作っているのを見ながら大通公園を突っ切ってすすきのの入り口のオフィスまで通勤していたもので、特に「雪まつり見物」をしたことはなかったけど、昼休みにみんなで(といっても総勢3人だけ)ぶらぶらと散歩はしたな。歩いている観光客がへっぴり腰なのがちょっと不思議だったけど、冬になると靴屋に並んだ「スノー底」のハイヒールはどうやら北海道だけのものだったらしいとわかるのに時間がかかった。夏のと同じデザインのものを履いていたこともあるから、焼き鏝のようなもので普通の靴の底に滑り止めの模様を焼きつけたんだろうな。それを履いて着ぶくれした観光客を尻目にすたすたと歩いていた若き道産子のワタシ・・・。

あれは何年のことだったか、開幕当日の昼休みには抜けるような青空だったのに、あっという間に雲ってすごい勢いで雪が降り出し、夕方の帰宅時間には4、50センチくらい積もって、バスが止まってしまったことがあった。石狩湾にぽこっと小低気圧ができると突発的に起きるドカ雪現象で、夜に予定されていた開会式は中止。黙って見ていると、目の前にどんどん雪が積み上がるのがわかるくらいの降りようだった。(雨なら「雨脚が強い」というけど、雪なら何というのかな?)帰りの足がないから、しかたなく雪の夜道を2時間以上かけて歩いて帰ったけど、ああいうドカ雪のときは「歩く」とは言わないで「漕ぐ」という。ブーツを履いていたのか、スノー底のハイヒールだったのかは覚えていないな。大雪の中では方向感覚が狂うことがあるから、何とか無事に家に帰りつくことしか頭になかったのかもしれない。

古いアルバムを探したら、1975年の雪まつりのときに同僚に撮ってもらった写真があった。何だかずいぶん軽装だけど、あの年は寒くなかったのかな。(雪像が解けて泣き出すような暖冬の年もあったし、雪がなくて自衛隊が山からトラックで雪を運んで来た年もあった。雪まつりはお天気まかせ。)ああ、あの頃はやたらと長いマフラーが流行っていたんだっけ。自分で編んだ(と思う)このマフラーはまだ持っている。思い起こせば、この雪まつりから3ヵ月後の5月、ワタシは日本を離れたのだった。昭和50年。38年前、最後に見た雪まつり・・・と、ちょっと遠い目。[写真] [写真]

さて、ほんとに気合を入れて仕事にかからないと。

プロに「ただでやってよ」はないでしょ

2月5日。火曜日。またまた正午過ぎの起床。ここのところ、寝る前にちょっと一杯やりながらのつもりが、なぜか話し込むことが多いなあ。だいたいは他愛のない話で盛り上がる程度だけど、ときには(カレシがどうみてもわざわざ反対意見を持ち出して来て)議論に発展しそうな雰囲気になる。昔はよくやったなあ、カレシ。やり込めようという気もあっただろうけど、おかげさまで元々口達者なワタシは英語でのthe gift of the gab(口達者)にもますます磨きがかかったし、今はうまく取りとめのない方へと誘導する術も身につけたから、カレシには怪我の功名(でも、たぶん本人はそうは思ってないかも・・・)。

外は雨模様だけど、カレシは春の到来を控えての「農作業」。ワタシはかなりまじめに仕事。でも、何だ、これ。テーマがテーマだから、やたらと判例の引用があるのはわかるけど、その出典である判例集の名前は漢字だらけの略語。裁判所の名前や「平」とか「昭」と言うのはお馴染みだから良いとしても、民間の判例集らしいのが出てきたらお手上げ。そういう風に表記する決まりになっているのは知っているけど、いちいちググって省略されていない名前を探さなければならないから、えらいこっちゃ。ジョーホー時代の到来と喧しかった頃の日本出は、猫も杓子もこぞって世界にジョーホーハッシ~ン!と勇ましかったけど、実のところはどうだったのかなあ。外国がソースの日本語の情報は多いけど、日本からの英語の情報はあの頃の騒ぎのわりには足りなすぎるように思う。いったいどこへジョーホーをハッシンしたのやら・・・。

判例の検索にくたびれて、ちょっと息抜きに小町横町にでかけたら、『好きな人が翻訳を断ってきました』というイマイチよくわからないタイトルのトピックがあった。翻訳と聞いてさっそく野次馬気分で開いてみたら、会社で通訳翻訳をしていた「好きな人」が辞めて、SNSでつながりを保ちながらあれこれと仕事以外で翻訳を頼んでいたら翻訳会社を通してくれと言われ、だけど翻訳会社は高くて頼めないし、その好きな人とつながっていくて、仕事として「わずか」10ページほどの翻訳を仕事の幅も広がるし、勉強にもなるからと「ボランティア」でお願いしたら断ってきた。しかも、メールもしないと。びっくりして、その人を失いたくないから告白っぽいことを言ってみたけどなしのつぶて。「もっとわかりあえるにはどうしたらいいでしょうか?」ええ、ええ、ええ?

書き込みが殺到して、あっという間に200本を超えたけど、だいたいが「相手はビジネスなんだから、ただでやってもらおうとする方がおかしい」という意見だったので、労力の対価についてけっこう常識的な考えの人がまだたくさんいることにちょっとほっとした。だって、翻訳通訳を生業としている人に、好きだから、知り合いだから、SNSのオトモダチだからと、仕事の翻訳を「あなたのためになるんだから」ボランティアでやってと言うのは、いくらお金には敏い今どきの女性でもover the top(やりすぎ)だと思うけどな。さらに、1ページ2~3千円もらえると言われて、10ページやったら2~3万円なんて不自然だし、「本当なら知り合いにお金ちょうだい、と暗に言うのはマナー違反と伝えたいのですが」と言い出す始末。ま、婚活トピックにしても、友情や結婚の破綻トピックにしても、お金、お金の世相が見えるけど、ここまで来ると何だか創作じゃないかという感じもするな。小町にはそういうできすぎたトピックが登場して、あっという間にアクセス人気上位にランクされることがよくあるもの。

同時に、「タダ」をあたりまえに期待する人がいるのも事実。プロがちょっと知っている人から頼まれた仕事をして、それに対して対価を請求するのがマナー違反だというなら、誰が誰とどのようにつながっているかわからない今の世の中、フリーランス稼業で生活するなんてできない話。それでも、いるんだよなあ、そういう人。ワタシはよほどの事情がない限り友だちに頼まれても無料奉仕はしないし、完全に稼業から足を洗うまではでボランティアもしない方針で、どうやら「タダの仕事はしない」という評判が根付いているらしいからもう頼まれることもなさそうだけど、まだ百戦錬磨ではなかった頃には、「高すぎる」とか「たいして手間じゃないのに」とか、「無料奉仕を暗に要求する」人に何人か遭遇した。「立っている者は親でも使え」という人なんだろうけど、一番始末が悪かったのは「同胞のよしみ」を利用しようとする人・・・。

在宅の翻訳・通訳行と言っても、コンピュータやプリンタ、ファックス、辞書類に事務用品と、何百万円もの設備投資をして、額に汗して働いて、生活費を得るビジネスなんだけどなあ。ワタシも23年の間にどれだけの投資をしたことか。1千万円なんてもんじゃないと思う。本当なのか創作なのかはわからないけど、トピックを投稿した女性のあまりの破天荒な図々しさについ笑いながら、同時にたまたま傍らに開いてあった愛用の辞書の何とも悲惨な姿に、ちょっとシュンとなった・・・。[写真]

多重国籍容認の是非

2月6日。水曜日。やっぱり起床は正午を過ぎた。よく眠っているようで、あんまりよく眠っていないような。まあ、季節の変わり目みたいな感じもするから、ここは一年の計の通り、play it by earで行くことにしよっと。わりと暖かくて、雨がしょぼしょぼ。でも、今夜は荒れ模様になるとの予報・・・。

荒れ模様といえば、「大雪」の予報が出ていた東京、JRが混乱に備えて間引き運転をするやらの大騒ぎをした挙げ句、結局は降ったとは言えないくらいだったようで、気象台に苦情が殺到したとか。前回は雨の予報を出したら思いがけず「大雪」になって、大混乱に苦情が殺到したので今回は「大事をとった」ということだろうけど、きつい職業だな、ほんと。日本でクレーマーと呼ばれる人たちは何でもいいから無理難題を吹っかけて相手を叩きのめしたい人種なんだろうと思うから、相手が商売であろうが何であろうが、ちょっとでも弱いところを見つけたら天下を取った気分になるんだろうな。バンクーバー圏では地形的に微小気候とか局所気候の集まりで正確な天気予報が難しく、予報が当らないのがあたりまえみたいになっている。だから、予報が外れたことで苦情を言う人はあまりいないけど、何日も雨が続くと「いったいつになったら晴れるんだよっ!」と怒鳴り込む人はけっこういるらしいそうだから、人間てのはおもしろい。

アルジェリアでの人質事件に続いて、今度はブルガリア政府が去年の夏イスラエル人観光客のバスを爆破したのは「(二重国籍の)カナダ人」だったと発表したもので、ケニー移民大臣がテロ活動をした二重国籍者のカナダ市民権を剥奪する立法措置の必要性を打ち出した。ブルガリアのケースはレバノンとカナダの二重国籍で、両親と共に移民して国籍を取得した後、12歳頃に母親とレバノンに帰ったままだという話。たまたまインド系の連邦議会議員が「カナダ国籍を取得してカナダに対して戦争行為を行った人の市民権を剥奪する」法案を議員立法として提出しているそうで、この法案を拡大して市民権制度改正の政府案として出て来る可能性もあるかな。メディアのコメント欄は帰化カナダ人も含めて「安易に」重国籍を認めている現行制度の見直しに賛成する意見で溢れているのは、市民権を与えた国を踏みつけにする「便宜上のカナダ人」に対する嫌悪感が鬱積しているということだろうな。あたりまえだと思う。(母国カナダに害をなす人間に目をうるうるさせてへつらいたがる連中はもちろん声を張り上げて反対を唱えるだろうけど。)

かって香港の中国返還前にどっと移住して来た香港人の大勢がカナダ国籍取得を保険でもかけたように扱って香港に帰って行ったし、レバノン内戦では、多額の公費を使って「救出」した何千人もの重国籍の(多くはカナダの土を踏んだことすらない)レバノン人がカナダのあれこれを気に入らないと不満をぶちまけた挙げ句に内戦が収まるとそそくさと帰って行ってカナダ人の怒りを買った。(その後、海外居住者のカナダ国籍の継承が3代までに制限された。イギリスはもっと前からそうしている。)まあ、こういう人たちにとっては、市民権授与式でカナダへの忠誠を誓っても、それは「嘘も方便」。カナダのパスポートの方がレバノンやイランのパスポートより便利というだけのことで、カナダ国民としてカナダに忠誠を誓うなんて気持ちは元からこれっぽちもない。それに気づかない(または気づいていても口に出さない)カナダ人はお人よしが過ぎるけど、カナダの市民権にはそれだけの魅力(あるいはメリット)があるということか。それでも、いつまでもお人よしでいていいのか、カナダ。

遵法精神が自慢の日本人でさえ、カナダ国籍になった時点で日本国籍は自動的に喪失したのを知っていながら何とかして日本のパスポートを更新する方法はないかとよく掲示板で聞いている。残念ながら、出生地主義の国か異国籍の両親の間に生まれたのでない限り、原則として重国籍が認められない日本人が日本国籍を失わずに外国籍も手に入れるのはほぼ不可能。それでもなお、どうして誇りとする祖国日本の法律を犯してまで外国籍も持ちたがるのか理解に苦しむけど、カナダ国籍を手に入れてもカナダのすべてが気に入らないらしい人たちが大勢いるということは、単に「二重国籍」という日本ではレアもののタイトルが魅力だったのかなとも思う。だから日本の文化習慣思考で生活できないことへの欲求不満がよけいに募るんだろうな。でも、そういう日本人は自国日本の法律を犯しているだけだし、カナダ嫌いと言っても日本人同士の内輪だけで(仮想的有能感に基づく?)愛国日本人を競うだけでカナダ人と直接対峙しないし、日本に行けば行ったで「カナダの方がいいよ~」と宣伝してくれているだろうし、まあテロに身を投じることもなさそうで、つまるところカナダにとっては実害がないから、「便宜上のカナダ人」を排斥する運動が起こっても標的にされる心配はないだろうな。

去年の秋にケニー移民大臣は交際2年未満で子供のいないカップルには2年の「仮永住権」を与えることにして偽装結婚移民の締め出しに乗り出したから、カナダ国籍を取った後で定住せずに出身国へ帰って、たとえば5年とか10年以上戻って来ない場合はカナダ市民権を取り消すというような法律を作ろうとしているのかもしれない。(出国管理を導入して居住要件を満たさない「便宜上の永住者」を摘発しようという動きもある。)日本では帰化人ルイ・ラモスが「自分は日本人。戦争になったら日本のために戦う」と言って日本国民を感動させたらしいけど、カナダも「自分はカナダ人。戦争になったらカナダの戦う」と言う人に市民権を与えるべきで、そのためには、重国籍容認の見直しがまず第一歩だと思う。このあたりは日本の人も同感じゃないかと思う。だから日本は移民制度にも多重国籍容認にも消極的なんだろうし、と思うから、こういうところはカナダも日本を見習ったらどうなのかな。

旧正月、新年のごあいさつは

2月7日。木曜日。やっと落ち着いて眠りに就いたのに、午前11時30分、目覚まし。カレシがなぜかやたらと寝返りを打ってばかりいて、そのたびに肘鉄や膝蹴りで起こされていた。本人は「眠ってたんだから覚えているはずないだろう」。うん、眠れなかったと文句を言っていないところを見ると、あんがい本当に覚えていないのかも。

ゆうべは風が強くて、一度だけだったけど何かが屋根にぶつかったような音がした。でも、起きてみたらいい天気。別にニュースで何も行っていないから、嵐というほどでもなかったらしい。大荒れの予報が出ているのは東部の五大湖地方。テキサス州からイリノイへとアメリカを斜めに突っ切って来たNor’easter(北東へ進む低気圧)がミシガン州を超え、ヒューロン湖を渡って、明日にはエリー湖の南からオンタリオ湖の西に達するというシナリオで、おまけにアルバータから東進した低気圧が合流するんだそうで、その通り道にトロントがある。数年ぶりの吹雪になるという予報で、エアカナダは飛行機の予約変更を受け付け始めたとか。ニューヨーク市でも「備えは万全」に整えているという話だけど、一番の大雪になりそうなボストンでは市長が最初から「引き籠り」を勧告。暴風雨のような異常天候が凶暴化するのが気候変動の特徴だそうだけど、ロンドンやパリで大雪、東京でも大雪、トロントでも大雪(予報)、ニューヨークも狙われているというのは、はたして偶然なのか・・・。

アメリカ大陸の東の方が寒波になるとバンクーバーでは暖かいことが多い。ジェット気流が大陸の上で南北に蛇行するからなんで、大陸がシーソーのように東西に揺れているわけではないのに、そんなイメージがわいて来るのは、環太平洋地域で地震が多くて、太平洋プレートがふらふら揺れているイメージができているせいかな。まあ、この日曜日は中国正月の元旦だから、好天なのはいいな。バンクーバーでは昔から「中国正月」と呼んでいるけど、要は陰暦のお正月(太陽暦になっているところでは「旧正月」)。中国だけでなくアジアの他の国々でも今も旧暦の正月を祝うところがけっこうあるようで、ベトナムその他のアジア系からは「アジア正月」と呼ぶべきだという声もあるけど、中国系の人口の多さにはかなわないし、旧正月を祝う国々はどこも中国系の人口が多いようだし、英語でも「Chinese New Year」で定着してしている(ワタシのカレンダーにもそう書いてある)から、「中国正月」で変わらないだろうな。もっとも、ご本家?の中国では「春節」というのが一般的らしいけど。あ、だから日本でも「賀春」なのか・・・。

中国語のあいさつは「恭喜発財」。鉄道敷設工事のためにカナダに入って来た初期の中国移民は広東省からだったせいで、バンクーバーあたりでは「中国語」というと広東語だから、新年の挨拶も広東語で読んで「ゴンヘイファッチョイ」。どうやら「お互いにがんがん儲かりますように」みたいな意味らしい。何とも景気のいい挨拶だし、実際に広東語で言ってみると、つい「おお、やりまっせ~」という気になってしまいそうな勢いがあるな。日本でこれに似ているのは酉の市の商売繁盛の熊手かな。大阪だったらさしずめ「もうかりまっか~」というところだろうか。でも、中国語の挨拶を標準語では「コンシーファーツァイ」と言うんだそうで、何となくおっとりした「唐様で書く三代目」風の雰囲気になるからおもしろい。

さて、今夜はカレシの英語教室夜の部の「新年会」。いつものように「奥さんも」ということになったけど、クラスの半数以上を占めるベトナム人の生徒さんたちがお国料理を持ち寄ってくれるそうなので楽しみ。ベトナムも旧正月を祝う国のひとつで、昔のベトナム戦争時代によく聞いた「テト」というのは中国語の「節」のベトナム語読みらしい。新年の挨拶は、ちょっとググってみたら「チュクムンナムモイ」で、日本と同じ「新年おめでとう」という意味のあいさつだとわかった。チュクはひょっとして「祝」にあたるのかな。よ~し、忘れないように三回くらい唱えて、教室へ行ったらベトナム語であいさつをしてみようっと。

へたの横好き、ばんざい

2月9日。土曜日。目が覚めたらとっくに正午過ぎ。きのうもほぼ午後1時で、前の日のお出かけで疲れていたのかなと思ったけど、きのうはカレシ「休みモード」、ワタシ「仕事モード」で、くたびれるような日ではなかったのに。外は曇っていそうだし(出かけないから関係ないけど)、別にさしせまったことがあるわけでもないし・・・と、カレシの腕枕でしばらくうとうと。「腹へった~」というカレシにせっかくの「浅き夢」から起こされて、起床は午後1時の1分前。

カナダ東部とアメリカのニューイングランド地方の吹雪はすごいことになっていて、「Big Dig-out」という名前がついたらしい。「せ~の、よっこらしょ」という感じか。ニューヨークの積雪は30センチだったそうだけど、ボストンのあるマサチューセッツ州やその南のコネティカット州では1メートルも積もったところがあるとか。(ピーク時には1時間に15センチの割で積もったそうだから、どんどん積み上がるのが目に見える「どか雪」。これに強風となると、まさに視界が真っ白の「ホワイトアウト」で、へたをすると生死の分かれ目になりかねない。)65万戸が停電中で、人口2500万人を抱えるニューヨークからボストンの間の地域では道路はほぼ完全に通行不能、吹き溜まりで立ち往生した車の中にいる人たちを救出するのにスノーモービル部隊が出動したところもある。暖をとるためにエンジンをかけておくと排ガスで一酸化炭素中毒になりかねないし、かといってエンジンを切れば凍死してしまいかねない。判断が難しいところ。

マサチューセッツ州では知事が事前に一般人の車の運転を禁止する命令を出していたけど、違反者は罰金プラス1年の禁固刑という罰則つき。それだけ真剣なんだという姿勢だったんだろう。州知事の執行権限でそういう極端な命令を出せること自体すごいと思う。だから甘えるんだというならそうかもしれないし、たしかに一歩間違えば独断、独裁につながりかねない強権だけど、人間を信頼する勇気がなければ、そこに至らないという良識を前提として臨機応変に危機に対応できる権限を与えることはできない話だと思うな。まあ、知事の命令を無視して猛吹雪の中に車を出した人たちがどれだけいたかは知らないけど、「てめぇ、何サマだと思ってんだよっ」とヘンに肩肘を張って墓穴を掘る人たちはどこにでもあたりまえにいるもので、そういうのにかぎって「助けが来なかった」と愚痴るところも同じ。ま、他人の言うことに聞く耳持たずの「耳なし族」の一種ではあるけど、こういう勘違い人は亜種の「無脳型」か・・・。

グッチファーとかいうハッカーがブッシュ元大統領一家のメールに侵入して家族の私的なメールや写真を「てめぇ、何サマだおと思ってんだよ」族のものらしいサイトで公開していたけど、その中に「ダビヤ」こと息子ブッシュが描いた絵が何枚かあってけっこう話題になっている。シャワーを浴びている自画像とバスタブの中の足を描いた絵は、最初にニュースの画面で見たときにデイヴィッド・ホックニーの作風が浮かんで来た。うん、ホックニーでなければエドワード・ホッパーか。いわゆる美術評論家たちはさっそくああだこうだと自分の芸術的、政治的信条に基づいて批評しているけど、ド素人の絵をプロの観点からくそまじめに批評すること自体が滑稽に聞こえる。(でも、こういう人たちも耳なし族の一種のようなもんだから、しょうがないか。)ダビヤは最近になって趣味として絵を描き始めたらしいけど、「へたの横好き派」の絵としては、ワタシはすごくいい線を行ってると思うな。ワタシも「へたの横好き流」のドしろうと絵描きだからかもしれないけど、何か共感のようなものがある。政治家ブッシュとして言葉では表現することができなかった「感性」が私人ダビヤになって芽を出したということかな。

アメリカの数学者ガードナーが『Ambidextrous Universe』(日本語版は『自然界における右と左』らしい)で一次元の世界と二次元の世界の生き物を想像していておもしろかったけど、三次元の世界には縦横左右前後斜めを自在に見られる視界がある。さらには、人間には物理的な目には見えない「内面」という別の次元があって、(その気になればの話ではあるけど)自分の力でその奥行きを深めることができる。でも、他人がその奥行きの深さを測定できるのかと聞かれたら、答は否だと思う。内面の奥行きは知能でも学力でもないから、「深そうだ」とは感じられても、その深さを具体的、客観的に測るものさしはないと思う。本人にだってわからないだろうな。わからないけど奥に「何か」があるのは感じる。それを表現するのが言葉であり、絵の具であり、粘土であり、カメラであり、楽器であり、声であり、体であり・・・それをart(わざ)というんだと思うけど。

Artでも、優れた才能に恵まれた人がやれば「芸術」、そこそこにできる人が好きでやれば「趣味」。才能がなくても大好きな人がやれば「へたの横好き」。へたくそと言われても平気でいるのは耳なし族の「へたの横好き」。うまくなりたいという向上心も他人よりうまくならなければというストレスもなくて、楽しく自己完結している一番幸せな人かもしれない。世界のへたの横好き派アーティストに、乾杯!

ウェブ広告は必要悪とわかっちゃいるけど

2月10日。日曜日。中国正月巳年の元旦。いい天気。目が覚めたら、もう午後12時30分。前の日よりはちょっと早く寝たのに、何となく疲れた気分。もしかして、眠りすぎかな。夢を見ていたような気がするけど、思い出せないのはあんがいうれしい「初夢」だからだったりして。でも、うれしい初夢とはどんな夢かと聞かれると返事に困るな。もっとも、目が覚めて元旦だから、旧年最後の夢ということになるのかな。だけど、寝たのはもう日が変わってからだったし・・・まあ、ど~でもいいことだけど。

今日はまず夕べやり残した仕事のしあげ。寝る前に仕上げて校正者に送ってしまうつもりでがんばっていたのに、よく使っている辞書のポータルサイトで用語を調べている最中で急にインターネットにアクセスできなくなって、ひとしきり原因探し。何しろルータの「インターネット」のライトが消えてしまったので、ルータやネットワークをあれやこれや。最後にトラブルシューティングで診断にかけたら、「ノートンがブロックしているらしい」と出て来た。何で?悪い人が侵入して来たら、黙って門前払いしてくれるんじゃなかったのかなあ。「どうしましょ?」と聞いて来るのは追跡クッキーがたまったときくらい(けっこうたまるんだよね、これが・・・)。ま、ノートン君が機嫌を直してブロックを解いてくれるのを待つことにしたけど、仕事を続けるのがめんどうになって店じまい。結局、アクセスは30分くらいで復旧したけど、何だったんだ~?

アクセスできなくなったときに使っていたのはいろんな出版社や団体の辞書や用語集を集めたポータル。いろんな分野のものがあって便利ではあるけど、最近は網羅した辞書に定義がなければ独自の、それも吹き出すような「訳語」を出して来るようになって、急速におバカになりつつある。まあ、いざとなるとソースへのリンクがあるし、何よりも「会員登録」(無料)せずに「ゲストさん」として使っているので、文句は言えないんだけど、広告のソースを増やしたせいでエロ広告まで出て来るし、さらには検索ランキングやら、はては「いいね」やらツイートまでくっつけて、そういうのがぜ~んぶロードされるまでは画面をスクロールできないから、一番上の定義しか見えない。それがまたやたらと時間がかかる。時は金なりであれば、タダほど高いものはないということの例と言えるかも。

まあ、インターネットは情報がタダで手に入るのが売りだったわけで、タダで提供するためにはどこか他で収入を得なければならない。それが広告なんだけど、インタレストマッチ広告とか、IPアドレスから地域を特定した広告とか、キモイもの、ウザいもの、ウサンクサイものなど実にいろいろなのがあって、ときにはどんなものが出てくるか楽しみだったりするから、けっこう退屈しのぎになったりもする。日本で英語人がやっているブログやニュースサイトには「アジア/中国/フィリピン/日本の独身美女との出会い」みたいなのが必ず出て来るのはインタレストマッチというやつなのかな。(でも、国名は変えても同じ「美女」の写真だったりするから笑っちゃうな。)日本に住むイギリス人の写真ブログサイトには10年以上も同じ(ツバルのドメインの)「国際交流サイト」がリンクされていて、同じ写真がローテーションで何度も出てくるのでうんざりしていたけど、最近フォーマットを一新して、「おトモダチ」広告が専用タブになってすっきりした。だって、せっかくのすばらしい写真をヘンな広告で台無しにすることはないよね。

まあ、日本のサイトをあれこれ見ていると、最近はやたらと「カナダ在住の日本人」をターゲットにしたものが出て来る。資格ビジネスだったり、貿易?ビジネスの立ち上げだったり、「帰省」の格安航空券だったり、「帰国してからの住まい」だったり。ワタシのIPアドレスがカナダだから出て来るわけで、日本のサイトを見ていると今度はカナダの、しかも地元のビジネスの広告が出て来るから、グローバル化もここまで来ると大したもんだ。もちろん、大手新聞のサイトには自社で取った広告が載っていて、某新聞は未だに某結婚相談所のかなりおもしろい広告を載せいているし、別の某新聞には相変わらず「若く、若く、もっと若く」という某大手有名企業のサプリビジネスの広告が出て来る。「NHKワールド」だけには広告がないのは、さすがNHKというところかな。ま、退屈したら広告を見て「世相分析」とかやってみる?

たかが広告、されど広告というところだけど、インターネットには広告があるからこそいろんな情報や資料をタダで手に入れられるわけだから、あんまり文句は言わないことにしておくか。でも、アクセスをブロックされるとメーワクだから、へんな広告をくっつけるのはやめにしてほしいな。とにかく、やり残しの見直し作業をちゃっちゃと済ませて、ちょっと南で猛吹雪を免れたラッキーな校正者のところへちゃっちゃと送信。やれやれ、残る仕事はあとひとつ・・・。

良薬もサプリも、過ぎたるは・・・

2月11日。月曜日。起床午後12時過ぎ。小雨模様。起き上がったとたんに背中の左の肩甲骨の辺りがイタタ。筋違いというやつかな。寝相が悪かったのかな。でも、ベッドから出て、足を見下ろしたら、こっちは99.9%完治というところ。まだ少しふっくらしているような感じがするし、ほんのりと赤茶っぽい色が残っているけど、あちこち押しまくっても痛くない。やれやれ、よかった。ちょうど丸2ヵ月になるんだもの、そう来なくちゃ。だけど、真ん中の指の感覚がおかしくて、足を自然に伸ばすと2番目の指との間にかなりの隙間ができる。ずっと昔に捻挫した左手の小指と同じだから、このまんまということかな。でもまあ、普通に歩けて不便がなければそれでいいけど。

それにしても、足の甲のこの赤茶色というか赤黒い色、消えてくれるかな。両足を並べると皮膚の色の違いが一目瞭然だからちょっと心配する、この女心。はたちを出たばかりの頃だったけど、右手の親指の付け根から手首にかけて、突然紫色に腫れて、それが赤黒くなって、やがて真ん中に水ぶくれができて、やがてべろっと皮がむけて治ることが何度もあった。接触性皮膚炎かと思っていたけど、繰り返し出て、そのたびに範囲が広がるし、治っても皮膚の色が茶色いままになって来たので、やっと思い立ってオフィスの近くの皮膚科に行ったら、先生がワタシの手首をひと目見て「○○○(鎮痛薬)、飲んだでしょ」と。生理痛でポピュラーなその薬を飲んだと言ったら、「これは薬疹と言って、特定の薬を飲むたびに出るんだよ」という説明。みんな普通に使っているのに~と口を尖らせたら、先生曰く、「どんな良い薬でも体にとっては異物だからね」。あれは、まさに目からうろこだった。

どうもワタシの体は薬が嫌いらしい。日本にいた頃に風邪で咳がひどくて行った医院でくれた咳止め(コデイン入り)のせいで1週間も吐き続けたことがあったし、ペニシリン系の抗生物質で3日くらい吐き続けたこともあったし、アレルギーの減感作療法でせっせと注射に通っていたときには、何度か腕が真っ赤に腫れ上がってドクターに強い抗ヒスタミン薬を買って飲めと言われるしまつ。手術をするのに全身麻酔をかけたら何時間もげえげえ。内視鏡で30分もかからない膝の日帰り手術のときは、あまりいつまでも吐き続けたもので、もう少しで入院させられるところだった。(麻酔からさめて「よく眠った~」と言うカレシがうらやましい。)そんなこんなで、下あごの歯根の間にできた腫瘍を切除したときは、ゴルフボールを3個くらいに入れたように頬が腫れたけど、処方された強力な鎮痛剤はがんばってとうとう使わなかったし、膝の手術をしたときにもらった処方箋は完全に無視。何たって、痛みは気を紛らわしたりして我慢できるけど、こみ上げてくる吐き気と嘔吐は地獄・・・。

ほんとに体にとって薬は異物なんだけど、近頃は何かと言うとその異物に頼る風潮が強いように思う。異物ではあってもそれが命を救う唯一の手段だったりするから、現代人は薬なしでは生きられない。でも、抗生物質や抗菌剤を乱用しすぎたためにばい菌たちの逆襲に脅かされているのが人間だし、ビタミン剤やサプリを多用して体の本来の生理的なバランスを狂わせているのも人間。薬害でなくても、健康増進のために食品に特定の栄養素を多く配合したり、精製したサプリとして飲んだりすることで逆に健康を害することもある。オーストラリアでは、昆布由来のヨードが入った豆乳で健康被害が出たそうだけど、その量は海草を常食している日本人にはほとんど害がない程度でも、オーストラリア人にとっては極端に過剰なレベルだったとか。食習慣や生理条件の違いを考えずに、「○○を常食するどこそこの国の人は健康だ」みたいなうたい文句に踊らされるのは何だかなあと思うけど、そこは無病息災でいつまでも若くいたいと思うのが人間か。

人間は太古の昔から食事を通じて栄養や健康成分を摂り、その土地で得られる量にうまく適応した体を作って来たんだろうに、科学技術の発達で「サプリメント」という形で健康成分をたっぷり摂取できるようになったもので、多岐多彩な効能をうたったサプリが花盛り。でも、サプリも体にとっては「異物」なんで、たくさん飲めばそれだけ効果が大きいと思っていると、過ぎたるは何とやらで厄介なことにになる。近年、血液中の中性脂肪を減らして、心臓血管系の病気の予防になるとして喧伝されるオメガ3とオメガ6の脂肪酸。長くオメガ6脂肪酸の過剰摂取と大腸炎やうつ病との関連性が疑われて来ているけど、オメガ3だけを取りすぎても、オメガ6とのバランスが崩れて内出血や不整脈などが起きる危険が出て来るらしい。魚類を食べて摂取する分には過剰摂取になるほど食べられないから問題はないということだったけど、いくら健康増進に効果があると言われても、サプリの類も所詮は「体には異物」と考えた方がいいのかな。

つまり、バランスの取れた食事から健康成分を自然に摂取するのが一番健康的なのかもしれない。でも、先進的な暮らしの中ではそれもなかなか難しいし・・・。