リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

旅の空から~ニューノーマル時代の海外旅行は

2021年10月31日 | 日々の風の吹くまま
10月30日(土曜日)。☂☁🌥(バルセロナ)。夜に土砂降りの雨が降って、けさ起きたら何となく蒸している感じ。朝のうちはざぁ~っと降っては小止みになって、またしばらくしてざざぁ。土曜日は学校が休みなので、外の広場には子供たちの姿がなくて静かだけど、バルセロナの歴史にまつわる一角らしくて、窓の外は観光客の流れがひっきりなし。ほとんどがガイド付きでせいぜい数人から20人くらいまでのグループなので、クルーズ船で来たのかもしれないな。(昨日のツアーで見晴台から港の方を見たら、巨大なクルーズ船が3隻くらい入っていた。)行儀はいいけど、私たちの部屋の窓に向かってカメラを向けるので、うへっ。大戦前の1936年に、ファシスト政権に抵抗した住民がこの広場に避難していて、フランコに協力したムッソリーニのイタリア空軍の執拗な空襲で大勢の犠牲者が出たと言う主旨の標識があるので、ツアーのルートに入っているんだろうな。

朝ご飯が済んだら、まずはカナダに帰るためのArriveCanという書類を提出する作業。このサイトにワクチン接種完了の証明書をアップロードして確認のレシートをもらわないと、カナダに帰って14日間の隔離が必要になるので、ちょっと緊張する感じ。でも、2人のワクチン接種の記録を無事にアップロードできて、万一隔離が必要な場合の隔離場所や環境に関する質問に(不要で済むことを祈りつつ)答えて、「送信」。ものの1時間ほどで指定したメールアドレスにQRコードがついた「レシート」が送られて来て、2人の名前の後に「I」と言う記号があったので、思わずやったぁ。これがあると、バンクーバーに着いて、コロナ陰性を証明するPCR検査結果を提示すれば、隔離は免除になって、すんなりと元の暮らしに戻れるわけ。レシートは「印刷しておけ」みたいな指示があったので、PDFでダウンロードして、陰性証明と一緒にサムドライブにコピーして、フロントで印刷してもらったけど、プリンタにアクセスできない人はどうするんだろうな。

まあ、これがいわゆる「ニューノーマル」の海外旅行なんだと思うけど、とにかく帰るためには最も重要な手続きが無事に終わったので、ほっとした気分で雨の中をランチ探し。聖堂の前の広場は東京の渋谷みたいな大賑わい。とにかく数百年前にできた街並みなので、幅が2メートルあるかないかの小路が縦横に走っていて、人込みを避けてジグザグと歩いていたら、古色蒼然とした城壁と四角い塔があって、途中に「バルシノ」と呼ばれたローマ時代にはぐるりと城壁に囲まれて4つの監視塔が立っていたという説明書きがあった。バルセロナが発展して拡大するに従ってローマ時代の城壁は取り壊されて行ったという話。古くから栄えて来た大都市にはよくある話だねえなんて言いながら歩いているうちに聖堂前に戻ってしまったので、レストランを選んでランチ。何しろどこに行っても大盛りだから、2人でタパスを3皿ずつ選んで、ワインとビール。それでも満腹になってしまって、今夜は晩ご飯抜きだな。

ホテルに戻ったら、さて荷づくり。あまり大きな買い物はしない方なので、帰るときの荷づくりはわりと簡単。今回一番かさばるのは、カレシのはローマで買ったバルサミコ酢とマルセイユで買ったパスティスと今日買ったカシス。ワタシのはカルカソンヌで見つけた手作りのガラスの小鉢4個。後は冷蔵庫に付けるマグネットと皿拭きタオルくらい。おみやげどっさりはカメラ2台とスマホで撮りまくった写真で、2千枚くらいあるかも。思い出を楽しみながら整理をすると、いったいいつまでかかるやら。次のクルーズまで7ヵ月とちょっとなんだけど・・・。


旅の空から~バルセロナでガウディとの出会い

2021年10月30日 | 日々の風の吹くまま
10月29(金曜日)。🌥🌤(バルセロナ)。ちょっと怪しい雲行きだけど、今日は1日バルセロナ観光。朝ご飯は宿泊料金に含まれているので、8時近くなってロビーへ降りて行って、「a」という風変わりな名前のレストランでコンティネンタル・ブレックファスト。このレベルのホテルやレストランだとスタッフの英語のレベルもかなり高いので、何か普通に英語で通ってしまって、ときどきどこの国にいるんだっけ?みたいな気分になる。まあ、ヨーロッパはいろんな面で北アメリカとは違っているし、逆のことも多いから、そのたびにヨーロッパにいることを改めて認識するんだけど、楽しい違いもあれば、不便な違いもあって、どっちも異国の旅の経験として吸収するのが一番。

ツアーガイドさんが10時に来る前に、9時にドクターがホテルまで出張してくれて、帰国に必要なPCR検査。今回は鼻の奥に綿棒を突っ込む方式じゃなくて、小さい容器に唾を貯めるやり方。口をもぐもぐさせて唾を貯めてはペッとやって、もっと必要と言われてまたペッペッ。まあ、鼻をぐりぐりやられるよりは楽だけど、めんどくさいな。こんなの早く不要になってほしいもんだ。検体を採取して、クレジットカードで支払いをしたら、後は24時間以内に結果が送られてくるのを待つだけ。

予定通りにガイドのマールさんが来て、小路の外で待っていたダニエルが運転する黒いベンツに乗り込んで、まずはバルセロナに来たら何が何でも見逃せないサグラダファミリア教会へ。写真で見て知ってはいたけど、車を降りて見上げたとたんに想像を絶する規模に猛烈な感動。世界のどの言語にもぴったりする形容詞はないんじゃないかと言う気がする。マールが入口の彫刻の意味を説明してくれて、ガウディの思いや信条が何となくわかって来たような気がした。サグラダファミリアにはガウディに魅せられてカトリックに帰依してバルセロナに住み着いた日本人彫刻家がいて、その名は外尾悦郎。観光客がぞろぞろと通る門の扉『生誕の門』はすごい。見とれているとテントウムシやカブトムシやいろんな虫が草の中に潜んでいるのが見えて来て、自然の造形からインスピレーションを得たガウディの視線そのもの。直線がないのは自然の躍動感を表現しているからで、生命というものは常に動いているんだってことを言いたかったんだなあと、ワタシながらにナットク。教会の中に一歩足を踏み入れると、これまた形容詞が見つからないステンドグラスの壁に圧倒されて、ため息ばかり。

     

     

     

カルカソンヌからバルセロナに戻って来て一番先に感じたのは街並みの色彩の温かさ。やっぱりカタルーニャ人の色彩感覚なのかな。ガウディのデザインは一見奇抜な感じがするけど、バルセロナの街並みに見事に溶け込んでいて、違和感がないから不思議。丘の上にあるグエル公園(カタルーニャ語発音は「ウエル公園」)はいわば高級分譲地開発のプロジェクトのようなものだけど、発想が斬新過ぎて時代の先を行きすぎていたせいで不成功に終わったという。でも、バルセロナはガウディ、カタルーニャはガウディ。ガウディに始まってガウディに終わるという感じで、ワタシの中にも何かずんっとこみ上げて来るようなインパクトがあったように思う。見上げ過ぎて首が痛くなっちゃったけど。

     
 


旅の空から~カルカソンヌからバルセロナへ

2021年10月30日 | 日々の風の吹くまま
10月28日(木曜日)。☁(カルカソンヌ)。🌥🌤(バルセロナ)。寝坊しないように6時45分にセットしておいた目覚ましが鳴っているのになかなか目が覚めなくて、慌てて起床。EUはまだ夏時間なので、日の出は8時ごろで、外はまだ暗い中で朝ご飯。大好きになった山羊の乳のヨーグルトもこれでおしまい。陽気なおばちゃんともお別れ。朝ご飯が終わって出るときに、おばちゃんが大きな声で「オルヴォワール」。ワタシも手を振ってオルヴォワール。勘定を精算して、荷物をホテルの車でバルセロナからの迎えの車が待っている城壁の外の駐車場へ。カルカソンヌでは雷雨注意報が出ていたけど、バルセロナは晴れ。

バルセロナへ向かう高速道路はこのあたりの物流の大幹線ということで、大型トラックがずらり。フランスのトラック、スペインのトラックはもとより、デンマーク、イタリア、ハンガリーから来たらしいトラックも走っている。スペインからフランスに入ったときと同様に、フランスからスペインに入ったときも「ESPANA」という標識があっただけで、運転手のダニエルが「スペインにようこそ」と言うまで気が付かなかったくらい。何となく耳が詰まっていたのは、ピレネー山脈のしっぽのあたりをよっこらしょと跨いだからかな。スペインに入ってからは下り坂で、平坦になったあたりは農村風景。ワインの産地でもあるので、コルク樫の農場がある。家族経営の小さなワイナリーにはねじのキャップ式のびんに詰める設備は投資が大きすぎるのかな。コルクじゃないと何となく味気ない気もするしね。

バルセロナは170万人くらいがひしめく大都会。車が渋滞する車線の間をバイクがびゅんびゅん走り抜けて行くからすごい。スペインの国旗よりもカタルーニャ州の旗の方が多いのは、カタルーニャ人の独立志向がまだ根強いのかな。ダニエルは「政治家が角を突き合わせているだけで、一般のカタルーニャ
人はスペイン語も話せるから毎日の暮らしが平和ならどうでもいいって気分なんだ」。バルセロナでの宿Hotel Neriはゴチック地区の中心にあるゴシック様式の大聖堂に近い迷路のような小路の奥にあるいわゆるブティックホテル。ルレ・エ・シャトーのメンバーで、なかなか粋な感じだけど、隣に小学校があるらしく、部屋が面した中庭は休み時間で遊んでいる子供たちの歓声が少々うるさい。でも、反対側の道路に面した部屋は向かいのアパートからのロックが聞こえるようなので、一長一短かな。



部屋の準備ができるまでの間、その辺を歩いて来ることにして、この地区ではどこからでも目印になる聖堂の前でやっている骨董品の市みたいなマーケットを見学。珍しいものや懐かしいものがあって、見ている分には楽しい。聖堂前の広場からわりと大きな道路に出たら、ずっと先で何やらデモか抗議集会をやっているらしく、にぎやかなこと。でも、私たちはおなかが空いたのでCappuccinosというスタバのヨーロッパ版みたいな店に入って、ダブルエスプレッソとサラミのバゲットサンドイッチを楽しんでいたら、デモ隊がだんだん近づいて来て、なんかすごい騒ぎ。ランチを食べ終わって、外に出たら、うわっ、ものすごい数の参加者。しんがりがどの辺りなのかわからないので、道路を渡るのに、デモ隊の中に入って一緒に「行進」しながら少しずつ反対側へ移動して、何とか渡ったけど、あはは、ほんの1、2分ながら異国で何なのかわからないデモ行進に加わっちゃった。




旅の空から~地図を見ながら歩くのも楽しい

2021年10月29日 | 日々の風の吹くまま
10月27日(水曜日)。🌥🌤(カルカソンヌ)。今日は自由行動の日。ホテルの朝ご飯はコンティネンタルのバフェで、テーブルに着くと小柄でめっちゃ朗らかなウェイトレスのおばちゃんが「カフェ?クロワッサン?」と聞いて来るので、ウィ、ウィと答えると、熱々のコーヒーポットとクロワッサンとペーストリーを持って来てくれて、ボナペティ。クロワッサンはまだ温かで、サクサクとしておいしい。それにしても、カルカソンヌのあたりはすごく小柄な女性が多い感じで、チビのワタシより背の低い人もいるからびっくり。しかもみんな朗らかにきびきびと働いていて、2度目に会うと(アジア人だから覚えられやすいのか)にこにことフランス語と英語のちゃんぽんで話かけて来て、ワタシも負けずにうろ覚えのフランス語を交じえて答えるので、しまいには昔からの友だちみたいな気分になって来るからおもしろい。ワタシにとってはこういう束の間の触れ合いは旅の楽しみのひとつでもある。

昼頃になって、川向こうのカルカソンヌに行ってみようということになって、ホテルでもらった地図を頼りに、メインのナルボンヌ門の反対側にあるオード門から、川を渡る古い橋を目指しててくてく。いや、てくてく歩くというよりもごつごつと石を埋め込んだ坂道をバランスを取りながら下りて行く感じ。古い橋は歩行者と自転車専用なので、芝生刈り機の代わりに草を食んでいる羊と山羊を眺めながら川を渡ってバスティード・カルカソンヌへ。城壁の中を「シテ」と呼ぶから、こっちは言うなれば「郊外」かな。でも、日常生活とビジネスは全部こっち側にあるからおもしろい。バスティードの中心である広場に出て、ランチをどうしようかなと歩いていたら、お、カレフールのスーパーがある。大都市の郊外のような大きな店じゃないけど、レストランの食事は昼でも大盛り過ぎるから、ここでホテルに持って帰れるものを買って行こうということになって、店の中をつぶさに見学。




フォークを持ってくれば良かったと思っていたら、片隅の家庭用品の売り場に使い捨てフォークの袋があって、カナダで売っているようなプラスチックじゃなくて、何と木製。うん、さすがEUだな。フォークがあれば買って帰れるものが増える。サンドイッチやラップ、クロワッサンの他にニンジンのサラダ、ムール貝、パテを加えて、ビールを2本買って、意気揚々とシテへ。ごつごつの坂道は上りもかなりきつくて、カレシは膝が痛いと言い出す始末。石畳やこういうスムーズじゃない道路を歩いていたら、靴のかかとが擦り切れて、エアクッションが機能しなくなってしまったせいで膝に堪えるんだろうと思う。帰ったら真っ先に新しいウォーキングシューズを注文してあげなくちゃ。


カレシが昼寝している間に、ワタシはおみやげ屋巡り。何か子連れの観光客が多いなあと思ったら、フランスでは10月後半は学校が休みなんだそうで、そのせいで家族連れで旅行にでかけるらしい。どうりでみんなフランス語をしゃべっているはずだ。どの店もあんまり行儀がいいとは言えない子供たちがいっぱいでおみやげのおもちゃ選びに夢中。しょうがないから子供が欲しがるものを売っていない店を選んで買い物。鴨のコンフィとか名物料理のカスーレの缶詰があって、ラベルは(もちろん)フランス語なので、ついくるっと回して裏側を見たけど、あは、ここはフランス。公用語が2つあるカナダのようにフランス語の反対側は英語ってわけには行かないんだった。スーパーで買って来た食品はランチでは食べきれず、残った分は冷蔵庫に入れて置いたので、晩ご飯もスーパーの既製品。食べ過ぎて満腹になり過ぎると寝つきが悪くなるので、ま、こんなくらいがちょうどいいか。さて、荷造りしなくちゃね。


旅の空から~隠された財宝の謎

2021年10月28日 | 日々の風の吹くまま
10月26日(火曜日)。🌥🌤(カルカソンヌ)。今日のガイド兼運転手のエミールが「交通事故の渋滞で遅れてしまって」と言いながらやって来たのは午前9時半。いかにも地中海人と言う感じのおじさんで、こてこてのフランス語訛りの英語が愉快。車で1時間くらいのトゥールーズがベースで、夏の間はカナダのケベックから来る観光客のガイドで大忙しだとか。でも、「ケベックのフランス語はさっぱりわからないんで、英語交じりでやることが多いよ」だって。そうだろうね。ケベック人が固守する「フランス語」は400年くらいも昔の古いもので、現代フランス語とはかなり乖離してしまっているそうだから、ぶっちゃけ「ケベック語」と呼んだ方が良さそうな感じだもの。カナダでは英語とフランス語(ケベック州では一応フランス語のみ)が公用語になっているけど、学校で教えているのはフランスの現代フランス語。

山あり谷ありの南フランスの田園風景の中を走り抜けて、最初に訪れたのは多彩な謎や伝説があるレンヌ・ル・シャトー。マヤ歴が人類滅亡を示唆しているとされた2012年には世界中から大勢の人がこの小さな村に押しかけて来て、村人を驚かせたそうで、謎の財宝の話に交じってキリストの本当の墓所があるという伝説と関係があるのかもしれない。この村の今にも壊れそうな教会の司祭になった若いソニエールが短い間に教会を建て直し、豪勢な館を建てて、贅沢三昧の生活を送るようになったのは、隠されていた財宝を見つけたからだという話で、今でも秘宝の存在を信じて村のあちこちを掘りたがる人間が多いために、村の道路の一角には「発掘禁止」というお触書。ソニエールの死後に遺産を受け取った家政婦が住み続けていたけど、真相は一切語らないままで死んでしまったもので、謎は謎のまま。小説『ダヴィンチ・コード』に影響を与えたと言われるし、ギフトショップには謎解きを試みたノンフィクションの本がずらり。いろんな謎解きや新説を唱える本が書かれて、興味を持った人たちがたくさん訪れるようになったわけで、あんがい、「謎」そのものが隠された財宝だったりしてね。



ランチはミルポワという名の「バスティード」。バスティードと言うのは、13世紀から14世紀にかけて南フランスのあちこちに数百ヵ所も計画的に作られたコミュニティで、十字軍遠征から帰って来た兵士に定住場所を提供して行動を監視する目的もあったらしい。根本的には徴税しやすくする狙いもあったようで、住居の立て方や道路の幅にまで細かい規則があったと聞いて、何だか今どきのバンクーバーの建築条例や都市計画を思い浮かべてしまった。為政者のやることってそんな昔から同じで、究極的に支配と税金の取り立てってことか。町の中心に作られた広場は市が立っただけでなく、政治的、社会的な集合にも使われたそうで、ミルポワの広場は建設当時のままの建物が取り囲み、現在はそのほとんどがレストランやカフェになっていた。そのミルポワでエミールが奨めてくれたレストランで軽いランチ。ワクチン接種証明が必要なはずなんだけど、マスクをしていたからか、あるいは外国人だとわかったからか、提示は求められなかった。



ランチの後はシャトー・モンセギュール。ローマのカトリック教への改宗の圧力に最後まで抵抗したカタリ派が籠った、古城と言うよりは城塞の遺跡で、切り立った山の上にあって、けっこうな難所と聞いていたけど、行ってみたら、うはぁ~。ガイドのエミールが「45分から1時間くらいのハイキング」と言うので、じゃ、やぁ~めたっ。その代わり、城壁を見上げるモンセギュール村を散策。この辺りは起伏が激しくて、山の上に城塞、谷間に集落と言うパターンが多い。それにしても、よくあんなにも険しいところに堅固な石の城塞を作れたもんだなと感心する。そういう苦難や労力をいとわないほど、侵略や略奪の脅威が大きかったということか。「宝石や金の延べ棒のような財産を略奪されないように、わざと自分たちでさえ近づくのが難しいところを選んだのさ」。それでもねえ、城壁を組む大量の石、貯蔵する食糧、大事な宝物。いったいどうやって運び上げたのかなあ。




旅の空から~中世の城塞都市には歴史がぎっしり

2021年10月26日 | 日々の風の吹くまま
10月25日(月曜日)。🌤☀(カルカソンヌ)。何だか冷え込んでいる感じだけど、予報に反して晴れそうで、1年半も待ち焦がれていた甲斐があったというもの。コンティネンタルの軽い朝ご飯を済ませて、9時ちょっと前にロビーに降りたら、ちょうど今日のウォーキングツアーのガイド、ナタリーさんが来ていて、まずはホテルのすぐ隣のゴシック風の教会堂から。外側の塔などは修復のために足場が組まれていたけど、中に入るとステンドグラスがすばらしい。祭壇に向かって左側の円形窓が暗いのは夜を象徴しているからで、祭壇の中央には(文字を読めない信者のために)聖書のストーリーを描いた背の高いステンドグラスが3枚あり、右側には太陽(神の光)を表す明るい円形窓がある。

この地方はローマのカトリック教会組織に抵抗したカタリ派キリスト教徒の勢力が強かった時期があって、イエスをカトリック教会のように精神的な存在としてではなく、自分たちと同様に血肉を持つ人間であり、人間同士の助け合いや愛を説いたと捉え、一種の民衆運動のような様相を帯びていたために、ローマによって異端と認定されて迫害を受けたという歴史がある。聖母信仰が強く、女性でも宗教行事をつかさどったりすることができたそうで、カルカソンヌ育ちと言うナタリーさんの説明の端々にもローマから支配して来るカトリック教会の権威に対する反発が感じられて、ここでも地中海人の反骨精神を垣間見ることができた気がする。北のフランス王フィリップ二世が13世紀初頭に組織した最初の十字軍はこのローマの権威に屈しないカタリ派の掃討が目的で、異教徒に占拠されたエルサレムやキリスト墓所を奪還するのが目的になったのはもっと後のことだというから、人類の歴史というのはほんっとに何かと捻じれているもんだ。

カルカソンヌはフランスの外ではあまり広く知られていないらしいけど、ピレネー山脈の裾に沿って大西洋と地中海を蒸すむ重要な交易ルートだったために、古代からケルト人の市場が栄え、それに目を付けたローマ人が進出し、その後もケルト系のガリア人、ゲルマン系のゴート人や西ゴート人、ヴァンダル人、イスラム教徒のサラセン人、シャルルマーニュ率いるゲルマン系のフランク王国等々が何世紀もし烈な覇権競争を繰り広げた地域の要衝だったわけで、城壁の石の大きさや形の違いからその歴史の変遷を読み取ることができて、興味は尽きない。城塞の中の一角にあるシャトー・コムタの博物館の一室に大切に保存されている中世の壁画があって、馬に乗ったカトリックの騎士とイスラム教の騎士の一騎打ちの場面から、中世の大叙事詩『ローランの歌』の話になって、うん、援軍を呼ぶのに角笛を吹いて、吹いて、息が切れるまで吹きまくって、でも死んじゃったのよねと言ったら、「あら、ストーリーをご存じなのね」とびっくりした表情。そうだなあ、古すぎるのか、学校の教科書でほんのさわりだけに遭遇するくらいだけど、かって映画脚本講座で書いた脚本の中で使ったので、かなりリサーチしたの。

こうして2時間の予定が2時間半になってしまったけど、「今日は1件だけなので大丈夫。私も楽しかったからうれしいわ」とナタリーさん、育った故郷の実に豊かな歴史を情熱的に語ってくれて、そこらの教養講座では得られないような奥の深い勉強をさせてもらった気分で、ほんとに来られてよかった。メルシ・ボクゥ。




旅の空から~さようなら、シルバーシャドウ号

2021年10月25日 | 日々の風の吹くまま
10月24日(日曜日)。☁🌤(バルセロナ→カルカソンヌ)。朝6時半に起きて、下船の準備。夜の間に勘定の精算書が来ていて、開けてみてびっくり。パッケージには船の上で使えるクレジットがだいたい1人100ドルほど(船の上ではアメリカドルが標準通貨)ついてくるんだけど、精算書を見たら1件だけどんと1000ドル。セールで大きな額がつくことがあるけど、航行中に増えることはまずないのに、合計で1500ドルのクレジット。予約して前払いしてあった寄港地でのツアーの代金とプレミアムWifi(1人2台のデバイスを使える)の料金と相殺すると、クレジットカードへの請求額はたったの46ドル。うはぁ、日本だったら4500円くらいかな。すごい出血サービスだけど、いいのかな。朝ご飯を済ませて、忘れ物がないか今一度確認していたら、バトラーのデンバが来てさよならのあいさつ。来年の6月にはシルバームーンで北ヨーロッパを回るから会えるといいねと言ったら、「2月から11月までムーンに配属されることが決まっているんですよ」とのこと。おお、じゃあ、船のどこかで会えるねえ。私たちの船室の担当だったらなおいいなあ。それじゃあ、来年また会うまでのさよならってことで、故郷のアフリカでの2ヵ月の休暇はしっかり休養して来てね。と、8時前に船室から退去して、デッキ5のラウンジで預けてあったパスポートと陰性証明を受け取って、下船の順番待ち。

オレンジタグの番になって、船から空港にあるようなブリッジを渡ってクルーズ・ターミナルへ。スーツケースを引き取って、待合室に出て待つこと10分ほど。カルカソンヌまで送り届けてくれる運転手が黒光りのベンツで来て、いざ、乾燥した田園風景の中のモダンなハイウェイをカルカソンヌに向かって3時間ちょっとのドライブ。交易の要衝だった地中海沿岸の歴史を反映してか、ちょっと高くて険しそうな丘があると、相当な確率で頂上に城塞のような遺構が見えるし、風が強い地方なのか、あちこちに風力発電の白い風車が立ち並んでいて、新旧のコントラストがおもしろい。運転手のダニエルが「フランスに入りますよ」と言ったけど、フランス語の標識が立っていた以外は「国境」を示すものは何もなく、スピードを落とすこともなかったからびっくり。スペインの方が物価が安いということで、国境の手前の小さな町には場違いに大きなスーパーがあって、フランスからの買い物客で賑わっているんだそう。まあ、古代からオクシタン語と言う共通言語を持っていた人たちだから、近代の国境観は薄いのかもしれないな。

カルカソンヌは12世紀に造られた城壁に囲まれた部分がユネスコ世界遺産で、実際に住んでいる人は50人に満たず、4万6千人の市民は川を隔てた新市街に住んでいるそう。一般車両は乗り入れることができないので、城壁の外にあるホテルの駐車場に止めて荷物を下ろし、許可のあるホテルの小型車にバトンタッチ。東西南北4ヵ所にある城門を入って、ホテルまでが細い道を日曜日のせいかたくさん歩いている観光客をかき分けるようにのろのろ、くねくね。どこを見てもおみやげ屋にカフェにレストランと言う感じで、外から見る城壁の威容とはまるで別世界の感。ここから1週間は私たちだけの旅。去年の5月初めの予定から遅れに遅れること1年半でやっと来れたわけで、いや、長かったなあ。




旅の空から~クルーズの終点バルセロナに到着

2021年10月25日 | 日々の風の吹くまま
10月23日(土曜日)。☁🌤☀(バルセロナ)。午前8時ちょっと前に私たちのクルーズの終点であるバルセロナに入港。船は明日の夜にマラガに向けて出港するそうで、カディスの後はジブラルタル海峡を抜けて大西洋のカナリア諸島を回って、リスボンが最終的な終点。地中海の観光シーズンが終わったので、大西洋に出て暖かいところへ移動するんだろうな。Silverseaには、AとBの間のクルーズの他に、AからB、BからC、CからD、DからEと言うように、1週間から10日のクルーズをつないだグランド・クルーズと言うのがあって、AからCまでとか、BからDかEまでとか、暇がたっぷりあればAからEまでぶっ通しとか、予算と時間に応じて選べるようになっている。

乗客定員が一番大きな船でも600人足らずの小型の船ばかりだし、子連れ向きの設備が何もないし、若い世代が遊べるような娯楽もないので、船にはお金と暇を持て余していそうな高齢者ばかり。私たちも高齢者に違いないけど、もっと年が上で杖を突いていたり、歩行器を使っている人たちもけっこういて、口の悪いカレシなんか「老人ホームみたいだ」。おいおい。でも、そういう人たちが、上げ膳据え膳で何週間ものんびりとリタイア暮らしを楽しんでいるんだろうと思う。私たちも来年の6月に北ヨーロッパのグランド・クルーズ5区間のうち最後の2区間を合わせて、アイスランドのレイキャヴィクからノルウェイ、デンマーク、エストニア、ロシアのサンクトペテルブルク、フィンランド、スウェーデンと回ることになっていて、船旅は3週間、前後のレイキャヴィクとストックホルムでの2日か3日を加えると1ヵ月の大旅行。でも、カレシは79歳、ワタシも74歳だから、「いずれそのうちに」という選択肢はほとんど残っていないのよね。

今日は下船前の抗原検査があって、船を降りるときに印刷した陰性証明書をもらえることになっている。航空会社もワクチンの完全接種だけじゃなくて、陰性証明も要求するところが多いから、無料の検査は特にイギリス人の客にはありがたいサービスだろうな。(カナダの場合は搭乗72時間前以内のPCR検査結果を事前に送って隔離免除の承認を得る必要がある。)抗原検査は今回で2週間のうちに3回目で、PCR検査みたいに鼻の奥まで綿棒を突っ込まないので、ちょっとくすぐったいだけで簡単なもの。4回目のコロナ検査になるわけだけど、今回もあっさり陰性。毎朝の検温もコンスタントに合格圏だったから、あんがい家にいるよりも安全だったかもしれないな。

午後はそろそろ荷造り。下船する時間帯と行く先によって預ける荷物に付けるタグの色が違っていて、私たちはターミナルでの出迎えが9時なので、8時台下船でホテルにも空港にも行かないから、タグはオレンジ色。飛行機に積むわけじゃないし、車でカルカソンヌのホテルまで運んでもらうだけなのでので、夜と朝に必要なものだけを残して後はざっくり。タグを付けたのを午後11時半までに船室の外に出しておくと、夜中に集めに来て、朝船から降ろしてくれるので、ターミナルに降りたら受け取るだけのこと。まあ、狭い廊下を大勢が大きなスーツケースを押したり引っ張ったりしたら大混雑になるだろうかな、船室の大掃除をして午後には次の船客を入れるための手順と言った方がよさそうかな。うん、いよいよ明日の朝には船を降りて、一路フランスはランゲドック地方の城塞都市カルカソンヌへ。まともなWifiがあって、写真をたくさんアップロードできるようになるといいなあ。


旅の空から~地中海の小さな島々の豊かな歴史と遺産

2021年10月25日 | 日々の風の吹くまま
10月22日(金曜日)。☁🌥🌥☁(パルマ・デ・マヨルカ)。午前1時半くらいだったか、ドタン、ゴロゴロという騒音で目が覚めて、何だよぉ~とイラついていたら、カーテンの隙間からピッカァ~、そしてすかさずドッタン、ゴロゴロ。あは、雷っ。船長が次の寄港地への到着が遅れるかもしれないと言ってたのは、雷雲を避けてちょっぴり遠回りするということだったのかな。海の上の雷鳴は地上の空の雷鳴とは何となく音の質が違うなあ、なんて思いつつ、寝返りを打って顔がベランダの方を向いたとたんにまたまたゴロゴロ。起き出してトイレに行ったついでにカーテンの隙間から外を見ていたら、うわわわ、暗い空いっぱいにみごとな稲妻の乱舞。コロンブスも古代のギリシャ人もフェニキア人もきっとこんな雷雨を見たんだろうな。さぞかし怖かっただろうな。いや、勇敢な海の男はなんぞこれしきって気概で恐怖心を乗り越えたんだろうな。

盛大な雷鳴も数回聞いただけで、船はほとんど遅れずにマヨルカ島のパルマに入港。バレアレス諸島はスペインの自治州で、主言語はカタロニア語のマヨルカ方言だそうな。どうりで市内観光のバスの窓から見る標識が意見してスペイン語なんだけど、どうも(ワタシが昔かじった)スペイン語とはちょっと違っているはずだな。マヨルカ島の歴史も新石器時代から人が住み着いていて、地中海での地理的な位置が良すぎたために、東からやって来たフェニキア人が植民地を作り、北アフリカのカルタゴの支配下に入り、ローマ帝国の支配下に入り、ヴァンダル人に侵略され、イスラム教国の支配下に置かれ、東ローマ帝国に取り込まれ、と中世にスペイン本土のアラゴン王国の支配下に入るまで、実に波乱万丈。

ツアーはまず船から見える高い丘の頂上の城塞。最初は弓矢と石が攻略の武器だったので、矢を放つための細い隙間が開き、塔の頂上には登ろうとする敵の上に熱湯や石を落とすための穴がぐるり。大砲が登場してからは塔の周囲に空間を作るために外側に新しい城壁を作って防戦。塔の周りは水のない掘で、地下には貯水槽があり、城塞に使われているこの地域特有の石灰岩によって自然にろ過された雨水を貯めていたそうで、敵に包囲されたときは領主の一家が高いところにある橋を渡って塔に移り、橋を破壊し、貯めた水と貯蔵してあるナッツやイチジクといった乾燥食物で何週間も籠城したんだそうな。いやはや、地中海諸国の歴史は攻めたり、攻められたり、征服したり、征服されたりの長い長い戦国時代だったようなものかな。

ツアーの後半は、これも船から見えていた大聖堂。隣接する14世紀の王宮は迎賓館になっていて、アメリカのクリントン大統領が滞在したときに掲揚したアメリカ国旗がいつも翻っているスペイン国旗の4倍も大きかったもので「アメリカに侵略された」と言うジョークが飛び交ったらしい。王宮の上の像は大天使聖ガブリエルで、金属で風見鶏として作られたので、風向きに従ってあっちを向いたり、こっちを向いたり。おかげでマヨルカでは聖ガブリエルは移り気で信用ならない人間の代名詞になってしまったとか。大聖堂は14世紀のゴシック時代に建設が始まって、完成まで370年もかかったそうで、その間に移り変わる装飾文化を取り入れたので、イスラム風だったり、ルネッサンス風だったり。チャペルや所蔵品を見て回って、最後に出た礼拝堂で、壮大なステンドグラスに息をのんでしまった。中でも大きな円形窓から差し込む日差しが柱や壁にステンドグラスの色を映し出していて、見とれているうちに、これがスペイン人(というかカタロニア人)の色彩感覚の源泉かもしれないなあと思ったくらい。観光客が大挙して押し寄せる小さな島の観光地だと思っていたけど、地中海の要所に浮かぶマヨルカにはその豊かな歴史がぎっしり詰まっているという感じだった。


旅の空から~パエリャ、パエリャ、おいしいパエ~リャ

2021年10月23日 | 日々の風の吹くまま
10月21日(木曜日)。☀🌤🌥(バレンシア)。夜明けの空の下、バレンシア港が近づいて来るのを見ながら朝ご飯。しずしずと入港して、接岸は午前8時。今日のツアーは出発が10時過ぎなので、朝ご飯の後でのんびりとウォーキング。デッキ9はプールを下に見下ろすジョギングトラックになっていて、12周すると1マイル、つまり1.6キロ。船尾の方には沈みかねている月(満月かな?)、船首の方は登って来る朝日。今日もいい天気になりそうで、予想最高気温は何と26度だって。

朝のうちにWifiの状態をお試し。通信衛星の位置次第と言うことだけど、だいたい7時前はわりと早く繋がるのは朝のラッシュ前の道路みたいなものかな。そこで早めに起きた朝は、それっと前の日にアップロードし損ねたものを上げて朝ご飯と言うルーティーンができて来たからおもしろい。ベランダから入る日差しが強くて、出かける頃には「暑い」。でも、今日のツアーはバスを降りて歩き回るのは少なそうと見込んで、袖なしのTシャツにスカート。行く先は保存されているバレンシアの古い地区にあるパエリャ専門のレストランで、そこでパエリャ作りを見学して、できたのをバレンシア地方のワインを飲みながら試食するというもの。

バスは驚くほどモダンな建物が並ぶ広々とした道路を走り抜けて、中世からある(スペイン式)長屋の間に石畳の道路がある「景観保存地区」みたいなところで、いかにも地中海らしい雰囲気。レストランは高い天井、ムーア人が残していったというアラビア風のタイルの壁がすてき。テーブルのひとつにパエリャに欠かせない材料が置いてあって、そのひとつはサフラン。ガイドさんがひとつまみ紙の間に挟んで、上から鉛筆をころころ。「子供の時によくテレビを見ながらこうやってサフランを粉にしたの」。そっかぁ。そうやって粉にしないと、北米ではばっかい高いサフロンの色も風味もでないってことかあ。粉にしてしまうとすぐに風味がなくなるから、1本ずつ摘み出した雌しべのままで保存しているわけか。ナットク。もう一つのテーブルにあったのはスペイン風プロシュット。どんぐりだけを食べて育てられた豚の肉で作ったそうで、そういえばだいぶ昔に日本ではやってなかったかなあ、イベリコ豚ってやつ。試食してみると、脂身までがすんなり味わいに溶け込んで、リッチだけど脂っぽくなくて、なかなかいい。

さてさて、パエリャを作り始める段階になって、ガイドさんが「バレンシアではパエリャを作るのは日曜日の男の仕事なんです」と言って、ツアーのだんな諸氏にエプロンを支給。もちろんカレシもエプロンをして、やけどをしないためのゴム手袋をして、キッチンで行列。バレンシアオレンジの木を燃やして、カレシも渡されたへらで浅いパエリャ鍋を大まじめにかき回すのに懸命。けっこう楽しそうだったけど、後で聞いたら「熱かった」。あはは。一緒のテーブルになった2組のアメリカ人夫婦と和やかな会話を楽しみながら舌鼓を打ったパエリャは極上だった。帰ってから、あの歯ごたえのあるパエリャを作ってみたいけど、たぶんお米の種類からしてアジアや北アメリカとは違うんだろうな。スペインのお米、手に入るかなあ。それにしても、いやぁ、ほんっとにおいしかったぁ。


旅の空から~船上での1日は海と空が会うところ

2021年10月22日 | 日々の風の吹くまま
10月20日(水曜日)。🌥🌤(フランスとスペインの間)。マルセイユから一路スペイン南部のバレンシアへ。今日は「Day at Sea」、つまりどこにも寄港せずひたすら航海する日で、朝ご飯のレストランが開くのもいつもより30分遅い。午前中に中間の抗原検査がある以外は、みんな1日中船の上でいろんなアクティビティに参加したり、天気が良ければプールサイドで日向ぼっこをしたり、ベランダで読書をしたりの、まあ、休養日のようなものかな。

ローマから始まって、イタリア語圏のイタリアン・リヴィエラからフランス語圏のフレンチ・リヴィエラと地中海を旅して、スペイン語(カタロニア語)圏のバレアレス海に入って来たわけだけど、人種的にも文化的にもあまり大きな違いがないような気がするのは、古代からギリシャ人、ローマ人、サラセン人、ムーア人その他との侵略や交易での活発な交流によって「地中海文明」というひとつの世界を構成していた「地中海民族」だからだろうな。長い歴史の変遷が現代に至るまでの間に、ギリシャ人、イタリア人、フランス人、スペイン人という線引きが出来上がったんだろうけど、きのうのツアーガイドは、自分のおばあさんがイタリア人、バスの運転手のコンスタンティンは半分ギリシャ人だと、いろんな血が混じっているのが当たり前みたいな口調だったのが印象的だった。

どこへ行っても古代ギリシャ人やローマ帝国の遺跡があるし、その前には海洋民族フェニキア人が地中海東部から進出して来てオリエント文明を広げたし、おそらく現代の地中海人は所属する国家は違ってもフェニキア人に始まる共通の遺伝子を持っているんだろうな。おもしろいことに、イタリア語圏のポルトフィーノではミラノ生まれのガイドが「このあたりから南では北部の人間は侵略者扱いなのよ」と言い、フランス語圏のニースではパリ方面から来るバカンス客は必要悪の扱いだと言い、アクセルは「マルセイユの人間はパリジャンが大嫌いなの」と言っていて、リヴィエラ地方の人たちが所属する国家は違ってもある意味で共通した同族意識に近いものが感じられた。

ガイドのアクセルによると、マルセイユはかってイタリアからフランスまで続くリヴィエラに君臨したサヴォイ王家の支配下にあって、地中海方言のプロヴァンス語を話していたそうで、それがサヴォイ王家の衰退でフランス(パリ)の支配下に入って以来、フランス語化を強制されたために母語のプロヴァンス語を失ったり、さらには免税を条件に構築させられた要塞が完成したとたんに税金を取り立てられるようになったりの苦難続き。そのせいでマルセイユっ子はポンピドーが大統領だったときには、アメリカのケネディ大統領と仲が悪いと聞いて「ポンピドー通り」を「ケネディ通り」に変えて留飲を下げたくらい、パリの政府が大嫌いなんだそうな。怨恨の根底に言語が絡んでいるところは興味深いな。世界には征服者がその言語を強要することで被征服者の言語を奪い、屈服させた歴史は、近代にいたるまで数えきれないくらいあるもの。


旅の空から~マルセイユは想像とは全く違っていた

2021年10月21日 | 日々の風の吹くまま
10月19日(火曜日)。🌤🌤(マルセイユ)。朝焼けの山の上に聳え立つノートルダム・ド・ラ・ガルド聖堂の聖母像に見守られるようにしずしずとマルセイユに入港。接岸したのは旧港に近い埠頭で、リヴィエラの風物みたいな赤っぽい建物が並び、目の前にもうひとつの大聖堂。ベランダから見える防波堤のずっと向こうに(ズームインしたら)大型のクルーズ船が何隻か停泊中。乗客定員380人のSilver Shadow号は今どきのクルーズ船としては小型なので、街中に近い港の普通の埠頭に接岸できるという利点があるし、何よりもいかにも「客船」という感じなのがいいな。何千人もの客を乗せる大型の船は、遠くから見るとどうしても超満載の巨大コンテナ船みたいに見えてしまうもの。ジェフの話だと、ああいう大きな船には中央に窓のない小さな船室がずらっと並んでいるんだって。まあ、激安なのが売り物なんだろうから、ダイヤモンドプリンセス号のようなことがなければ、それはそれでいいと思うけどな。

今日のツアーは『マルセイユのハイライト』。遠くアヴィニョンやエクス・アン・プロヴァンスまで行くツアーもあって、アヴィニョンの橋は見てみたい気もするけど、丸1日のツアーはかなりのエネルギーがいりそうだから、近場でということで、まずは入港する時に高い丘の上にひときわ目立っていた大聖堂へ。バスを降りてから、幅の広い石の階段をてくてくと百何十段も歩いて、ちょっと顎が出ちゃったけど、聖堂の回りを1周してマルセイユの市街をぐるりと一望のもとに俯瞰。ある大金持が聖堂よりも高い邸宅を建てたところ、お役所から聖堂より低くせよと命令されたというくらい、マルセイユっ子がBonne Mere(良き母)と呼んで愛してやまない聖堂はマルセイユのシンボル。沖に有名なシャトー・ディフが見える眺望もさることながら、聖堂の中は息をのむようなすばらしさ。撮影禁止になっていないことを確かめて、聖堂の中の写真を撮りまくり。船にまつわる装飾が多いのも漁師と船乗りの町マルセイユらしい。ケベックのモントリオールの旧市街にも海に向かって立つ聖母の像のある教会に「ご無事をお祈りします」というようなメッセージがあったな。

聖堂のギフトショップでクリスマス用の飾りを買って、やっと目的をひとつ果たした気分。マルセイユ2つめのハイライトはロンシャン宮殿。宮殿と名付けられているけど、市内を川が流れていないことから水不足に悩まされたマルセイユが遠くの川から水路を作って十分な水を確保したことを記念する巨大な噴水が鎮座する建造物を中心とする公園。マルセイユは世界で唯一市内に川がない大都市なんだそうで、湧き水に頼っていたのが人口が増えて需要を賄えなくなって、1人1日1リットルとかいう極端な配給制を敷いたこともあったそうな。それが原因で衛生状態が極端に悪化して、コレラが流行して市の人口の半分が死んでしまったこともあるという。それを機にマルセイユに水を引くための運河を掘ったんだそうで、以来、水不足は解消したという。

旧港の公園に近い、古代ギリシャ人の港の遺跡の発掘現場でバスを降りて、40分ほどの自由行動。古くからの雑然として薄汚れた港町を想像していたけど、1970年代に悪評を一掃する努力をしたんだそうで、悪名高いスリを駆逐することはできなかったけど、以来マルセイユは安全で魅力的な街に変身。土地っ子のガイドのアクセルさんがショッピングモールのスーパーで名物のパスティスやピコンを売っているというので、さっそく探検。ニースでもそうだったけど、びっくりしたのは公衆トイレが有料なことで、50ユーロセントが標準料金らしい。モールのトイレには両替機まであって、自動改札機のようなゲートでコインを入れて、通せんぼのバーが開いたら中に入るしくみ。それと、モールにはどこに何があるのかを示す標識がないことにもびっくり。駐車場への標識だけはなぜか英語で「Parking」と書いてあってまたまたびっくり。だから海外旅行はおもしろいわけで、案内所で怪しげな英語的フランス語でスーパーの場所を聞いて、やっと見つけたところでパスティスを買って、マルセイユでの1日はおしまい。うん、また来たいねえ。


旅の空から~石畳の細道をどこまでも

2021年10月20日 | 日々の風の吹くまま
10月18日(月曜日)。☀☀(ニース)。午前8時。朝ご飯を食べている間に、3つ目の寄港地ニースに入港。当初の予定ではポルトフィーノの次はイタリアの隣のモンテカルロだったんだけど、モナコが今年いっぱいクルーズ船を受け入れないことにしたので、急遽モナコを通り過ぎて隣のフレンチ・リヴィエラのニースに変更。埠頭近くの建物の色合いがポルトフィーノと同じなのは、同じサルディニア産の石を使っているということかな。イタリアからフランスまで(たぶんスペインまで)、国が違っても、言葉が違ってもあまり違和感がないのは、リヴィエラが古代ギリシャ人の時代から「地中海文化」を展開して来たところだからだろうな。きのうの夜にポルトフィーノを出てから、遠い水平線に沿って人間が住んでいることを示す小さな明かりが一晩中瞬いて見えていたっけ。

今日は5時間のバスツアーで、まずはエズという村。夏はバカンス客で大賑わいだけど、今はひっそり。バスを降りて、頂上の教会を目指して、くねくね、ジグザグと石畳の坂道を登りながら、よくこんなそそり立つようなところに住み着いたもんだと感心。でも、高ければ高いほど遠くが見えるし、地形が険しいほど海からの侵略に備えやすかったのかもしれないな。古代の世界地図では海を囲む国々の向こうはTerra Incognita(ラテン語で「未知の地」)となっていて、豊かな地中海はそれこそ「世界の中心」。経済や社会の覇権競争にしのぎを削ったのは今と同じだったんだろうな。でも、そうやって栄えた地中海文明も、やがて背後の「未知の地」からの脅威に晒されるようになったわけで、歴史ってほんとにおもしろい。

バスに戻って、今度はサンポール・ド・ヴァンスへ。ヴァンスという町にあるアーティスト村で、エズと同じように一番高いところまで、石畳の坂道がくねくね。でも、よく見ると一貫したデザインが見て取れる比較的新しい石畳で、両側はすてきな絵や工芸品、装飾品を売る店がずらり。ウィンドウに飾ってあった画家のサイン入りのコートダジュールの風景画が気に入って、値段も手ごろだったので買おうかな、どうしようかなと散々迷った挙句に、カレシに「飾れる壁がないじゃないか」と言われて断念。ほんどに気持が明るくなるような色合いのすてきな絵だったんだけどなあ。

坂道を歩いてくたびれての船への帰り道は、海岸に沿って延々と続く遊歩道プロムナード・デ・ザングレ。19世紀にこの地に保養にやって来た裕福なイギリス人たちの構想から生まれたから「イギリス人の遊歩道」。ベ・デ・ザンジュ(天使の入江)の名がほんっとにぴったりする、透き通るようなきれいな青い海に面してすてきなホテルがずらりと並んでいて、バカンスシーズンが終わって少し静かになったところだそうだけど、道路を縁取るように並んだおしゃれなレストランやカフェのパティオはけっこうなにぎわい。船に戻ってちょっと遅いランチを済ませて船室でくつろいでいたら、海の方からにぎやかな声。ベランダに出てみたら、わっ、練習をしているらしい赤い帆のヨットの列。目の前の防波堤には釣り糸を垂れている人たちが点々。やがて、燃えるような夕日・・・。


旅の空から~沖のクルーズ船が我らのヨットなの

2021年10月20日 | 日々の風の吹くまま
10月17日(日曜日)。☀☀(ポルトフィーノ)。目が覚めたらもう8時で、2つ目の寄港地ポルトフィーノの沖にすでに錨を下ろして停泊中。今日のツアーは9時半集合なので、慌てて飛び起きて身支度。それにしてもよく眠ったもんだ。きのうは午後に3、4時間も昼寝をしたのに、まだ寝足りなかったのか、9時間も眠ってしまったんだから、びっくり。もしかしたら、巣ごもりしているうちにそのくらい年を取ってしまったということなのかな。だとしたら、ほんとに2年というシニアにとっては黄金の時間を盗まれたような感じで、ワタシの貴重な時間を返してくれぇと叫びたくなるくらい。

急いで朝ご飯を食べて、急いで支度をして、滑り込みセーフで補給船に乗り込んで、ポルトフィーノへ。小さな入江を急な斜面が囲んでいるような小さな村(住民登録をしているのは500人くらいで、後は別荘を持っていて長期滞在する金持)だから、当然たとえ小さくてもクルーズ船が接岸できるような施設はないので、沖合いに停泊して、tenderと呼ばれる補給船を下ろして、ツアーに参加する客の送り迎え。イタリアン・リヴィエラだけあって、白い帆を張った大きなヨットがゆったりと波に揺られ、マリーナにはレジャーボートがひしめき合っている。マリーナを囲むように広がるピアツェッタには日よけの下にテーブルを並べたおしゃれっぽいレストランやカフェ、その上は緑色のよろい戸を付けた両開き窓。オレンジっぽい赤や黄色の壁が多いのは、サルディア島特産の石を使っているからだそうで、まるで絵に描いたような、いかにも地中海らしい明るい風景。でも、建物の正面をよぉ~く見ると、一見して普通の窓なんだけど、実は「絵に描いた窓」だというのがあちこちにあるからおもしろい。何でも昔、昔、ときの王様が「窓」に税金をかけたもので、一計を案じた住人が窓の数を減らして税金を軽くしようと、壁に窓の絵を描いたんだそうな。いつの世も税金には頭を悩ましているのは変わりがないってことか。

陸に上がって、待っていたツアーガイドと合流して、まずは丘の上にあるチャペルと岬の突端にある灯台。平地は猫の額以下で、すぐに崖が切り立っていて、家々がへばりついているという感じ。くねくねと上って行く坂道は人間2人がすれ違えるだけの狭さで、けっこう急なのでところどころに階段が2、3段。背丈より高い塀に挟まれた道路の両側は住宅で、それとわかるのは門があるから。つい日々の食料品の買い出しはさぞ大変だろうなと思ったのは、ワタシが庶民だからかな。でも、かなり高いところにあった門の脇に自転車が見えたのにはびっくり。だって、自転車で坂を下りるのはスピードが出すぎそうで怖いし、上るとなるといっくら踏ん張ってぐいぐいとこいでも、5メートルも上がらないうちに息切れしちゃいそう。まあ、素敵なヴィラにお住いの奥様はご自分でスーパーになんぞおでましにはならないだろうけど。

坂道を上がって、坂道を下がって、ピアツェッタに戻って来た頃には1週間分のウォーキングをまとめてやってしまった気分。おみやげ屋をのぞいてみたいと思ったけど、地元のコロナ規制で団体で来る観光客は団体のままで行動して、ショッピングなどの個人行動はご法度になっているということで諦めざるを得なかった。ワタシが欲しかったのは冷蔵庫のマグネットともしかしたらご当地がテーマのクリスマスツリーの飾りくらいのもので、デザイナーブランドのショップに入る気はさらさらなかったんだけどな。でもまぁ、コロナ規則はめんどうでもちゃんと守る方が自分の安全、周りのぜんぜん知らない人たちの安全のためだから、文句は言いっこなし。ぶらぶらしているうちに補給船が来て、モーターボートが蹴立てる波にもまれながら、Silver Shadow号へまっしぐら。沖の真っ白なクルーズ船は私たちのヨット。お金持諸氏のヨットよりもずっと大きいぞぉ、なんてね。(WiFiの接続がおぼつかないので写真はお預けってことで・・・。)


旅の空から~クルーズ船のWifiは何とも心もとない

2021年10月18日 | 日々の風の吹くまま
10月16日(土曜日)。☀☀(リヴォルノ)。まだ何となく時差ぼけとロンドンでの大迷惑のストレスの影響が残っているのか、寝つきが悪くて、2人ともエネルギーが枯渇したような気分で目が覚めた。寝不足にめっちゃ弱いカレシは、ロンドンからの寝不足を引きずっていて、おまけにインターネットの接続状況が悪かったもので、イライラしてよけいに寝つきが悪いようで、ご機嫌ななめの感じ。それで、今日は午前8時半からルッカと言う町のバロック風庭園のツアーを予約してあったのをキャンセル。料金は払い戻しがないので、キャンセルと言うよりもやり過ごしたという感じかな。もったいなくもあるけど、とにかく1日のんびりして、午後には昼寝でもして、バッテリを充電しなくちゃ埒が開かない。

地上のWifiネットワークと違って、クルーズ船のWifiは通信衛星が頼りなので、船がいるあたりに衛星がなければ、いくら粘ってもインターネットに接続できないのが悩ましいところ。近くに衛星があっても、コンピュータなりスマホからテキストや写真をアップロードしようとすると、シグナルが何万キロ上空の衛星に届くのに時間がかかるし、その衛星からさらに地上の中継局にシグナルを送るのにさらに何万キロの旅。そこから地上のネットワークに入るのにまた時間がかかって、うまく行く時でもめちゃくちゃ時間がかかる。うまく行かないときはそれこそインターネットなんかないのと同じで、イライラが募ること甚だしい。ゆうべはだいたいそんな雰囲気で、ブログや写真のアップロードはほぼ全滅。とにもかくにも、今いち説明がよくわからないモノやサービスがあふれていて、デジタル時代のずっと前(昔)に生まれたワタシたちはつい紙のマニュアルを期待するんだけど、そのマニュアルが見つかっても、やっぱり今いち首を傾げることばかり。

集合時間に間に合わせる必要がなくなったので、朝ご飯はのんびりとバフェ。船が満員なら乗客数は380人というところだけど、デンバによると今回は154人。うは、定員の半分以下じゃないの。バフェのあるLa Terrazzaに行くと、どう見ても客よりもスタッフの方が圧倒的に多いし、それで採算が取れるのかと思ってしまうね。とにかく人が少ないから、至れり尽くせりのサービス。バフェのお皿は外でお盆を構えて待っているスタッフがテーブルまで運んでくれるし、ワインを頼めばどんどん注いでくれるし、晩ご飯のときは、カレシが大盛りのサラダを食べたいと言ったら量を倍にしてメインコースにしてくれるし、ワタシが子供サイズだといいんだけどと言ったら、コース料理を半分サイズで作ってくれるしで、いやぁ、徹底的にスポイルされてしまいそう。(もしかしたらウェストのサイズも・・・。)

午後になって、ついに睡魔に抵抗できなくなった2人。どたっとベッドにもぐり込んで昼寝。1時半ごろの話だけど、ワタシが目を覚ましたのは何と4時半で、カレシはまだ高いびき。ベッドから出たら、うっはぁ、体が1トンもある岩石みたいに思い。ふだんは昼寝をする習慣のないワタシだからなのか、こんな経験は初めて。とにかく歩き回って何とか体の感覚が戻って来たけど、あの重さは何だったんだろうな。カレシが目を覚ましたのは6時近くになってから。7時過ぎになって、おなかが空いて来たので、4階のメインのダイニングルーム。その名もずばり「The Restaurant」。少しばかり気分が良くなって、頭もさえて来たような感じなので、早々と10時半には就寝。2人ともあっという間に眠ってしまったらしい。やっぱり疲れていたんだろうな。疲れやストレスを癒すのがバケーションだろうに、せっかくのチャンスをコロナのストレスやら、英国航空(BA)の何とも手際の悪い対応でぶっちぎれそうになった神経で台無しにされたくないよね。しっかり寝ようね。おやすみぃ~。