能力の形が違うってことで
6月16日。二人ともわりと良く眠った気分で同時に目を覚ました。「起きる?」 ん~、まだ・・・。「腹へった~」。ん・・・。そうやって10分ほどのクオリティタイム。ロマンスもすきっ腹には勝てないから、ごそごそと起きて1日が始まる。カレシは今夜の教材の準備。ワタシは今日、明日、あさってときれいに並んだ納期のその1の仕上げ。発注元がアメリカ企業の団体なもので、英語的「英語」に訳してもちゃんと通じるし、ときには「花丸」フィードバックをくれたりするから気分が楽でいい。
テレビではこの夏に総選挙があるかどうかで騒いでいる。野党第一党自由党のイギーことイグナチエフ党首が雇用保険制度問題や政府の経済運営で「金曜日までに納得のいく説明がなければ不信任案を提出する」とぶち上げたけど、その金曜日はとっくに過ぎて、月曜日まで待ってやると言ったはいいけど、きのうも何も起こらなくて、今日もまた首相官邸を出たり入ったり。野党連合で保守党少数政権を打倒しようとしてやり損ねた末席野党の党首はいつものようにあ~だこ~だ。こういう社会活動家とかいう人たちって、勝手に「差別的不適切語」を拾い出して、自分たちが良しとする婉曲語に変えさせれば問題は解決だと信じているらしいけど、苦い薬をパステルカラーの糖衣錠にすり変えてみただけじゃないの。まあ、国民は「選挙なんてやりたかない」と言っているのに聞こえないらしいから、やりたいんだったらさっさと政権打倒しなって。
小町を見ていたら、先だって国際コンクールで優勝した日本人ピアニストに対する「デリカシーのない質問」というトピックがあって、かなりの書き込みがある。どうやらテレビのワイドショーか何かのリポーターが生まれつき目の見えないピアニストに「1日だけ目が見えたら何を見たいか」と質問したらしい。「目の見えない人に対してデリカシーがない、当地アメリカのメディアで流れたら叩かれる」というのがトピックを立てた人の言い分。同調する書き込みが多いけど、よく読んでみるとほとんどが「もしも目が見えたら」という部分について「デリカシーがない」、すべきではない質問だと言っている。そういう質問はアメリカあたりではけっこうするし、それなりに成功した人はふつうに答えるんじゃないかな。ワタシは「1日だけ」という前提条件の方が気になったけど、目が見えなくて、「もし見えたら何が見たい?」と聞かれたら、「色を見たい」というかもしれないな。
質問が失礼か無礼かは聞かれた人が決めることじゃないかと思うから、するべきでないと決め付けるのは、まるで障害者にその不具合をことさら指摘するようなことを言ってはいけないと言っている印象を受ける。でも、障害はその障害を持っている人が一番良く知っているはずだと思うんだけど。政治的に正しい「活動家」が押し付けてくる「言替え語」には反発を感じるワタシでも、健常者(本音では「正常者」と言いたいんじゃないのかな・・・?)にできることをそれと同じにできない人たちは、「disabled(不能)」なんじゃなくて、「differently-abled(異能)」なんだと思っている。でも、異なるものに反感や嫌悪、畏怖を感じる人がいても、これまたしかたのないことなんだよね。
どうやら、父親が質問したら息子が「お母さんの顔を見たい」と答え、「お母さんの顔を見ることができたら、次の日にまた見えなくてもいい」と言ったという話が下敷きになっているらしい。なぁんだ、「感動をありがとう!」、「あの感動をもう一度!」式のマスコミのあおり演出の場面だったのかな。リポーターが自分の浅慮ぶり、いや、企業の一員としてのスクリプト通りの行動だったのなら企業全体、ひいてはそういう企業でもやって行けるマスコミ業界全体の素顔が見えてしまったということかもしれない。番組を見ていないから、あれこれ言っても意味はないんだけど、まあ、そんな印象だってことで・・・。
先天的に角膜に不具合があったために近視と遠視と乱視が同居して、おまけにかなりの低視力だったワタシに見えていたのはいつも二重、三重のぼやけたイメージの世界だった。30才を過ぎて初めてコンタクトレンズを入れて、風景がはっきり「一重」に見えたときの感動は今でも覚えている。もっとも、50才に近くなってコンタクトをして、老眼鏡をかけて、さらに虫めがねが必要という状態になったけど、なぜか今はコンタクトだけで辞書の小さな文字が見えるから不思議。この世の中には「常」なんて言えるものはないってことなんだろう。だからこそ自分の「常」を確かなものにしておかないと・・・あはは、一見して矛盾に満ちた楽しい禅問答になるかな、これ。じゃ、次の仕事をかたづけてから、ゆ~っくりと沈思黙考してみようか・・・
及ばざるは過ぎたるがごとし
6月17日。きのうは串団子のように並んだ仕事の2個めが終了。「会計報告の項目名だけでは正確は期せませんので今後は報告書全体を資料としてもらってください」とコメントをつけて送り出した。リストのように並んだ単語や語句を訳すのは簡単なように見えるかもしれないけど、実はこれが一番やりにくい。指定のセンテンスやパラグラフのみというのはよくあることだし、経費節減のためにそうする気持もわかる。だけど、文書の中で必要な単語や語句を蛍光ペンで表示すればいいのに、わざわざ何百個も抜き出した「リスト」を送って来るのは、日本語と他の言語は単語帳のように1対1で対応していると思っているからなのかなあ。困るんだなあ、そういう短絡した思考は・・・
久しぶりにたっぷりとレミで「心の凝り」をほぐして寝たら、目が覚めたのが正午過ぎ。よく寝たという気分だけど、鏡の中の顔はまだなんだかすっきりしていない。ゆうべバスルームで寝るしたくをしているときに、カレシに「目の周りがダークだ」と言われて鏡を見たら、ほんと、メークもマスカラもしていないのに、なんとなくぼやけたパンダのような目。ほっぺたも少しばかりげっそりして見える。そのときはライトのせいだろうと思ったんだけど、昼間の自然光で見ても、やっぱり目の周りに濃い影があって、頬もちょっとこけ気味。秤に乗ったら体重がまた少し減っている。まあ、体重が減ったのはカレシの食事療法に付き合っているせいもあると思うけど、かなりの間じっくり休養していないような気がするから、やっぱり疲れがたまっているのかなあ。
ワタシはもう十何年も、毎日起床してすぐと、就寝の直前に体重を計っている。人間の身体はいっときも同じ状態でいてくれないから、きのうは増えた、今日は減ったと一喜一憂しても意味がないわけで、毎日同じ条件で計り続けることで見える「傾向」を自分の身体の状態を知る目安にしていると言った方が早い。夜と朝の違いが基礎代謝量ということになるんだけど、身体というのは精神状態にもけっこう敏感に反応する。座業になって次第に増えた体重が、カレシとのごたごたが始まってわずか半年で8キロ減り、夜明け前の一番暗かった頃には50キロ以下になって、医者に減りすぎと言われる始末だったけど、落ち着いてからはまた徐々に増えて、いつのまにか(医者が理想と言う)上限(120ポンド)を少し超えるようになった。まあ、それが1ヵ月足らずで上
限以下に下がったわけで、おかげでいくらかきつくなり始めていた(北米サイズ)4号のジーンズに余裕が出てきたから、カレシのコレステロールに感謝しなくちゃ。
血圧計を買ってから体重と同じように定期的に測り始めたら、血圧は体重よりもずっと身体の状態に敏感だということがわかった。心臓は常に動いて血液を全身に回しているんだからあたりまえだけど、ばたばた動き回った後は当然上の値が上がって、精神的なストレスがあるときは下の値がはね上がる傾向にある。いろんな研究でもそういった結果が報告されているらしい。精神的にストレスになっているときは、心臓がいつも緊張状態にあって、拡張期に十分にリラックスできないでいるということだろうな。そんな状態が長く続けばいいことがないのはあたりまえ。そっか、下の数値が上がったら、沈思黙考でリラックス、リラックス・・・。
カレシのために買ったのにご当人は「やだ!」のひと言で見向きもしないから、ワタシがひとりで毎日朝食後の一日の活動を始める前に測っている。今まで90%以上カレシと同じものを同じ量食べて飲んでしていたので、当然ワタシの血圧も高くなっているだろうと思っていたら、上が105~115、下が65~77と、「正常」と出てきたからびっくり。もっとも、ワタシの年令層だけを見ると、平均が134/87で、最低でも121/83はあった方がいいらしいから、ちょっと低すぎることになるのかな。くたびれた顔をしている今日なんか106/64。少々の疲労感以外は健康だと感じるんだけど、過ぎたるは及ばざるがごとしなら、及ばざるは過ぎたるがごとしで、低ければ低いほどいいってものでもない。(薬用の)レミをもっと飲まなきゃだめかなあ・・・
夏休みをください
6月18日。なんとなくの疲れがなんとなくのまま抜けないから困ったなあ。串団子のさいごのお団子が終わって、そろそろ気になっていたメガ仕事に着手できそうな雲行き。日本は金曜日だから、こっちで夜中さえ過ぎてしまえば、ワタシも週末(といっても、またおきみやげがあるんだけど・・・)。この週末に少しずつでもかからないと、また徹夜になりかねない。ま、退屈な決算報告ばかりが続いたから、まったく違う分野は楽しみでもある。それにしても、今頃の季節に中小企業の決算報告を英訳する需要っていったいどんなことなんだろうな。投資業界で何かおもしろいことでも起こっているのかなあ。
今日の血圧は109/70で、まあまあ。でも、やっぱりいろんなことがありすぎたのか、ここのところやたらと咳が出る。昔はほんとうの空せきだったけど、年のせいなのか、咳き込むと喘息のようにぜいぜい、ヒューヒューと、「すわっ」と周りが総立ちになりそうな派手な「発作」に聞こえてしまうからいけない。本人はそれほど苦痛でもないんだけどね。日本には「心療内科」という医療分野があるそうで、ときどき来る人事問題の書類にもよくセクハラやパワハラで心療内科にかかっているというのを見るけど、そこへ行ったら心因性の喘息は治してもらえるのかな?それとも「心の風邪」のほうを治すのかな?あの、心の風邪って、ひいてない(と思う)んだけど・・・
長年のお客さんからある分野が専門の人の紹介を頼まれたので、お隣のワシントン州の人を推薦しておいたら、話がまとまったと言って来てひと安心。翻訳業も人が余っている分野もあれば、いつも人手が足りないところもある。特許や医療といった特に専門性の高い分野は万年人手不足らしくて、有望だと思われているのか翻訳学校に専門のコースまであったりする。もっとも、分野の如何にかかわらず翻訳のメカニズムだけ学んでも即戦力というわけにはいかないから、翻訳学校が増えても、人手不足はあまり解消されていないらしい。まあ、ごまんとあるらしい翻訳学校が「在宅でできるサイドビジネス!」なんて宣伝してくれていたりするから、まるでアルバイトか小遣い稼ぎでやるなんちゃって仕事のような感じで、そんな動機では使えるプロは育たないだろう。かくして今日も、(手を出さない分野はあるけど)一応は「何でも屋」のワタシのデスクには雑多な分野の仕事が降り続ける。これって、喜んでいい状態なのかどうか。
まあ、仕事に追われている方が今はまだ深く考えなくてもいい「課題」を考えなくて済むからいいといえばそうなんだけど、深く考えられる余裕がないだけのことで、考えることは考えてしまうから、そっちの方がストレスが大きいかもしれない。(と、自分でややこしくしているところもないではないけど、そこがワタシの悩めるところ。)だからこそ、どこかでゆ~っくり、の~んびりできる夏休みがほしいんだけど、自営業はどこに「休暇届」を出せばいいの?
もやもやは人生の潮目か
6月19日。ゆうべは目が覚めていたのか、夢を見ていたのか、よくわからないけど、いろいろと考えごとをしていた(らしい)。はっきり覚えていないと言うことは、たぶんほとんどが夢だったんだろうけど、ひとつだけ何となく記憶に残ったトピックがある。誰かが聞いてくれていたのか、ブログを書いていたのかはわからない。日本語で覚えているからブログだったのかもしれないけど、コンピュータの映像が記憶にないところを見ると誰かにしゃべっていたのかな。それにしては、相槌を聞いた覚えがない。でも、薄暗いところだったから、眠りに落ちる頃にはとっくに日が昇っている今なら、眠れないままぐずぐず考えていたということでもなさそう。話の内容をかいつまんで言うとこんなこと・・・。
『彼は、私が疲れているとボクはすごく疲れていると言い、具合が悪いときはボクも何かの病気かもしれないと、自分の方がつらいとアピールするから、私の疲労や病気は労わられることも慰められることもなく、まるで椅子取りゲームの敗者のように押しのけられていたの。夫婦という空間は二人のものなのに、私たちの間には安らぎを得る「椅子」がひとつしかなくて、いつも彼に先を越される私には疲れても、具合が悪くても、座れるところがなかったの。そのうちにその空間が彼をチヤホヤする人たちで溢れてしまって、私は隅っこに立っているのがやっとになって、あるとき、何もかも投げ出したくなったのよね。あの「もうどうでもいいや」という気持はどんな疲労や病気のつらさよりも暗くて、どろんと重くて、何かに飲み込まれるようだった。今、あのときの「もうどうでもいい」という気持を漠然と感じるからちょっと怖いのよね・・・』
いったい誰にこんなことをしゃべっていたんだろうなあ。夫婦の間の「椅子取りゲーム」とはいい得て妙だけど、二人の間に椅子がひとつしかなければ、どっちが座るかという問題になるだろうな。でも、ほんとうはどっちが座るかじゃなくて、どうしてひとつしかなくて、しかも片方ばかりが座っているのかということの方が問題じゃないかと思うけど。まあ、この点に関してなら、「もうどうでもいい」が「何とかしなければ」になり、「何とかなりそう」に向かったあたりで、カレシが自分も疲れていると言うなら二人で床に寝そべればいいし、自分も具合が悪いと言うのなら、二人いっしょに寝込んでしまえばいいじゃないかと思い当たってから、押しのけられたような気持はなくなったんだけど、じゃあなんで今ごろになって、あんなことを愚痴っていたんだろうなあ。
目が覚めてもやもやと気になるのは「もうどうでもいいや」という気持。何がもうどうでもいいというのか、自分でもわからないから困る。来年は満20年を迎える仕事がもうどうでもよくなって来たのかなあ。そろそろ飽きてきたんだろうか。それとも、単に忙しすぎて絵を描くことも、創作に浸ることもできないでいるもどかしさが募ってきたんだろうか。なにしろワタシはexpressionistだからなあ。カンバスも絵の具も絵筆も創作ノートも、すべていつでも手を伸ばせるところに置いてあるのに、イーゼルに立てたカンバスはまっさらのまま、創作ノートは山のように詰み上げた書類やカタログの下に埋もれたまま。これじゃあ、見るたびに腹ふくるる思いになるのも当然かな。あのさあ、身の回りを片づけようよ、少しは。もやもやするときは人生の潮目なのかもしれないんだから・・・
買い物ついでに日光浴
6月19日。起きたときは中途半端な寝不足もあってか、脳内にもやもやとくもの巣がかかっているような気分だったけど、日曜が納期の置きみやげ仕事は小さいし、お天気はまだ青空だし、野菜の冷蔵庫は空っぽ。ということで、今日は概ね「休み」ということにして、ワタシの絵柄の大きなトートバッグを持って、二人で徒歩で野菜の買出しに出かけた。
いつのまにかどこもバラの花盛り。よそさまのおうちの花壇を見物が楽しい。カレシは菜園の生育状況の報告をしてくれる。きゅうりが実を付け始めた温室のきゅうりのつるが照明を吊るしているバーにからんで、この分だと温室中にきゅうりがぶら下がるかも。トマトも順調に育って、この夏はトマトソース作りに忙しくなるかも。もう実をつけないかと思っていた二十世紀梨の木に小さな実が鈴なりになっていること、などなど。コンピュータが目の前にないもので、行き帰りは絶好のおしゃべりタイム・・・。
去年秋までの不動産ブームが崩壊して、売り家の看板はほとんど見かけなくなった。この2、3年ほどに建った家は、どれもちょっと古風なデザインで、全体が濃い色だからどっしりとした感じがする。20年くらい前に大流行だった「ゲッ」と来そうなけばけばしいピンクの建売住宅は、かなり色がくすんでしまってもうあまり目立たない。暖かいところからの移民がどっと増えて、半年以上は曇り空と雨の薄暗いバンクーバーで、燦々と輝く太陽を思わせる「カリフォルニアピンク」という名前の派手な色がもてたのかもしれない。それでも、いかにもしょぼく見えるピンクハウスでも、このあたりでは大幅に下がったとは言ってもまだ百万ドル前後はするんだろうな。どうりで売り家の看板を見かけなくなったはずだ。
青果屋に着いたら、おお、地物のいちごが出ている。山盛りのパック1個は多すぎて食べきれないから、半分だけ袋に入れてもらう。ブルーベリーはカリフォルニア産だけど、これまた大きな容器に いっぱい。アスパラガスは大きな束が2つで5ドル。この頃は年中あまり値段が変わらないな気が する。小ぶりだけど太い大根とかいわれ。ほかに付け合せのフィドルヘッド、オクラ、さやいんげん、平茸、インスタントラーメン用のもやし。カレシはトマトにアボカドに赤ピーマンにバナナ。トートバッグに詰めてもらって、取っ手を片方ずつ持って、またおしゃべりをしながら家路。日差しが暑いくらいで、じっとりと汗ばんで、今日のエクササイズということにする。気分がちょっとすっきり。
今日のディナーはみじん切りの生姜と白ワインで緩めた味噌を塗ったティラピアを焼き、カレシの要望でローストしたガーリックを少し使ってポテトと平茸のソテー、そして蒸したアスパラガス。サラダはカレシ特製のライマビーンと赤いキドニービーンとさやインゲン。白っぽい緑と、濃い赤と濃い緑色の彩がきれい。これで魚ダイエットは4週間。その間、魚以外のメニューだったのは4回だけというなかなかの好成績。赤身の肉は月一回くらいはいいというから、週末は久々の肉料理にしようかなあ。
魚料理は手間がかからないだけでなくて、比較的コストが低めだから、その分たまに食べるだけの肉は高いものを買っても懐に響かない。レシピは魚をよく食べるアジアのものにシンプルでいいものが多い。おいしいものを食べられるなら、食事療法もまた楽しからずや。おまけに健康向上に役立つならなお言うことなしだなあ。コレステロールさまさま・・・
知らず嫌い
6月20日。土曜日。うす曇なれど夜来に雨が降った形跡はなし。シアトルでは29日ぶりに雨が降ったというから、いつも反時計回りに回る雨雲がこっちに回って来るかと思ったのに。それでも今日は20度以下でぐんと涼しく感じる。
議会は、イギーが振り上げたこぶしを下ろして、しゃんしゃんと予算案を可決。夏の総選挙は一応秋まで(また)お預けで、議員さんたちも安堵しての長い夏休み。総選挙に対する世論は「ノー」だし、イギー率いる自由党はハンパじゃない借金を抱えているもので、実は今すぐ選挙を戦える状態ではない。一方のハーバー首相率いる与党保守党は少数政権。いうなれば三すくみの状態なのがカナダの政治事情。一説によると、政権党だった自由党が大敗した5年前の総選挙でどっと誕生した新人議員が悠々自適を約束する年金をもらえる資格ができるのは来年の6月以降。特に躍進したおかげで新人を多数抱えるケベック連合としてはそれまでは選挙を避けたい。三すくみにもうひとつひねりが入ってややこしい。景気回復のほのかな光明が見えるということで、野党とし
ては回復しないうちに選挙をやりたいだろうから、思惑の入り乱れはさらにややこしくなる。でも、誰も総選挙に乗り気じゃないなら、選挙回避のための妥協も吝かではないわけで、与党が野党の主張を真剣に考慮するという利点もないではない。ここが「民主政治」のおもしろいところ。
イランはえらい情勢になりつつある感じがするけど、だいたい、ごり押しの独裁を脅かす力の矛先を「悪いのは欧米だ」とテロリストお気に入りのターゲットに向けようとした時点で独裁者はもう終わっている。おもしろいのは、世界のどこであれ他国の内政問題に便乗して「西欧が過去にああしたから、アメリカが過去にこうしたから」とほじくり出して欧米叩きをやりたがるのがぞろぞろと登場すること。そういうのに限って「ではどうしたらいいのか」という建設的な意見はまず持っていないから始末が悪い。意見がないどころか、逆に「てめえのところだってああだこうだ」と矛先を変えて来るのになると、不毛の「砂場の子供のけんか」になってよけいに始末が悪い。イランの未来のために命をかけている人たちにしたら、今はそんなことどうでもいいんじゃないかと思うけど。
さらには個人に対するごく個人的な嫌悪感と(少なくとも民主主義社会の)国民の意思に基づいている国家を混同して、擬人化した嫌悪の対象について感情的に「○○(の言動)が悪い」と、件の独裁者やテロリストと似たようなことを言い出したりするのもいる。当人たちはそのつもりはないから、そう言えば猛反発してするだろうけど、「ダメなものはダメ、嫌いなものは嫌い」という、昔からある「My mind is made up. Don’t confuse me with the facts」というジョークを地で行っているようなもの。「こっちの考えは決まってるんだから、事実を持ち出して混乱させないでくれ」といった意味あいで、昔は進歩派が因循姑息な保守派を揶揄するのに使ったらしいけど、最近は「進歩派」の、特に若い世代にそういうタイプが多いような気がする。まあ、昨今は情報がもたらす世界の広
がりと情報の受け手の視野の広さが反比例の方向に向かいつつあるような感じがするし・・・。
だけど、個人的に知りもしない人間や行ったことも住んだこともない国を感情的レベルで嫌ったり、憎んだりできる人がたくさんいるらしいのは驚きだ。見るだけ、考えるだけで胸くそが悪くなったり、排除したくなるのは「嫌悪感」によるものなんだろうけど、それが消えてほしいとか、抹殺したいという感情に進展したのが「憎しみ」なんだろうか。喜怒哀楽は状況の変化や時間の経過によって薄らいだり、和らいだりするもので、そうでないと前進がなくなってしまうけど、「憎しみ」は一筋縄では行かない強い感情なんだろうな。「大嫌い」の段階で似たような反応をする人もいるけど、見た目やファッションを生理的に受け付けられないというのならまだしも、やっぱり内情を知らないものや人をどうして憚らずに「嫌い」と言ってしまえるのか不思議だな。食べ物の好き嫌いには「食わず
嫌い」と言うのがあるけど、その延長線で「知らず嫌い」なのか、あるいは「人見知り」なのか。まあ、マスコミやネットの情報に曝されているうちに、「知っている」という感覚になるのかもしれないなあ。「己の知らざるを知らざるは知を知らざるより危うし」と孔子様は・・・言ってないって?あ、そう。
脳内めざましが鳴った
6月21日。ゆうべ、やっと雨が降った。いつものように何か物音を聞きつけて外に出たカレシが入ってくるなり、「雨だ。降ってるぞ」。何日ぶりだろうな。だけど、しばらくしてまた外に出て行ったカレシ、「止んじゃった」と言いながら戻ってきた。これでは庭の水遣りにもならないと残念そう。シアトルではかなり降ったらしいから、あまり残ってなかったんじゃないのかな。夏至。今日から公式に「夏」。それにしては、なんか急に涼しくなってしまったけど・・・
いつものようにひと仕事の合間にのぞく小町だけど、この頃はもやもやしていて、タイトルを見るだけのことも多くなった。ワタシにとっては、不特定多数の匿名掲示板は「日本人」の擬人化に他ならないから、人種が同じという以外は共有するものがなくなった「話の合わない友だち」との間に距離を感じるようになって来たのかもしれない。何だかつまらなくなって来たということもあるのかもしれない。まあ、Out of sight, out of mind(去るものは日々に疎し)というから、しょうがない。
でも、あるトピックへの書き込みを読んでいたら、頭の中でけたたましく目覚ましが鳴って、どろんとかかっていたもやが少しだけど晴れて来たような感じがした。背中でしきりともぞもぞしているお化けを引きずりおろせるかもしれない。そう思ったら、うつっぽかった心がちょっと軽くなって、よっしゃ、仕事をせにゃあ、という気分になって来るから、ワタシもいい加減なもんだなあ。ワタシ追跡レーダーがあるのかどうか知らないけど、あれもこれもと仕事を送って来るクライアントもなあ。メガ仕事の期限が近づいているってのに。ま、いっか。ワタシは仕事のオニヤンマ・・・
だらだらやっていた仕事の方にやる気エネルギーを向けることにして、背中のお化けの対処は少しずつ考えていくことにしよう。まとめて考えようとするから、考えすぎてしまうんだろうし、そうやってずるずるとあり地獄に落ち込んで、二進も三進もいかなくなるのかもしれないからね。とにかく、今夜はぐっすり眠りたいなあ。眠れるだけ眠って、眠りまくってみたい。もちろん、気分さわやかに目が覚めてくれないと大変なことになるけど・・・いや、ちゃんと覚めるって。
ワタシの目は乱視の複眼
6月22日。大手新聞社の編集部が目を通している小町のような掲示板でも、日本国外に住む日本人が日本や日本人について疑問を投げかけるのは短い導火線に火をつけるようなものらしく、トピックを立てた人は「外国かぶれ」だ何だとさんざんに叩かれるし、他人のトピックに自分が住んでいる国の例をあげて書き込むことさえかなりのリスクを伴うように見える。海外在留邦人同士なら助け合いのひとつもするのかと思いきや、バンクーバーのある掲示板は一触即発の火薬庫のようなもので、日本や日本人に関する批判がましい発言をしたり、カナダの方がいい、好きだなどと言おうものなら、必ずといっていいほどバッシング。
まあ、異文化と異言語の中で、夢と現実の間に挟まっていろんな欲求不満やかなり複雑に屈折した感情が吹き溜まっているんだろうけど、日本人同士で中傷誹謗貶し合うのは、金魚蜂のような狭い日本人社会での「言論統制」のように見えた。こんなことを書くとまた「お前は何様のつもりだ」と匿名メールが来るかな。いつだったか、ブログの「メッセージを送る」機能から送ったらしいメールが届いて驚いたことがある。たまたま行き当たったブログで日本を貶していると憤慨したものらしく、コメントを残せばいいものを、表に出ないでひとことガツンと言ってやろうと思う人もいるってことだろう。(「いかがなものか」なんて文章だったけど・・・)
たしかに日本のことをいろいろと書いているけど、カナダと比べて、欧米と比べて、日本がどうのこうのとは言っていないつもりなのだ。日本は日本、日本人が日本で何をどうしようと日本人の勝手だということは百も承知だし、自分の考えること、感じることをまとめておこうというだけなんだけど、小町なんかを読んでいると、日本国外にいる日本人が日本のことをあれこれ(悪く)言うと、なぜか反感を持たれるんだなと感じないわけにはいかない。ある発言者曰く、「たった5年アメリカにいただけで、アメリカ人として日本人を語っているから不快なのだ」と。Bingo!とどのつまりは、欧米にいる日本人が「欧米人」になったかのようにふるまって、「欧米に比べて日本は(劣っている)」みたいなことを言うから気に触るんだろうな。これは明治以来の永遠のテーマじゃないのかなあ。
日本では「外国人」が書いた比較文化論的ニッポン評ならけっこう読まれるらしい。某氏が英語で書いた日本女性の生態観察記みたいな本でさえ日本語に翻訳されて出版されるという噂だから、「欧米人」がワタシが書いて来たような「ワタシの見たニッポン」といったエッセイを書いて出版したら、おもしろいかもしれない。実際に、ポール・ボネという名前で『不思議の国ニッポン』という、「フランス人が見た」ニッポン評をシリーズで書いていた日本人(誰だったか忘れたけど)がいて、相当な数の著作はかなり売れていたらしいから、ワタシが本名で「不思議の国ニッポン-二十一世紀編」みたいなエッセイを書いたら、どんな反応があるんだろうな。そんな悪文なんか読めねぇよと言われるかな。(ガイジンが書いた日本語なんだからしかたないでしょ。)
友好的外来帰化種
6月23日。きのう、ディナーの後でひと息ついて、やおら仕事にかかったところで、カレシの弟のジムから電話。「まだ薬、飲んでるの?」ジムはコレステロール値が高くてもう7年も薬を飲んでいる。この前カレシが医者がどうの製薬会社がどうのと文句たらたらだったので、どんなことになっているかと、様子伺いというところらしい。うん、まじめにやってるよ。文句は多いけど。ジムは「あはは、そうだろうと思った」。(カレシがパパに次ぐ文句たれという家族の評は昔からのことだけど。)
代わったカレシはひとしきりのおしゃべり。末弟のデイヴィッドから電話があるときもそうだけど、この頃の兄弟の電話はえらく長い。時差が3時間あるトロントに住むデイヴィッドは眠れないときにかけて来て、最長通話時間は今のところ2時間とちょっと。車で1時間半の郊外に住むジムとも、それほどではないにしてもしゃべり始めるとかなり長い。ひとつ違いで子供の頃からあまり仲がよくなくて電話をかけ合うことがほとんどなかったジムとも、去年あたりから電話で話したり、互いの「地元」のレストランで食事をしたりするようになった。互いに年を取ったと感じ始めたせいなのかもしれないけど、自分の妹にはご無沙汰の不義理のしっぱなしなのを棚に上げて、いつも口を酸っぱくして「兄弟の付き合いを大切にしなさい」と言っていたワタシにとってはうれしい展開。
コレステロールの話から食べ物の話、幼友達の話、昔のガールフレンドの話、誰それが死んだという話が延々と続く。照明器具の製造会社を経営するジムは交流範囲が広いから、実によくいろいろな人たちの消息を知っている。その会話の片方をそばで仕事をしながら聞くともなしに聞いているのがワタシだけど、ローカルの掲示板でよく目にした投稿を思い出して、おもわず忍び笑い。カナダ人夫の家族との交流にムカついている日本人妻の愚痴がいろいろある中で、「家族(特に母親)との頻繁な電話や長電話」も槍玉に上げられていた。
まあ、小町でも日本在住の日本人妻が外国人夫の長い国際電話に愚痴をこぼしているし、日本人同士の夫婦でも夫が実家に密着しているのを嘆く妻は多いから、「義理の家族」は国籍人種を問わずムカつく存在なんだろうな。アタシと結婚したからにはアナタはもうアタシだけのもの、脇目もふらずにアタシだけをかまってねってことか。我が家はどっちかというとカレシの方に「ボクだけをかまってほしい」的なところがあったよなあ。でもさ、日本じゃそういう夫は「濡れ落ち葉」と言われて、妻にうっとうしいと嫌われるらしいよ。憧れの国に行って憧れの今どき妻を娶っていたら、カレシはとっくに大爆発していただろうなあ。Count your blessingsといったところだよね。
先月から3部に分けてやっているメガ仕事の一番でかい最後の部にやっと着手。文字数で見れば原稿用紙に詰め込んでざっと130枚強。期限まで2週間しかなくなってしまった。テーマが興味をそそるものだから、おもしろくてけっこう進むんだけど、それが「侵略的」外来生物。第1部をやっていたときにふと、ワタシもいうなれば「外来種」かなと思ったのがあれこれ考え出す引き金になったのかもしれない。カナダの土に根を張ってけっこうはびこってはいるけど、live and let liveの精神で生物の多様性を善しとするから(だって、みんな同じじゃどれが自分かわからない)、まあ、侵略的じゃなくて「友好的」外来帰化植物ってところだよね。
地球は今日も左巻き
6月24日。久しぶりに本格的な雨が降って、空気も気分も洗われてちょっとさっぱり。週末に駆け込みでねじ込まれた仕事を片づけて、来週はいっぱいですと予防線を張って、ひと息。これで落ち着いてメガ仕事にまい進できる・・・かなと思ったら、先に終わった仕事をチェックしている日本人の担当者から質問が飛んで来る。英語の文だって暗黙の了解があったり、行間に本音が埋め込んであったりするんだけど、この人はそういうところを実に的確に(しかも日本人の観点から)ついてくるから、自分の思考を見直して、長ったらしい講釈で答えることになる。実はこっちの方が翻訳をやっているよりもずっと刺激になって楽しいくらい。(文学の造詣が深い人なので、たまにオフで交換する文学談義のメールも楽しみな刺激剤。)
メガ仕事にかかる前に、小町のタイトルをざっとながめる。一歩下がって見渡したら、なんだか変わり映えがしないなあと感じる。ま、ある意味で「離乳期」にさしかかったというところなのかもしれないけど、国際結婚してどこにも属するところがないという嘆きトピックは、あまりにも孤独そうなタイトルに引かれて開けてみた。現地の言葉や文化、日本人社会との交流など、悩みの種は同じ。優しい夫がいて、生活も安定しているのにさびしい、生きがいを見出せない。難しい問題だなあ。グローバル時代の今はそういう人は国籍人種を問わず世界中にごまんといるだろう。言葉、文化、制度、習慣・・・どこを見ても壁、壁、壁。だけど、国際結婚トピックを読んでいる限りでは、日本人にとっては日本社会を取り巻く壁が一番高いんじゃないかと感じる。(外から見ているワタシにはどれだけ高いのかわからないけど、かなり高そうに思える・・・。)
この人もそうなのかなあと読んでいたら、最後の方で「日本人に嫌われる=この世の終わりではない」というレスのタイトルに出くわして、おもわずドッキリ。「傲慢に聞こえるかも知れませんが、私はもう日本人にどう思われようが、気にしない事にしています。嫌うならどんどん嫌えば?位に思いながら生活しています」と。うは・・・。住んでいる国が好きだという。どこの国か知らないけれど、それでもきっといろんな思いを乗り越えてきたんだろうな。たしかに、嫌われても日々の暮らしにはどうってことないだろうし、住んでいる国の人に嫌われる方がよっぽど生きにくい人生になりそうだし、そこまで割り切れたら怖いものなしだな。ワタシも、まあ、好かれなくたっていいんだけど、そこまで言い切ってしまえるかなあ。ああ、グローバル時代の国際化、されど国際化・・・
遠くて近きは男女の仲というけれど、アメリカはサウスカロライナ州の知事が1週間も所在がわからなくて騒いでいたら、なんとアルゼンチンにいる愛人に会いに行っていたんだそうな。功なり名を遂げた男が女で身を滅ぼすというのもまた国籍人種を問わないグローバルな現象みたいだなあ。どうしてなんだろうねえ。しょうがない男がなぜか出世する世の中なのか、しょうがない男が出世して思わずそのしょうのなさを露呈したのか。日本ではどこかの元県議会議員が公園に勝手に自分の銅像を建てようとしたとか。自分の尽力で公園ができた功績を後世に残したかったんだって。聞くところによるとこの元県議氏は公職選挙法違反で辞職したという。それじゃあ誰も銅像なんか建ててくれないだろうなあ。だからって、じゃあ自分で建てればいいやという思考もなんだかなあ。
漢字の読み違いで有名な日本の総理大臣が電子辞書を買ったという新聞記事に「麻生さんが間違いをしなくなったら、我々はどうやって正しい漢字の読み方を学べばいいのか?」というイントロをつけて登録してあるブックマーキングサイトに投稿したら、8時間でトップページに移動した。これで113本の投稿すべてトップページ入りの百発百中。(麻生さんは「しゃべる辞書」を買ったのかな?)別のサイトを見たら、ヘンな英語で「外国人の中にはEROGEに嫌悪感を持っている人がいるようです。したがって我々の文化を守るために外国からのアクセスを禁止しました。外国に住むファンのあなたにはお気の毒です」みたいなことを書いた日本のエロゲメーカーのウェブページがあった。日本製のレイプゲームをめぐって国際的なひと騒ぎがあったせいだろうけど、「我々の
文化を守る」ってのはなんだかねえ・・・
引退、する?しない?
6月25日。きのうはおしゃべりしながらゆっくりとお風呂に入って、それでもいつもより早めに眠りについて、それで目が覚めたらなんと正午過ぎ。外を通るゴミ収集車とリサイクル収集車の轟音にも気づかずに9時間も眠って、それでもまだ眠り足りない気がするけど、眠いのに眠りにつけないで悶々とするよりはずっと気分はいいな、と、カレシに言われるまでもなく、自分を他人みたいに観察している自分がいる。別に体外離脱しているわけじゃなくて、ただ自分という人間を観察しているだけのことなんだけど・・・。
ワタシにはたぶんに物事を考えすぎる傾向があるのかもしれない。外から見ると行き当たりばったりのお気楽なワタシなんだけど、内なる自分は何でも「どうして、ああして、こうなって、而して・・・」と分析して考えたがるところがある。ずっと前に「なんというかintrospective extrovert(内省型の外向的人間)だねえ」と言われたことがあるけど、まさにそういう矛盾した人間なんだろうな。この世に内なる矛盾を抱えていない人がいるのかどうかはわからないけど、まあ、外向的な人はアルツハイマーの発症リスクが低いそうだから、内省型分析癖をうまく活用すれば、100歳になっても頭脳明晰でいられるかな。まあ、フツーにボケる可能性もあるけど、そうなったらいろんなことに思いをめぐらせることもなくなって、ほんとのワタシばあちゃんになるだろうな。なんかそれがハッピーエンドの人生かなあという気もするけど・・・。
カレシに「65になったら仕事をやめようかな」と言ったら、「ボクはやめられないほうに賭けるな」とにやにや。なんだ、なんだ。そっちが「やめたらいいのに」と言うから、やめるのが怖いと言ったら、「やめて何の不利益があるのか」と突っ込んできたのは誰だったの?おかげでああだこうだ考え出して、しまいには解決していたはずのアイデンティティの問題まで蒸し返して、自問自答のあげくに考えすぎてもやもやしてしまったじゃないの。いや、今はやめられるという気がして来た。仕事をやめて日本とのつながりなくなっても、今つながっている人たちとも切れてしまうわけじゃないもの。ワタシはどこの何国人に関係なく、自分もひっくるめて「人間」が好きなんだと思う。まあ、追い払われても立ち去らないのはどうかと思うこともあるけど、なにせ向こうも人間だから・・・。
まあ、こんなふうに頭の中のめざましが鳴って、だんだんに目が覚めてきて、もやもやが晴れて来たということもあるけど、「65才で定年退職するのもいいかなあ」という気持になって来た背景には年金という現実的で色気のない要素もある。RRSPという個人の年金積立制度があって、現在高や積立額、年令などを入力すると退職予定年令に達したときの「年金」がいくらになるかを計算してくれるサイトを見つけた。さっそく現在の積立残高や退職までの年間の積立予定額で、65才で退職して、90才まで受け取るとしたらいくらになるか試してみたら、かなり大きな数字が出てきた。これに2つの公的年金を合わせるとカレシの年金合計額を少し下回る程度で、ひとりになってもゆとりで暮らせる金額。二人いっしょなら現役世代の平均世帯収入よりもずっと多い。な~んだ、それなら、65になったらさっさと商売をたたんで、カレシとのんびり隠居暮らしをした方が割に合いそう・・・。
あと3年と10ヵ月。カレシが「やめ(られ)ない」に賭けるというなら、こっちは「やめ(られ)る」の方に賭けようか。いいのかなあ、カレシ。この賭け、ワタシの勝ちかも・・・。
やせたい人には言えない話
6月26日。きのうはカレシに頼まれて英語教室の「記念写真」を撮りにでかけた。あと1回で9月までの夏休みに入ることになっているので、生徒さんから記念写真はどうかという提案があったんだそうな。というわけで、ワタシはデジカメ持参で即席カメラマン。夜のクラスは午後のクラスと違ってほとんどが仕事が終わった後で来ている人で、そのうち半分は男性。中国から移住してきてまだ半月という女性もいる。この人たちにとっては、言葉の壁は「通せんぼ」ではなく、未来のためのチャレンジくらいでしかないらしい。みんな少しでも英語のレベルを上げて居心地を良くしようと熱心だから、カレシ先生もやり甲斐があるというもの。全員2列に並んで、一番背の高いカレシ先生は一番後ろの真ん中。うまくフレームに収まったところで、は~い、Cheese!
写真撮影が終わったら、仕事に追われるワタシは文字通りワタシ返り。教室が終わって帰って来たカレシが「おい、大変なことになったぞ」。そういいながら火急の一大事が起こったような顔はしていないから、へえ、大変て、何が?「ネイバーフッドハウス協会の総会か何かでボランティアを表彰するのに、ボクのことを推薦したんだって」。なんだかよくわからないけど、つまりはハウスの団体が表彰してくれるってこと?「そうらしい。イタリア文化センターで集まりがあって、ただ飯を食わしてくれるらしいけどね」。ただ飯はまあどうでもいいけど、カレシが表彰されるのはすごいじゃないの。もう8年もTESLを独学で勉強しながら教えて来たんだもんね。社会貢献が認められたってことで、ワタシもすごくうれしい。あのとき英語教師を続けたいというカレシをやめさせ
なくてよかった・・・。ハウスは政府の補助金や交付金をかなりもらっているから、ひょっとして市や州議会の議員たちや市長も(ただ飯を食いに)来るのかなあ。
一夜明けて、カレシは朝から「ボク、体重がどんどん減ってるんだよ。きっとどこかが悪いんだ。ドクターに行かなきゃ」と、今にも死んでしまうかのようなパニック声。カレシはティーンの頃にあまりにもやせっぽちだったものでだいぶ苛められたらしい。太ることよりもやせすぎることが怖いたちで、急に体重が減ったから慌てているらしい。でも、いくら減ったのかと思ったら1ヵ月で2キロちょっと。あのさあ、カレシはトレッドミルで汗をかいて2キロちょっとだけど、ワタシは仕事にかまけて運動しないのに同じ1ヵ月で1キロ半減ったよ。だって、まず1ヵ月の間で赤身の肉を食べたのは1回だけで、魚が26日だったでしょ。ミルクは全乳を2%にしたでしょ。料理にバターを使わないでオリーブ油とカノーラ油だけにしたでしょ。アイスクリームもやめたし、お酒だってディナーのワイン1杯だけにしたでしょ。それだけカロリー摂取量が減ったってことなのよ。
だけど、カレシは「どこまで減るんだろう」とまだおろおろ。まあ、1日のカロリー摂取量と体重が釣り合ったところで下げ止めになるんじゃないのかな。だって、飢饉じゃあるまいし、毎日ちゃんと三食ふつうに食べているんだし、おなかが減って飢え死にしそうなわけでもないでしょ?それよりも、そうやってやみくもに心配するストレスの方が身体に悪いと思うんだけどね。はあ、ふ~んとまだ納得が行かない顔。だけど、いつものようにあちこちググって回って、「ストレスに強い人は善玉コレステロール(HDL)の値が高い」という情報を見つけて、いくらか納得が行ったらしい。そう、ネガティブなエネルギーは悪玉コレステロールと同じようにねばっこいから、心の気流のあちこちにべっとり張り付くと文字通りの「心筋梗塞」になっちゃうんだよねえ。だから、ポジティブなエネルギーをどんどん補給して気の流れを良くしてやらないとね。
結局は、コレステロール対策と減量防止の兼ね合わせについては、カロリーを落とさずにコレステロールと飽和脂肪の摂取を減らせる食事方法をプロの栄養士に相談することで話がまとまった。それじゃあ、がんばってジャンボ仕事を終わらせて、時間を作らなきゃ!
女運、男運、人生運
6月28日。どうやら夏らしさが戻って来た気配なのに、カレシは相変わらず手足がチリチリする、背中が痛いと、どっかしら「正常」でないところがあるのが気に食わなくて文句たらたら。目覚めたときの手足のしびれはどうも寝ている間に過換気症候群になっているんじゃないかと疑ってみるけど、こればかりはご当人がドクターに行かなければわからない。おろおろ心配するから身体症状が起きて、それがさらに心配になって別の身体症状が出て、それがまた・・・と負のスパイラルに陥りやすいのは、あまりありがたくない父親譲り。カレシもそれを認識しているんだけど、似ていると思うと急激にボケてしまったパパの姿がよけい重くのしかかってくるらしい。精神的にリラックスするのが苦手なら黙想でもやってみたらいいのにと思うけど、何もない時空間を怖いと感じているようなところもあるからなあ・・・
いちご山盛りの朝ごはんを食べながら、テレビを見ていたら、「なぜこうも政治家の不倫スキャンダルが続くのか」という特集みたいなことをやっていた。(日曜日だからニュースも暇なのかなあ。)何もアメリカだけってことじゃないんだけど、そういわれればちょっと続きすぎかな。モラルのたがの緩んだご時世ではあるとしても、将来は大統領と目されるほどの有力政治家が次々と女性問題で身を滅ぼすのはちょっと異常だな。そういう大物だから大々的に報道されてしまうんだろうけど、テレビカメラの前で謝罪声明を読み上げて去って行ったのを何人も見ていたはずなのに。英語文化にだって「他山の石」という観念があるんだけど、オレは違うと思ってしまうのかな。
評論家らしい人物が、「女性問題を起こす有力者には高校時代に女の子たちに振り向いてもらえなかったタイプ(nerd)が多い」と言っていた。キッシンジャーは「権力は媚薬だ」と言ったそうだけど、もてなくて悔しい思いをした人が権力を手にして(男女にかかわらず)人が寄ってくるようになると、自分はもてると勘違いして舞い上がるってことなのかな。だったら、自国の女性に振り向いてもらえない男が日本へ行って、チヤホヤされて「オレはもてる」と舞い上がるのと同類じゃないのかな。裏を返せばそういう男にチヤホヤされて「アタシってもてるのよ~」と舞い上がる女性の方も同じレベルだろうけど、つまるところは、抑えられていた「もてたい願望」を満たせる状況になったもので、理性を見失ったということなのかな。
ホワイトハウスで不倫をやって弾劾されかけたビル・クリントンはそんな「大物」の最たる例だろうけど、スキャンダルにまみれた任期を終えても元大統領としての政治的存在感は大きいし、政治家としての評価も高い。ジミー・カーターの「最良の元大統領」のタイトルを奪取したかもしれない。それはひとえにヒラリーという女性がいたからだと思う。民事弁護士の全米100傑に選ばれたくらいの凄腕で、フェミニストの鏡のように思われていたヒラリーは、不倫を繰り返す夫ビルと離婚しなかったことで、「自分の野心のために誇りを捨てた、打算的な女」と同性からさんざんに非難を浴びていた。きっぱりと離婚すれば不幸な結婚に苦しむ多くの女性たちに勇気を与えられるのに、「耐える妻」を演じるのは女性解放と自立の潮流に逆行する、と。
ヒラリーはそれでもビルを捨てなかった。あれだけの屈辱にさらされながらも「夫を愛している」と公言し続けた。任期が終わってホワイトハウスを去った後で、執務室に入ったビルの頬が真っ赤だった、ヒラリーの目が腫れていた、寝室から激しい口論や泣き声が聞こえたというホワイトハウススタッフの話がTIMEのような雑誌などで報じられた。そうか、バカ夫の横っ面を張り飛ばしたこともあったんだ。苦しくて夜通し泣いたこともあったんだ。ヒラリーは女として、妻として、深く傷つき、怒り狂い、泣き叫びながら闘ったのだと思う。それはとうてい野心や打算のためだけにできることではない。稀代の「できる女」であるヒラリーなら、しょうもない夫を許し続けて同性の反感を買うことが政治野心の妨げになることくらいわかるはずだ。(実際に大統領選の予備選では女性の支持が思いのほか低かった。)ヒラリーはビル・クリントンという男を心の底から愛していたのだと思う。なんと運のいい男なんだろうなあ。それに気づかずに自滅しそうになるなんてほんとにおバカだと思うけど、まあ、人間たるもの男女を問わず、自分の運の良さはそれを無くして初めてわかるものらしいから、なくしかけたところでわかれば、それも運の良さなのかも・・・
丸いものを四角くすると
6月29日。夏も再開の満開。あさってからもう7月。またあっというまに1年の半分が終わり。ついでにあさってはカナダの建国記念日。トロントでは市役所のストでゴミの収集がストップしているから、花火大会は中止とか。こっちではおととしのストで3ヵ月もゴミの収集がなかったけど、トロントはカナダで最大の都市だから、たまるゴミの山もバンクーバーの比じゃないだろうな。トロントの夏は蒸し暑いことで知られているから、うわ・・・。
7月といえば、この月に還暦の誕生日を迎える日本の友だちから「初孫誕生」の知らせがあった。元気そうな男の子。件名の後についた音符マークに彼女の喜びようがいかんなく発揮されていて、思わずこっちも満面のスマイル。そっかぁ、彼女もおばあちゃんになったんだ。子供のいないワタシにとっては、友だちの孫はみんな自分の孫も同然。自分のことのようにうれしい!
ジャンボ仕事はそろそろ没入しないと、上り坂の傾斜がだんだんきつくなる。どうもまた胸突き八丁の心臓破りの丘になっちゃいそうだなあ。ねじり鉢巻が締めても、締め直しても、なんだかだらんと緩んでくるから困ったもんだ。目にゴミ。コンタクトレンズにはゴミは一番の悩み。痛くて目を開けられないから、バスルームに上がって行って、レンズを外して、洗って入れ直し。ああ、すっきりした、とオフィスに戻ろうとしたら、あら、階段がよく見えない。確か左目を押さえて上がってきたんだっけ?さては・・・?毎朝レンズを入れるときは、黒点のついている右用のレンズを必ず先に入れる。そうなんだ。左用のレンズを右目に重ねて入れてしまった。ああ、この習い性。
オフィスに降りて行ってカレシにその話をしたら大爆笑。涙が出るくらい笑って、「ボクだって老眼鏡を2つ重ねてかけようとするからね」と。そうなんだ。カレシはリビングで使っている老眼鏡をかけたままでオフィスに下りてきてコンピュータの前に座り、やおらデスクにおいてある老眼鏡を・・・なんてことをよくやっている。あはは、これも senior momentなんだよね、お互いに。
LeeさんのTokyo Timesに載っていたのが四角いメロン。丸いメロンを四角にしてど~すんの?と思うけど、不思議な発想をする人もいるわけで、まあ、贈答用だったらギフト紙に包みやすいし、リボンもかけやすくて便利かもしれないな。でも、丸い味が四角い味になるのかはわからないけど、丸かろうが四角かろうがメロンはメロンかな。それとも、四角いのはセロンとか?形はなんらかの型にはめるんだろうけど、縞々が完璧じゃないのはどうなるんだろうな。欠陥品だと捨てちゃうのかな?世にも不思議な四角いメロン・・・
ま、とりあえず、「引退まであと3年10ヵ月」とかけ声をかけて、鉢巻を締めなおそう・・・。
ワタシがいなかった日本の夏
6月30日。今日で1年の半分の最後の日。すっきりと夏らしい天気、といっても仕事に埋まってさすがにひいひいと言っている(わりにはだらけている)ワタシにはあんまり実感がないな。しょうがないからというわけでもないけど、NHK Worldのサイトにあったカレンダー壁紙から「7月」をもらって来た。どこまでも濃い青空にまぶしいくらいのまっ白な雲。草むらの向こうには入道雲がわき起こって来そうな予感。きっとセミがうるさく鳴いているんだろうな。
NHKの「日本の夏」だから、これが日本の夏のイメージなんだろうけど、やっぱり子供の頃に過ごした「夏」とは違う風景だと感じる。空の色が違うし、セミは見たことも聞いたこともなかったし。中継所ができてNHKテレビが見られるようになったのは小学校半ばくらいの頃だったかな。夏休みが終わって始業式に来た子供たちが日焼けの黒さを競っているという光景を見てピンと来なかった。午後にもなれば海から霧が立ち込めて日焼けどころじゃなかったし、北海道ではとっくに夏休みが終わっていたしなあ。蝦夷地のほぼ最果ての地だったから、社会科の教科書に載っていた日本の四季の描写も子供心に「どこの国のことかいな」と感じたのも当然だったかもしれないけど。
テレビで思い出すのは、夫が「北海道に転勤になった」と暗い顔で言うと、妻も「よよよ」と、二人してまるで世の中の終わりのように嘆くドラマのシーン。あの頃は北海道に転勤することは「左遷」を意味することになっていたらしい。まだ「左遷」が何であるかは知らなかったけど、「お父さんが北海道に引っ越しさせられるのは恥ずかしいことなんだ」という意味合いは理解できた。いつまでそういう風潮があったのかは知らないけど、そんなシーンを見るたびにいや~な気分になった。北海道で生まれて育ったワタシにとっては、北海道は生まれてからずっと住んでいた「我が家」なわけで、その北海道に転勤することをまるで時代劇の島流しのように描かれるのは子供心にも気分のいいものではない。まあ、「津軽海峡以南の日本」に違和感を持ち続けるきっかけになったのかもしれないな。
今日配達された『MacLean’s』誌。いろんな統計や調査の報告を寄せ集めていいとこ取りしたら、カナダ人はアメリカ人よりも裕福で、フランス人よりもおいしいものを食べて、イタリア人よりも恋愛体質で、ドイツ人よりも勤勉で、スウェーデン人よりも長生きで、日本人よりも持っているテレビの台数が多い、という結果になったんだそうな。そのカナダでもバンクーバーは世界で一番住みやすいところ。あはは、明日はカナダの142才の誕生日。The Best Place on Earth、カナダ万歳!