リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2008年2月~その2

2008年02月29日 | 昔語り(2006~2013)
嵐の前のいい週末

2月16日。バレンタインデイから先、とってもいい日続きで、大ちょんぼのあたふた大汗の悔恨(があったかどうかは不明だけど)は帳消しにしておつりが来そうなくらい。そうなると極楽とんぼはゲンキンなもので、よ~し、と腕をまくって、鉢巻を締めなおして、仕事だ、勉強だ・・・う~ん、またねじを巻きすぎちゃっているかなあ。

金曜の夜はコンサート。コンサートマスターと元モントリオール響のコンサートマスターがバッハの二つのバイオリンコンチェルトで競演。いつものごとく、カレシはボッケリーニのシンフォニアでさっそく舟をこぎ始めた。やれやれ、と思ったら、ワタシの左側に座ったおじさまも船出。おいおい、すやすやとお休みの紳士の間でサンドイッチになったワタシはどうしたらいいの?おまけに後ろの7つくらいの男の子はしきりともぞもぞ。ちらっと振り返ったら、子供の両側に座った若いカップルが子供の座席の背で手を握り合っている。ふむ、せっかくのデートにどうやらカレシの弟がくっついてくるはめになったということか。後半は静かだと思っていたけど、コンチェルトが終わって立ち上がって振り向いたら、恋人たちの間に陣取った「たんこぶ君」はお兄ちゃんの肩にもたれてスヤスヤ。ご機嫌斜めであさっての方を見ている彼女をよそに、お口ぽかーんのみごとな爆睡。その寝顔があまりにも無邪気なもので、「コノヤロー」とぶっち切れたそうなお兄ちゃんの顔と見比べて思わず吹き出しそうになってしまった。だって、まるでロマンチックコメディのシーン・・・

右左後と、コンサートでこっくり「船隊」に包囲されたのは生まれて初めてだったけど、二つのバイオリンの競演はすばらしかった。カレシは「すごく良かった。ぜんぜん眠くならなかったよ」。はぁ~

今夜は予約を入れてあったGastropod。昔はヒッピーのメッカだった一帯だけど、今はかなりおしゃれな、それでいて何となく「左翼っぽい」街になっている。レストランはびっくりするほど小さくて、「ミニマリズム」といわれるだけあって、内装はよけいな装飾がほんとうに何もない。何もないんだけど、そこが「おしゃれでカジュアルな」内装になっているからおもしろい。まあ、プロの装飾デザイナーが何も飾らないことで「何か」というコンセプトを表現したんだろうけれど、少し経つとそれがすっきりして心地良くなるから不思議。

アペリティフにリレを注文して、カレシは前菜にマグロのトロ、メインにサケ。シャルドネをグラスで注文。ワタシは前菜に鴨、メインにラム、ワインはオーストラリアのシラズ。出された鴨の足はびっくりするほど柔らかい。一口食べて「おお~」。メインのラムは肩、首、ヒレ、ひき肉のトルテリーニの4通り。サンフランシスコのMichael Minaは何でも3通りが売りものだけど、ここは4通り!トルテリーニが少しあっさりしがちだった以外はどれも「おお~」。すごくおいしかった。カレシもゆっくりとたたきにしたようなトロと海苔を巻いて焼いたサケに大いに満足。バンクーバーからサンフランシスコまで、フランス料理のスタイルと日本料理の食材のフュージョンはすっかり定着した観がある。そこがおいしいもの好きにはたまらないところだけど。

サービスで出されたジャスミンティーのソルベでお味直し。シンプルであっさりしたデザートとエスプレッソで仕上げて、出てきた勘定書きを見たカレシ、「これだけうまくてたったこれだけ?」と感歎することしきり。さっそく我が家の「レストランガイド」に「お気に入り」のハートマーク付きで加えることに決まり(ミシュランのように気取っていないから安いところから高いところまでピンキリ。「お気に入り」はハート、「また行こう」は感嘆符2つ、「たまに行くか」は感嘆符ひとつ、「行ってきました」はアステリスク、というランキングになっている)。まあ、クリスマスシーズン後の冬枯れ時のスペシャルイベントもやっと終わったことだし、これからが私たちのレストラン回遊シーズンというところ・・・

マイペースで行こう

2月17日。早いなあ、もう2月が半分以上終わってしまった。つい好奇心でちょっと計算してみたら、1年の1割以上が終わってしまっている。実際には13%。そんな数字を見たら、お気楽を決め込みたがるワタシだってぎょっとして「何とかせなあかんなあ」と思ってしまうけど、師走がそこまで迫っているわけじゃあるまいし、いくら何でもまだ駆け出すのは早すぎるよなあ。だいたい、時間というやつはこっちが走れば走るほど足を速めるようだから、ここはそんなことには気づいていないふりをして、そろっと出し抜いてやろうか。

日本での週明けに合わせて小さめの仕事をやっつけて請求書と一緒に納品。さあ、明日からは遠巻きにしていた「大仕事」にかからなきゃ。遠くから見ていても、近くで睨んでも、斜めに見ても、やっぱり気乗りがしない。しないけど、いや、しないからこそ、「生活しなきゃならないんだから」とワタシの尻尾を押しまくる。まあ、ど~んとトラックを買ってしまったし、年金積立金も払わなきゃならないし・・・。ふ~ん、早く隠居して読書三昧、創作三昧の芸術三昧になるには早く年を取らなきゃいけない。てことは、やっぱり時間を追いかけて走るしかないか・・・。

小町に「マイペースな性格を治すのは可能か」という相談がある。まだ新婚だというのに、夫が「これ以上マイペースに付き合いきれない」といって離婚を切り出したという。夫とやり直したくてマイペースなところを治したいというんだけど、トピックの主はワタシに似ているところがあるなあと思っていたら、夫はさっさと出て行って、転職して、わざと音信不通で無視を決め込んでいるという。これってモラハラじゃないの。トピ主は夫だけじゃなくて、匿名の書き込みにまで振り回され始めているようで気になって来てしまった。理詰めのようで少々お人よしっぽいところがあるようだけど、実はまじめで素直な人なんだろう。遠足や修学旅行が苦手だったところも、着眼点や想像力が周りと微妙にずれているらしいところも似ている。

だけど、いったいマイペースのどこが悪いんだろう。てっきり「むやみに周囲に同調せずに自分のペースを守ること」だと解釈していたんだけどなあ。自分の「ペース」を守るためにはまず何が「マイペース」なのか知らなければならないと思う。自分のペースが分かれば、「協調と「同調」の違いがわかって来ると思うんだけど、「マイペースな」という形容詞はほめ言葉ではないらしい。どうやら今流行の「空気が読めない」と同義語で、同調しない人に罪悪感を持たせてをコントロールするための、一種のモラハラ語に聞こえる。

だったら、「マイペース」じゃない人はいったいどんなペースで生きているんだろう。ラインダンスのように、右を見て、左を見て、はい右足、次は左足?それ、疲れないの?誰だって自分が一番本領を発揮できるステップやリズムがあるだろうに。みごとに呼吸の合った群舞も美しいけど、一見しててんでんばらばらな乱舞もダイナミックで美しいと思うんだけどなあ。まあ、ワタシが勝手にそう思うだけで、ラインダンスの好きな人には「自分勝手でいい加減」ということになるのかもしれない。トピックの主よ、マイペースだっていいじゃないの。それが個性であり、自主性であり、自己尊重であり、自律でもあるんだから。しっかりマイペースを取り戻して、問題の本質が何かをみきわめてね。

自己討論会

2月18日。ぽかぽかするほどの晴天。こんな日こそ二階の「塔」の陽だまりでの~んびりと読書でもしていたいけど、そうはどっこい問屋が卸してくれないのがつらいところで、今年も「魔の3月」になりそうな気配がありあり。ん、まだ2月が残っていた。その残った2月にあれも、これもと入れてしまって、いいのかなあ。いくら目をつぶっても消えない大仕事にかかろうかと観念したとたんに、これだもの。まさか陰謀じゃないだろうなあ。ワタシ、頭はひとつしかないですから。ヤマタノオロチじゃないんですってば。

「マイペース」のことを考えていたら、二面性と二分法の議論に発展してしまった。議論と言っても、自分の頭の中だけでごちゃごちゃやっているだけの、ワタシの性癖のひとつ。自分でうるさいと呆れることもあるけど、別に思考や性格が分裂しているわけではない(と思う)。まあ、森羅万象すべてに陰と陽があるんだけど、この陰と陽は完全に相反する「ふたつ」なのか、それとも相容れないものだけど合わせて「ひとつ」なのか。人間についてだけいうなら、「合わせてひとつ」じゃないともろに二重人格になってしまうよなあ。たとえば、ジキルとハイドは相反する「ふたつ」の人格で「ひとつ」にはなり得ないんだけど、実際は、人間には誰しも多かれ少なかれジキルとハイドが同居して「ひとつ」になっていることは確か。どっちの要素がもう一方をどれだけ抑えているかの違いで、善人と悪人、賢人と愚人、正直者と嘘つき、せっかちとのんびり、愛する人と愛さない人、上から目線と上目の視線・・・うは。

まあ、陰陽の印のように、善人にもちょっとワルなところがあるだろうし、賢人でもとろいところはあるはず。いくら正直な人でも「言うべきことを言わない」ことで結果的に人を欺くことだってあるだろう。それが人間であり、そういうのが重なって人間味ということになるんだろう。陰と陽の境界が直線でなくてダイナミックに波打っているのはそういう意味なんだと思う。そうなると人間はやはり「相容れないものを合わせてひとつ」の存在ってことになるなあ。自信を持つことは不可欠だけど、ちょっと間違えば自惚れになり、驕りになる。自尊心を大切にすると言っても、他の人を貶めることで保てる自尊心だったら逆に自分の価値を落としてしまうし、「自」のつくことは踏み出した足のおろし方次第ではぬかるみにはまることもあるということだろう。

どこかで「個人」と「自分」は同じではない言っているのを見た。そのときはへ~と思って読み過ごしたけど、なんかわかったような気がして来た。自分は(たとえいくつもの面を持っていても)ひとりしかいないけど、個人は自分だけじゃないということだろう。英語のSELFという語を辞書で見たら、「一個人の人格全体」と定義されている。英和辞書には「自己」とあるから、日本語の「自己」を調べたら、「個体としての統一体で、他と区別する我(われ)」となっていた。これは「他人と対照するSELF」というラテン語の「EGO」の定義と似ているけど、広辞苑では「自我」の定義になっている。わかったような、わからいないような・・・。だけど、「自分」は陰陽、善悪、明暗のようなふたつの相容れない要素をごちゃまぜにして持つ「ひとつ」の個体だということは分かってきたような気がする。つまりは人それぞれってこと、自分と他人はそれぞれ別の人格で、それが合わさって「人間」というひとつの「宇宙」を形成しているってことなのかなあ。何だか、膨張を続ける宇宙みたいな議論になってきた。まるでヤマタノオロチの頭がてんでにああだ、こうだと議論しているような構図だけど、自己討論とか、Self-debateという言葉ってあったっけ・・・?

太平洋の広さは変わらないのに

2月19日。ほんとうに何だか雲行きが怪しくなってきた。急に「4時間でできませんか」なんてのが飛び込んできたかと思うと、「1枚送り忘れてました。すぐにやってくださ~い」というのがあったりで、まるで救急センターみたい。おかげで「大仕事」はまだ手をつけずじまいなのに、うっかり「ま、いっか」なんて考えるから、別の仕事までねじ込んでしまった。教科書は第1章の第1ページを開きっぱなし。寝しなに読もうかと思っても、どしんと重くて潰されてしまいそうなでっかい本。ペーパーバックにしてくれたらいいのに・・・う~ん、大学の権威が落ちるか。(中身で勝負ってわけにもいかないんだろうなあ。)

けさは夢を見ている最中に目覚ましが鳴った。こういうときの夢ってけっこう記憶に残るものなのか、半分現実的で、半分が幻想。なんだかカントリー風のキッチンみたいなところで、妹とワタシ、カレンダーをめくって「いつにする?」、「誰それに聞いてみないと・・・」と相談ごと。(何語で話していたのかはあやふやなのに、内容は両方で覚えているからおかしい。)なんでカントリー風だったのか知らないけど、小町で「ほっこり」談義を読みすぎたのかもしれないなあ。カレシにその話をしたら、「日本へ行って来るなら早く予定を決めなきゃってことだろ」と。そうだ、4月の初めならあと6週間くらいしかないのに、まだ飛行機の予約さえしていない。

日本行きを言い出した頃は「行ってほしくない」というよう態度がありありだったカレシだけど、この頃はあれを買って来て欲しい、これを探してみて欲しいと注文がいっぱい。たった1週間のつもりだし、その間にクライアントに挨拶に行ったり、友達とも会いたいし、何よりも10年ぶりに会う妹と積もる話をしたい。でも、どんな心境の変化があったのかわからないけど、「行っておいで」といってくれるのはうれしい。ワタシがいない間にトロントに行ってきたらといったら、「ボクも親の顔を見に行ったり、ジムや友だちとご飯を食べたりするからいいよ」。ひとりの日は自分で料理をしてみるんだそうな。

そろそろ飛行機を予約したほうがいいと、カレシがExpediaで調べてくれた。まず「どの会社で行く?」う~ん、これは難問。JALで行けば英語一本やりで通せばめっちゃサービスがいいし、専用ターミナルがあって客はほぼ日本人だから「外国人用」の入国管理のカウンターはがら空きだ。エアカナダで行けば、他の外国航空会社がどっと到着して入国管理で時間がかかる。ずっと昔、1時間近く並んで待ったことがあったけど、指紋を取るようになった今ならもっと混んでいそう。だけど、JALは他人の言うことを聞かない人が飛ばしているらしいからちょっぴり怖いなあ。(10年前に二階席に座っていたら、客室乗務員が新婚さんとかどこの誰それ氏とか、次々とコックピットに連れて来ていたので、セキュリティはどうなってるのかと思ったけど、あんまり変わっていないのかもしれない。やだ・・・)

結局はエアカナダに決まった。というのも、同じ日の往復でJALの料金は何と50%も高い。ANAになるとエアカナダの二倍の料金になっている。同じ距離なのにどうしてそうなるのか知らないけど、すごい違い。昔のカナディアン航空だったら少々高くてもサービスが良かったら好きだったけど、今の時代、エコノミーのサービスなんてどこも似たりよったり。だったら安いに限る。それに、エアカナダの乗務員の方がジョークのひとつもとばせて、波長が合うしなあ。ま、予約は来週にしよう。まずは、仕事、仕事・・・

説得され力?

2月20日。寝酒を引っかけながら、たあいのないおしゃべりをして、寝たのが午前4時。ここまではいつものことなんだけど、大騒音で目が覚めたのが午前7時。去年の夏に地下鉄用の送電線埋設の工事をして仮舗装のままだった道路の舗装工事。きのうモールへ出かけたときに「舗装工事―午前6時から午後6時」という標識がずらっと並んでいたけど、今日のことだったんかい。まあ、そうだから前日に標識を立てたんだろうけども。

カレシはガバッと起きて、ベッドから飛び出した。戻って来るまでにかなり時間があったところを見ると、窓から「けしからんヤツら」を睨んでいたらしい。睨んだって、向こうは仕事だからしようがないんだけどなあ、と目をつぶってでんでん虫を決め込んでいたら、あれ、いびきが聞こえてきたではないか。この騒音の中でカレシが眠っているなんて奇跡が起きたみたい・・・と、よく見たら、いつも使っているシリコンの耳栓がやたらとでかい。よくよく見たら、2個ずつくっつけてねじ込んであるではないか。な~るほど、カッカとしても解決にならないから、自衛策を講じることにしたわけか。そうそう、そのほうが断然効果的だし、精神的にもいいものね。工事の音源がほんの少しずつ動いて行くのを聞いているうちに、ワタシもいつのまにか眠ってしまって、二人して目を覚ましたのは午前11時45分。騒音なれして来たのかも。

きのうの州予算で発表された炭素税。7月からガソリン1リットル当たり2.45セントが上乗せされるとか。遠い郊外から通勤する人には打撃だろうなあ。だけど、バスの定期代と月々のガソリン代があまり変わらないし、乗り換えや何やらでバス通勤にかかる時間がもったいないという人も多いし、それも一理はある。たとえば、建設中の地下鉄。我が家から駅まで徒歩で10分ちょっとで、ダウンタウンまでは20分くらい。バスだと徒歩も入れて1時間近く。車だと家から20分。地下鉄の片道運賃が2ドルとして、2人だと往復で8ドル(滞在時間は無制限)。ダウンタウンからちょっとだけ外れた道路に駐車すると2時間あたり5ドル。途中でメーターにコインを足しても多くて2ドル。だいたいの用を足せる時間の駐車コストは多くて7ドルで、エコーならガソリン代は1ドルもかからない。買い物も運びやすいし、何よりも雨の日に15分歩かなくてもいい。地下鉄で行くか、車で行くか・・・う~ん、難しい選択だなあ。

夕方に鳴り出した電話。カレシが「クライアントだよ。どうする?」うは~、もう入らないよ。だけど、まあ無視するわけにはいかないなあ。話を聞いて、スケジュールを説明して断った方がよさそう。「やめといた方がいいと思うけどなあ」とカレシ。クライアントだけと電話をかけてくるのは半ば友だちのような人で、のっけから「スケジュール、どうですかあ」と来た。う~ん、きちきちなんだけど・・・。なんだけど、「説得されちゃった」とカレシに言ったら、「そうなると思ってた」。ほんとに我が社の営業担当はどうしてこうお人よしなんだろうなあ。辞書に「NO」という言葉がないわけじゃなかろうに。「生活しなくちゃなんないもん」といったら、「ほんとは好きでやりたいんでしょ?」とカレシ。うん、たぶんそっちの方が本音なんだろう。引き受けてしまって「ど~しよ~」というのを「生活、生活」というおまじないで鎮めているのかなあ。健気に聞こえそうだけど、やっぱりやりたがり屋の極楽とんぼの本領ここにあり、なのかなあ。

今夜は月食。南の方から雲が切れつつあるらしい。見えるかな?ちょっと二階へ行って見てこようっと・・・

オーウェリアンワールド

2月21日。あ~あ・・・今日はため息デーかも。ゆうべ、のんきに月食を鑑賞していたら、カレシが大むくれ顔で、インターネットが全然つながらなくなったという。ここんところ、ドロップアウトがだんだん頻繁になっていたから、モデムがおかしいのか、コンピュータがおかしいのか、それとも、バックアップ電源のライトがずっと点滅しているところを見るとUSB装置が増えすぎてバッテリの容量が間に合わなくなったのか、それとも、電話回線がおかしいのか・・・とにかく「それとも?」がずらり。

まじめに仕事を始めたつもりが、「しゃあないなあ」とタイムアウト。電話線の接続をチェックしたり、電源を変えたり、あっちをはずし、こっちをつなぎ・・・ふむ、効果はゼロ。カレシはISPのサポートに電話して、サポートもいろいろやってみたけど、やっぱり効果がない。電話回線かモデムが怪しいということになった。カレシのISPは電話会社。翌日向こうから電話するということで、その夜は問題未解決のまま。ネットから断絶されたカレシはうろうろ。ワタシまで何だか仕事をする気が殺がれてしまって、映画でも見る?

おかげで仕事の予定はまたアコーデオンプリーツ状態。でも、朝の電話でテクニシャンが金曜日に来るということになって、カレシは英語教室へ。ワタシは「今日こそは」と意気込んでオフィスに腰を落ち着けた。なのに・・・電話会社が「これから行きます」。おいおい、明日のはずじゃなかったの?テクニシャンは「あと1時間ほどで行きます」。現れたのはなんと20分後。サービスが良すぎるのも何だかなあ。調べてみたらモデムはOK。外へ出て行ったと思ったら電話が鳴って「問題は電話回線でした。修理しました」と。この間わずか5分。そういえば、先週、日本からの電話が猛烈な雑音で聞き取れなかったことがあったっけ。あのときに電話会社にチェックしてもらっておけば良かったということか。おお、リンクのライトがしっかりと点灯している。カレシが帰ってきたらよろこぶぞ。

それにしても、サービスまで超高速なのは、きっとネットに接続できないと日常の活動が立往生してしまう人が多いからだろう。ワタシだったらまさに「営業停止」みたいなもので死活問題。だから別に旧式なダイアルアップのアカウントも持っているんだけど、それでも去年DSLが3日ほどダウンしていた時は気分的に落ちつかなくて困った。どうもネットは人間の一部になってしまっているらしい。外付けのハードディスクのような存在なのかなあ。外すことはできるけど、いちいちつなぐのがめんどうだからUSBにつなぎっぱなしとか。こんな風に「ネットにつながれて」いなかった時代は良かったなあという懐古的な気にもなってしまうなあ。ビル・ゲイツは世界の人をみんなネットでつなぎたいとか何とか言っていたけど、それって、世界中の人がいつもネットに「つながれている」ってことだとしたら、何か不気味な世界が待っているような気がしないでもない。網にかかった虫みたいになってしまうのかなあ。そのうち、生まれた瞬間からネットにつながれるようになったりして・・・

Have a great day!

2月22日。また道路舗装の騒音でいったん目がさめた。午前8時。おとといとは音が違うなあと思いつつ、また眠りに落ちて、騒音でなぜか目を覚まさなかったカレシに起こされたのが10時半。ちょっと早いよ~。だけど、カレシはネットの接続状態が気になるらしく、おはようのキスもそこそこに起き出してしまった。寝ぼけまなこのワタシもごそごそと続く。

実は、きのう解決したはずの問題、すぐに元の木阿弥状態になってしまっていた。電話線に問題があったのは確からしく、ADSLの接続は安定してスピードアップしたのはいいけれど、肝心のネットがプッツンと切れる問題の方は未解決のまま。ダウンロードの最中にプッツン。再起動するとまたアクセスできるけど、しばらくするとまた突然プッツンしてしまう。頭にきたカレシ、(ガス抜きのしょっぱい口笛を吹きながら)片っ端からシステム中を隅から隅まで調べまくって、割り出した「容疑者」がIPアドレスの取得。リース取得時刻からリースの終了時刻までたったの2時間。何で?さあ?IPアドレスが固定されていないことは知っているけど、2時間でプッツンはないよなあ・・・

ワタシのも調べてみたら、こっちは1時間30分。でも、接続がプッツンしたことがないのはアドレスのリースが自動的にシームレスに更新されているからだろう。電話回線もISPも別々だから、ワタシの方には問題なし。カレシは時計を見上げて「あと5分・・・」。5分きっかりでプッツンとアクセスが断絶。いつまで経っても復旧する気配がないから、コンピュータを再起動したら、何ごともなかったようにアクセス再開。リース取得時刻は再起動の時間で、終了時刻はまた2時間後。その2時間後に・・・。おいおい、2時間ごとに再起動なんてやってられるかい。

朝食後、さっそくISPのサポートに電話。ここはテクニシャンにたどり着くまで、自動応答システムになっていて、それがボタンを押すのではなくてボイスになっている。電話番号を言うと、コンピュータ合成の女性の声が復唱して「間違いないですか?」と聞くから、横で聞いているワタシはYesという代わりに、YeahとかYupとか返事をしたらどうなるかなあとのんきなことを考えた。一度試してみようと思ったけど、トラブルがあるからサポートに電話するんで、トラブルのときはそんなことを試しているヒマはないよなあ。それでも、強い外国語訛りのある返事でもコンピュータはちゃんと言葉を識別できるのかちょっと気になった。

やっとつながったテクニシャン君はどうやらフィリピン系の訛り。カレシは相手に口を挟むヒマを与えず、「起訴状」でも読み上げているような感じで、経緯を順序を追って説明。相手はしばし沈黙して、「今日中に折り返し電話します」との返事。カレシは「ボイスメールにシステムをアップグレードするので、問題が起きたら報告しろというメッセージが入った後でこの問題が起きるようになったんだから、おたくの問題だと思うよ」ともうひと押しして会話はおしまい。最後にテクニシャン君が「Have a great day(どうぞすばらしい日を)」といったもので、ワタシは椅子から転げ落ちそうなほど大爆笑してしまった。ネットにアクセスできなくて、カリカリ、イライラしている人に「すばらしい日」もへったくれもないでしょうが・・・。

昔、某航空会社の機内アナウンスの「台本」を翻訳したことがあったけど、まさにそれ。いろんなシナリオを想定した台本ができているってことなんだ。ああいえばこういうって感じで、そういえばよく行ったジャパレスでもそんなやりとりだったなあ。「想定内」のことだったFAQ式に台本通りに解決できるだろうけど、今回の問題は想定外。台本には「折り返し電話と回答」と書いてあるんだろう。だけど、「電話を切る際のマナー」のページには、問題が解決した場合としなかった場合の区別がなくて、「朗らかに、どうぞすばらしい日を、と言って切る」と書いてあるんだろうなあ。トラブルが解決していないのに「すばらしい日」も何もないだろうけど・・・。まあ、「折り返し電話」はとうとう来なかったけど、なぜか「プッツン」は起きなくなったそうだから、カレシの探偵ごっこのおかげでバグが見つかって、黙って直したんだろうね。「何でオレが手がかりを見つけてやらなきゃならないんだ」とカレシ。ヘルプの台本、書き換えた方が良さそうだけどなあ。

しまったらおしまいよ

2月23日。土曜日。なんか今週も多彩にいろいろあったなあ。よく覚えていないけど、きっといろいろありすぎたということなんだろう。まあ、いろいろといっても、ありすぎたのはカレシの方で、ワタシの方はあいも変わらずの極楽とんぼで、けっこうノー天気に仕事を引き受けてはカレンダー見てため息。ずっと昔、「わかっちゃいるけどやめられな」という極楽とんぼの元祖みたいなタレントがいたように思うけど、まあ誰でもいいか・・・

カレシは懸案が解決して安定したようで、陽気につられて庭仕事をしたり、机上にいっぱい「プラン」を並べたり。だけど、外付けのCDライターが認識されないとあたふたして「あ、プラグを抜いたままだった」と言っているかと思えば、デスクの隅に転がっていた2個の乾電池が使えるかどうかで、電池のテスターが見つからないと、上から下まで30分以上も捜し回って、デスクの隅でひょいとおいた紙の下に隠れていたのを見つけたり・・・ま、「平常運転」に戻ったというところ。ママに電話したらパパの痴呆がかなり進行したようで、「英語を教えるの、やめられないなあ」とぽつり。好きなんだから死ぬまでボランティア先生やっていればボケ予防になっていいじゃないの。

小町で「日本は変わってしまった」と嘆いている人がいる。海外生活が8年だそうな。自慢したがりが多い、格好が下品、ケチが多い・・・。ふ~ん、出る釘は打たれる国でどうやって自慢するのかな。気合を入れておしゃれをする国で下品な格好で外を歩ける?ケチが多いって・・・これは、わかるかも。もっとも、ケチだというよりは、相手が誰であろうと「自分が損をしたくない」人が多いんだと思うけど。なるほど、たった8年の海外生活の間に日本はそれくらい変わって しまったのか。だけど、「変わったなあ」というのと、「変わってしまった」というのとでは、かなりニュアンスが違う。「~してしまった」というと、何か取り返しのつかないことに対する憤慨や恨みのような感情があるから、「日本は変わってしまった」という言葉の根底には「ずっとワタシが知っている日本でいて欲しかったのに」という感情が感じられる。このあたりは海外に住む日本人の専売特許というわけでもないんだけど・・・

異国に移住して暮らすとき、生まれ育った国は「遠くにありて思うふるさと」になり、心の中でどんどん美化され、理想化されていく傾向があるように思う。その度合いは生活拠点となった国との親密さに反比例するらしく、不満があるほど心は祖国に向いているように見える。だけど「祖国」はいいところだけを取った記憶だから、現実の世界のように時代に沿って変化することはない。それどころか、海外生活の不満がつのるほど「心の支え」として理想化されて行くものらしい。それは、友だちに何年ぶりかで再開したときに、古い写真と比べて「変わってしまった」と文句を言うようなものかもしれない。ひょっとしたら、分は昔のままだと思ってているのかもしれないし、いや自分は変わっていない(異文化になんか染まっていない)のだと思いたいのかもしれない。どっちにしても、自分も変わってしまっているだろうとは思わないから、「心の支え」を変えられたこと、早く言えば「帰るところ」がなくなったことに憤慨し、落胆するということなんだろう。

なぜって、「~してしまった」というのは「完了形」で、寅さんじゃないけど「それを言ったらおしまい」で、後に希望がなくなってしまう。カナダだって、過去33年を振り返ればずいぶん変わった。変わって「しまった」と言わないのは、「世の中」が変化する中を生きて来たんだし、これからだって変化に追いつき、追い越されしながら生きていかなければならないから。日本のバブル時代は戦後最大の社会変動期だったと言えるけど、その中を生きて来た日本人は「世の中が変わった」と思いはしても、「日本は変わってしまった」とは思わないんじゃないかなあ。たしかに文化も社会も人も昔とは違って見えるから、日本に行ったら「うわっ、変わったなあ」と驚嘆するだろうし、変わっていないところを見れば「ちっとも変わってない」とノスタルジアを感じるだろう。(ノスタルジアは年のせいかもしれないけど。)だけど、所詮は短い時間を過ごす間の印象にすぎないだろうから、たぶんに観光客の視線になって「しまって」いるのかも。

初めにたまたまありき

2月24日。静かだなあと思ったら日曜日なんだ。いかにも春が近いという感じの晴天。関東は春一番が吹いたそうだけど、ふむ、北海道には春一番なんてあったっけ?根雪が解ける春先の札幌名物は「馬ふん風」だった。もっともあまり覚えていないんだけど。子供の頃に荷馬車が走っていて、ボロボロと残していった馬ふんを集めて肥料にしていたのは覚えている。人口十万人の都市の話。のどかな時代だったのか、未開の時代だったのか、わからないなあ。

人間の記憶は、年を取るにつれて古い記憶が鮮明に残っているのに新しいものは定着しなるんだそうな。だから年よりは昔のことばかり繰り返ししゃべっているわけで、それはデフラグされずに残った断片であることが多いようだけど、それが原風景と呼ばれるものなのかもしれない。だったらワタシの原風景は北海道の風景でしかない。津軽海峡以南には住んだことがないから、旅行者として見た絵葉書のような風景以外は原体験と結びついた記憶がないのはあたりまえなんだろう。もしも、ずっと日本で暮らしたとしたら、どこに住むことになっていてもいろいろな媒体を通して「日本」の記憶が蓄積されたかもしれない。でも、たまたま何千キロも離れたところに住み着いて、そこがたまたま北海道の風景と似ていたもので、たまたま日本が外国になってしまったというところかな。

この「たまたま」という言葉はすごくおもしろい。漢字で書くと「偶々」。「たまに」何かをするときは「偶に」と書く。なんとなく意味深長。掲示板でよく見かけるのが、国際結婚叩きみたいなトピックで、「好きになった人がたまたま外国人だった」、「たまたま結婚した相手が外国人だった」と反論するレス。まあ、恋心というものは意識がなくても「たまたま」発生したりするけど、その時に初めて「あれ、この人、外国人だったの」とわかったのかなあ。それとも、その気はなかったんだけど「たまたま」結婚しちゃった相手が外国人だったのかなあ。外国人を意識して好きになったわけでも、外国人と意図的に結婚したわけでもない、すべては「偶然だった」といいたいんだろうけど、ほんとうはどうなんだろう。

ワタシはどうかと考えると、4年ちょっと文通を続けていたカレシに「たまたま」恋をしちゃったんであって、カレシが「たまたま外国人」だったってことではなさそうだなあ。外国人だということ、カナダ人だということは好きになる前から百も承知だったんだもの。十代の頃はご多分に漏れず「外国」に憧れてたしなあ。アメリカに移住して自分の力を試してみたいというどえらい野心を持っていたくらい。若い頃に外国行きを夢見たらしい父の血筋かもしれないけど、何ができるかも考えずにただアメリカに乗り込んで一旗上げるつもりだったから、「恋する乙女」にはほど遠いおてんばだった。そのおてんばが恋をした相手がたまたまカレシだったわけで、「日本女性伝説」のステレオタイプ像に憧れていたらしいカレシにとっても、目の前に現れた「日本女性」がたまたまワタシだったということ。状況が違ったら別の男性に恋をしたかもしれないし、カレシの前に別の日本女性が現れていたかもしれない。

つまり、恋というのは「たまたま」のいたずらだということはたしかだけど、その先はどうもそうじゃなさそう。外国人だ、国際結婚だ、海外在住だと意識しすぎるから、ちょっと風当たりが強いと「たまたま」を強調して自己弁護したくなるのかもしれないなあ。だけど、人種の違う人間が恋に落ちたのは「たまたま」だろうけど、国際結婚だろうが海外在住だろうが、好きになった相手との関係を続けことで発生すると予想されたことを自分で受け入れた結果なんだから、「たまたま」そうなったというのはちょっと無責任に聞こえないかなあ。まあ、腰を落ち着けて20年や30年も暮らしていれば、「たまたま」外国人と国際結婚して海外在住なんて意識はどっかへ行ってしまって、ただの老夫婦になるんだと思うけど。うん、今からでも二人の「原風景」をたくさん記憶しておいて、その時が来たら、春の陽だまりでひねもす昔語りといくか・・・

相身互いはいいけれど

2月25日。カレシのネット接続は日曜の午後まで何事もなく動いていた。やれやれ問題解決だとほっとしていたら、電話会社から電話。問題点が見つかって処理したが調子はどうかということだったらしい。すごく上々だよと答えてごきげんだったカレシ。それから1時間もしないうちにアクセスがプッツンして、「あいつら何をなにやってんだ~」とぶっち切れた。まさに元の木阿弥、振り出しに戻ってしまったわけで、どうやら臨時に固定IPアドレスを振っておいて、システムをいじりまわして、「どうか」と聞いたら「上々」だというから、元のダイナミックIPに切り替えたらリース終了と同時にプッツンの状態に戻ってしまったらしい。

さっそくサポートに電話。またまた強烈なフィリピン訛りの英語で、何を言わんとしているのかすぐには理解できない。それでもしばらくいろいろ試してみたけど結局ダメ。火曜日の午後にまたテクニシャンを派遣してくれることになった。そのテクニシャンがまたもや1日早い今日現れたからびっくり仰天。サングラスを頭の上に乗っけたちょいとイケメンのお兄ちゃん、「近くを通りがかったもんでついでに」といいながら、モデムをひと目見て「これ、古いや。もうこんなの使ってないよ」と取り外し。電話線の差込口をピーピーガーガーとテスト。二つあるジャックの下のほうは昔使っていた番号のなんだけど、それがなぜか全然知らない番号とつながっていたらしい。え、盗聴とか?いや、「これにつないで長距離電話をかけまくったら、請求がみんな番号の持ち主のところに行くんだよ」と。へえ、デジタル時代の情報ハイウェイは穴ぼこだらけなんだ。

てきぱきと作業をしているそばでカレシが「きのうのテクニシャンは訛りが強くてよくわからなかった」といったら、「コールセンターがマニラにあるんだよ。そういう苦情はよくあるけど、何しろあっちは人件費が安いからね」と、実に明快な返事。聞くところによると、地元には別のサポートグループがあって、こっちは問題がプロバイダ側であれば無料、ユーザー側であれば有料なんだそうな。な~るほど、サービスも格差社会というわけか。もっとも地元のテクニシャンなら賃金も高いだろうから、それもありなんだろうけど、どうしても解決できなくて、とうとう自分でプレミアムサポートに電話したテクニシャン君、「ボクがかけてるから今回はタダだよ」とウィンク。イケメンだけじゃなくてなかなか愉快なおにいちゃんだ。結局、「できるヤツら」の入れ知恵?でIPアドレスのリース更新の間隔を「24時間」に設定して、一応の解決を見たのだった。

二度あることは三度、三度あることは四度あるのが我が家のジンクスで、今度はワタシのマウスがフリーズし始めた。やれやれ、この忙しい時に困ったもんだ。さっそくオンラインで注文はしたけど、sympathy pain (同情の痛み)ってヤツかもしれない。きっとネットに拒絶されて苦悩していたカレシのコンピュータに同情したのかなあ。まあ、オフィスの隅には古いマウスが4個もあるから、非常の時にはそのうちどれかがまだ使えるかもしれない。問題があったから取り替えたんだろうけど、ひょっとしたらひょっとして・・・と淡い希望をかける。みんなダメだったら、どうしよ~

ワタシの日本語、違ってたの?

2月26日。さあ、きのうの遅れを取り戻さなきゃと、カレシを送り出して威勢良く腕まくり。急遽ほこりを払って現役復帰させたマウスは正常に動いている。ボタンを押せばポチン、ポチンと軽快な音だし、手ごたえもいい。頓死したマウスはホチ、ホチていどだったんだけど。思い立ってねじ回しを持ち出してきてマウスを「解剖」してみたら、ふわふわした綿ぼこリが少し出てきた。どうやらボタンやホィールの周囲の隙間からほこりが入り込むらしいけど、日常的に分解掃除できるものじゃないから、ハイテク時代はあんがい不便でもある。

久しぶりの日本語訳。やっぱりローマ字入力はイライラがつのってくる。原稿は英語とはいっても、英語が母語ではないヨーロッパ人が書いたもので、母語(フランス語)の思考や語法がもろにミックスされていて、わかりにくいことはなはだしい。わかることはわかるんだけど、いったんもっと「らしい」英語に消化してからでないと、日本語訳が出て来ない。たまに日本語訳を引き受けたときに限って、どうしてこういう変な英語ばっかりなんだろうなあ。ひょっとしたら英語の分かるフランス人ならもっと理解が早いかもしれないなあ。英語が事実上の世界共通語みたいな感じになって、英語は十人十色どころか、百人百様。そのうち英語から翻訳するときは他の言語や思考文化の知識も必須になるかもしれないなあ。

とにかく、「ええ?」、「あれ?」を連発しながら、あとひと息のところまで来た。そんな合間にも「魔の3月」はだんだん黒雲がむくむく。う~ん、どうしよ~、腕をまくろうかなあ、なんて言っているうちにあっさりとパンク状態。これ以上仕事が飛び込んで来たら、徹夜モードになってしまいそうだけど、困ったなあ。ま、日本の弥生3月はいっせいに年度末。みんなそろって3月に決算しなくてもいいじゃないかと思うんだけど、そこは何が何でも4月1日は入学式、入社式をしなければならないお国柄だから。まあ、変な英語を訳さなくてもいいのはせめてもなんだけど・・・

小町に「気になる言い間違い」というトピックがあったのでのぞいてみた。そうだなあ、P とBを入れ替える人は年寄りを中心にけっこういたし、あわくって音の順序がひっくりかえってしまったりもあったっけなあ。敬語の混乱もずいぶん進んでいるらしい。まあ、自分のもかなり怪しいような気がするから人さまのことは言えなんだけど。抑揚が平坦になったというのはどういうことなんだろう。ちょっと試してみたけどどうもうまく行かない。不動の姿勢でじっと前を見据えて発音してみたら少しはそれらしくなったように思うけど、生の日本語を聞いていないんだからお手本がない。困るかなあ。おもしろいのは方言を「言い間違い」ととらえる人がいること。「しつこい」が「ひつこい」になるのは東京弁なんだろう。東京人だった祖母の「ひ」と「し」は北海道弁の私たちとは違っていた。北海道語といえば、丁寧表現が過去形になるのがなつかしい。今耳にしても違和感はないかもしれないなあ。

掲示板やブログにはほんとにわけのわからない言葉が多くて首をひねることが多いけど、何しろひと目で誤変換とわかるものも多いから、不明日本語が書き間違いなのか、言い間違いがそのまま定着した新語なのか見当がつかない。悪名高い「ら抜き言葉」の方は背筋がざわっとするけど、わからないことはない。「うる覚え」なんてのは、記憶がうるうるとおぼろげな実感があっていいんじゃないのかなあと思ったけど。人知れず冷や汗をかいたのが漢字の読み間違い。こんなに読み間違いしていたなんてと、思わず唖然。まず、「重複」は正しくは「ちょうふく」と読むとは知らなかった。だって。日本語で「じゅうふく」と入力したら、ちゃんと「重複」って変換されるんだもの。ほかにもぞろぞろあるみたいで、何だか日本語訳の自信がなくなって来たなあ。自分のブログだって読み返して見たら、何だかヘンてこ。ちゃんと日本語がわかってたのかなあ。フランス語訛りの英語のことをああだこうだといっていられないなあ。ああ、どうしよ~

エコロジーとエコノミー

2月27日。やっと懸案の大仕事Aのその1にかかろうという日、大仕事Bも確定してしまった。1日の平均的な処理量から計算すると、今から初めても、この2つをやるだけで3月には33日ないと間に合わないではないか。極楽とんぼ、またやってくれたなあ。いくらうるう年だからって、3月は31日しかないじゃないか。実際は、予定は日本時間で組んでいるから、期限は30日。うるう年なのに全然潤ってないじゃないか。うへ~

野菜類が底をついたので、仕事にかかる前に買い物に行ってしまうことにした。どっちの車で行くかがまず最初の決定事項になった感があるけど、車の中に買い物袋を無造作においておくと車上荒らしにやられる危険が大きくなるので、二ヵ所以上回るときはトランクのある乗用車の方がトラックよりも安全ということで、10日。ぶりにエコーのお出ましとなったけど、カレシはさっさと「ボク、乗せてもらう人」を宣言。はいはい。

スーパーに切らしていたキッコーマンのステーキソース(とんかつソース)がない。週末に半年ぶりくらいで作ったとんかつがたくさん残っていて、ランチのサンドイッチにしようと思ったらとんかつソースがなくなっていた。そこでゆうべはカレシがネットで「トンカツソース」のレシピを見つけて作ってくれた。ケチャップにウスターソースに日本酒とみりん、にんにくとしょうが。これをちょっと煮立ててできあがり。しょうがの味が少し際立っていたけど、基本的にとんかつソースの味。「しょうがを減らして、ちょっとりんごを入れてみようかなあ」とカレシ。市販品はりんごが入っていたと思って、ラベルを見てやろうと探したけど、とうとう見つからなかった。ま、カレシのとんかつソースが格段においしかったから、どうでもいいんだけど。

青果店に回ると、アスパラガスが3束で5ドル。ほうれん草は3束で2ドル。スープでも作ろうとさっそく3束ずつ。赤と黄色と緑色のピーマンの詰め合わせには「STOP LIGHT(交通信号)パック」と書いてあった。うまい名前を考えたもんだと感心して1パック。簡単パスタでも3色ピーマンならちょっとごちそうに見える。レジの数字を見たら今日は何だか安いような感じ。カナダドルが跳ね上がったせいかなあ。今頃の野菜はカリフォルニアやメキシコ、遠くはチリから運ばれてくるから、カナダドル高になると財布は大助かりになるわけ。グリーンピープル(環境活動家)は「長距離をトラックや飛行機で運ぶのは環境に悪い。近場で消費すべし」というけれど、郊外の温室で栽培するには暖房用の燃料がどっさり必要だし、採れたものをあっちこっちと配達するにはガソリンがすごくいるだろうし、厳寒の北部では地球が温暖化して気候が変動しない限りはそんなことできっこない。グリーンピープルに多いベジタリアンは野菜のない冬の間どうするんだろう。冬眠でもするのかいな。

エコロジー(生態)の「エコ」もエコノミー(経済)の「エコ」も「家」、「環境」を意味する古代ギリシャ語が語源。つまり「エコ」は人間の「暮らし」の基本じゃなかろうかと思うんだけど。まあ、2つの冷蔵庫が当面の野菜で満杯になったところで、腕まくりして、備蓄タンクの「midnight oil」を盛大に燃やして仕事、仕事・・・

どうしても欲しい!

2月28日。仕事なんかどうでもいいやと放り出して、今日は久々にイアンとバーバラの4人で「GLORIOUS」というお芝居を見に出かけた。本当は先週終わっているはずで、去年秋のテネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」に続いてまた見逃すかと思っていたけど、好評で1週間延長。やれやれ、良かった。うれしい!

芝居の主はフロレンス・フォスター・ジェンキンズという、戦前の実在の人物。歌手ということだけどこれが超音痴。なのにこの世を去る直前にカーネギーホールを満員御礼にしたという不思議な人だ。演じるのは地元の演劇界でコメディをやらせたら右に出る人のいないニコラ・キャヴェンディッシュ。コメディなんだけど最後はうわっと涙が溢れてきた。フロレンスは生まれついてハッピーな人で、心の中ではいつもすばらしいアリアが流れていたんだ。こんなの芸術じゃない、芸術の冒涜だと非難するのは簡単だ。でもフロレンスはほんっとに心から音楽を愛した人だったんだと思う。自分を信じよう。夢を信じよう。人の心にタッチしようという夢はいつか本当にそれを受け入れる余地のある人の心に触れることができる。ワタシにどれだけ文才があるのかわからない。だけど、いつか誰かの心に触れるかもしれないと信じて、夢を捨てるのはよそう。

劇場のロビーでは劇団の資金集めのために地元アーティストの作品のオークションをやっていた。中でも特に大きな絵が頭から離れない。具象的なようで抽象的なような海辺の村の絵。その隅にどうしてもワタシをつかんで離さない「青空」がある。紫がかった暗い空の隅、教会の鐘楼の向こうにぽっかりと開いた青空が
気になってしかがたないのだ。オークションの最高値は今のところ1900ドル。買えるだけのお金はある。だけど、こんな大きな絵をかけられる壁が我が家にあるのかなあ。だけど、欲しい。一枚の絵にこれほど執心を感じるのもめずらしい。困ったなあ。カレシは「かけるところないじゃん」とそっけない。あ~あ、この気持、わかってないなあ・・・

漠然と見ているだけの夢、漠然としてどうやって成就できるのかわからない夢、ひたすら成就するためにがんばる夢、ひたすらがんばって結局は見果てぬ夢・・・人間というのは因果なもの。とうとうオンラインで2500ドルの値をつけてしまった。入札の締切は芝居が幕を閉じる日曜日。あと3日。誰も2500ドルより高い値段を出す人がいませんように・・・

そのココロは・・・?

2月29日。うるう日。この日が誕生日の人はほんとうに4年に一回しかお祝いがないのかな。まさか・・・

カレシに気に入った絵に入札したといったら「どこにかけるつもりだ」と聞くから、二階へ上がる階段の壁。絵の大きさは幅が60インチ(1.5メートル)で高さが48インチ(1.2メートル)だから、たっぷりの広さ。「反対側の手すりにもたれて眺めることもできるし」といったら、「オレ、あの絵は大嫌いだから」と。はあ?「ま、オレが買うんじゃないから・・・」。はあ?ははあ、むくれているな。なんでなのかしらないけど、どうやらおもしろくないらしい。「いくらつけたんだ」と聞くから「2500ドル」といったら、「キミのカネだからいいけど」。そう、がんばって仕事したから、自分で自分ににごほうび。(そうでもしなきゃ、誰も何もプレゼントしてくれないもんねえ・・・。)

トレッドミルで汗をかいているうちに思いついたのが絶好の展示場所。終わってからさっそくカレシに「バックルームにかけることにした」と報告。バックルームというのは、ベースメントのオフィスに続く小さい部屋で、かってはワタシのランチルームだったところ。今でもワタシのテレビや本類があって、カレシがたまにソファで昼寝をする以外は、事実上「ワタシの部屋」になっている。そのソファの後の壁にちょうど納まりそう。「あそこだったらあまり見なくてすむでしょ」ともうひと押し。よく考えてみたら、二階ではペンダントの照明が邪魔になりそうだから、バックルームの方が見る条件はいい。それにしても、カレシはまたぞろ縄張り意識が目を覚ましたのかもしれないなあ。どうも目に見える範囲はすべて「ボクの縄張り」らしいから困ったもんだ。ふむ、絵が嫌いというよりも、ワタシが買った絵に(オレの)壁を占拠されることの方が気に食わないのかもしれないなあ。おもしろい人だ。ついつい心理分析をしてみたくなってしまう・・・

シャワーで汗を落として着替えをしていたら、バスルームに首を突っ込んでいきなり「野菜とかハーブとか、特に植えて欲しいのある」と聞いてきた。春の種の注文を出すんだと。今年は変わったものは植えないでふだん食べるものに集中するんだそうな。キッチンに下りてからも、最近はダウンロードとか何とか理由をつけてキッチンから姿を消していたのに、今日は居残ってやたらとおしゃべりをしかけて来る。庭仕事とか、ガレージのペンキ塗りとか、大学生のアルバイトに手伝ってもらおうかなあ、とぶつぶつ。うん、そうしたらいいじゃない。好景気で人手不足だから日雇いみたいな力仕事をする人がいるかどうかわからないけど、労力と時間を考えたら、人を雇った方が効率的よね。(そうでもしないと、棚上げになりっぱなしだろうから、2500ドルは安いもんだ。)

カレシ自身はきっとそんな意識はないだろうけど、どうも何だかおもしろい心理が作用しているようだ。まあ、ADSLやネットの接続問題やら何やらと、いわば「被害者意識」が高じて相当にストレスがたまっているのかもしれないなあ。被害者意識が不安を呼び、不安が高まってくると姿勢を立て直すために周囲を支配しようとする。それがモラハラ行動につながるんだろうけど、手の内をぜんぶ知られてしまった今ではうまくかわされるから効果はゼロ。効き目がないと感じたあたりで「これはやばい」とリセットしているのか、しばらくは超がつくくらいのラブラブ、べたべたになるからおかしい。一見して「ハネムーン期」の変種のようでもあるけど、典型的な「緊張期」、「爆発期」、「ハネムーン期」のサイクルを繰り返していた頃と比べると、直感的に違っているから、カレシはカレシなりに自制と自律の努力をしているんだなあと思える。

でも、絵のことはたとえ落札に成功しても頑固オヤジを決め込んで話題にはしないだろうなあ。なかなかのくせ者なところがおもしろい。だから惚れっぱなしなのかもしれないんだけど、ふ~ん、どうやら心理分析が必要なのは自分かも・・・


2008年2月~その1

2008年02月16日 | 昔語り(2006~2013)
血を分けた兄弟、されど・・・

2月1日。ピカピカの新品トラックが晴れて我が家にご到着。ま、今どきブログ風に言うと「大きなこの子を我が家に連れて帰りました」となるんだろう。行きつけの保険代理店でディーラーからファックスしてもらった書類を元に強制保険をかけて、プレートをもらって、ディーラーへ行って残金を支払い、保険書類のオリジナルをもらって保険代理店に届けて、すべて終了。大きな買い物をしてホッとする一瞬。

家に帰る途中颯爽?と走るタコマ君の後をエコーで走りながら、「これ、ワタシの車なんだ~」とちょっとヘンな感激。だって、前の車はみんなカレシだけの名義だったし、タコマもカレシだけの名義。半分だけだとしてもワタシの名義になっているのはエコーが初めてだから、「ワタシの車」という認識はさらに一歩自立したという自覚につながる。道路を走っているところを見ると、ショールームでの「うわっ、でっかい」という印象はないからおもしろい。しごくフツーのピックアップという感じ。ガレージにはたまにしか走りそうにない「ワタシの」エコーが鎮座しているから、タコマ君は家の外に路上駐車となる。悄然としているポンコツトヨタのすぐ後に駐車して、改めて真正面からご対面して見たら、やっぱり今どき風の「筋肉マン」の風貌。でも、少し離れて見たら、最近の車は角が丸いデザインなもので、なんとなく肥満体のような感じもするなあ・・・

カレシはさっそく「キミの手が空いたらシアトルまでひとっ走り行って来ないか」。それもいいんだけど、新車特有のビニール臭さが抜けるまで待ってほしいなあ。ちょっと寒いけど、窓を開けて走るとかね・・・。シアトルは日帰りの範囲だけど、きのうからアメリカに入国するのにカナダ国籍を証明するものが必要になった。カナダ人はめんどうくさい、不便だと文句タラタラだけど、おいおい、アメリカは「外国」じゃないの?カナダはアメリカの51番目の州じゃないんでしょ?北緯49度線に「国境」というラインがしっかり引かれているでしょうが。(小型飛行機で越えると樹木のない帯がまっすぐに伸びているのが見える。)

カナダとアメリカの国境は長いこと武装のない世界一平和な国境と言われ、運転免許証を見せるくらいで互いに比較的自由に往来できていた。「共通の母」から生まれた兄弟国として、あまり国境を意識せずに暮らしてきたわけで、日本では「海外」というと即「外国」だけど、アメリカでもカナダでも「overseas」は北米大陸の外、文字通り「海の向こう」のこと。だから足繁くアメリカへ行くカナダ人もカナダに来るアメリカ人も「海外旅行」をすることがなければパスポートは不要で、実際にどっちも持っていない人が多数派なわけ。それが2001年のテロ事件以来、国境が国の防衛線でもある「国境」になって来たということなんだけど、生まれてこのかた一種の「特権」に慣れて来たカナダ人はその特権を侵害されたような、今さら「外国人」として差別されているような気分になってしまうらしい。

だけど、なのだ。カナダ人は国境の向こうの国を隣町くらいに考えているくせにアメリカ人に間違われると超ムカつくし、EUのような連合体を作ろうといえば「アメリカといっしょはまっぴらゴメン」、カナダはカナダ、アメリカとは違うんだと主張する。そのくせして「カナダ人」ということでアメリカに自由に出入する権利があると思い込んでいるのはどうみたって矛盾だと思うんだけど、このあたりはしばしば夜を徹しての議論になることが多い。まあ、建国以来「アメリカ」という大きなお兄ちゃんの陰になってなかなか存在を認められないのが悔しくて、劣等感のようなものに苛まれて育って来た「弟」の心境に似ているのかもしれないけど、アメリカを「外国」として認識することで本当の意味で「カナダはカナダ」という自信が生まれるんじゃないかという気がする。そうしたら、自信不足をヘンな優越感にすり替えなくてもいいと思うんだけど・・・

快足タコマ君

2月3日。なんだかんだと気を取られているうちに納期が3つも重なってしまった週末。日曜日の午前7時が期限の仕事が終わったのは午前4時。もっとも送り先ではもう深夜だから実際には数時間遅れてもあまり支障はなさそうだけど、期限厳守は商売としての信用の要・・・とちょっと肘を張ってみる。脳みそを酷使した後はすぐにバタンキューと行かないから寝酒をひっかける。定番はコニャック、カルヴァドス、シングルモルトのスコッチ。差し向かいでお気に入りのGlenmorangieを傾けながら、ぺちゃくちゃとクオリティタイムをやっていたら午前5時。おかげでまた起床が正午過ぎになってしまった。はあ。

朝?からキッチンでカレシがすっ頓狂な声を上げるから、何ごとかと思ったら、コーヒーを入れるのにフィルターがないんだそうな。買い物に行ったときにいるかどうか聞いたじゃないの。「あの時はまだあると思ってたんだ」。はあ。ないのは明らかなのに、普段はモノをしまい込まないところまでのぞいてごそごそ。いつもながらちょっとあきらめが悪いなあ。ここはものは考えようということで、ペーパータオルを丸く切って、コーヒーメーカーのバスケットに敷いて・・・Voila!即席のフィルターで入れたコーヒーはちゃんといつものコーヒーの味だった。これが「工夫」という、ニッポン人の得意技なのだ!

この週末はDI NE OUTプロモーションの最後の週末だから、きっとどこのレストランからもあぶれるだろうということで、おでかけの代わりに極楽とんぼ亭でゆっくりと食べることになった。まあ、頭の上に「納期」がぶら下がっていると、どうもゆっくりなんて言ってられないんだけど、腹が減っては戦はできぬ。メニューは魚。それも「サメ」。サメと言ってもジョーズみたいな人食いザメじゃなくて、たぶんカジキのような大型の魚なのだろう。見ると薄いピンク色で、メカジキやマーリンに似ている。さて、これをどうするか。ググってみて見つけたのが「シェルムラ」というソース。干しブドウを使っているところをみると、どうやら中近東系らしい。

サメはカイエンペッパーとクミンを摺りこむだけで簡単。玉ねぎや蜂蜜、ワイン酢、シナモンやらなにやらを入れて煮詰めたソースはこってりして、スパイスが効いておいしい。付け合せはさっと蒸したアスパラガス。料理をしながらマティニでリラックス。ソースはボージョレーくらいの赤ワインでもうまく合いそうな感じだったけど、今夜は冷やしておいた白ワインで乾杯。「サメのステーキ、シェルムラソース」はヒット作になった。

夜になってカレシはスーパーまでタコマ君を駆ってフィルターを買いに行った。よほど文句を言わずに走ってくれるタコマ君が気に入ったらしい。ちょっと買い物に出かけるのがめんどうでないなんて、こちらは感涙を流してしまいそうなイベントなのだ。「このサイズでよかった?」 うん、ばっちりOK。ついでに買って来たサンドイッチ用のパン。「こんなんでよかったのかなあ」。あら、ゴマ入りパンなんだ。おいしそうだからランチのときにツナのサンドイッチを作って欲しいなあ。カレシはめったに見られない満面大ニコニコ。「トラックは運転しやすくていいぞ。キミも絶対に気に入るから、ちょっと運転してみろよ」。はあ。

人の数だけあるのが個性

2月4日。またも昼過ぎて起床。早朝にとなりのパットが電話があったようで、ボイスメールに謎のようなメッセージが残っていた。きのうから同居している女性とややこしいことになっているらしい。半年ほど前にオートバイに乗って現れた女性で、年のころから見て一人暮らしのパットにパートナーができたのかなあと思っていた。だけどパットの話だとそういうことではなくて、アパートを追い出されて行くところがないので「当面の間」ということで居候させたら長居になって、最近は警察を呼ぶほどのトラブルになったのだとか。そういえば、前にパトカーが止まっていたことがあったっけ・・・と、外を見たら、我が家の前にパトカーが止まっている。

しばらくしてパットから「決着がついたから」と電話。やぶから棒にコーヒーを飲みに来ないかというもので、カレシは「他人のもめごとに巻き込まれたくないけど、パットは良き隣人だから」と、すごく決心した顔で出かけて行った。パットだって一軒家に一人暮らしの身。身辺にトラブルがあれば誰かのモラルサポートが欲しくなるだろう。そこは女も男も同じで、ただ話を聞いてくれるだけでいい。ご近所の事情通なのも、裏を返せばさびしいのかもしれない。人の悩みや愚痴を聞くのが苦手なカレシで大丈夫かなと少しばかり心配になったけど、隣に住むパットは私たちにも「大嵐」があったことを少なくとも察していたはずだから、何かしら通じるものがあると思ったのかもしれない。

小一時間ほどで帰って来たカレシは、おや、にこやかな顔をしている。「ことの経緯はちょっと話した。あとは別の話をしていたんだ」と。そっか、そっか。きっと「同じ年代の男同士の会話」だったのだろう。それ以上聞くのは野暮ってもの。うん、良かったね。それにしても、心理学のにわか学生だから考えるわけじゃないけど、人間のつきあいは実に複雑なものだなあとつくづく思う。

ずっと昔テレビで『裸の町』というアメリカの警察ドラマがあって、「八百万人が住む裸の町(ニューヨーク)には八百万の物語がある」という毎回のナレーションを未だに強烈に覚えている。この地球上には人間の数だけ物語があって、似たような物語は数え切れないほどあるかもしれないけど、みんなどこかで微妙に違っている。そういう「個性」とつきあって行くためには、まず「自分」という「個性」とのつきあいから始めなければならないと思う。自分という人間を肯定することで人間は精神的に自立できて、それでいろんな「個性」に対応できるようになるということだろうか。人とのつきあいはエネルギーのやりとりみたいなもの。交流の電気は直流よりも何かと効率的なんだけど、人間の精神エネルギーも一方向にだけ流れていたら消耗してしまう。双方向に流れる方がお互いに充電できていいと思うんだけどなあ。

ャイニーズキャベツロール

2月5日。どうもこの頃は天気予報が当たらない。かなりの雨で、夕方からは大風に変わるということで、「ろうそくの準備をお忘れなく」なんてテレビのニュースで言っていたのに、夕方にはまぶしい日がさして来てしまった。東の空は真っ黒だから、ひょっとしたらあっちでは嵐なのかもしれないけど、今にもきれいな虹が出そうな夕空。やれやれ、どうもこの頃は集中雪に集中豪雨に集中大風と極端な天気ばかり。

中国製の冷凍ギョーザ中毒の問題がだんだん謎を深めているような様相だ。あれだけの量が具からじゃなくて皮や袋から出たというのであれば、野菜に残留していたとはちょっと考えにくい。うっかり使いすぎてしまったとしても、工場では使う前に洗うだろうから、大量に残っていたなんておかしいし、たまたま残っていたとしても、刻まれてギョーザの具の中に入るんだから、そこから出てきていいはず。やっぱり素人目に見ても、これは事件っぽい。中国では北京オリンピックが近いし、日本では産地や原料や賞味期限の偽装問題が続いたし、日中がお互いに「そっちがやったんだろう」と指をさし合って、紛争に発展しなければいいけど。まじめな話、ギョーザ戦争なんて何だかなあでしょうが。

日本でもすごい量の既製食品が毎日の食卓に上っていることがわかる事件だ。それだけみんな忙しくて、料理をしている時間がないのか、惜しいのか。もっとも、日本食は実に手間ひまがかかる料理なところへ、近頃は日々の食事さえ「品数」が大事で、一汁一菜なんて見向きもされないらしいから、わかるんだけど、そこのところ。親しい友だちが来ていた時に、日本のふるさと料理を作ってくれたことがあった。そのとき、彼女はほとんど1日中キッチンに立ちっ放しだったもので、ただただ感嘆。ワタシの料理など少しくらい手間をかけても1時間もかからずにテーブルに出てしまう。それがご飯におかずを何品もつける日本の食習慣と、メインの肉や魚に野菜などを添えるだけの欧米の食習慣の違いなわけだけど、日本では共働きが大変なわけがここにもあるような気がする。長時間の通勤に、長時間の残業、食事の支度にまた長時間・・・

ギョーザのことを考えていたわけじゃないけど、今夜は極楽とんぼ亭自慢のチャイニーズ・キャベツロール。何のことはない、ギョーザの具を蒸して柔らかくした白菜で巻いて、また蒸しただけの、要するに白菜巻き。英語では白菜のことを「中国キャベツ」と呼ぶこともあるから「チャイニーズキャベツロール」としゃれているわけだけど、これはカレシのお気に入り。豚肉の脂が出てしまうから、けっこうあっさりしてしまうので、具には木耳を入れたり、チリソースを入れたり、焼肉のタレを入れたり、とにかくそのときしだい。日本人がみたらいい加減な「悪妻料理」なのかもしれないなあ。すごくおいしいんだけど・・・

ボクだけのおんぶおばけ

2月6日。ろうそくもへったくれもないなあ。期待?された大風はひと晩中なしのつぶて、沈黙、男は黙って何とやら。でも、起きてラジオを聴いていたら、郊外では停電しているところがあるという。てことは、私たちの頭上を素通りして、郊外の方で暴れていたわけ?まあ、メトロバンクーバーでも雪の降るところと降らないところが極端だから、予報もやりにくいだろうな。午後にはとうとうまったく想定外の雪が降り出した。

二人揃って歯のチェックアップに行く。どっちの車で行く?カレシはだんぜんトラック。とにかく、とにかくうれしくてしかたがないという感じで、カモメかカラスにボチョンと糞を落とされたといっては、タオルを持ち出して、ピカピカになるまで拭きとる。まるで車のコマーシャルみたいで、こっちはついつい吹きだしてしまう。欲しかったおもちゃのトラックをもらった子供のように、「ボクのトラック」、「ボクだけのトラック」ということで、あまりの手放しの喜びようは、ワタシもうれしいといえばうれしいんだけど、ちょっぴり複雑な気持もある。

カレシの一家はカレシが4歳くらいになるまで一戸建の家のベースメントに間借りしていたそうだけど、カレシと年子の弟は裏庭で遊ばせてもらえず、家主の子供たちが遊んでいるのを窓から眺めていたんだそうだ。この頃からカレシの心に「ボクのもの」へのこだわりが、おんぶおばけみたいに住み着いたのかもしれない。初めて戸建に引っ越したときは「ボクの庭だ、ボクの庭だ」と狂喜したというから、鬱屈した気持は相当なものだったのだろう。その心理が大人になって「ボクのテリトリー」へのこだわりになり、誰かに「ボクのもの」を取り上げられるという強迫観念になったとしても、不思議はないかもしれない。オンナノコたちに夢中だったときも、大げんかの最中に「みんなボクのなんだ。誰ともシェアしたくないんだ」と、まるで幼児のように泣きわめいて、少なからずぞっとしたことがあった。

カレシが早期引退を宣告されたときに、ワタシがカレシのプレッシャーに負けて仕事を辞めていたら、新品のトラックを丸ごとキャッシュで買うなんてとうていできなかっただろう。だからといって、買ってあげたという気持にはさらさらないんだけど、なんとなく赤ちゃんを産んであげたような気分になったりするから、我ながらおかしい。でも、こんなにもうれしそうなカレシを見ていたら、これが「稼ぎ甲斐」ってものだという思いも浮かんで来る。これが「母性」なのか「父性」なのか、そこのところは自分にはわからないけども、「愛する人を養うのが幸せでどこが悪いねん?」というのは男も女もないだろうなあ。カレシ、あなたのベイビーなんだから、だいじにしてよね。

まあ、テレビのコマーシャルを見れば、男はトラックが大好きなのは一目瞭然。どれを見たって、おもちゃをもらってはしゃいでいる子供のような男が登場する。ビールのコマーシャルほどではないけど、最近の車のコマーシャルもかなりバカっぽくなってきた。人類の先行きがな~んか不安になりそうなキャラクターばかりだけど、広告業界は(ハリウッドもそうだけど)まだ「クリエイティブ何とか」という肩書の男たちが牛耳ってるらしいから、明らかにそういう男たちの発想なんだろう。バカっぽいコマーシャルは「自らの姿」を反映しているってことかなあ。そんなんだから、医者もエンジニアも女が腕をまくって出て行かなきゃどうしようもなくなっているのかもしれないなあ。で、女が作った車を男が得意げに乗り回す・・・って、おかしいことある?

便利なんだけど・・・

2月7日。恭喜發財!今日は旧正月の元旦。メトロバンクーバーは中国系が多いから、そこらじゅうがお正月気分。モールのデパートではちょうど中国の踊りのデモンストレーションの最中。男性が打つシンバルのリズムに合わせて輪になった10人ほどの女性たちが首からかけた小太鼓を鳴らしながら踊る。あまり振りはないけど、ちょっと見には盆踊りに似てなくもない。後には出番を待っているのか、まるで竜宮城の乙姫さまか羽衣の天女、でなければ楊貴妃のような衣装を来たお嬢さんがいて、思わずうっとりと見とれてしまった。

うっとりしていたら手の空いたクリニークのチュイが肩をポンポン。そうそう、ボーナスタイムなので注文してあったコスメ(と日本では端折って言うらしい)を取りに来たんだった。間近で見るチュイの顔も乙姫さまに負けず劣らずの美人。もっとも美容部員という仕事は美人が多いようだけど。チュイはベトナム系で、結婚して15年だというから30代後半かな。くりっとしたアーモンド形の目がすてき。おまけに商売上手だから、ついでにアイシャドーの色を変えてみる気になって今までのよりピンクに近い色を選んでみた。「春だもん」といったら、チュイがメークの相談にいらっしゃい、ということでひと月後に時間を予約し。モデルチェンジになるかどうか・・・

英語教室に行っていたカレシはお正月のお菓子をもらって帰ってきた。ひとつは上にゴマがたくさん。もうひとつは見たところが栗まんじゅう風の「クッキー」。どうやら地元産で中国本土から来たものではないようだ。日本での中国産ギョーザ事件は英語のメディアではほとんど報道されていないらしい。中国語の新聞に載ったかどうかはわからない。スーパーでは冷凍ギョーザは「Pot sticker」として売られているし、日本風と言っているのは「Gyoza dumpling」。なんかギョーザ団子みたいだけど、冷凍じゃないところを見ると地元で作っているのだろう。野菜ギョーザとポークギョーザがあって、味はお世辞でまあまあ。

日本では簡単にギョーザを作れる道具が飛ぶように売れ出したそうだけど、我が家では日系の食品店で見つけて買ったのをもう20年くらい使っている。日本語の説明書がついていたから、日本製かもしれない。(日本語が書いてあるからって日本製とは限らないのが普通、いや、この頃は「日本製」と書いてある方がめずらしいくらいだけど・・・。)まあ、自分で作るのが一番安心できるはずだけど、冷凍の惣菜は少量だけ必要な「お弁当のおかず」に便利なの、と教えてくれた人がいた。そうだなあ、働く主婦には朝の弁当作りという仕事もあったんだなあ。働いていない主婦だって、何品かのおかずをいちいち少量ずつ一から作るのは(お弁当アートを趣味にして凝っているなら別だけど)非効率だよなあ。そんなときに必要なだけ解凍してちょこっと入れられる冷凍食品が便利なことは確かだなあ。告白してしまえば、カレシのお弁当を作っていたときは、冷凍ブリトだとか冷凍チキンナゲットだとか、けっこう使ったもんなあ。

今の世の中は便利なんだけど、されど便利。落とし穴がどんどん増える、まるでスーパーマリオのゲーム。スローフードだの、(よくわからないけど流行っているらしい)ロハスだのと喧伝しても、現実はせかせか、ばたばたと忙しい。だからこそ「ほっこり」とかいう、これもよくわからないイメージに憧れるんだろうし・・・

ほっこりずむ

2月8日。どういうわけか今日は朝から土曜日のような気がしてしまう。団子になって並んでいる仕事が3つ。期限が心配になっていたのが、よく見たら「まだ」金曜日。何を思ったか木曜日ななかにディナーにお出かけするから「自動操縦カレンダー」が狂ってしまうじゃないか。それでもほっと胸をなでおろして、それからちょっと鉢巻を締めなおし・・・

カレシがリサイクルごみを集め始めるから、つきあうことにした。今日のところはたまりにたまった紙の類から手をつける。玄関のポーチにおいてあった分のほかに、ベースメントの元廊下だった納戸にもある、ある、段ボール箱の山。古い電話帳、カタログや雑誌の類。玄関脇のブルーボックスに放り込んだままのチラシの類。シュレッダにかけた紙も大きなゴミ袋にいっぱい。どこを見てもペーパーのごみ!タコマ君の荷台に積み込んで、市のリサイクルデポへ。週末はどっちかというと若いカップルが多いんだけど、週日はカレシと同じ引退組らしい、年配の男性が多い。奥さんから「土曜日はお客が来るんだから、あなた、ゴミをなんとかしてよ」と号令がかかったのかな?

一掃どころか半掃くらいで、それも納戸だけだからさっぱり片付いた感じはしない。ま、それでも手始めってことで、少しは空間ができた。「ここに棚をつれる?」とカレシ。棚つりならお安いご用だけど、時間がね。片側一面に3段か4段。材料の調達に半日、実際の「工事」に半日。う~ん、さ来週あたりだったらやれるかなあ。まあ、今度こそはカレシがまたあれこれしまい込まないうちにやってしまわなくちゃ。やれやれ忙しいこった。小町で『ほっこりが苦手』とトピックを立てたお方、「ぞわぞわする」感じに共感しますって。

ほっこりした暮らし云々といわれてもちっとも具体的なイメージがわかないし、「ロハスな暮らし」もさっぱりわからない。わからないけど、どっちもな~んか「ご冗談でしょ」という感じ。そういう暮らしを実践する人を「ほっこらー」とか「ほっこりすと」とかいうらしいけど、誰かが書いていた「うさんくささ」を増幅しそうな気取りなんだな、これが。マーサ・スチュアートがに~っこり微笑んで「いいものですよ」と言った日には鳥肌が立った。彼女の「エレガントな暮らし」にも常に嘘っぽさが漂っていたけど、どうやら「ほっこり」というのはマーサがかわゆくメイクをして、かわゆいドレスを着て、かわゆい雑貨を並べて「思わずにっこり」しているような感じのようだ。「ほっこりずむ」は「究極の大人のおままごと」という評に、昔からあった「少女趣味」をお金をかけて競っているというイメージが沸いてきたけど、もしかしたら、仮想世界で「こうありたい自分」を演じられるという『センカンドライフ』をもろに現実世界でやっているということかもしれない。

だけどなあ。庶民は「ほっこり」した暮らしなんかしているんだろうか。団塊の世代のおばさんや働く主婦はそんな「おままごと」をどう思っているんだろう。こういう人たちこそほんとうに「生活」しているんだものね。手を抜きっぱなしのキリキリ舞いの毎日はそれこそ生活臭がプンプンの「きりきりずむ」。それでも、そんな忙しさの中でだって、猫も杓子みたいに「モノ」や「スタイル」にこだわらなくても「何気ない日常の幸せ」を現実世界の中で見つけていると思うなあ。それこそ本物の「ほっこりした暮らし」じゃないのかしら。

おばあちゃんになるって

2月9日。小雨模様の土曜日。カレシは近々引越しをすることになったというイアンに頼まれて、ガラクタ整理の手伝いに出かけた。バーバラのママが痴呆症の気配があったところへ暮れに股関節骨折で介護ホームに入ることになって、それまで住んでいたコンドミニアムを買い取ることになったそうだ。二人の子供はとうに独立して、370平米の大きな家に夫婦二人がめんどうになってきたらしい。引越し先は隣町リッチモンドの中心地だけど、大き目とはいえ110平米。相当なダウンサイジングだから、そのままそっくり引越しというわけには行かないだろう。もっとも親との売買取引だから時間的なゆとりはあるだろうけど、年を取っての引越しは家具調度を動かせばいいってものじゃないからなあ。

二人のモントリオールに住む長男のガールフレンドが妊娠していよいよおじいちゃん、おばあちゃんになるという。へぇ、ばりばり働いて、ばりばり遊んでいたあのロバートがパパになるんだって?幼稚園のころから知っている長男は生まれついての秀才肌で、下の年子の長女はがり勉の努力型。今では息子は医者で、娘は薬剤師。ハローキティが大好きなアーニャはすごくハンサムなフィリピン系の人と結婚して博士号まで取ってしまった。小さいときからよくできた二人だった。こういう成り行きは当然なんだけど、バーバラとワタシは同い年だから、「孫ができる」ということになると、正直言って、ほんのちょっぴり羨ましい気もしないではない。亡き母が早く孫の顔を見たいといっていた気持がわからないではない年頃なんだもん。

カレシに言わせるとバーバラはあまり喜んでもいないみたいなんだそうだけど、本心はどうなんだろうなあ。ワタシだって、生まれて来なかったあの子が生まれていたら、今頃はいくつで、どんな人とめぐり合って、どんな恋をしているかなあなんて、ふっと思ってみたりする。生まれていて欲しかったと思う反面、生まれて来なかったことが正解だったのだと思ったりして、せつない気持になるときだってある。でも、親になるのはその機能さえあれば誰だってなれるけど、問題はその先だものね。ワタシは神様がずっと先の先まで見越して「おまえたちは子供を持たないほうが良い」と決めてくれたんだし、神様のお見通しが間違っていなかったことを自分で納得したのだから、どこの誰のおばちゃんにもおばあちゃんにもなっていいんだよ、ということなんだろう。この広い世界から「孫」を選べるってことだとしたら、これまたえらいこっちゃだけど・・・

ずぼら礼賛

2月10日。なんとも静かな日曜日。まずは、しばらくぶりに洗濯機を回す。しばらくぶりなもので、二階のベッドルームから洗濯物を落とすシュートはかなり上までいっぱい。どうりで下着もソックスもストックがなくなるはずだ。主婦業に関する限りは超手抜きだから、シーツもタオルも毎日は取り替えないし、下着類は数を多くして対応するしかない。高級ホテルでも「資源保護」や「節水」のために客が要求しなければシーツやタオルを交換しないところがけっこうあるご時世なんで、ここは二人とも気にならなければいい、と割り切る。

全自動と言っても色物、白物と分けると少なくとも二回、シーツ類を洗うと三回、洗濯機から乾燥機に移し変えることになるけど、仕事をしながらやっているから、終わっているのに気づかないでいることが多くて、結局は1日がかりになってしまう。まあ、子供のいない兼業主婦の家庭はどこでも似たりよったりだろうと思うんだけど、どうなんだろう。少なくともワタシの回りではだいたい週1回が相場?らしいから、月2回くらいで済ませているワタシは超ずぼらってことになってしまいそう。その後で、洗濯かごに山盛りも洗濯物を二人してそれぞれにたたんで片付けるまで、さらに1週間はかかるとなれば、何をかいわんや・・・

ずぼらついでに今日の夕食は「アスパラガスのオムレツ」。アスパラガスにオリーブ油をちょっとまぶして、トースターオーブン(それともオーブントースター?)で焼いてから、オムレツに入れるだけの超簡単料理。今日はアクセントにフェタチーズを入れた。野菜は蒸したオクラとポテト。きのうはカレシが腕によりをかけて「サラダニソワーズ」を作り、それに合わせてワタシはラムチョップをマリネートしてグリルで焼いたから、きのうと今日とでは落差が大きいなあ。それじゃあ、あしたは極楽とんぼ亭自慢の「ビーフブルギニヨン」と行こうか。ワインをたっぷり使って・・・ん、これも仕込んだ後はほっとけるから、手抜き料理のうちかなあ。

幸いというか、進行中の仕事はさしてややこしくないし、けっこうタイムリーな内容だから、家事で手抜きをして、こっちでゆったりとやれそうな気配なんだけど、それにしても不思議なくらいに何も起こらない静かな日曜日。たまにはこういう日もいいなあと思いつつ、カレンダーを見たら、日本は2月の11日。確か、この日は祝日じゃなかったのかなあ。何だったか忘れたけど、また三連休かあ。日本は休みがありすぎるから残業が多いんだという人がいたけど、個人でまとまった有給休暇を取りにくい職場環境だから、「みんなで休めばこわくない」式にいっせいに休むんだという人もいた。どっちも一理ありだろう。まあ、それはそれとして、カレシが大あくびを連発するほどのどかな日曜日なのは、日本が休みのせいなのかな。そうだとしたら、日本が連休明けの明日はどうなるんだろう。ま、あしたはあしたの日が昇るってことで・・・

は意外と単細胞?

2月11日。月曜日。仕事をひとつ終えたら、明日もうひとつをやっつけて、バレンタインデイはめでたく「休日」になる、と胸算用して、のんびりと、それでもまじめに気を入れて仕事をする。昼日中から大きな声であくびを連発するカレシはでんでん虫。あのねぇ、こっちは生活かけて仕事しているんだから、あんまりそんな風に「うぉ~ん」とあくびしないでよ。ま、一発ならまだいいんだけど、何連発ともなると、集中力バツグンのワタシもさすがに少々イラッと来そうになっちゃうからねぇ・・・

郵便で来た週刊誌MacLean’sに中国産ギョーザでの中毒事件の記事がちょこっと載っていた。だけど、視点はどちらかというと中国。北米でも鉛が入ったいろいろな中国製品がリコールされたし、車の不凍液と同じ化学薬品が入った中国産原料を使ったペットフードでかなりの犬や猫が死ぬ事件があったから、自然そっちに向くんだろうけど、記事の最後の部分で日本でも食品の偽装表示などの問題が続発したことにも触れて、日本では国内産だからといって安心していられないのが現状だと締めてあった。どこかで誰かが不祥事続きで高まった日本人の不信の目を中国に逸らすためにやったのではないかと勘ぐっていたけど、「中国製はこわい、やっぱり日本製が安心」という風潮になると、またぞろ原産地を「日本」と偽装表示するやからが出て来て、不信の目は国内に。そこでまた・・・こんな堂々巡りはやってられないでしょうが。

最近どこかでワインを使ったおもしろい実験があった。一本のワインをグラスの一方は高いワイン、一方は安いワインといって飲ませて、MRIで脳内の反応を調べたら、高いワインと信じて飲んだときの方が脳の「快楽」を掌る中枢が活発になったという。安いワインを高いワインと思わせて試したときも同じだったとか。

なるほど、「高いから高級品、やっぱり高級品はおいしい」ということらしい。人間の脳みそって思ったより単純でとろいものらしい。まあ、安ワインでも高級ワインと思って飲んで楽しんだんだからいいじゃないのと思うけど、どこかの地鶏の偽装事件に通じるようなところがある。地鶏どころかブロイラーや用済みの老鶏だったとしても、買って食べた人たちは、高価なブランド品だから「さすがだ、おいしいなあ!」と、楽しんで食べたのだろう。国産と偽って売られた輸入牛肉も「やっぱり国産ビーフの方がおいしい」と喜ばれたはず。こうなったら「嘘も方便」ということで、人を楽しませて、喜ばせて、うれしい気持にさせて、どこが悪いという論法が通用するようになるかもしれないなあ。ぞぞ・・・

まあ、食べ物は「生」に直結しているわけで、ブランド品だ、高価だ、流行だと浮かてしまう、とろい脳みそにだまされないように、少なくとも「おいしい」の判断は目じゃなくて舌に任せた方がいいかもしれない。

ポカミス大ちょんぼ!

2月12日。のんびり、ゆったりやれる仕事だと思っていたら、とんでもない。日本では始業時間の午後4時、日本から電話。あのファイルはまだでしょうか?まだでしょうかって・・・回線の状態がおかしいのかどうか、向こうの声はガーガー、ザーザーとものすごい雑音で話が良く聞き取れない。それだけで向こうもこっちもパニック気味。(向こう側ではよく聞こえているそうだから、どうやら問題はこっちの接続らしい。)

要するに、同じところから先に入っていた仕事が終わって、「期限が同じなら」見直しはまとめてやるほうが効率的と、続けて次のねじ込み仕事をやっていたところにかかって来た電話。催促されたのはこの「次の仕事」の方。あれあれ、何か混乱して来たぞ。どっちも13日の午後が期限だったはずだけど。ひょっとして納期が早まったのかな。どうしちゃったんだろう。雑音でほとんど聞き取れないもので、頭の中はぐるぐる回るばかり。どうしよう、どうしよう。結局、指示をメールしてもらうことに。メールが飛び込んできて、やっとわかった。わかってみたら、うわああああああ!!

そうなんだ、大ちょんぼをしでかしちゃったのだ。きっと18年のキャリアで最大のちょんぼだろうなあ。いくら混乱した頭をがんがん叩いたってどうにもならないくらいの大ちょんぼだ。クライアントには平謝りに謝って、とりあえず午後一番まで待ってもらえることになって、緊急事態宣言を発動。とにかくぶっちぎりの態勢でキーを叩いて、何とか間に合わせた。ふぅ、やれやれ。ひと汗拭ったところで、品質管理文書で長年培った門前の小僧の知識を引っ張り出して原因調査。よくよく調べて見ると、2つの仕事のうちで最初に来たのは期限が「14日朝」。バンクーバー時間では「13日午後」だ。週の終わりぎりぎりに入った二つ目の仕事は期限が「13日朝」。そっか、日本が13日ならこっちは12日なのに、そのままカレンダーの「13日」に書き込んでしまっていた。それじゃあ、日本では14日になってしまうではないか。

いつもならほぼ自動的に1日引き算してからカレンダーに書き込むのに、なんてこっちゃ。うっかり以外の何ものでもない、初歩的なポカミス。クライアントは「あなたとしてはめずらしい事故ですね」となぐさめて?くれたけど、品質管理の次のステップは「再発防止」。何とか「ポカよけ」処置を講じなくちゃならないなあ。この「ポカよけ」はトヨタ自動車が体系化して生産現場に取り入れたそうで、今ではちゃんと「Poka-Yoke」として産業英語になっている、れっきとした「メイドインジャパン」。まあ、英語風に発音すると「ポカヨーキ」みたいになって、何となくついうっかりミスを誘いそうな「ぽかぽか陽気」に聞こえてしまうけれど。

騒ぎが落ち着いたところで、「だけど」と災禍の中に「不幸中の幸い」を探すのがワタシの極楽とんぼたるところで、明日まで続くはずの仕事がおかげで今夜中におしまい。しめしめ。次の仕事にかかる前に、うまく行けば丸々5日間も休みが取れるぞ・・・と、胸算用通りにうまく行ったためしはあまりないんだけど、ここは「ばら色メガネ」をかけておこう。だって、ひと息入れるのも「ポカヨーキ」なんだから。

花びらになりたい

2月13日。休み1日目。二人とも半分くらい寝ぼけたままベッドの中でいちゃいちゃ、だらだら。やらなければならないことがあるわけでもないので、のんべんだらりも悪くない。カレシが「腹へった」というのを合図に起床。朝食が終わったらもう1時半近い。いつもの調子で「休みモード」1日目はな~んにもやらない。次の日も休みとは限らないんだから、ここんところは気合を入れて遊んで良さそうなもんだけど、やる気が起きないというのか、「休み~」と思っただけでぼけ~っと気が抜けてしまうからしょうがない。(気合を入れて遊ぶというのはなんだか働き蜂の休日みたいだしなあ・・・)

寝坊をするから朝食がすんですぐに「ディナーは何?」と質問が来る。ふ~ん、何がいい?フリーザーにはスモークしたギンダラがある。ちょっと塩気があるけど、あのとろっとした食感がいい。さっと塩抜きをして、フライパンでさっと焼くだけ。つけあわせにはリゾットがいいかなあ。それと蒸したアスパラガス。リゾットはポルチーニとシイタケとほうれん草。おお、ごちそうじゃないの。カレシは「土曜日はディナーに行こう」と言い出す。だも、明日はバレンタインデイのディナーで、金曜日はコンサート。出ずっぱりになっちゃうよ。といいつつも、まだ行ったことのない「GASTROPOD」(かたつむりの類)というフランス料理屋に決めた。バレンタインデイの前の日だというのに食べる話ばかり。年を取ってくると、やっぱり色気よりは食い気の方に気合が入るみたい。

ヒマにまかせて小町の「全ジャンル一覧」のタイトルだけをつらつらと読んでみる。相変わらず人間関係の悩みが多いなあ。それはまあ太古の時代から人間は悩んできたことなんだけど、友達関係、男女関係の相談事になるとなぜか「損をしたくない」という切実?が気持が見えてくる。夫婦関係になると、「損をしたくない」のと「楽をしたい」のが合わせ鏡になっていたりする。誰でも楽はしたいものだけど、「損したくない」というのはすごくエネルギーがいりそうだなあ。人間関係の基本が損得勘定じゃ、うまくいくものもギクシャクするはずだよなあ。手みやげともてなしがミスマッチだったとか、誰がどれだけ稼ぐから家事の分担はどれくらいとか、礼儀とか平等とか言うけど、根底に見え隠れするのは「損をしたくない」。

自己中なのか自信不足なのかよくわからないけど、トレッドミルでトコトコ走りながらとくとくと考えてみた。自分を世界の中心に置く決して悪いことではない。むしろ当然のことだ。周囲360度の世界のど真ん中に立っているのが「自分」。自己中かそうでないかの違いは単なるエネルギーの方向の違い。自己中人間は360度のエネルギーを中心にいる自分が吸い取る、いわばブラックホールのようなものか。中心に向かうエネルギーは一点に集中するしかないから、いつかは自分に凝集し続けるエネルギーを支え切れなくってしまいそうに思える。

その逆は周囲に向かってエネルギーを拡散する太陽だろうか。もっとロマンチックに見るなら、水面に舞い落ちて、幾重もの波紋を広げていく花びらかなあ。中心から外に向かって広がるエネルギーには360度の視点がある。角度を1度ずらせば、そこには新たな視点。360度の視野は自由でいいなあ。エネルギーがゆったりと広がって行けばワタシの心は軽い。大きく広がった波紋は別の波紋と出会って、新しい波紋を生み出して、どんどん広がって行く。世界を照らす太陽とはいかなくても、ワタシはせめて、太陽の光にきらきら輝く水面に波紋を広げる花びらでありたい・・・

ハッピーバレンタイン

2月14日。バレンタインデイ。朝食のテーブルについて、カレシにバレンタインカードを渡す。トランプのカードのデザインで、中に「To the king of my heart(ワタシのハートの王様へ」という赤いハート型の紙が入っているから、その下に「and the ace of happiness(幸せのエース)」と書き込んだ。ずっと若い頃に聞いた「Ace of sorrow(悲しみのエース)」というフォークソングのもじり。もじりついでに、「Your queen of the heart(あなたのハートの女王様)」とサインして、調子に乗ってとうとう「不思議の国のアリス」のハートの女王の詩までもじって、「タルトは作らないし、首を切ってしまえと命令しないかわりに、ハグしてキスします」と。もじりまくりだけど、ちゃんと韻を踏んであるところがミソ。カレシはパロディに大笑い。生徒に見せるといってバッグにいれて英語教室におでかけ。(教室ではかなり受けたらしいけど・・・)

カレシは「ボク、まだ買ってなかった・・・」。いいの、いいの。バレンタインのカードの買い手は85%が女性だそうだからね。カードショップに行くと、夫婦や恋人だけじゃなくて、両親や祖父母や友だち等など、いろんな人に宛てたカードがずらっと並んでいる。ヨーロッパはどうか知らないけど、北米ではバレンタインデイは「カップル」の日。プレゼントはどっちかというと男性から女性へが多いようで、テレビコマーシャルも宝石店のが登場したりする。赤いハート型の箱に入ったバレンタインチョコもあちこで売られてはいるけど、別にチョコレートをプレゼントするのが決まりというわけじゃない。バラの花束は飛ぶように売れるらしい。「この日だけ女性から愛を告白することが許された」なんて、なんとも日本風な「ヨーロッパの伝統」とやらをどこの誰が考えついたのかしらないけど、日本だけの現象かと思ったらアジア各地にも広まっているらしい。

ディナーに出かけたLe Crocodileもちろんカップルで満員。今日は特別のセットメニュー。サラダかスープ、肉か魚のどちらかを選べる他は、フォアグラのムーセリーヌで始まる4コース。よくよく見ると、メニューには値段がついているのはワインだけ。何度も来ているお気に入りだからだいたいの見当はつくのでどうでもいいんだけど。老若男女、いろんなカップルがいる。異人種カップルもけっこういる。サーバーにデジカメを渡して写真を撮ってもらっているのはアジア系の若いカップルたち。ブログにでも乗せるつもりなのか料理の写真を取るのに余念のない人もいる。これもアジア系の人が多いのはそういう習慣でもあるのかなあ。中には携帯で写真を撮っている人もいる。「こんなの食べてるよ~」と情報交換でもするのかな?

カクテルを傾けながら、前菜コースはカレシはサラダ、ワタシは赤と黄色のピーマンのスープ。赤と黄色が半分ずつ。一日だけのセットメニューといっても手抜きはしていないなと思った瞬間。別々に作ったクリームスープはそうっと注がないと混じってしまうし、二色の境界にナイフで筋を入れるときも、急ぎすぎると色のかみ合わせがきたなくなってしまう。それが実にきれいにみごとで、味はもちろん「おお!」。メインは二人ともビーフのフィレ。これはかなりの大きさで、文句なしの焼き上がり。ソースがおいしかったもので、そっとパンをちぎって、そろっとお皿をなでて食べてしまった。お行儀なんてどうでもいいくらいおいしかったのだ。リキュールで味をつけたアンジュー梨のソルベで舌の「お味直し」をして、サービスのシャンペンを飲んで、出てきたのが大きなお皿に二人分盛り合わせたデザート5種。サーバーのサンドリーヌさんが「けんかはなさらずに、仲良くお召し上がれ」みたいなことをいうから笑ってしまった。

去年は毎年行っていたPastisにちょっと失望気味だったけど、Le Crocodileは断然すばらしかった。最初から最後まで、どのコースも手抜きしたようなところがなかったし、満席なのにサービスもいつものレベルをしっかり保っていた。100点満点、三重花丸のバレンタインディナーに満足、満足・・・

さらば、ターセル

2月15日。やっぱり丸々5日は夢だったなあ。またぞろ仕事が入り始めたけど、今日もう一日だけ休みモードで行こう。午後、レッカー車がポンコツトヨタを引き取りに来た。86年の12月に買ってから21年も私たちの足だったのをポンコツなんて呼ぶのは失礼な話だから、ちゃんとターセルと呼ぼう。日本ではカローラⅡという名前だったらしい。白いハッチバック(あの頃の車は白が流行っていたように思う)。走行距離は21年でやっと10万キロそこそこ。一度だけシアトルまで行ったかなあ。もっとも、記憶が虫食いになっている時代の話で何となくそんな気がするだけなんだけど。

引き取ってくれたのは腎臓財団。古い自動車を「寄付」してもらって、まだ走れるものは中古市場に売り、そうでないものは使える部品を外し、リサイクルできるものはリサイクル業者に、ボディはスクラップ業者に売るのだそうな。慈善団体への寄付だから公式の領収書がもらえて、オーナーは確定申告で寄付金として税額控除が受けられるしくみ。ターセルは廃車ということで、税申告用の寄付の金額はスクラップの価値に相当する数十ドルらしい。オーナーは廃車を処分してもらえるし、腎臓財団は活動資金ができるし、地球は温室化ガスをまき散らす古い車がスクラップになるし、一石何鳥かしならいけど、いいことだらけ。

普通なら前輪駆動の車は後ろ向きに引っ張っていかれるんだけど、3日前に保険が切れていたおかげで、ターセルは台車に載せられた。何しろ最後に洗車したのは1995年だったから、苔むして?緑色になってしまっている。それでも、台車に威厳を正して鎮座して、雨の中を我が家を後にした。見送ったカレシ、「やっぱりちょっとシュンとなるなあ」。そうだよね、21年とちょっとだものね。ワタシだって、思わず手を振って見送っちゃったもの。後に残ったのはナンバープレート。郊外のサレーで解体したボディは、国境を越えてオレゴン州に運ばれて、そこで裁断してから中国向けに輸出されるんだそうな。中国に着いたターセルは、今度は何に生まれ変わるんだろう。戦車や武器にはならないでほしいけど。

ちょっとばかり異国に行ってしまった「赤い靴の女の子」の感じもしないではないけど、そうだね、リサイクルされに行くんだから、「さようなら」よりも「行ってらっしゃい」の方がいいかな。いつか、ターセルのかけらが知らないうちに私たちのところに戻って来たりして・・・