少なからずはどれだけ?
3月16日。ほんとに詰ってきた。木曜日が終わるまでは110パーセントのペースでやって、間に合うのかなあ。へたをすると今年最初の「徹夜モード」かなあ。(とはいいつつも、ちょこっとブログでも書くか、と思ってしまうから、困ったもんだけど・・・。)推定から見れば、1日あたり英単語の数にして3千語ちょっとこなせればなんとかなる量なんだけど、それは元原稿が良くできていて、快刀乱麻の勢いでぶっ飛ばせるときの話。
ワンセンテンスにいろんな思考がてんこ盛りだったり、やたらとまわりくどい文章だったり、ヘンにもったいぶった文章だったりすると、翻訳者泣かせ。元々が寄り道だらけの迷路みたいな文章だから、苦心惨憺でやっと終止符にたどり着いてほっとする頃には、まさに迷宮入りの難事件のような様相。しょうがないから寄り道先を整理して、いくつかのセンテンスに分けることになる。それで簡潔で読みやすくなれば翻訳者として冥利に尽きるのかもしれないけど、だけど、だけど・・・
それにしても、ひとつの文章にあれもこれもとまとめてしまうのは、どうしてなんだろう。たぶんに、日本的な情緒なんだろうか。短い文章に区切ると、たとえわかりやすくなっても、なんかそっけないように感じて、相手に申し訳ないと思うのかな。電車が1分遅れただけでイライラ、セカセカするんだから、伝えたいことをぶつ切りにしてさっさと言ってしまったほうがコミュニケーションの効率が上がるだろうと思うんだけどなあ。だけど、それでは日本語のテンポにならないから困るんだなあ。どの言語にも体感リズムみたいなものがあるんだけど、日本語の場合はた~らり、た~らりとやらないと、情緒的に感応しがたいのかもしれない。単刀直入というのはまさに急所にグサリという感じで、いわゆる「生理的に受け付けられない」という心情なのかもしれないなあ。日本の「包み紙文化」は言語にもしっかり反映されているということか。
わずか一章、2ページの文に「少なからず」、「少なくない」、「少なからぬ」という表現が9回も出てきて辟易してしまった故の愚痴モードなんだけど、「少なくない」ということは「多い」ってことだよね?じゃ、いったいどのくらい多いの?と突っ込みたくなる。かなり多い?きわめて多い?それとも、まあ多いかも?もちろん、英語でもこういう表現はするんだけど、端的に「多い」と言わないのはそれなりのニュアンスを効かせようとしているからで、統計値を並べたような報告文書で「○○は少なくない」、「少なからぬ××が」とやっても、ちょいともったいのつけすぎに聞こえる。もっとも、単に「多い」とやるより「少なくない」を直訳すれば訳語の語数が増えるから、語数でお金をもらっう身としては少なからず感謝すべきなんだろうけど、そこにはまた少なからぬプライドってものがあるしなあ。あ~あ、少なくとも今ほんとうに少ないのは時間・・・
一日アイリッシュにスロンチャ!
3月17日。ハウスの電話を借りるためにトラックとハウスの間を二往復したというカレシ。「携帯をいつもバッグに入れておけば忘れないのに」といったら、「忘れたんじゃないの。今日はいらないやと思ったの」だそうな。あっそう。(ほんとはどこに置いたか忘れてしまって、出がけに見つからなくて「いらないだろう」ということにしたんじゃないの?)どこにおいてあるの?と探りを入れたら、「家の中にあることは分かってるよ」と来た。う~ん、こりゃ、もういうことなしだあ・・・。
こういう調子っぱずれにはコーダが付くのがオチ。夕食の支度の最中に、カレシがふざけてワタシを抱き上げようとしたら胸のあたりでグキッ!とや~な音。ワタシは息もできない痛みでしゃがみこんでしまったので、カレシは「どうしよ~」とおろおろ。そろそろと立ってみたら、深呼吸はできるし、腕も動かせる。押すと痛くて、動いたはずみでちょっとイィッとなるけど、どうやらたいした被害はなかったようで、やれやれ。ワタシはジャガイモの袋じゃないんだってば。これでもデリケートな女性なんだってば。いい大人なんだから少しは手加減と言うものを考えてよね。この忙しいときに「不戦敗、ヤ、ヤ、ヤ」ってわけには行かないんだから。
おろおろ、はらはらの一日だったカレシはなんとなくお疲れの顔。でも、「今日はこれだけあったから、明日はいいことがあるよ」と。ふむ、「bad hair day(ツキの悪い日)」ってことか。イテッ・・・。
春の陽だまりで
3月18日。ほんとにぽっかぽかのいい陽気。家の外の道路に沿ってずっと地平線まで続く桜並木もだんだん花霞の様相になって来た。もう三分咲きくらいなのかなあ。ジェシーがオフィスを掃除している間のひととき、裏のポーチの陽だまりに座り込んで、来たばかりの雑誌を読みながら、階段下につながれたレクシーのお守り。シーラの姿が見えないとレクシーはワ~ンと吠え、ク~ンと鼻を鳴らす。それがすごくかわいいんだけど、裏のワイリー家のやんちゃ犬ゼファーまでがウワ~ンと呼応するから困る。ははあ、春なんだ・・・
陽だまりのひとときはなんだか久しぶりでなつかしいような気分。日が高く上ってから起き出して、そのまま仕事場におこもりになる暮らしだと、冬の間あまり日光に当たることがない。もっとも冬というよりは雨期といったほうがいい季節だから、来る日も来る日もどよ~んとしていたりして、お日様を拝む機会そのものがあんまりないんだけど、ベースメントに篭ってしまうと外の天気もあんまりわからない。これではビタミンDが不足するんじゃないかというくらい。
そんなことを言ったら、シーラが子供のときにおばあちゃんに飲まされた「肝油」の話を始めた。魚のタラの肝臓から抽出したという、くさくてどろっとした液体で、子供にとっては注射よりも恐怖の存在だったそうな。カレシも同じ経験がある。鼻をつまんで、目をつぶって、えいっと飲み下してそのままならいいけれど、ついゲップのひとつでも出たら悲惨だったらしい。ワタシも小学校の頃に毎日学校で肝油が配給されたけど、液体ではなくて、表面に砂糖らしきものがかかった、ちょっとゼリー菓子風の錠剤だった。年令が少し下でラッキーだったのかもしれないけど、あの錠剤、子供がゴクッと丸呑みするにはちょっとばかり大きすぎた。しょうがないから、ちょっとだけ大急ぎで噛んで柔らかくしてから、味がわからないうちにささっと喉の奥へ送り込んでいたような気がする。それで、ゲップが出て泣きたい気持だった・・・
少しばかり天然のビタミンDを吸収したところで、仕事の前にホテルの予約。成田到着の時間からすると、エクスプレスでも新宿に着くのは夕方のラッシュアワー。小町なんかを読んでいるうちに東京の人ごみが怖くなってきた。そうでなくたっていささか方向音痴だったりするワタシ。ハイスピードの雑踏の中を小さいとは言えスーツケースを引っ張っての移動は、へたをすると「このラッシュに非常識な!」とぶっ飛ばされそうでおっかないなあ。でも、ネット時代さまさまで、成田からホテルまでリムジンがあることがわかった。そっか、少し時間はかかるけど、これなら安心・・・
それにしても、日本へ行こうという気になって、準備を始めたら急に円高になってしまった。1ドルが65円くらいだった超円高の頃は円建で払ってくれるクライアントがいなかった。あの頃はアメリカドルも高かったから、米ドル払いのクライアントができたときは万々歳。それが、円建の仕事をするようになったら、円安。おまけに米ドル安で、なんともついてない話。まあ、お金は天下の回りものだから、You win some, you lose someとは良く言ったもんだなあ。
教室から帰ってきたカレシ、「眠いなあ~」と猛あくびの連発。カレシのあくびはなぜか騒々しくて、こっちの眠気を吹っ飛ばしてくれるからすごい。うん、ほんっとに大まじめに仕事に取り組まないと・・・。
今日から春うらら
3月20日。春分の日。公式に「春」が始まる。先に「夏時間」にしておいて「今日から春で~す」といわれてもなあ・・・。日本はどうやら祝日らしい。というよりは、祝日だった。今は金曜日の朝、午前9時必着の仕事をやっつけなくちゃ。それにしても、1日休んで、1日仕事して、また週末の休みってのはめんどうそうな感じだなあ。もっとも、フリー稼業!なんて自分を煽てて、なんだか年中無休のようになってるヒトもいるけど・・・
今日は久しぶりに牡蠣を食べに行こうよと言って英語教室へ出かけていったカレシ、帰って来るなり、「ダウンタウンまで行くのはめんどうだから、うちで食べよう」と。あのねえ、材料を解凍してないんだけど。ま、どっちみち土曜日にはおでかけ予約があるんだし、いいか。それでも、今ごろになって~と、ぶつぶつ言いながらフリーザーをごそごそ。あはあ、豚のひき肉。なぜか楕円形のギョーザの皮。冷凍のゆでエビもある。冷蔵庫にはこの前買ってきたキャベツ。大根だってある。エノキもあるし、ミニ白菜もある。見渡せばいろいろとおもしろそうなものがあるじゃないの。ふむふむ、今夜の即決メニューは・・・おたのしみ。
ネットを見ていてチラッと「おやじのせなか」という本が出るという話を見た。そんなタイトルを見るとぱっと浮かんで来るのが「父の背中」そのもの。ワタシはとにかく甘ったれのお父さんっ子で、かなり大きくなるまで「おんぶ」をせがんだらしい。まあ、子供はできないかもしれないと言われて闇市まで利用してやっと作ったのがワタシで、おまけに生まれる時にあわや死ぬところだったお騒がせっ子なもんで、「やれやれ手のかかるヤツだなあ」と笑って許してくれたのかもしれない。背中の温もりと整髪料の独特の匂いと、そして何よりもあの絶対的な安心感。還暦に達した人生で、あの父の背中ほど心地の良い「ふるさと」はなかったように思うなあ・・・
母に背負われていたのはもちろん妹ができるまでのこと。昔は綿入れの「ねんねこ」というすぐれものがあって、母は袖口からワタシの手を探って、じわりと熱くなっていれば眠くなったと判断したという。かなりの確率で的中したらしいから、母親のカンというのは侮れない。たぶん、今どきの育児書にはこんなことは書いてないだろうなあ。母乳は出ないし、食糧不足で、アメリカの援助物資の小麦粉をミルクの代わりにしたそうだけど、そのあまりの白さに父と感歎したとか。その小麦粉はほとんどがワタシのおなかに納まって、両親の口に入ることはなかったらしい。長いことパン食があたりまえで、お米のご飯がなくてもちっとも気にならないのは、なんとなく不思議な因縁みたいな感じもしないではないなあ。
もうすぐアイスホッケーのレギュラーシーズンが終わる。4月に入るとプレーオフ戦で、これが決勝に到達する6月まで延々と続くもので、別名セカンドシーズン。我らがバンクーバー・カナックスはどういうわけか、この時期いつもビミョー。シーズン前半にどれだけ快進撃していても、3月にはジリ貧になって地元ファンをイライラさせてくれる。過去2回ほど決勝まで行ったけど、あれはどう見てもまぐれって感じが抜けないのがかわいそうといえばそうなんだけど。今年もプレーオフ出場ぎりぎりのランクに落ちてもう負けられないのに、他の試合の結果しだいではどっちにも転ぶという他力本願。中心的な選手がスウェーデン勢だから、ふむ、ひょっとしたら春の来るのが早すぎるのかも。でも、一卵性双生児のセディン兄弟に双子のテレパシーでがんばって勝ち星を積んでもらわないことには、どんどん増えるのはワタシの罵倒スラングのボキャブラリー。おい、こら、ワタシの品格を落としてくれるなよ。(今日は、今のところ1対0でリード中だけど・・・)
グッドフライデイ
3月21日。今日はグッドフライデイ。復活祭前の金曜日のことで、祝日。日曜日の復活祭をはさんで月曜日も休みで4連休になる人もいる。でも、イースターマンデイは法定祝祭日ではないから、休んでいるのはたいていがお役所関係か労働組合の力の強いところ。おかげで郵便は火曜日まで配達されないし、ゴミの収集日も2日先にずれる。まあ、日本で官庁が一足お先にご用納めをするのと同じことかもしれない。
復活祭は「春分の日の後の最初の満月の後の最初の日曜日」ということになっているもので、毎年3月になったり、4月になったりする。今年は春分の日の翌日が満月なもので、3月23日と計算上2番目に早い復活祭になる。つまり、どんなに逆立ちしても3月22日より早くは来ないし、4月25日より遅くなることはないわけ。前に一番早い3月22日だったのは1818年だそうだ。前回にワタシの誕生日が復活祭だったのはカレシが生まれた年の1943年。次に誕生日と復活祭が重なるのは2038年だそうな。その年、ワタシは90歳を迎える。それまでいけるんかなあ?うん、それまでには「人生90年」の時代になっていそうだから、がんばらなきゃ・・・
復活祭になくてならないのがイースターエッグとチョコレートバニー。イースターエッグは色をつけたゆで卵。これを庭のあちこちに隠しておいて、かごを持った子供たちがイースターエッグハント。子供がいないから自分で作ったことはないけど、絵を描いたりもするらしい。有名なのはロマノフ朝のロシアでファベルジェが作った卵。これは本物の卵じゃなくて、金銀宝石で飾り立てた凝りに凝った芸術品。アレクサンドル三世が皇妃にプレゼントするために作らせたのが初めだとか。ワタシはチョコレートの卵のほうがいいけどなあ。特に二つに割ると中にいろんなキャンディが入っている大きいやつ・・・
チョコレートバニーはうさぎをかたどったチョコ。うさぎは古代から多産の象徴だったらしい。特に野うさぎはねずみ算どころか「うさぎ算式」に増えるし、ついでに卵も多産の象徴ということで、古代ゲルマン族はこの二つを合体して「卵を産むうさぎ」を作り出したらしい。そもそも「イースター」の語源がゲルマン族の再生と豊穣の女神エオストラだそうだから、おそらく自然が息を吹き返す春に多産と豊穣を祈ったゲルマン人の祭祀にイエスの蘇生をかぶらせてキリスト教の布教宣伝をやったのだろう。(キリスト教がヨーロッパ中に広まったのはこのMBAの先駆かと思わせるような「営業力」によるところが大きいと思ってしまう。)
チョコレートバニーにチョコレートエッグと、復活祭はチョコレート業界にとっては書き入れ時のはずだけど、今年のようにあまりにも早いと喜べないんだそうな。というのも、これまたメジャーなチョコレートデイであるバレンタインデイのチョコレートがまだ残っていて、消費者は少々チョコレートに食傷気味だからだそうだ。そういえば、我が家は今年もグッドフライデイになってまだイースターチョコを買っていない。いつも残りがある店を探すのに苦労するんだけど、じゃあ、今年はわりとたくさん残っていそうかなあ・・・
復活祭のぶつぶつ
3月23日。復活祭の日曜日。雨のはずがなぜかただのうす曇のしご~く静かな日。まだどっさり残っている大仕事を片付けて、オーストラリアの片隅で同じようにあっぷあっぷしているらしい編集者に回す日。実は期限までまたあと1日あるけど、次の大仕事にとりかかって、とにかくゴールへまっしぐらに突進しなければならないのだ。これが東京行き前の最後の仕事だといいんだけど、そうは問屋が卸してくれるか・・・。
きのうはディナーにおでかけついでにイースターチョコレートを買いに行った。ほんとうに大小とりまぜてどっさりある。ほんとうに売れ行きが悪いのか、単に作りすぎたのか、わからないけど、こっちはよりどりみどり。大きな卵は殻が半分だけで中のキャンディが丸見え。どうしてかこの頃はドンと大きなのがない。たぶん原料高のせいなんだろうけど、ダチョウのより大きなチョコ卵を耳元で振って、どんなキャンディが入っているか想像する楽しみがなくなってしまった。それでも、高さ20センチほどのダークチョコのうさぎ(卵の入ったかごを背負った標準的デザイン)と、ミルクチョコの半殻卵。ついでにマティニ用のオリーブを買いに入った店でも、キャンディは入っていないけどすごくつやつやとしておいしそうなダークチョコの卵を買ってしまった。つるつるでかじるところがないから、金づちがいりそう。おかげで戸棚はチョコチョコ・・・
何しろねじり鉢巻の日だから、イースターのごちそうはコーニッシュヘン。ミニチキンといったところだけど、この頃は小柄なチキンに迫りそうなくらい大ぶり。昔は一人1羽で多すぎなかったのに、今は二人で1羽。まさか、ステロイドでムキムキにしているわけじゃなかろうけど。ガーリックを詰め込んでローストしてから、キッチンバサミで2つにわける。ソースは復活祭の七面鳥にはバーボンを使ったから、今度はウィスキーソースにしてみようか。それとも・・・ま、その時になってから、そこらのバーよりも品揃え豊富な我が家の酒棚を見渡して決めようっと。ワインはカレシが好きな辛口のロゼと行こうか。で、デザートはもちろんチョコレート。ま、楽々でよろしい。
それでは、きりりと鉢巻を締めて、いざ~
ちゃんぽんエッグ
3月24日。ねじり鉢巻に腕まくりでがんばって、どうにか終わらせた仕事を送り出して、眠りについたのは午前4時。復活祭のディナーが満腹しごくだったせいで、午前零時のランチもしないまま。もっとも、たらふく美食をした日は二食だけでそのままご就寝ということが多い。
きのうのコーニッシュヘンはガーリックの他にネギとしょうがを詰め込んで焼いたもので、わりかしさっぱりした味。そこで「Ginger of the Indies」という名前の、西インド諸島産のショウガを使ったというフランスのリキュールをたっぷり入れてソースを作ってみたら、これが絶品(と、カレシ)。付け合せはローストしたオレンジのピーマンとアスパラガスの穂先と薄くスライスしたポテトのガレット。お一人様用の丸い焼き型に重ねて焼くんだけど、パルメザンチーズの代わりにヤギのチーズを使ったらコクのあるおもしろい味わいになった。忙しいもんでちゃっちゃかと作ってしまったにしては花丸のでき。デザートにチョコレートバニーの耳をがぶりとかじって、満足・・・
今日からINBOXにある最後の大仕事。期限までに仕上げるのはきついなあと思ったけど、始めてみたらなぜかスイスイと進む。何のことはない。前の2つをやったときに、渡された用語集をもとに、これはと思う用語をひとまとめに英語に変換してあったもので、改めていちいち調べなくてもいいし、考える必要もない。その上で繰り返し出てくる表現や定型文も同じようにえいやっと一括変換したもので、仕事は何と2割がたすんでしまった。うっそぉ~。こんなことって、あってもいいのかなあ。これで、カッコの中にまたカッコ、そのまた中にまたカッコと、まるでマトリョーシカにそっくりな感じのうるさい但し書きがなかったら、楽をしすぎてしまうかもしれないなあ。用語集の用語が少しくらい「ン?」でも、気にしない、気にしない。お客様ご指定は変えられないもんね。おかげで何十ページもある文書はちょっぴり変てこ日本語とちょっぴり変てこ英語のウルトラちゃんぽん。それがなんだか読み心地が良さそうに見えてしまうから我ながらおかしい。ふ~ん、スクランブルのちゃんぽんエッグになっているのはワタシの頭の中だったりして・・・し~らない。
ボキャはいいけど調子っぱずれ
3月25日。やっぱり、この春は平年よりもかなり温度が低いそうな。桜は満開に近いのに、これじゃあ花冷えだなあ。痛めた胸は2週間経ってどうやら順調な回復。今は横から強く押すとウヒッとなるくらいで、右側に寝返りを打ってもほぼ大丈夫になった。感覚としてはどうも鳩尾から伸びる軟骨に肋骨がつながるところ。スポーツ選手なんかにけっこうあるケガだそうで、アメリカンフットボールの選手なんか正面からドドッとぶつかって、グキッとやるらしい。ワタシの場合は、粋がってタンゴのまねごとをしてただけなんだけど・・・
ぶつぶついいながらやっている仕事。一括で訳語に変換したおかげで上々の進捗。この調子だとあんまり汗をかかずに「目標期限」に完了できそうな兆し。それにしてもなあ。文章の頭から最後の「。」に到達するまでに500文字を超えるすごいのがぞろぞろある。括弧の中に入った「ただし」、「つまり」、「~を含む」、「~を除く」のような但し書きが多すぎて、だらだら寄り道をしながら学校へ行くようなもので、やっと「。」にたどり着いた頃には何を言っているんだかさっぱりわからなくなるからやっかい。こんな複雑怪奇で難解な文章をさらさらっと書けてしまう人って、何かの天才なのかもしれない。文才とはいいがたいけども・・・
キーを叩きながらのぶつぶつも、そばで聞いている人にはまるでけんか腰に聞こえるかもしれない。長い間にカレシのおかげ?でいろんな罵倒スラングを覚えた。毎日耳から言葉を吸収するだけでなくて、それが使われる状況も同時に目で見ているわけで、文字通り「身について」しまったということだろう。罵倒スラングといっても、「口汚い罵り」から「悪たれ」までピンキリ。争いの武器にもなるし、交流の潤滑油にもなる。スラングもコミュニケーションのうちというのなら、スランゲージとでも呼ぼうか。
作家のマーク・トウェインはスラングを多用したそうだ。どっちかというと「悪たれ」といえるものだったらしく、ミシシッピ川で水先案内人をやっていた頃に「芸術性」を見出したらしい。お育ちの良い奥さんや娘たちの前では慎む努力をしたそうだけど、思考回路をショートさせて出てくるのが罵倒スラング。ある日、呆れた奥さんが聞き覚えの汚いスラングをありったけぶちまけて見せたところ、黙って聞いていた夫曰く、「You got the words right, but you don't know t he tune」とやり返したという。「ボキャはいいけど、調子っぱずれ」というところかな。
スラングは語学留学の若い人たちに人気があるらしく、まっさきに覚えて、「これぞ生きた英語!」といわんばかりに使いたがる。だけど、英語にだって「TPO」のようなものがあるのを知らないから、街中でこってりおしゃれの「かわゆ~い」日本女性がぶったまげるようなスラングを使っているのに出くわすことがよくある。ずっと前にめんどうを見た語学留学の若者も、うれしそうにやたらと「オーマイガッ(Oh, my God)」を連発していたけど、これがみごとな「銚子の沖何千キロ」の調子っぱずれ。状況におかまいなく紋切り型の一本調子なもので、マーク・トウェインの評がそっくりあてはまっていた。それをかわいいと思う人もいるかもしれないけど、こればっかりは教科書で勉強してマスターできるってものではなさそうで、まあ、身ぶり手ぶりと同じで、自然に身についていくものなのだろう。Gotta go・・・
若さなのかなあ
3月26日。ちょっぴり寒いけど春らしい良い天気だなあと思っていたら、何とダウンタウンではひょうとみぞれだって。どうなってるのかなあ。地球温暖化による気候変動では荒れ模様の天気が極端になるといっていたけど、大して大きくないバンクーバーでこれはちょっと変すぎないかなあ。といっても、バンクーバーは真ん中が小高い丘になっていて、北側と南側で天気が違うことがよくある。我が家は日当たりがいい(といわれる)南斜面。たしかに、冬は市内でも暖かいほうだし、夏は海からの風の通りが良くてかなり涼しい。それにしても、歩いたってせいぜい2時間くらいの距離で、こっち側は晴天なのに向こう側は雪模様というのはいったいどういうことなんだろう。
先週からウィスラーで語学留学の日本人が行方不明になっている。どうも一人でスノーボードにでかけて遭難したらしい。捜索願が出されたのは4日目とか。ホームステイの家族は、週末によく友だちのところで外泊していたから、またかと思って気にしなかったそうだ。でも、ホームステイはホテルとは違うんだから、外泊するならそうと言っておくべきじゃないかと思うんだけど。近頃は「金を払っているんだから」とホテルあつかいして、勝手のやり放題という若者も多いという。遭難した女性もそうだということではないけども、日本でも実家住まいだとしたら、ふだんから無断で外泊するようなタイプだったと思われてもしかたがないかなあ。おまけに携帯も持って行かなかったそうで、25才という年齢にしては危険に対してかなり無防備すぎるという感じがする。それが若さのせいだというのなら、ワタシだって25才の頃はたった一人でカナダまで来たりして、なかり無防備で無鉄砲なところがあったけど・・・
ウィスラーはリゾート感覚でも冬山であることには変わりがない。まだ初心者に近かったそうだから、指定区域の外へ出てしまった形跡がなさそうだとすれば、木の根元の穴にはまり込んだ可能性も考えられる。針葉樹はかなり下まで枝が張っていて、まわりに雪が積もっていると下が空洞になっているのがすぐにはわからない。かなりの勢いで滑ってきたスキーヤーやボーダーがこの窪みにはまると、衝撃で枝の雪がどっと落ちて来て埋もれてしまうことがある。そういう遭難事故が前に何度もあった。ちょっとひとことだけ、ホストに予定を意図を告げて出かけていたら。もっと早くに捜索が始まっていただろうに。かなりの新雪が積もった厳寒の山で1週間。両親が日本から駆けつけたそうだけど、生還はまず難しい・・・
スパムは薄く切って・・・
3月27日。インターネットの世界は刑法上で「犯罪」とされる悪事が横行しているけど、同時に匿名という隠れみのをまとった悪知恵もすみずみまではびこっている。匿名性というのはそれほど誘惑が大きいんだろう。だって、自分が誰かということを知られずに現実の世界ではできないことを堂々とやれてしまうんだから、肝っ玉のちっちゃい人間にとってこんなすばらしいことはない。掲示板などはそういう人間性の鏡みたいなものかもしれない。まあ、夢の中で夢を実現しているような感じもしないではないけど、覚めた世界の理想の自分は努力しなければ夢のまた夢ってことが多いから、努力しないで実現できるのなら、たとえそれがいっときの夢だとしても実現できるにこしたことはないのかもしれない。
ニフティという会社の調査によると日本のブログの40%以上は「スパム」といっていいものなんだそうな。アメリカのどこかの新聞が、日本人のブログの数は世界でもダントツで、ほとんどが個人の日記だ書いていたのを覚えているけど、たしかに、仕事に必要な情報を探そうとググって回ってもヒットするのは個人のブログと思しきサイトばかりなんてことがよくある。それにしても、何百万とあるブログの40%というのはすごい数だ。アフィリエートとかいって、要するに「濡れ手であわ」式の小遣い稼ぎのために開設したのも多いらしい。今日のメールに入っていた変なソフトを宣伝するスパムメールはきっとそういう商売に食指を動かす人を狙ったものだったんだろう。努力しないで「寝ていても自動的に」お金が儲かるというおいしい文句に釣られる人もいるんだろうなあ。そうでなければこれほどスパム詐欺が横行するはずがないもの。
最近はスパムフィルタも悪知恵には後れを取っているのか、スパムメールは増えるばかり。メーラー側でKILLフィルタを設定するか、そうでなければ片っ端からDELETEキーを叩いた方が早いくらいだ。メールスパムにも季節性があったりしておもしろいけど、この頃は「男のナニ」をあと何インチ伸ばせるとうたったものがやたらと多い。おいおい、女のモノは同じなんだから、そんなに長くしてみたって「しゃーねぇだろ」と突っ込んで笑っているけど、これほどの波状攻撃にあったら人知れずにコンプレックスを抱えている男のひとりやふたりはひっかかるのかもしれない。
このブログはいったい何なんだろう。日記といえば日記かもしれないし、愚痴のはけ口といえばそうだし、仮想「ハイドバークの演説台」といえばそうだし、「へえ~そうかあ~」的なとぼけた作文といえばそうだし、ほんとに何なんだろうなあ。「情報発信」なんてものでもなければ「論評」なんてものでもない。じゃあなぜワタシ的な日記をネット上で公開するんだと聞かれたって、「誰もすなる日記といふものを、我もしてみむとてするなり」としか答えようがない。(けっこうミーハーな動機なのだ。)まあ、自分なりのモラルというものがあるから、匿名性に隠れてあることないことを書くことだけはしていない。ということは、読み返して自分の心理を客観的に分析できるというご利益はあるはず。とどのつまりは自分自身の役に立っているだけってことで、「読者にとってはほとんど意味のない」のがスパムブログの定義だとしたら、これもスパムかも。(低脂肪スパムはけっこうおいしいけど・・・ん、関係ないか)
丸かじりスパム
3月28日。朝起きてみたら雪。もう週明けには4月じゃない?家の外の桜並木はもう満開に近いじゃない?なんで?「地球温暖化なんて、わかってないやつのいうことなのさ」とカレシ。そうだよなあ。これじゃあ、まるで氷河時代の前兆じゃないの。う~ん、ほんっとに寒い。(ワタシが生まれた4月の下旬は雪が降っていたそうだけど、それはゴールデンウィークに雪がふる土地柄だから話は別・・・)
今日はこの大仕事をほんっとに片付けてしまいたい日。あともうちょっとなんだけど、いいかげんうんざり。ワタシの日本語読解力が低下したのかと心配したけど、そりゃ違う。低下したのは日本人の日本語の文章力。てか(と、今どき風・・・)、コミュニケーションしようという意志がないんじゃないかと思う。もっと突っ込めば、ワタシ的なレベルになるともうコミュニケーションするものがな~んにもないんじゃないかと思ってしまう。別の仕事では、「~をイメージする」という表現の解釈を巡って編集者と頭をつき合わせての謎解きになった。編集者氏は日本人じゃないし、日本に住んでもいないから、いくら日本語が堪能でも日本人のファジーなイメージ思考(これって感性ってやつかな?)は理解できない。この「イメージ化」というのはimagineする(想像する)のとは似ていて非なるものらしいから、やっかい。(ふむ、この「~化」ってやつも安直だなあ。何でも化かせばいいってもんじゃなかろうに・・・文句、文句。)
ま、グダグダ考えててもしょうがないから、今日は掲示板のツアーで適当にパクリスパムしちゃおうか・・・
その1。『カナダの田舎に住む日本人(女)です。いまだに慣れないのが街を歩いてて「チャイニーズ」と呼ばれることが苦痛でなりません。一般的に中国人のイメージは貧乏、出稼ぎといったマイナスな印象があるためそう見られる自分がとっても嫌です。洋服や身なりもとても気をつけているつもりです。』
その2。『カナダで日本人でない人と結婚した友人がいるのですが、生活習慣やしきたりが合わないので不満があるのか、一言目には”日本人だったらこんなことはしない”とか”日本人だったら違う”というように何でもかんでも日本人のやり方と比べる人がいます。』
その3。『バンクーバーで不便なこと: 日本語が通じない。言いたい事が100%言えないのでストレス。』
その4。『ここで、知り合いになった日本人で、自分より英語ができるとか、いい仕事についてるとかで嫉妬されたり、対抗されて、結局は疎遠になったという人いませんか?』
ふ~ん、ここにはずいぶんとおもしろい人たちが流れ着いてるんやねえ・・・
まっさかぁ~
3月29日。だらだら仕事からやっとのことで解放されて、やれやれと爆睡(すごい表現!)して、ゆっくり起きた土曜日。起きるのが遅いから、ごろごろしているうちにディナーにでかける時間になる。天気予報は大外れで雪は影も形もなく、外は桜がほぼ満開。うろ覚えのブラウニングの詩がなんとなく浮かんだりして・・・
ディナーはダウンタウン。うす曇りだけど、念のためサングラスを持って出た。ところが、ダウンタウンに近くなったところで、あられがパラパラ。やがてみぞれ。おやおやと思っているうちに、本格的な雪になってきた。ダウンタウンに入ると、なんと歩道にはべちゃべちゃの雪が積もっている。ええ、うっそ~。信じられな~い。まあ、雪というよりはみぞれに近いんだけど、それにしてもなあ。3月も終わり。ここはバンクーバーなんであって、トロントじゃないんだよなあ。桜が満開でしょうが・・・
そうとわかっていればブーツを履いて来たのに、たまのハイヒールで、すべりそうな歩道をえっちらおっちら。たどり着いたレストランで聞いてみたら、「きょうは午後中ずっとこんな感じで・・・」。え、南のあたりはずっと春爛漫だったけど。ディナーの帰り、往路であられが降り出したあたりを過ぎると雪なんかひとかけもない。立ち寄ったモールのスーパーで聞いても、バイトらしいレジのお嬢さんは「え、雪?まっさかぁ~」と、信じてくれない。まっさかぁ~って、ふ~ん、ひょっとしたら、どこでもドアで別世界にスリップしちゃってたのかなあ。
ああ、青春の終わり
3月30日。日本は月曜日。発注元のOK待ちだった仕事がOKが出ずじまいで、クライアントは恐縮気味だけど、ワタシはバンザイ。おかげで一日のんびり。この後はよほど小さい仕事でなければ「留守にしますので」ってことでお断りができる。つまりは、うわっ、1週間のお休みになるってこだ。おお、たまにはこういう「ドタキャン」もいいもんだなあ。
真夜中のランチ。世の中の殺人だの戦争だのラジオやテレビをつけても眠れなくなるだけだからと、CDをかける。今夜はサイモン&ガーファンクル。ポール・サイモンの詩はすばらしい。だけど、ガーファンクルのあの声がなければ、せっかくの詩は生きてこないような気もする。『Dangling Conversation』はだまって聞いていると涙が出てくる。お互いにあさっての方を向いてしまった二人の午後。まだ本当は愛があって、向き合いたいはずなのに、宙ぶらりんの会話。すごく悲しい。ベトナム戦争。反体制運動。ヒッピーに反戦運動。アメリカは激動の時代だった。日本でも学生運動が起き、反戦運動が起き、催涙ガスが立ち込めた。
だけども、今になって振り返ってみると、あれは反体制に酔った平和な日本の若者のファッションだったんじゃないのかと思う。フォークソングのブームだって、あれはアメリカの流行にならったファッションだったのかと思う。奇しくも明日3月31日は日本赤軍による「よご号ハイジャック事件」が起きた日。外資系会社の営業所の事務をまかされることになって、研修のために初めて飛行機に乗って津軽海峡を越えた日だった。(大阪直行便運行開始の前日だったから)大阪行きへの乗り換えの羽田空港には警察官だらけ。事情を知らないままワタシは「内地」は怖いところと思ったのだった。半生以上を北米文化に浸かって暮らしてきて、当時を生きた同世代の人たちの体験を聞いて、今、反戦だ、フォークだ、ヒッピーだと浮かれていた自分はいったい何だったのだろうと思う。
古いLPを引っ張り出して見たら、あったのが浅川マキのアルバム。そう、「アングラ」が流行った時代でもあった。1970年。あれから38年。浅川マキはまだ昔のまま活動しているそうな。そうなんだ、浅川マキもサイモン&ガーファンクルもワタシの青臭い青春の終わりを告げる「詩」だったのかもしれない。「あの頃は」というと若い人にそっぽを向かれる年代になったけど、ひとつだけ、今は懐メロになった「あの頃」の歌には「知性」があったことは確かだと思う。日本だって、あの時代がアメリカをまねたファッションだったとしても、戦いの相手が日本的な感性にすぎなかったとしても、大人にさしかかった若者の「ひたむきさ」があったと思う。それがひしめきあって日本の戦後を生きてきた「団塊の世代」というものなのかもしれない。
ベトナム戦争は北米社会を根底から変えたと思う。あの戦争は今のイラクやアフガニスタンでの戦いとは根本的に違う。当時の若者たちには「戦争に行かない」という選択肢などなかった。だからこそ、北米ではフォークロックも、ヒッピーの文化も、マリファナやLSDに酔ったサイケデリックも、ただの若者ファッションなんかではなかったのだ。あの時代の風に吹かれた日本の若者たちの中に、ファッションという「感性」を超えて、ひたむきに人生を燃やした人はどれだけいたんだろう。角材をかざして体制打破を叫んだ覆面の若者たちはどうなったんだろう。日本赤軍も反体制運動も、やがては内に向かって牙をむいた。あの頃を生き延びた若者たちはその後のバブル狂乱時代をどう生きたんだろう。バブルがはじけてからはどうしているんだろう。あの頃のひたむきさはどうなったんだろう。
東京にいる間に、浅川マキのCDを探してみようか。「あの頃」が聞こえてくるかも・・・
精神メタボに気をつけて
3月31日。いつものようにさっさとカレンダーをめくってしまって、今日はエイプリルフールかと思ったら、残念でした。まだ3月の最後の日が残っている。3月は獅子のごとくやって来て、子羊のごとく去るというけど、今年はのそっとやって来て、一応羊のごとく去って行った。誰が言い出したのか知らないけど、秋の空が乙女心なら、春の空は男のむらっ気ということ?
来週の今ごろは東京にいるんだなあと思うからなのか、何となく気分が落ち着かない。まあ、旅の前っていつもそういう感じではあるけど、今回はここ数年とちょっと違う旅だから、心の中に自分で量りきれないウエイトがあるらしい。昨夜は逃げている自分を夢に見た。荒涼とした風景の中を必死で走っている自分。人里らしいものがあるのに、人影のないゴーストタウン。はっと目が覚めて、気持を鎮めて眠りに戻ったらまた同じ風景。そんなことを2度くらい繰り返しただろうか。カレシに突っつかれて目を覚ましたときはなぜかぐったり疲れて、腕枕でしばらくうとうと眠ってしまった。自分の心の深いところにまだもがいている感情が残っているのかなあ。あと1週間。向こうへ行けばきっとあっという間の1週間。大丈夫だってば。
だけど、実際にどうなるのかなあ。小町を見ると、「左利きは見ていて不快」という意見がずらりと並ぶし、人に好かれていると思っている相手に対して「その子の容姿がかわいければ納得して許せるけど、自分がかわいいからモテるって思ってるところが認めてあげられない」というし、一重まぶたの娘に二重まぶたに「お直し」するかどうかで、「女性に関しては、幸せになることと人格はあまり関係ないと、世の中を見ていてつくづく思います」ので二重にした方がいいというし、人さまが持って生まれた外観や形質が自分が見て不快だから変えるか、消えるかしてくれといわんばかりのおっそろしい人が多すぎる。末恐ろしいとはこのことじゃないのかなあ。
左利きが箸を使っていると違和感を感じて自分の食べ物がまずくなるからマナー違反?かわいくない子は人に好かれる権利はないっての?女の幸せは人格と関係ないって、女は人格を持たない「モノ」ってこと?次はきっと障害のある人は見苦しいから外へ出るなと言い出すんだろうな。今どきのアニメ顔でない子がもてるのは社会のルールに反すると言い出すんだろうな。そしたら、年よりは、子連れは、子なしは・・・。和を尊ぶ日本を守るために異端を切り捨てるのもやむを得ずってことなの?こういう人たちにとって自分はどんな風に見えているんだろうなあ。人さまのことをあれこれうるさく言うくらいだから、基準になる自分はちゃんと見えているんだろうなあ。「繊細な感性」はいいけど、それが肥大しすぎて、精神がメタボ症候群になってしまったとか・・・?
いつか、コンピュータで身長体重、ボディパーツの大きさ、配置、釣り合いを測って、不合格者はその場でZAP!と消滅させる、なんてSFみたいな社会になるのかなあ。そして、アニメやゲームのような(敵意むき出しの冷酷そうな)美少年男と(幼児顔に巨乳の)美少女しかいなくなって、不快感も違和感もない安楽な世界になるんだろうか。そんな心配をしても、「そっちだって人のことをとやかく言ってるじゃないか」という、砂場の反論が返って来るだけかもしれないけど、規格外れだとZAP!とやられてはたまったもんじゃないからなあ・・・