雪やんで、マイナス5度
11月21日。日曜日。いい天気。家の外の歩道は長い方(30メートル)が南側なので、日が当たるおかげで雪かきしたのと同じ状態。人が通ってくれれば解けるのは早い。たったの5センチだから、普通に歩けないわけがないし、やれやれというところ。
今夜は満月。そうでなくても月が冴える夜は冷え込むんだけど、真夜中近くで氷点下5度。水曜日くらいまでこの寒さが続くらしい。予報では晴天か曇り。気温が上がる木曜日に雪交じりの雨。その後は普通のバンクーバーの11月。うん、この分では第1ラウンドを無事通過・・・かな。あとちょっとの辛抱。
雪かき義務の市条例に関しては、カレシは「チケットを切らせる」方針で、違反チケットを持って裁判所に行って異議申し立てをするんだとか。うん、その手はワタシも考えた。だけど、おそらく高齢者の問い合わせや抗議に慌てた市役所は「当分チケットは切らない」としきりにアピール。しばらくは「休戦」か。まあ、何かと意見が別れることの多いカレシとワタシだけど、ここは一致しての共同戦線を張って市役所と戦うことになるのかなあ。雪、また降らないかなあ・・・なんて。
2年前の「豪雪」であわてて除雪体制を整えた市役所だけど、雪が降り出したら幹線道路の除雪で手いっぱい。なのに、サイクリスト様たちが自転車専用レーンの除雪をしていないじゃないかと市役所にかみついたらしい。あのさ、サイクリスト様、自転車レーンをコンクリートの壁なんかで仕切ってしまうから、除雪トラックが入れないんだよね。ペンキで線を引いただけのところはちゃんと除雪されてたよ。ファッショナブリーにエコの市長の号令でサイクリスト様にへいこらしている市役所、自転車レーン用に別の除雪方法を考えますと来たもんだ。おいおい、よけいな費用がかかるんじゃないの?いっそ、サイクリスト様にシャベル携帯を義務付けたらどう?
仕事もうひとつ、もうあとちょっとのところ。あ~あ、メンタルの方がくたびれてきたなあ・・・。
いじめという名の毒草
11月22日。月曜日。寒いったら、もう。一日中氷点下のままで、おまけに風があって、体感温度は下がるばかり。雪が降っていないのがせめてもの何とかかなあ。急に思い出して、あわてて外の水道栓を締めたけど、だって、急に冷え込んだんだもの・・・。
仕事の進行は、今のところ予定表通り。今日からお子様プロジェクトに戻って、実験、実験。たしかに教育的には重要なことだろうけど、どうみても材料から道具まで支給されて、手順もすっかりお膳立てができていて、決まった答しか出で来ない仕組みになっているような気がする。ワタシが子供だったら、ゆとりをあげるなんて言われなくても、退屈して、窓の外の白い雲を眺めながら白日夢をうつらうつら、だろうな。自立性を育てずに創造力を育てるなんていってもねえ。高校生になっても九九ができないのはその子の個性なんかじゃなくて、ただの甘やかしの結果でしょうが。
毎日新聞の英語版に、小学6年生がいじめを受けて自殺した群馬の小学校の、学級崩壊の経緯をたどった記事があった。いじめグループは女の子たちらしいけど、他のクラスにまで攻撃を広げていたとか。いじめた相手が死んでしまって、全国に注目される騒ぎになって、そろそろ思春期を迎えるその女の子たちは今どんなことを考えているんだろうな。毎日学校で何を思っているんだろうな。家に帰って、家族とどんな話をしているんだろうな。よもや、本人はもとより親までが「自殺なんてイヤミ。そういう態度だからムカつくのよ」なんて言ってないだろうな。まさかね。
ジャパンタイムスには、「いじめ文化」の背後には母親がいるという、日本在住の外国人読者が自分の子供をデイケアに入れた時の観察をもとにした投稿が載っていた。デイケアでは子供の母親たちが「小さな社会」の中心的な役割を演じ、他人の子供の言動についてひんぱんに保育士に苦情を言うようになり、やがて小さなグループが保育士に特に一目置かれるようになって、デイケア社会の「世論」を牛耳るようになり、自分の子供が「好ましくない」子供と遊ばないようにし向ける母親たちが出て来た。デイケアをやめた頃には、日本では学校の「いじめ文化」の背後に母親の影があることが歴然として見えたという。
子供は本質的に精神的に未熟な子供。ある日突然そうしようと決めたからいじめっ子になるってわけじゃないし、そんな自主性も知恵もまだ持ち合わせていないと思う。特にサラリーマン家庭の父親は残業だ、飲み会だと家に帰る時間が短くて、子供の成長に満足にかかわっていない(らしい)日本では、母親と子供が密着して過ごす時間が異常に長いんじゃないのかな。だから、小学生や中学生の学校や家庭の外での言動には、日ごろ見聞きしている母親の言動が色濃く反映されているんじゃないかと思う。いくら学校で子供たちに命の大切さを説いて聞かせても、母親(たぶんにモンスターペアレント)の影響力には勝てないということかな。
小町横町には、人さまのことについて、その人には変えられないようなことまでも含めて、苦情、反感、嫌悪、嫉妬が毎日ずらりと並んでいるけど、読みながらよく、この人たちは子供の前でも、あるいは子供たちにも、ふだんからこんなことを言っているのかなあと思ってしまう。陰湿ないじめをする子供たちの母親はふだんから自分の子供とどんな会話をしているんだろうな。もちろん、人間としての倫理や価値観を教える賢い母親もたくさんいるわけだから、「いじめ文化の黒幕」と指差しされた類の母親たちは、子供が生まれたから「母親」というタイトルを得ただけで、一個の人間としてはあんまり真剣に生きていないのかもしれないけど、大人のやることで割を食うのはいつも子供・・・。
真夜中。マイナス5度。なんだか考えることまで冷え冷えしてきちゃった・・・。
やっと寒波が緩んできた
11月23日。火曜日。相変わらず好天で、相変わらず「厳寒」。こんなにいい天気なのに、気温は一日中マイナスのまま。でも、きのうのうちに(ドロナワ式にあわててだけど)ベッドのシーツをフランネルのものに、毛布を純毛のものに替えて、ついでにワタシのクローゼットのTシャツを長袖のものに入れ替えたから、外はマイナスでもぬくぬく・・・。
朝食を食べながら昼のニュースを見ていたら、ダウンタウンのクイーンエリザベス劇場の隣にあるプラザでドイツの伝統的な「クリスマスマーケット」がオープンしたとのこと。おお、これは何としてでも行って見なきゃ!バンクーバーにはけっこうドイツ系人口もあるんだけど、あまり目立たないのは昔の戦争のせいか。ドイツ語っぽい苗字の人はユダヤ系が多いような気がする。ワタシが知っている生粋のドイツ人はカレシの元同僚で今も親しいビルの奥さんのヘレンくらいかな。おばあちゃんを「oma」と呼ぶことを知ったのは彼女から。(ちなみにフィリピン系の義家族ができたアーニャから、タガログ語でおばあちゃんは「lola」、おじいちゃんは「lolo」だと教わった。ドイツとは関係ないから脱線・・・。)
まあ、そうだよね、あと1週間で12月。アメリカではあさって木曜日が感謝祭で、翌日は「Black Friday」と言ってオフィスががら空きになる日。ま、アメリカの感謝祭は日本のお盆みたいなもので、故郷を離れている人が帰省する習慣があるし、金曜日の夜明け前から「よ~い、ドン!」のクリスマス商戦の始まりでもある。数年前にそうと知らずにサンフランシスコに遊びに出かけて、メイシーズの入り口に「明日は午前6時30分開店」と張り紙がしてあったのにびっくりして、さらに翌日ホテルの外へ出て歩道を埋め尽くす買い物客の群れにびっくりしたっけな。まあ、ドイツ風クリスマスマーケットはクリスマス直前まで続くそうだから、今の仕事クランチを脱したら、ゆっくりと行って来よう。うん、トンネルの先に楽しみがあるのは励みになるぞ~。
今日はカレシが最後の検査に行く日。ボランティア先生の後任候補のギル君が何というかちゃらんぽらんで、当日だというのに「ボクが教えるのは今日ですよね」なんてのんびりした電話がかかって来る。カレシが留守だから、「代替の先生と手配が整っているはずですが~」と返事をしたら、「あっ、それボク。はい、行きます、行きます」だと。これで確認は2度目なんだけど、この人。年の頃30代前半。彼も、大学卒業と同時に英語教師をしながら世界を見てくるつもりで海外へ出かけて行って、ずるずると母国でのキャリア形成から遠ざかってしまった人たちのひとりなんだろうなあ。なんか「マニャーナ思考」すぎ。でも、それが数年スペインで暮らしていたせいだなんて言ったらスペインの人たちに失礼だよね。
カレシが帰って来たのは午後4時半。結局はほんとに大山鳴動何とやらで、PSA値は正常、超音波検査も膀胱に瘢痕が見つかった以外は問題なし。内視鏡検査も問題なし。最初の検査で前立腺が硬かったのは感染症の影響らしく、抗生物質のおかげで正常の硬さになっていたとか。あれこれ深刻そうな検査でカレシがパニックになるくらい脅かしておいて、どうやら慢性的な膀胱炎。まあ、ねずみ一匹ですんで何よりなのは確かだけど、ストレスは大きかったな。カレシ曰く、「だからさ、超音波検査のときに、手術したことがあるかって聞かれたのは、きっと膀胱に瘢痕があるのが見えたからだろうっていっただろ。ボクの推理どおりだったろ?」 はあ?あの、それはワタシの推理だったんだけど、デンバーのホテルで、眠れぬ夜の午前3時に・・・。
実は、カレシはときどき人が言ったことを自分で考えたようにしゃべることがある。昔は「ん?」と思って頭にきたこともあったけど、これもカレシの不思議のひとつ。どうやら、興味を持った内容だけが記憶に残って、誰がその話をしていたかと言う情報が抜け落ちる脳内配線になっているらしい。このあたりも何らかの発達障害があるんじゃないのかと疑う所以だけど、そうかもしれないと思うようになって、すかさず、ごく自然に「そうそう、ワタシ、そう言ったよね」と切り返す戦術に変えてみたら、今度はどうやらカレシの目が「は?」となって、「そうだったっけ?あ、そうだったよな、うん」となる。やや中途半端な認識だけど、夫婦の間の話だから、人格やプライドには害がなくて十くらいの利があるんだったら、どっちが考えついたことになってもいいんだけど。
真夜中。ポーチの気温はマイナス6度。まっ、「ラニーニャとは関係ない、アルバータの大寒波のとばっちり」の寒さもあさってには緩むらしいから、我が家の「冬」は一段落。やれやれ。さて、残っている仕事は2つ。合わせて原稿用紙換算で140枚分(!)。残り時間は10日か・・・。
雪こんこんになる前に
11月24日。水曜日。カレシが起き出したので、もうそんな時間かとワタシも起きたけど、ベッド脇の時計を見たら午前11時50分で、暖房が入っている時間なのになんだか寒い。かなり冷え込んだのかなと思っていたら、カレシが階段の下から、「おおい、キッチンの時計は全部9時50分だぞ。寝てる間に停電でもしたのかな」。へえ、おかしいなあ。電池の時計も同じ時間だから停電と言うことはありえない。テレビをつけたらやっぱり10時前。おかしいのは寝室の時計ってことか・・・。
そういえば、今日はシーラとヴァルが掃除に来るから、正午直前に目覚ましをセットしたんだった。ひょっとしたらそのときに手が滑って時間も進めてしまったかも・・・?まあ、家の中は薄ら寒いし、寝たのは4時過ぎだからいくらなんでも10時前は早すぎるということで、2人ともまたベッドに戻ってもうひと眠り。なぜか髪を振り乱して仕事をしている夢を見てしまった。
今日も一日中氷点下だけど、気温はちょっぴり上昇して最高でマイナス3度。昼の天気予報によると、木曜日の朝方から雪になるとのことで、ま~た「大雪注意報」。予想は5~10センチ。北海道じゃこんなの大雪のうちに入らないって笑い飛ばされるよ。気象局の説明を聞いていると、木曜日午前5時-降雪開始。午前7時-積雪5センチ程度。正午-重い湿った雪に切り替え。午後3時-気温上昇開始。午後5時雪交じりの雨。午後7時-ただの雨、という筋書きになっているんだそうで、なんだかまるでJRの時刻表みたい。だけど、名だたるJRみたいに定刻通りに運行なんてありえるのかなあ・・・。
まあでも、本格的に雪が降って、そこへ気温が上がって雨が降ると道路はめちゃくちゃな状態になってスリップ事故続出になるから、寒いけど、まだ雪が降り始めていない今夜のうちに食料の買出しをしようということになって、カレシが英語教室から帰ってくるのを待って(Hマートには間に合わないから)西の方のIGAにでかけた。切らしたミルク、オレンジジュース、野菜や果物の類をどんと買い込んで、ついでに外に山積みになっていた10キロ入りの融雪塩をひと袋買って、帰り道に酒屋によってこれも切らしていたレミを買って、さあこれで大雪対策は万全。
病気だ、ガンだ、大変だと、さんざん気をもんで(心配させて)、そうでなくても詰まった仕事でストレスになっているワタシをイライラさせてくれたカレシは、大したことじゃなかったとわかったとたんに「医者ってのはすぐに大騒ぎするからな」と、ことのほかご機嫌(といっても、ネガティブ派のカレシとしてはアップビートにネガティブといった方が近いけど)。まあ、せっかくのドイツ風クリスマス市も、オープン20分前のプロパンガス爆発事故で焼けてしまったものをドイツから取り寄せなければならないとかで、オープンは来週早々まで延期だし、仕事が目の前でどんとあるからホリデイ気分も浸透してこないし、うん、ここはカレシ猫がご機嫌でいるうちに、ワタシネズミはそれ~っとばかりに仕事チーズをがりがり、むしゃむしゃ・・・。
真夜中にあとちょっとのところで、ポーチの温度計はマイナス2.8度ぐらい。あんまり降りたくなさそうな雪空だけどなあ。
鳴かないホトトギスの言い分
11月25日。木曜日。目が覚めてみたらとっくに正午を過ぎていた。なんかぐ~っすり眠った気分だけど、それもそのはず。外はまた一面の銀世界で、まだ雪がちらほら。気温はマイナス1度で、平日だと言うのになぜかし~んとしている。ほんっとに静寂すぎる静寂で、チキンリトルだったら「世界が終わっちゃった~」とパニックを起こしそうなくらいの静けさ・・・。
二階の八角塔から見渡したら、へえ、今日は誰も歩道の雪かきをしていない。少なくとも5センチ、ひょっとしたら10センチ近く積もっているだろうに。先週の「初豪雪」の朝は見渡す限りの歩道が人ひとりが歩ける幅だけ黒々と除雪されていたのに、今日は見える限り真っ白。市が当面は罰金を取らないと言のでみんな「なあんだ」と雪かきをやめてしまったのか、夜には雨になるという予報なので、「だったらど~せ自然に消えるんだから」とお天気に任せることにしたのか、どっちにしてもおもしろい人間心理だなあ。けっさく、けっさく。
雪が降り出したのは午前3時ごろ。普通に就寝する人にとっては、起きてみたら真っ白ということになる。だけど、いくら降る、降ると宣伝したって、寝たときに降っていなければ、念のために早起きしようなんてことは考えないのが人間。早起きして予報が大ハズレだったらがっくり来るもんね。平日ならに普通に起きてみたら雪だったからと、出勤前に雪かきしていたら会社に遅刻してしまうかもしれないな。時給で働く人ならもろに給料を差っ引かれるかもしれない。出勤した時間にはまだ雪が降っていなかったのに、たとえば午前9時あたりから猛烈な雪になったらどうするんだろう。(札幌ではそういう、急に降り出したと思ったら1時間に5センチくらいのペースでどどどっと積もる「集中豪雪」がときどきあった。)だからって、雪が降ってきたので、市条例に基づく雪かき義務遂行のため帰宅します・・・なんてこと、できるわきゃないよね、きっと。早退扱いになって、ここでも賃金を差し引かれる人が出てくるかもしれない。
要するに、バンクーバー市の雪かき条例はunworkableだということ。法律を作って号令をかければ人を動かせるってもんじゃないのだ。だけど、自分たちの「高邁な発想」に人が共感して素直に動いてくれる、あるいはその「高邁な発想」の神通力で人を動かせると信じ切っている人間が増えているみたいだから、世の中は生きにくい。近視眼的な法律だの条令だのを作るのは、実は人が動いてくれないからじゃないのかな。おまえはホトトギスなんだから、鳴かないのはけしからん、何としても鳴かせてみせる、という発想かな。どうして鳴かないのかホトトギスに聞いてみようとは思いつかないんだろうな、きっと。鳴かないホトトギスには鳴かないホトトギスの言い分ってものがあるだろうに。
やっぱり、近頃の人間の思考は世界的にだんだんマニュアル化しつつあるってことかな。そのうち「教えてちゃん」や「やってちゃん」が主流になって、自分で情報を分析して考えて結論を出そうとするのは、良くして「考えすぎの疲れる人」、悪くしたら「思考異常の怖い人」なんて言われることになるかもね。(ホトトギスの鳴き声は知らないから)教科書の通りに「ホーホケキョ」と鳴けないウグイスはいったいどうすればいいんだろうな。ひとつ、「ホケッキョッキョ!」と鳴いてみようか。「それも個性だからしょうがない」受け入れてもらえるのか、あるいは、「それは正しいウグイスの鳴き方じゃないから、名前を変えるか、どこかよその森へ行って鳴け」と言われるのか、「それは条例で決められたウグイスの鳴き方ではない」と違反チケットを切られるのか・・・。
午後9時半。ポーチの気温はプラス1度。だけど、約束の雨、どうしちゃったの?
日本語と英語のすき間での悩み
11月28日。日曜日。まあ、いつのまにか日曜日になっていたという感じ。もっとも、毎日が週末で毎日が週日のような暮らしだから、日曜日でも何でもどうでもいいんだけど、とにかく2日間めちゃくちゃにがんばって、初めにファイルの終わりに書き込んでおいて「end」にたどり着いたら日曜日だった。そのしっちゃめっちゃかな2日の間に半日遅れて雨が降り出して、銀世界が元の緑と茶色の混じった風景に戻り、同業仲間の昼食会でひと息ついて、半徹夜して・・・。くたびれた、もう。
結果的に、金曜日は約10時間で土曜日は8時間、合わせて18時間で出来高は日本語原稿で原稿用紙換算約40枚ちょっとで、訳上がりにしたら約1万ワード。ふむ、本気で仕事をする気になって、ブログを書くのも、小町の井戸端を冷やかすのも控えて、しっかりねじり鉢巻を締めてかかれば、まだやれるんだよね、これくらい。やれるんだけど、対象となる読者がお子様だということで、子供のいないワタシには勝手が違うせいもあって、脳みその疲労はすごかった。中でも一番大きかったストレスは精神的なストレスだったかもしれない。同じ時期にカレシがいろいろと問題を抱えていたこともあって、仕事上のストレスのはずなのに、脳のどこかで「また地獄に落ちるぞ」という危険信号が誤作動して、仕事とは関係のないフラッシュバックを起こしていたような感じがする。何といっても、この2日で寝酒と称してレミのびんを半分近くも空けちゃったのもまずかったかもしれないなあ。
まあ、とにかくお子様プロジェクトはめでたく卒業。トータルで10万ワード近い大仕事なんてめったにないからけっこう貴重な経験にも勉強にもなったけど、またやりたいかと聞かれたら、うん、答は即「ノー」だと思う。第一にこの「ゆとり教育」ってやつ、ち~っともおもしろくない。子供たちに時間的なゆとりを与えて、その時間に好きなように想像力を使って創造的なことをやらせようというのが狙いだったんだろうとは思うけど、所詮中央のお役所の浮世離れしたお役人が考えたこと。学校では「使用説明書」を読むようなおんぶに抱っこ方式のまるで教育で、「もしも本に書いてある通りの結果が出なかった」、あるいは「もしもうまくできなかったら」どうするのかという「精神的なゆとり」はゼロに等しくて、それどころかいちいち「ちゃんと(書いてある通りにやって期待された結果を出すように)できた(よね)?」と確認してくるからうるさいったらない。ワタシにとって窮屈でたまらなかった半世紀前の教育より精神的に一段と窮屈になっているような感じ。これじゃあ、言われた通りにやって言われた通りの結果がそれでいいという考え方しか学んで来なくてもしようがないだろうな。
このプロジェクトでは、日本語と英語の間にある溝の大きさを思い知らされた。母語が何であれ、9歳と10歳、10歳と11歳では言葉遣いや語彙にはっきりした差があるんだけど、日本語の場合はその差が小さいのではないかという感じがした。なにしろ、大人が使うのと同じ単語を、まず低学年では「ひらかな」で、次に「漢字かな混じり」あるいは「ふりがな付きの漢字」で、そして高学年では「漢字」という流れで表記している。領域の性質上そうなるのかもしれないけど、英語ではそんな便利な手段がないので、基本的に読者の年令が低いほど音節や文字の数が少ない単語を使う。その点、英語は際立って語彙が豊富で類義語には不自由しない。そういってもニュアンスが違ってしまっては元も子もないから、結局は音節の多い単語になってしまって、そこだけ「読書年令」のレベルが跳ね上がってしまう。対象年齢がわかっているだけに、日本語と英語のすき間に落ち込んで、悩みは大きくなるばかり・・・。
英語は確かに語彙が豊富で、その数は百万語を超えるとも言われる。元々雑種言語みたいなものだから、類義語の数がものすごい。(シェークスピアの偉業だとも言われているけど。)日本では海外でちょっと英語生活を体験して、英語圏の人は歯に衣を着せずにモノを言うという印象を持って帰った人も多いようで、ときにはそれを日本語で実践する人までいるらしいけど、その是非論(あるいは批難)になると、英語人が日本人のように「機微」を表現できないのは英語の語彙が日本語に比べてずっと少ないからだと説明する人が出てくる。(いや、語彙が少ないのはお留学生の英語の方でしょうがと言いたいところだけど・・・。)実は、英語圏でもそういう物言いを聞き流してもらえるのは言語能力が発達途上の子供くらいなもので、いい大人がところかまわず言いたいことを思いつくままの言葉で言っていたら教育のない粗野な人間だと思われてしまいかねない。英語には日本語のような尊敬語、謙譲語、丁寧語といった、明確に区分された語彙のセットがないから、たくさんある類義語や表現法を使い分けることで尊敬や謙譲の気持を表したり、品良く振舞ったりするわけで、成長する過程でその使い分けを身に着けて来ていると言えるだろうな。
日本語の語彙が欧米語に比べてはるかに多いと思われているのは、たぶんに擬音語、擬態語、擬情語がそれだけで1冊の辞書を編纂できるほど多いからで、それを除外してしまったら、ほんとうのところは日本語の語彙はそれほど多くないんじゃないかと思うことが多い。日本語の擬音語、擬態語、擬情語はだいたいが2音を反復するパターンだけど、英語には擬音語はあっても特に擬態語、擬情語にあたる反復語はない。あっても圧倒的に幼児語で、大人の語彙でその役割をするのは特に語尾に「ly」が付く副詞ということになる。ただし、この「ly」で終わる副詞もやたらに使うと文章力がイマイチだと思われてしまうことがあるそうだから、ここにも英語なりの「レベル差」ってものがあるということなんだろう。
カレッジの短編創作講座で、先生に「lyで終わる副詞を使わずに書いてみなさい」と言われて、ウンウン言いながらストーリーを書いたことがあった。情景にしろ、感情にしろ、「何とか-ly」と副詞ひとつでごく簡単に描写できることを、別の表現で説明しようとすると相当に想像力を働かせなければならなくて、それなりの語彙が要求されるから難しい。それでも、結果はそれぞれに何となく洗練された「奥行き」のある文章になったように感じられて、全員がなるほどとうなずいたものだった。これを日本語でも、たとえば「がりがり」とか「くるくる」、「めそめそ」といった反復的な擬音語や擬態語、擬情語を別の表現に変えて書いてみたら、どんなもんだろうな。高尚な文学作品はたぶんそんな風に書いてあるだろうと思うけど、実際にやってみたら難しいかなあ。でも、おもしろいかもしれない。
まあ、日本語には日本人の、英語には英語人の、その他世界に数ある言語それぞれにはそれを使う民族の視点や考え方、感じ方、人間関係やコミュニケーションに対する価値観といったものが反映されていると思うから(その逆なのかもしれないけど)、どこそこの国の言語はああだこうだとか、どっちの方がどうだこうだと言う視点で論じられるものでもないと思う。要するに、みんな違って、みんないいから、「翻訳業」という商売が成り立って、学歴なしのワタシでも多少のぜいたくができるくらいの食い扶持を稼げるんだし、たくさんある言語の中から誰にも一番覚え易そうなのが異文化間のコミュニケーションを仲介する共通語のようなものになるんであって、それが今は英語ということだろうな。
たしかに得るところも考えることも多かったプロジェクトではあったけど、う~ん、やっぱりこういうのはもういいや。うつっぽくなってしまうくらい疲れたもん。まだ大きいのがひとつ残っているけど、こっちは少なくとも見慣れた大人語の仕事だから、話のテーマこそは大風呂敷みたいでも、あんがい楽々だったりしてね。
健康と幸せは・・・
11月29日。月曜日。雨模様。仕事にひと区切りがついたせいか、すご~くよく眠った気分で目が覚めた。でも、ヘンな夢ばっかり見ていたような気もするな。目が覚めたとたんにぶつ切りの断片イメージになってしまうのが残念だけど、毛並みの良さそうなワンちゃんとワルツ?を踊っていたり、どういうわけかイケメン風の若い男のためにうどんか何かを料理していたら、できあがらないうちにカレシが豆腐を全部食べてしまったり、しまいにお皿に煮込みうどんと一緒に炊き込み風のご飯をてんこ盛りにして、盛りきれないと慌てていたり・・・。だけど、うどんを作っているのになんで豆腐が出てくるんだろう。なんでワルツの相手が後ろ足で立ってワタシの背丈ほどもある犬なんだろう。なんで若い男がいて、隅っこでヘンなヤツがギターを爪弾いていたんだろう。そんなところでカレシはいったい何をやっていたんだろう。焼きもちのひとつでも焼いてくれればいいのに、もう食い気ばっかり・・・。
目が覚めて起き上がったとたんに、きゃ、腰が痛い。そろっと立ってみると、な~んとなく今にもギクッと行きそうな、や~な感じ。ぐっすり眠るのをsleep tightというけど、ひょっとしてタイトすぎてしまったのかなあ。よく5、6時間寝たところでふっと目が覚めて、全身の筋肉を力いっぱいぎゅ~っと引き締めて、またぐっすり眠ってしまうことがある。特に脚なんか腿からつま先まで、まるで痙攣のようになる。なんだか猫が伸びをしているような感じかなあ。で、そういうときは眠りに戻る前に胸がざわざわっとなる。なんだか大草原の草をなびかせて風が吹き抜けるような感じだけど、こっちはあんまり心地が良くない。あまりにもぐっすり眠りすぎて全身がだら~んと緩んでしまうのか、そのあたりはよくわからないけど、仕事で気が立っていて眠りが浅いときには起こらないような。
猫みたいに思いっきり伸びをしたはずみに、だいぶ昔に咳をしすぎて痛めた腰をひねったのかもしれないけど、仕事をしながら背中にヒーティングパッドを当てていたらだいたい治まったので、いつもの通りトレッドミルで普通に15分間で2キロの距離をランニング。運動というのはおもしろいもので、ある運動量に体が慣れて来ると脈拍があまり上がらなくなる。今は時速8キロで15分走った直後の脈拍は140から145で、1分かからずに120を切る。いいことなのかどうかよくわからないけど、運動も慣れすぎてしまうと効果もほどほどになるのかな。もっとスピードを上げるか、走る時間を増やすか。まあ、マラソンに挑戦しようというわけじゃないからいいんだけど。現在、身長155センチ、体重53キロ前後、基礎体温37度、朝の血圧が平均して105/65。これで正午起き、午前4時就寝の変則的生活で、たまには半徹夜をしても(脳みそ以外は)いたって元気なんだから、年の割には健康体ってことで、喜んでいいんだろうと思う。こんなんで風邪でも引いたら、鬼の霍乱だと言われそうでいけない。仕事が終わったらインフルエンザの予防注射に行っとこうかなあ。
ともあれ、この年で仕事が手一杯になるほどあって、おかげでおいしいものを食べられて、趣味三昧ののんびりした隠居暮らしの日が来るのを楽しみに夢に見ていられるのは、生きているという幸せ、自分への最高のご褒美としての幸せなんだと思う。こんなぜいたくな幸せを続く限りエンジョイするためには、やっぱり自主管理でしっかり健康維持を心がけておかないと・・・。
ストリートイングリッシュとは何ぞや
11月30日。火曜日。いやあ、よく降ったこと。数十ミリは降ったらしいけど、降ったのが雨でよかった。雪はどうやらヨーロッパの方へ行ったようだけど、ま、そのうち回りまわってまた舞い戻ってくるんだろうな。なにしろこの「地球」という惑星は軸が安定しなくて、いっつもふらふらしているそうだから。
さて、今日はカレシの英語教室の日。2週間くらい前から来ていたボランティア先生候補の人をカレシはクビにしてしまった。ボランティアだから「クビ」とは言わないだろうから、お引取り願ったというところかな。なによりもまず、少し遅れるといってクラスが終わる頃に現れたり、来るといって来なかったりのいい加減な態度で、いろいろと時間の都合をつけて教室に来る生徒たちに失礼だし、「代講」をしたときには、生徒は「全然わからなかった」といっているのにご当人は「すごくうまく行った」と自画自賛。なんだこいつ?と思い出したところへ、「推薦状を書いてくれ」と言って来たんだそうな。要するに、英語学校に就職するための「ペーパー」が欲しかっただけということが露見して、これだけは一種の使命感を持ってやっているカレシとしては「バカも休み休み言え」。だけど穏やかに「自分でボランティア教室を立ち上げて実績を作って売り込むのがもっといいだろう」と言ったら、あちらさんは逆ギレのぶっちぎれメールを送ってきたそうな。英語留学ビジネスは、お留学してくる方も、教える方も、どっちもどっちなところがあるのかもしれないな。
今週のMacLean’s誌に、東部のある移民向けの英語教室でスラングを含む「street English」を取り入れているところがあって、ESL教育界で論議を呼んでいるという記事があった。この「street English」と言うのは文字通りの「巷の英語」。つまり、教科書の「純正英語」ではなくて、普通の人が毎日の生活でごく普通に話している、いわば「日常英語」のこと。よく日本人が「日常会話には困らない」と言うときの日常英語よりも範囲がずっと広くて、社会を構成する人たちが家庭や学校、職場、ビジネス、社交その他の生活全体で毎日普通に使っている英語と言ったらいいのかな。BC州政府の3年前の調査では、移民が何よりも一番重要な優先事項だと答えたのは「みんなが話している英語を習得すること」だったとか。学校で教えられる「正しい英語」よりも、スラング表現の「正しい使い方」も含めて「カナダであたりまえの日常生活」を営んで行くための英語をマスターしたい、ひいては「永住する土地に溶け込みたい/受け入れられたい」ということだろう。純正英語ではいつまでも「外国人」のように感じるからかもしれないな。
カレシが英語教室の話をするときによくワタシの英語はどうなの?と聞いてみるけど、「キミのはスラングもボディランゲージもみんな普通のstreet English」なんだそうな。まあ、来た頃はまだ英語圏からの移民が多かったから、今みたいに移民向け無料英語教育なんて親切なサービスはなかったもんな。多少の訛りはあっても、今では訛りのない英語を話す人口の方が希少種になりつつある土地柄なので、誰も気づかないらしい。だけど、外国人相手の語学ビジネスで英語圏で暮らすために学ぶ「ESL」(第二言語としての英語)と、非英語圏に住んでいる人が学ぶ「EFL」(外国語としての英語)を区別していると言う話は聞かないし、政府が無料で移民向けに開講している英語講座も実体はEFLに近いと、たびたび代講を引き受けたカレシは言うから、たぶん英語教師を育成するプログラムもその区別をつけていないのかもしれないな。たかが英語、されど英語。それにしても、クビなった就活先生、ちゃんと就職先が見つかるかな。