リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2008年5月~その2

2008年05月31日 | 昔語り(2006~2013)
ツッパリだったカレシ

5月17日。ゆうべはカレシの母校ブリタニア高校の創立百周年イベントがあった。カレシが卒業したのは1961年度、弟のジムは1962年度。郊外のメープルリッジから出てきたジムと3人で食事をしてから学校でのレセプションに出かけた。チャイナタウンからそう遠くなく、昔から移民が多く住む地区にある学校は、今ではプールやスケートリンクのあるコミュニティセンターを併設した総合施設のようになっているけど、1911年に完成したオリジナルの校舎もまだ使われている。比較的低所得のブルーカラーの地区ではあっても、州の首相や最高裁判所長官を始め、いろんな分野で名を成した人たちを相当な数輩出しているのが多民族都市バンクーバーを代表するようなブリタニア高校なのだ。

この夜のお目当ては年度別「ミニ同窓会」。学校の校舎と言うのは高校も大学も同じで、迷宮のような感じがするから不思議だ。日本のような厳密な組み分けがなくて、課目ごとに教室を移動するもので、殺風景な廊下には細い灰色のロッカーがずらりと並んでいる。アメリカ映画でよく出てくる学校の風景とまったく同じ。ワタシが卒業した日本の高校は1学年の生徒数が500人もいたけど、カレシの「Class of 61」はベビーブーム前の世代だからたったの210人。カレシがつるんでいたのはほとんどが後に地元のテレビ、ラジオ、ステージで活躍して来た人たち。すでに3年後の卒業50周年の同窓会の話が進んでいる。

カレシが同窓生たちと旧交を温めている間、テーブルに置いてあった卒業記念アルバムをめくっていてカレシの写真を見つけた。日本式に言うと早生まれだから、まだ17才だった頃のカレシ!細面で、額に前髪がちょろっとかかっていて、ちらっとカメラから視線を外したところなんぞ、不良っぽいジェームズ・ディーン風。う~ん、なっかなかハンサムじゃないの。ひいき目かもしれないけど、すっごくイケてると思うなあ。でも、写真の横には「クラブにもスポーツチームにも入らなかったけれど、クルマと友だちを乗せることには熱心。将来については特に計画なしとか。がんばれ」と書いてあった。あらら。ちょっと投げやりな感じがしないでもないけど、さびしがり屋なのに集団に取り込まれるのは嫌いというカレシの性格がうかがえるひと言だ。1年を残して中退しようとしたのを夏のアルバイト先の上司に「卒業して来い」と言われて思いとどまった人だから、ほんとうに自分の将来に夢を持てないでいたんだろうなあ。それでツッパリをやっていたのかなあ。

だけど、カレシの家にたむろしていた幼馴染たちの多くが刑務所に行ったという劣悪な環境から、ちゃんと就職して、一念発起して大学を卒業して、華々しくなくてもそれなりのキャリアを積んだし、家庭だって二転三転しながらも落ち着くところに落ち着いたんだし、夢も計画もなかった人生だったとしても、少なくとも負け犬の部類には入らないと思うんだけど、カレシはどう思っているのかなあ・・・。

今夜はバンクーバー随一のスイングバンドの演奏でダンスパーティ。ジムは半年ほどの同棲を解消したばかりのガールフレンドと行くんだそうだけど、カレシは「興味ない」。実は、カレシはダンスが大の苦手。それを名手のパパがからかうのでよけいに嫌いになった。学校などでのダンスパーティにはもてなくて相手がいない女の子を誘って行ったそうな。もてない子なら下手な相手でも文句はいわないという計算だったらしい。でも、キッチンで音楽なしでやる即興的で緩急自在の私たちのダンス、たまにカレシが鼻歌で伴奏したりするけど、呼吸がぴったり合っていると思わない?

汝言葉を殺すなかれ

5月18日。ビクトリアデイの三連休の中日。土曜日は予報をはるかに予想を上回る暑さだった。バンクーバー市の公式記録になる空港での最高気温は27.9度だったそうで、この日の気温としては新記録樹立。真夏だってめったにこんな気温にはならない。この三連休は昔から伝統的に一斉にガーデニングを始めることになっているくらいだから、季節が目に見えて変わる時期でもあるのだろう。それにしても、28度はちょっと暑すぎるなあ。

バンクーバーのイーストサイドで若い黒熊がうろついているのが見つかったとか。さっそく捕獲して山へ送り返したそうだけど、熊が住んでいる山は入江の向こうのノースショア。入江を渡る橋からあまり遠くないところで見つかったと言うことは、夜にでものっそのっそと橋を渡って来たってこと?大学のとなりにある自然公園ではクリークに長いこと姿を消していたビーバーが戻って来たというし、港にはアザラシが住んでいるし、うちのあたりはまだスカンクがうろついているし、ゴルフ場にはまだコヨーテが住み着いている。なんだか野生動物と同居しているようだけど、それだけ自然がたくさんあるということで、喜ぶべきなのかもしれない。

小町で見た「~してあげる」論議。あれ、いつから「あげる」が上から目線の言葉になったんだろうなあ。誰かが指摘しているように、「あげる」は敬語で逆は「やる」でしょ。だって「あげる=上げる」じゃないの。誤用を指摘した人いわく「子供やペット、果ては植物や料理なんかにも「~してあげる」なんて使うようになってきたから感覚が上から目線だと勘違いが起きてるように思うなぁ」。同感だなあ。まず「ら抜き」で敬語を骨抜きにしてしまった後で、ペットや植物やモノを擬人化して「~してあげる」でほっこり、まったりやさしい自分を演出して、今度はやたらとていねいぶった話し方で「お育ちの良いワタシ」を印象付けようというんだから、敬語までが自己中の発想になっている。

上を見て使っていた「あげる」を勝手に下向きに方向転換してしまったもんだから、自分が「見下されている」と感じるようになったんだろう。ここでも被害妄想だなあ。それが転じて、上から目線のえらぶった嫌な人間と思われるのが怖くて、とうとう心を込めて何かを「してあげる」ときの言葉を失ってしまったということか。何かを「してあげる」のは尊大な態度ってことなら、人のために何かをするときは何と言えばいんだろう。言葉がなくなってしまったから、人のために何もしなくなってしまうのかな。言葉の貧しさで心まで荒んでしまうのかな。このままでは日本語は何にでも「お」のぶりっ子語やほっこり語、機械的なマニュアル敬語に乗っ取られて、ワタシが知っている日本人とは似ても似つかない「日本人」が増えたのと同じように、ワタシが知っている日本語とは似ても似つかない言語になってしまうのかもしれない。母語がこのありさまでは、いくら英語、英語と熱を上げても成果が上がらないはずだよなあ。

もちろん、言語は時代を表現するために、時と共に変化する運命にある。言語の本来の機能は情報の伝達だけど、無機質のデータだけが情報なんじゃない。1人の人間が感じること、考えること、願うことも立派な情報で、それをわかり合うことがコミュニケーション。言葉がなくたって人の心は通うんだけれども、心を通わせられなくなった言語は死んだも同然。言語が死ねば、社会も文化も死んでしまう。言葉もなく、社会も文化も失ってしまった民族はいったいどこへ行くんだろう・・・?

そっちの水は甘いかな?

5月19日。突然の真夏陽気も今日は雨でちょっとひと息。でも、前のように寒々とした感じがなくて、空気もとっても爽やかな香りがする。西岸海洋性気候の温帯雨林地域にあるバンクーバーの5月は長い、長い雨期が終わったことを体いっぱいに実感できる季節。家の外ではやっとライラックが満開。この先は暑すぎず、蒸さない快適な、だけどもつかの間の夏。

掲示板で、バンクーバーの水は「軟水で育った日本人には合わないのではないか」と質問している人がいた。ははあ、どうも体調が思わしくないのはバンクーバーの「硬い水」を飲んでいるせいではないかと疑っているらしい。たぶんに、単に「水が合わない」ってことなんじゃないのかなあと思うけど、今どきのニッポン人流の思考だと「合わない=日本は軟水=日本人には合わない水(=NG)」というダメ出しの方向へ行ってしまうらしい。まあ、そりゃ「水が合わない」という慣用表現があるくらいだから、水の質が違うと「ん?」と思うのは当然だろうけど、ここカナダで日本人には合わないといわれてもねえ・・・

水の硬度は、含まれているマグネシウムとカルシウムのイオンを炭酸カルシウムに換算して、1リットルあたり何ミリグラム(mg/L)として表すそうで、硬水、軟水の線引きは国によって異なるらしい。地質の構成が違うし、水源も違うし、何よりもその国で昔から飲んでいる水だから味覚や生理的な反応も違うわけで、つまりはある国では「軟水」なのに同じ硬度の水が別の国では「硬水」ということになっていてもおかしくない。調べてみると、日本の水は硬度が60mg/L以下で、確かに「軟水」であるらしい。これに比べるとヨーロッパはすごい硬水だけど、地質にカルシウムが多い上に、地下水の動きが遅いからだという。逆に日本は島国で山もそう高くないし、川も短いもので、水に溶け込むミネラルが少ない。それで軟水になんだそうな。

質問の主が回答の趣旨を理解したかどうかは別として、実は、バンクーバーの水はけた外れの「軟水」なのだ。それも硬度が約3mg/Lという、「超」が付く軟水だから、裏返して見れば日本の水はきわめて硬いわけ。つまり、質問の主が「水が合わない」と感じるのは消化器系統の働きが不調だからだろう。バンクーバーの水が日本で飲んで育った水に比べるとけた違いに軟水なもので、軽い下剤作用のあるマグネシウムが足りなくて便秘してしまったのかなあ。つらつら考えるに、ヨーロッパの水がカッチーンと滴り落ちそうなほど硬いから、肉食中心の食文化が発達したのかもしれない。フランスあたりのミネラルウォーターは3桁の硬度がふつうだし、レストランでよく出てくるイタリア産のサンペレグリノはあまりにも猛烈な硬水なもので炭酸を加えて飲みやすくしてあると聞いたことがある。逆に、日本の出汁のような微妙な味わいは軟水の方が良いそうだから、日本の繊細な味覚文化は軟水だからこそといえるのかもしれない。そうなると、異国で水が合う、合わないというときには、言語や習慣に対する違和感だけじゃなくて、その土地の水に対する生理的な反応も大きな要素なのかもしれないなあ。

バンクーバーの水が極端な軟水なのは冬の間に背景の山に積もった雪が水源だから。この雪が春になって融けて、山の斜面を流れて貯水池に入る。つまりは地表水なものでミネラル分が溶け込むひまがないから、天水そのままのウルトラ軟水になるわけで、ミネラルがない分どうしようもなく「無味」なわけだけど、肌にやさしいそうだし、石けんや洗剤が盛大に泡立つもので普通の半量で足りて、環境への負荷も半分ですむ。ホタルを誘惑する「甘い水」がどんなものかわからないけど、バンクーバーの水は甘いのかな?

閑話して動物図鑑

5月20日。早すぎる夏にひと息の雨も上がって、爽やか。ゆうべ(というよりは早朝に)突然ゴロゴロ~ドド~ンと雷。それもたったの1度きりで雨も降らずにおしまいだったけど、どこかで紙製品会社の野積みの紙の山に落雷して、ずぶ濡れになっていたのにもかかわらず、一瞬の間にまっ黒焦げになってしまったたそうな。バンクーバーでは統計的に雷が鳴るのは1年に3回くらいだと聞いたことがあるけど、この頃は真冬に鳴ったりするし、回数もちょっと増えているような気もする。これも気候変動なのかなあ。

それほど忙しいわけじゃないのに、明日、明日と先延ばししているうちに、とうとう冷蔵庫の野菜入れが空っぽ。英語教室帰りのカレシとモールで待ち合わせて野菜の買出し。何となく値上がりを感じる。品揃えもちょっぴり少ないような。まだ地物は早いから、やっぱり燃料費の高騰が響いているんだろう。スーパーでは魚がスペシャルだったので、サーモンとスナッパーのファミリーパックを買った。二人なら二回分の量だから、小分けしてフリーザーに備蓄。

ここのところは半日ですむような小さい仕事がちょこちょこと入ってくる。こういうペースものんびりやれていいんだけど、ずっとこの調子というのも生活に影響するから考えもの。そういうときに限って3年も前に仕事を引き受けたところから「ごぶさたしています」なんて言って穴埋め仕事が入ってくるからおもしろい。なんというタイミング。ところが、製造機械の説明書なんだけど、どうも変な日本語。ヨーロッパあたりで作成された「外国語なまり」の変な英語は見慣れているけど、これはもろに「外国語なまり」の日本語で、日本語が作者にとって母語でないのは一目瞭然。まあ、少子化で労働力不足になって、もっと外国人を雇用するようになったら、こういう日本語の文書も増えるだろうなあ。

夜のローカルニュースで、バンクーバー島で生息していないはずのグリズリーに遭遇して、命からがら逃げた人がいると報じていた。グリズリーは北海道に住むヒグマの親戚で、獰猛なことで知られている。バンクーバー近郊でもたまに出没することがあるけど、海峡を隔てたバンクーバー島には生息していた記録がないんだそうな。それが最近になって3度も人間と遭遇しているという。どうやら海峡の一番狭いところを泳いで渡って、住みついたらしい。グリズリーはどたっとした図体に似合わず遠泳選手なのだ。BC州にはグリズリーや黒熊の他に、先住民がスピリットベアと呼んでいる白い熊がいる。少しオレンジがかった白なんだけど、白熊ではなくて黒熊の一種だそうで、めったに人目に触れないから「幻の熊」と言われ、なかなか神秘的な風格がある。

日本在住外国人が日本のニュースと映像を載せているあるサイトに、バトントワーリングをする黒熊のビデオがアップされていた。広島の動物園にいる熊だそうで、棒切れを回して遊んでいたのがあんまり上手なもんだから、地元の広島カープが野球のバットをプレゼントしたとか。おすわりした熊君、両手で実に器用にバットを回してみせる。いやあ、クラウド君、これぞ究極の「熊手」だよねえ!

郊外のピットメドウズというところでは、この1週間ほどラマがうろついて農家の畑を荒らしているとか。えっと、ラマってのは南米のアンデスのあたりにいるラクダの弟分みたいなあれだよね。それがなんで地球の反対側にいるんだろう。誰かのペットだったのが逃げ出したのかもしれないけど、捜索願は出ていないらしい。テレビに映ったラマ君は、おちょぼ口風でちょっぴり人を食ったような顔つきなのがすごくかわいい。引き取ってくれる農場が見つかれば捕獲に乗り出すそうだけど、とっても大きなつぶら目が「さみしいよ~」といいたげに見えたのは、ふるさとアンデス山脈の空が恋しいのかもしれないなあ。

バベルの塔の後日譚

5月21日。変てこな日本語の仕事を完了して納品。これでまた遊びモードになるのかな、こんどこそ何かしようかな、なんて漠たる期待をかけていたら、待ってました~とばかりに仕事が、それも2つも降って来てしまった。また週末営業かあ、とちょっぴりぼやき調で言ってはみるけど、ご隠居のカレシと在宅稼業のワタシのコンビではもともと週末もへったくれもないもんで、ぼやき甲斐もないか。

言語と言うのはどこの民族のものでもおもしろいもんだなあと思う。何かにつけて互いにあさっての方を見ているような日本語と英語の間に挟まっていると、二歳児よろしく「どうして~?」の連発。ほんとうに、言い方の違い、考え方の違いはどこから来るんだろう。文法が違うから?文化が違うから?歴史が違うから?環境が違うから?いくら考えてもわからない。考えれば考えるほど「どうして?」が増えてしまって、しまいには、日本語だけで育ったワタシが、どうして英語でやっていけてるんだろうなあなんて考える。毎日使う「主言語」が入れ替わってしまったら、その人の性格まで変わるんだろうか・・・

世界中のどこへ行ってもバイリンガルであれば翻訳や通訳をやれるというのが通説になっているような観がある。まあ、言語Aの趣旨を言語Bに置き換えるのが翻訳というイメージなんだろう。だけど、同じ語族に属する言語同士ならまだしも、インド・ヨーロッパ語族の英語と、ウラル・アルタイ語族に点線でつながっている(つまりどこから来たのかわかっていない)多い日本語だと、「置き換える」なんて芸当はできない。何しろ英語はSVO言語、日本語はSOV言語だから、前者では「結論を急ごう」、後者では「~というわけで、とどのつまりが~」という思考の流れになる。前者は狩猟民族、後者は農耕民族に多いと言われると、なるほどと思う。でも、ほんとにそうなのかなあ。

というのも、インドヨーロッパ語族の重鎮みたいなラテン語はSOV言語なのだ。ラテン語をかじり始めて初めて知ってびっくりした。なぜって、ラテン語から生まれたイタリア語はSVO言語だし、ヨーロッパ系の他の言語も原則的にSVOになっている。ラテン語が生まれたのは今のローマ地方だそうだけど、古代ラテン人は農耕民族だったのかなあ。いったい全体いつどこでどうして語順がSOVからSVOにひっくり返ったんだろうなあ。この「結論を急ごう型」思考から「結論先送り型」思考への方向転換は単なる頭の切り替えではすまない大事件だと思うんだけど、いったい何が起こったんだろう。おかげで後代の王侯貴族の息子たちが語順の違うラテン語の勉強に頭を悩ますようになったとしたら、今の日本の子供が英語の勉強で悩むのと似ている。ラテン語が今も国際語だったら、日本人は得したかもしれないなあ。

言語の勉強で思い出すのが高校時代に大好きだった漢文。「白髪三千丈」なんて、今どき風に言えば「ええ、マジで~?」と笑っていたくらいだから、漢詩に感激したというわけでもなさそうなのに、なぜか大好きだったのは「中国語」がわかったからかもしれない。中国語はSVO言語なので、日本人は読む順序を示す返り点を使って漢文を読んできた。返り点を使わないで読むのを素読といって、ワタシはなぜか夏休みの前にそれができるようになって先生を驚かせた。ただし、想像上の返り点を追って読んでいたわけで、中国語を読めたのではない。でも、ひょっとしたらワタシの脳みそのどこかにSVO言語に共鳴する配線があったのかもしれない。そのおかげで英語の習得が楽だったとしたら何て幸運。それでも、こうやって書いている日本語はしっかりSOV型思考になっていると思うんだけど・・・

木曜と金曜のすきま

5月22日。英語教室に出かけるカレシ。いつもの通り、のんびりしていると思うと急に「遅刻だ、遅刻!」と騒ぎ出すから、こっちは朝から爆笑モード。目の前に大きな時計がかかってるのに。ほんとうに呆れるほど「我を忘れる」人だなあ。ま、ワタシのことさえ忘れなければいっか。なんてのんきに考えていたら、今度は靴箱が開かないという。とりあえず無理に開けて靴を出してカレシを送り出してから、あちこち点検。どうも手前に引き倒すようになっている引出しの下端が下の引出しの上端に引っかかるのが原因らしい。今までそんなことなかったけど、安いアジア製の家具は十分に乾燥していない木を使っていると見えて、暖房などで乾燥した家に置くとすぐに狂いが出てくる。まあ、手が空いたらやすりをかけてステインして修理するか。ああ、また雑用リストに項目が増えちゃった~。

小町に並ぶ書き込みのように、厳密に家事の分担を決めたら家の中のことがもっと片付くんだろうか。共働きだから半々にとか、稼ぎの少ない方が分担を多くすべきだとか、まるで算数をやっているようで、カノジョたちはすごいと思う。そんなにかっちり分けてできるのかどうかとなると、何度もトピックが上がるところを見れば、そうは問屋が卸していないことは一目瞭然。家事分担を稼ぎの多寡によって決めるという発想は「損したくない」思考から来るのかもしれないけど、その公式で計算したらカレシの方がワタシの二倍の家事をしなきゃならなくなる勘定。あはは、そりゃあ逆立ちしたって無理ってもの。もっとも、カレシは二人が食べる野菜を育てる庭仕事も「家事」のうちに入ると思っているらしいけど・・・

午後5時が期限の仕事に没頭していて、帰ってきたカレシが「今日のディナーはなに?」と聞くまで夕食のことをすっかり忘れていた。ああ、フリーザーから何にも出してな~い!「じゃ、パスタ食べたい」。というわけで急遽パスタを作ることにした。フリーザーをかき回して見つけたのがイカとタコとムール貝とエビ。これに去年カレシが作ったトマトソースでペスカトーレと行こう。パスタ作りも慣れるとけっこう簡単。お皿いっぱいの自家製パスタに、細く切った野菜にとっておきのバルサミコ酢をかけたサラダに、ワイン。ああ、満腹。頭がとろんとして次の仕事の算段が進まない。もう今日はサボって明日にしようと思っていると、「お願いしま~す」と飛び込み。あ~あ。いつもながらこの時間は鬼門。そうか、日本ではもう金曜日の午後なんだ。

それでもやっぱり今夜はサボることにして、カレシの提案でお風呂。午前12時。庭仕事をして汗をかいた背中を垢すりでごしごしこすってあげる。ごたごたしていた頃にいやがるカレシを説き伏せて始めたのがこの「ふたり風呂」。今ではどっちも1人で風呂に入ることはめったになくなった。向き合ってバスタブに入ると、カレシはいつも最初にワタシの足を洗ってくれる。聖書にでて来るイエスが弟子の足を洗った話を思い出して、何か特別な意味があるのかなあと思ったりするけど、家の中を素足で歩き回って汚れた足の裏をこすってもらうとなんともいい気持。(ときたまの「こちょこちょ」はよけいだけど。)60代の夫婦がいっしょに風呂に入ってキャッキャと遊んでいるなんて図ははたから見たらコメディにもならないかもしれないけど、夫婦は究極の裸の付き合いだもんね。30年もかけてここに到達した私たちだし、二人っきりのワタシなんだし、二人っきりの私たちなんだし、だから、好きなだけ楽しんで、垢を落とせばいいよね。

極楽とんぼは迷走中

5月23日。どうしたことか、今日はほぼ午後1時起き。カレシがそれだけよく眠ったということなんだけど、ワタシもかなりぐっすり眠れた気がする。ここのところ、カレシは夕食が終わった後リクライナーにだら~っと伸びて、テレビを見ながら眠ってしまっていた。おかげで、眠くならないといっていつもよりずっと遅くまでコンピュータの前に座り込んでしまう。ご隠居の身なんだからいいんだけど、英語教室のある日だけは朝10時45分に目覚ましがなるもので、寝不足に弱いカレシは起きたとたんから「疲れた~」ということになってしまうから困る。

今の英語教室をいったん「終了」にして、夏の間は少人数の「会話教室」、秋からは初級向けの教室と働いている人向けに夜の教室を始めようと言う計画が進んでいて、ネイバーフッドハウス側は大いに乗り気でスペースの確保を約束してくれているそうな。だけど、カレシはそういった折衝をやるのは大の苦手だから、いくら相手が協力的であっても相当なストレスになるらしい。昔のようにぶっちぎれることで解消するわけにもいかないからよけいに疲れるんだろうけど、まあ、キレないでいるということは心が成長したということだろうなあ。自分で考えて対処しなければならないことがいろいろと起きるのが人生というものだし、教科書から得た知識とか資格という紙さえあれば対処できるというわけでもない。だいたい、人生何級なんていう資格なんかないから、ひたすら経験から学ぶしかないもんなあ。

東京へ行ったとき、ワタシは大学の教科書を抱えていた。レポートを出して、試験を受けるまであと2ヵ月半しかないのに、まだ1本もレポートを書いていない。勉強はぼちぼちとやっているし、おもしろいと思う。だけど、どうもカリキュラムに沿ってやること自体がめんどうくさいようなところがある。それで、東京のホテルで夜1人になったときにやろうと考えたわけだけど、甘かったなあ。コニャックのグラスを片手に新宿の灯を眺めながらだから、旅行先には必ず持参する雑記ノートにごちゃごちゃと思うがままに書き連ねてばかり。もっとも、書いてあることはブログと同じで客観的に読み返して自分なりに得るところがあるから、ムダではないんだけど・・・

仕事に関しては「高卒」という今どきありえない(らしい)学歴で20年も十二分にやってきたから、今さら大学卒も何もないはずなのに、学位を取ることに何の意味があるんだろう。そもそも何で大学の勉強をしようと思い立ったんだろう。こうして考えあぐねてしまうのも、東京のホテルでひとりですごした1週間のどこかで、もっと勉強をしてからと抑えていた「書く」ことへの衝動が沸々とわいて来て、それがしだいに膨らんできているからだろう。小説を書きたい。芝居も書きたい。絵も描きたい。還暦と言う節目だからこそ、卒業するまで悠長に待ってられない気持になって来たのかもしれない。だって、人生は無限ではないんだもの。あと何年あるのかわからないけど、少なくとも若かった頃の茫洋としたものではないことだけは確かなのだ。

自分の中にある物語を書き出したくて、あちこち創作講座をつまみ食いしているうちに、系統立てて勉強したいと思った。で、どうせなら動機付けのつもりで学位をめざそうと・・・このあたりが甘かったのかなあ。元から決められた順序でやるのがストレスになるワタシには、系統立った勉強自体が向いていなかったのかもしれない。大学で勉強することへの憧れもあったと思うし、子供の頃から持ち続けてきた作家になる夢を捨てられなくて、土台になる教養を得たいと思ったのも確か。でも、どっちにしろ、いやに漠然とした動機だなあ。さすがは極楽とんぼだ、といいたいところだけど、ちとまずいよなあ。考えてみなきゃ・・・

仮想的有能グルメ批評家

5月24日。土曜日。またまた午後1時近くになってのお目覚め。何だか二人して眠り猫になったような。急に気候が変わったせいで、ひょっとしたら自律神経失調症みたいなことになっているのかなあ。そういえば、どうもなんとなくもわ~んとした気分が続いている。ああ、今日はまた暑くなりそうな予感が・・・

午後5時すぎにディナーにおでかけ。外の気温はまだ20度くらいある。何を着て行こうかと迷ったあげく、えいっとばかりにお気に入りのスリーブレスのミニのドレスにした。素足にヒールで、これじゃあ真夏の装い。日が傾いたら涼しくなるかと思ってジャケットを用意したけど、日没は午後9時頃。食事を終えて家に帰っている時間。着て歩いていたらやっぱりちょっと暑かった。土曜日とあって、ダウンタウンには夏の服装の若い人たちがあふれている。その中を「重装備」で歩いているのはアジアの英語留学生かワーホリ組だろう。そうでなくてもファッションの違いからファッション音痴にもすぐに見分けられるんだけど、スリーブレスで闊歩している人たちの間で長袖で猫背でとろとろと歩いているとよけいに目だってしまう。この人たちにとっては気温20度はまだ寒い部類に入るのかなあ。

お気に入りのLe Crocodileはバレンタインデイ以来のお久しぶり。いつものように早い時間だけどもうかなりの入り。今日はうまくピエールさんのテーブルに当たった。この人はパリのビストロのウェイターを絵に描いたような人で、ユーモアのセンスがまたいかにもフランス人。年の頃は40代だろうか。こういう「高級」のうちに入るレストランなら、ウェイターといっても時給はかなり高いし、チップも相当な額だろうから、フルタイムの「職業」として成り立つ。だから、アルバイトでもかなりの経験を積んだ、いうなればキャリアのはしごを登ってきたような人が多い。

食前酒はお気に入りの冷えたリレ。カレシはタルタルステーキの前菜に牛ヒレ肉のステーキと、牛づくし。ワタシは鴨のフォアグラとウズラの前菜にラムのもも肉。ここの料理はいつ行ってもばらつきがないからすばらしい。テーブルが次々と埋まって行くのを見ながら、ローカル掲示板に「カナダのレストランはレベルが低い」と書き込んだ人がいて吹き出しちゃったと言ったら、「日本人は何でもかんでも比べては上だ、下だとランク付けしたがるねえ。マクドナルドはどこへ行っても同じじゃないかなあ」とカレシ。ワタシはまたまた吹き出してしまった。トピックの主は東京の「高級レストラン」を引き合いに出して「カナダの外食はクズ」といっているんだけど。カレシいわく、「なるほど、だから日本人は見ないんだ」。

ワタシが笑ってしまったのは書き込みがいかにも今どきの若者の「仮想的有能感」の発露という印象だったから。だって、考えてもごらんなさいよ。フリーターだの派遣だのをやっている20代か30そこその若い人に東京の「お一人様3万円から」とかいう高級レストランに入るお金があるとは思えないし、カナダに来たってワーホリや英語留学じゃ高級レストランに出入りする余裕なんかなさそうだし、つまり、優劣をつけられるほどの経験は限りなくゼロに近いはず。まあ、この掲示板の住人は想像力には乏しいけど、「仮想的有能感」だけは人一倍。馬脚丸出しのトピックを立てて笑わせてくれるのはいいけど、現実には日本の未来が思いやられないでもないなあ。まあ、よその国のことなんだけど・・・

4本の右足の謎

5月25日。ついにこれで4本目!何がなにやら、謎は深まるばかり。事実は小説より奇なりというけど、ほんとうに二十一世紀の怪。もうトワイライトゾーンの領域に入ったと言われるのが「スニーカーを履いた右足」の謎なのだ。最初の発見は去年の8月。バンクーバー島と本土の間のジョージア海峡に点在するガルフ諸島のひとつで、ビーチに打ち上げられた人間の足が発見された。スニーカーを履いた右足。ボートの事故で行方不明になっている人のものではないかと憶測しているうちに、わずか6日後、別の島でもう1本の足が見つかった。最初のと同じサイズ12のスニーカーを履いた右足。事故か、事件か・・・?

そして今年2月。同じガルフ諸島の別の島で3本目の右足が見つかって、世間の注目を集めることに。海中の死体は分解の過程で関節が外れてバラバラになるのだそうで、軽いスニーカーは海面に浮いて、やがて潮流に乗って遠く何千キロも運ばれることがあるという。だから、3本の右足がどこから来たのかわからない。ジョージア海峡のどこかかもしれないし、遠くアラスカやロシア、ハワイ、あるいは太平洋の向こう側の日本かもしれない。それにしても、どうして右足ばかりが打ち上げられるんだろう。それも同じようにスニーカーを履いたままで、しかも数ヶ月の短い期間(最初の2つは1週間以内だった)にわずか数十キロの範囲で3本も発見・・・。「スニーカーを履いた右足」の謎は深まるばかり。

そして先週。バンクーバーのすぐ南にある小さな島のビーチでまたまた人間の足が見つかった。誰もが直感したとおり、スニーカーを履いたままの右足。これで、10ヶ月の間に100キロの範囲で発見された「右足」は4本目。フレーザー川の河口だけど、ジョージア海峡から流れて来たことは大いに考えられるそうな。海峡の北の方では、3年前に小型飛行機が海に墜落する事故があり、乗っていた4人が行方不明になっていることから、遺族がすでにDNA鑑定のためのサンプルを提出したそうだ。墜落事故が解決すればそれにこしたことはないけど、どうして右足ばかりなのか。こればかりは永久に解明されることがないかもしれないなあ。

人間は生来ミステリー好きだ。ある意味で動物的な好奇心があるんだと思う。何となく不思議なことや、大々的に喧伝される「謎の何とか」に興味を引かれる。その「不思議だな」という気持が「どうして?」になって、それに答が見つからないと落ち着かないから、「どうして、どうして」と考えているうちに文明の発達が促されたのかもしれないけど、宗教の教義のように「そういうことなんだから、つべこべいうな」というような答の出し方をされると、人間は思考をやめて、進歩はそこで止まってしまう。ネットにあらゆる情報が溢れる時代には、情報に飽食した人間が考えることをやめつつあるように見える。それとこれは別かもしれないけど、1本、また1本と登場する「スニーカーを履いた右足」はぼっと熱しては急速冷却する現代人のお尻を「もっと謎を追究しろ。もっと考えろ」と蹴っ飛ばしているように思えるんだけど・・・

拝啓ニッポン様

5月27日。あ~あ、ちょこちょこと所要時間30分ほどの小さい仕事をねじ込まれているうちに、10日も前から懸案だった放射線がどうのこうのという仕事の方がぎりぎりになって、就寝時間までねじり鉢巻。世界には「何とか学」と名のつく「学問」が尽きることなくあるらしく、それがみんな「何とか学会」というのを持っていて、みんな「Journal
of 何とか」という機関誌があって、毎年のように世界のあちこちで会議を開いているわけで、ふ~ん、人間はこうやって知識を蓄えて、霊長類のトップにのし上がってきたのか、なんて変なことを考えながら、無事に送信してベッドに入ったらなんだか変てこな夢が2本立て・・・。

めずらしくBBCやCNNでも注目を集めた日本発ニュースに、成田国際空港税関のドラッグ紛失事件がある。ドラッグを嗅ぎだす犬の訓練中、職員が到着便の一般乗客のスーツケースに訓練用のハシシを隠したところ、犬はそれを嗅ぎ出せず、職員もどのスースケースだったか覚えていなくて、結局「紛失」と報告。一般乗客の手荷物を訓練に使うのは規則違反だそうだけど、当の職員は「違反はわかっていたけど、犬の検知能力を向上させたくて」、適当に選んだスーツケースの外ポケットに入れたんだそうな。どうやら、乗客の入国管理カードの日本での連絡先を片っ端から当たって、スーツケースの主が東京のホテルに入った外国人とわかり、ドラッグは無事に税関に戻って一件落着とか。だけど、決まったように雁首そろえて最敬礼して「深~く陳謝」するお偉いさん連中の写真を見て、日本の人はこの手の写真を見飽きることがないんだろうかと不思議に思った。たしかに「謝罪」してはいるんだけど・・・

そういえば日本人の掲示板でよくアメリカ人/カナダ人は「絶対に謝らない」という批判をよく見かける。傲慢だ、非礼だと非難しているわけ。たしかに、日本人は何かあるととにかくまず「謝罪ありき」だけど、ほんとうに謝っているのかなあ。んなことないだろうなあ。ありえないよなあ。不祥事があるたびに見る、「いち、にぃの、さん、ゴメンナサ~イ」みたいな謝罪風景を見るたびに、日本人が「礼儀正しさ」の証拠として持ち出す「謝る」という行為は実は「貴下益々ご清祥のこととお喜び申し上げます」とやるのと同じようなことではないかという印象が強くなる。北米人だって謝るべきときには謝る、でも、それは問題を見直して自分に非があると思うからであって、自分に非がなければ謝る必要はないと考える。つまり、謝ることは(ひとつ学んで)次への「出発点」とも言えると思う。

逆に日本人の場合は謝るという行為が「終点」であるように見える。何が問題なのかを見ずに、とにかく謝ってしまう。そして「こっちは謝ったんだから、いつまでも水に流さないのは器が小さい」などと相手に矛先を向けてしまうから、学べたはずの教訓も水に流されておしまい。定型化されたような謝罪風景を見るたびに、あれは誠意だのなんだのと言うけれど、所詮はうわっ面を飾って「本質」を隠蔽してしまう「包み紙文化」の象徴のようだなあと思う。あれも「敗者の美学」なのかもしれない。「負けるが勝ち」の理屈であれば、その後は「喉元過ぎれば熱さ忘れる」。たぶん、これからも責任者(!)がカメラの放列の前でやってみせる「いち、にの、さんで、ゴメンナサ~イ」の(マニュアル)パフォーマンスがあたりまえのように繰り返されるんだろうなあ。よく飽きないなあと思うけど・・・

ところで、とんまな成田税関の人たちはスーツケースの持ち主の外国人に土下座して謝ったのかなあ。もしもドラッグをスーツケースに入れられたのを知らないまま持っていて、他の国で発見されていたら、この人の人生を狂わせたかもしれないし、行く先によっては生命の危険があったかもしれないんだから。持ち主が日本人だったら土下座ものなんだろうけど、なにしろ外国人だから、「So sorry!」で済ませて、「謝まったから、これで一件落着だ」と、飲み会でさっぱり水に流して厄落とし・・・というシナリオかなあ。おお、こわっ!

なべとやかんが

5月28日。今日は何と午前8時に起床。いつもならまだいびきをかいている「丑三つ時」の感覚なんだけど、何しろカレシが政府のプログラムとして公的な資金でやっている新移民向け英語教室の代講を、それも午前と午後の2つも引き受けてきてしまったもので、臨時の早起きとなったしだい。何年ぶりかでランチバッグを引っ張り出して来て、カップヌードル、コーヒー、バナナ、オートミールクッキーを自分で詰めておでかけ。ワタシは今夜が期限の仕事にかかる。こんなに朝早くから仕事なんて何年ぶりかなあ。お昼になっておなかが空いて、「あ、ランチタイムだ!」いつもならブレックファストなんだけどなあ。めんどうだから刻みネギを散らしただけのインスタントラーメン。だけど、お昼のニュースを見ながらのひとりランチなんて、ほんとに何年ぶりだろう。

ランチの後はちょっと休憩。かっては『刑事コロンボ』とか、ピアース・ブロズナンがカッコよかった『探偵レミントン・スティール』なんかの再放送をよく見たっけ。「コロンボ」は同じエピソードを何回見たかなあ。でも、何チャンネルだったか忘れてしまったし、チャンネルを変えて探すのもめんどうだし、電子レンジで温めた朝の残りのコーヒーを片手にちょっこし掲示板を眺めてみる。いやはや、悩める人が多いなあ。日本でもカナダでも。悩みのトップはやっぱり「人間関係」らしい。もともと決まりごとが多すぎてめんどうくさいところへ、バブル宴の後はやたらと自分の周りに塀をめぐらせている人が多いと見えて、相手の壁にぶつかった、塀の上から覗かれたと大変。「Good fences make good neighbors」と言ったのはフロストだったかな。要するに、お互いの間に適当な垣根があるとお付き合いがうまく行くということで、日本の「親しき仲にも礼儀あり」があてはまるんだろうか。

でも、この場合の「垣根」というのは頭上高くそびえる石壁じゃなくて、互いの顔が見えて、手を触れ合うことができるくらいの高さで、心理学でいう「自分」の領域の「境界線」。つまり、垣根をはさんでお互いに独立した一個の人間として認識することだと思うんだけど、自分と言うものがないと、どこにこの垣根があるのかわからない。寄りかかる垣根がないと、どこまで相手に近づいていいのかわからないし、どこから先が相手の領域なのかもわからないから、他人を別の人格として見ることができない。あくまでも自分の垣根だけど、高すぎても低すぎてもいけない。(モラハラ人間は垣根の高さにかかわらず壊してでも侵入して来るけど。)まあ、自分の目に見えないものだから、その高さを測るのは難しいんだけど。

若い世代のモラルやマナーの低下を嘆いたトピック。さっそく「若い人だけじゃない。年寄りだって~」と(若い人から)反発が来る。これもよく見るパターンで、(おそらくは自分に思い当たることがある)何かに批判的なコメントがあると「~だって○○」、「~こそ○○」と来るからおもしろい。ローカルの掲示板だと、「日本人は~」に対して「カナダ人(○○人)だって~」となる。きのうの「謝る/謝らない」の思考と同じで、「~だって」、「~こそ」と痛い矛先を相手に向けて自分を安全圏に置こうという戦法らしい。これをワタシは勝手に「砂場の論法」と呼んでいるけど、日本人の掲示板に必ず登場する。「The pot calls the kettle black」というやつで、なべもやかんも、どっちもお尻はまっくろけ~

お金のなる木の話

5月29日。どよ~んとして少し涼しい木曜日。英語教室から帰ってきたカレシ、「イェ~イ、ウィークエンドだ!」 そうねえ、今週は3日連続のレッスンで、それもきのうは1日中だったもんね。どうもお疲れさまでした。まあ、水曜日の代講はいつもの調子でノーと言いたくないから(気は進まないけど)イエスといったような感じもするけど、それはそれでカレシの性格だからしょうがない。くたびれるとか何とか、ぶつぶつ言いながら、それでもけっこう張り切っていそいそとおでかけだったけど・・・

ときどき代講を頼まれるELSAというのは、政府がお金を出して資格のある教師が教える新移民用の無料の英語教室なもので、代講教師にも相応の時給が出る。だいたい1時間25ドルが相場らしいけど、つむじ曲がりのカレシは「金はいらない」と断ったそうな。でも、それでは政府に請求するのに困る。カレシは「いらないよ」と頑固一徹。「へたに収入があると累進税率が上がる」という、まあ現実味のある理由なのもので、だったら、とワタシの頭に閃いたのが、社会福祉団体のネイバーフッドハウスへなら寄付金は税額控除の対象になるということ。「一応受け取ったことにして支払明細をもらい、その金額を寄付したことにして領収書を出してもらえばいい」ということで交渉したら、すんなりその線でまとまったらしい。ついでに「寄付」はカレシの夏の会話教室に来る生徒が払う「会費」に当てることになった。会費は1ヵ月いくらで受講生が何人だからほぼ同額になる、と。これで夏の教室に来る生徒はすっぽりただになったわけで、みんなまあるく納まってシャンシャン。カレシて、けっこう交渉上手じゃん!

お金のことになると、昔も今も悩みも話題も浜の真砂で、とにかく悲喜こもごも。どうも人類はお金というものができて以来狂騒して、踊って、やがて滅びる悲しい運命を背負わされたのかもなあなんて思ってみたりする。ほんとのところはわからない。ワタシはお金は嫌いじゃないし、卑しいとも思わないし、なくても何とかなるだろうけど、ないよりはあった方がずっといい。ロトで大当たりしたらなおいいけど、現実には当たりそうにないので、セカンドベスト?を選択して、まじめに仕事をして地道に稼いでいる。その結果、ひとりで生きていくのに十分で、ちょっと贅沢を楽しめるくらいの生計を立てて来た。もちろん、たまにはくたびれるなあと思うけど、それが自分の性に合った生き方のように思えるから文句は言いっこなし。

だからというわけでもないけど、カナダ人の王子様の財政状態について悩んでいるニッポンのお姫様に「カナダ人って本当にお金にだらしがない人が多いですから。 幸せな結婚生活にお金は不可欠です」と諭す人がいると、「ははあ、ブームに乗ってそういう男を捕まえちゃったんだな」とイジワルなことを想像してしまう。たまたま自分の旦那がお金にだらしないってことだろうに、結婚して何年カナダで暮らしているのか知らないけど、自分の夫のことなのに未だに「カナダ人」とひとくくりにして見ているらしいからおもしろい。カナダ人夫を「旦那」と呼び捨てる人に限って結婚に幻滅しているらしいのもおもろしいし、描き出される「旦那」が、その性格といい、性癖といい、みんな同じ男と結婚しているように見えるのはけっさくで、意味深長。それで「離婚したら旦那からどれくらいもらえるのか」と来れば、「最初も最後も金ありき」かとイジワルなタメイキ。カレシの夢を壊して悪いけど、もう見込みはないような・・・

ブログ鏡に映るのは

5月30日。降るのか、降らないのか早く決めてくれ~といいたいような朝。月曜日以来のゆっくりだから目玉焼きとソーセージの朝食。どうやら雨は降らないことになったらしく、青空が広がるのを見たカレシは庭へ出てひと仕事。ワタシはど~しよ~かなあと思案しつつダラダラの午後。仕事はあるにはあるけど、期限は日曜の午後。土曜の夜にささっとできそうな量だ思うとサボり心が出てくる。いかんなあ・・・

だれた気分で小町のトピックのタイトル一覧を眺めていたら、「あれ、いつか見たような」というタイトルがあって、開けてみたらやっぱり去年の夏に盛り上がったやつだ。忘れられた頃に古いトピックと知らずに書き込む人もいるから、と新しい書き込みを見たらトピックの主その人で、なんだか知らないけど、海外から帰国した「傲慢な友人」に対する愚痴の蒸し返し。ありゃりゃ。1年も経って、自分の心理を分析するふりをして相手のことを微に入り細に入り、それも文字数制限があるから何回にも分けて並べ立てて、結局は彼女の威圧的な優越感の「負のオーラ」に刺激されてしまったんだと。いやあ、「自分は平凡な暮らしに満足しているから」といいながらの、この異常な執着は何なんだろうなあ。メラメラと燃え続ける嫉妬に耐え切れなくなって、自分に「満足、満足、チチンプイプイ」とおまじないをかけているのか・・・

自分のブログで「ワタシはワタシ!」と書けばいいのいというアドバイスがあった。ほんと、ブログは自己分析に役に立ちますよ~と、トピックの主におススメしたいところだけど、ま、聞く耳は持っていなさそうかなあ。日本人のブログには「○○の何とか日記」というようなタイトルが多いそうな。日本の日記文学は思ったようにモノを言えない文化の中で鬱積した気持を吐き出す手段として発達したらしい。だから、自分の日々の暮らしや、徒然なるままの雑念を、誰に読んでもらうでもなく書いている人たちがたくさんいるということで、言い換えれば、ブログで「王様の耳はロバの耳」と書いてガス抜きをしているとようなもの。もし、トピックの主があの思いのたけをブログに書いたとしたら、鏡にはどんなイメージが映るのかな。

このブログだってワタシにはけっこうガス抜きになっているけど、ここでぶつぶつ書いていることをローカル掲示板に書き込んだら核戦争は必至。だけど、自分が書いたものを次の日に「第三者」の目で読むと、「こんなこと言っちゃって、何様なんだか」と失笑したり、「あちゃ、考えてることが支離滅裂だ、この人」と突っ込んだり、「あんたってこだわる人だねえ」なんて仮想コメントして、それにまた仮想コメントしたり、ちょっとした体外離脱体験のようで、ブログはワタシ自身を映して見る「鏡」でもある。大きな姿見だったり、三面鏡だったり、メーク用の拡大鏡だったりするけど、そこに映る「ワタシ」はというと、鈍感なようで繊細なようだし、まめなようでいい加減なようだし、陽性のようで陰性のようだし、自力本願のようで他力本願のようだし・・・まあ、人並みに矛盾を抱えた人間に見える。あっちへスイ、こっちへスイの極楽とんぼだって決して自動操縦モードで風まかせってわけじゃないってことで、そこがいいとろこなんだよなあ。

戸籍、されど戸籍

5月31日。週末といっても年中在宅の二人には特別な日じゃなくなったもので、周囲が何となく静かなもので「あ、週末か」とナットクするようになった。週末が週末だった頃には二人とも何をやっていたんだろう。それは「何」によるんだけど、ワタシにも週末という区分があったのは(つまり勤めていた頃は)もう20年近くも前のこと。ふむ、何をやっていたんだろうなあ。思い出せるのは洗濯と掃除とアイロンかけと料理と後片付け。なんだかそれだけで週末が暮れたような気もするなあ。ワタシがたまった家事を片付けている間、頼んでもほとんど手伝わなかったカレシはいったい何をやってたんだろう。

それよりも、最初の25年の結婚生活の記憶に二人で「いっしょ」にやっていたことを思い出せないのがさびしい。共働きであっても残業があったわけでもなく、子育てがあったわけでもないのに、二人一緒の時間があったはずなのに、覚えていないのか、思い出せないのか、いったい何をしていたんだろうなあ。だから、離婚話のときに言ってしまったんだろうなあ、「ひとりぼっちの結婚生活なんて意味がない」と。あのあたりからだったかなあ、カレシが「夫業」に取り組むようになったのは。まあ、最初のうちは「手伝いさえすればオンナノコと遊ばせてもらえるだろう」という魂胆だったらしいけど、「うちは母子家庭じゃないんだよ!」と一蹴されて、少しは頭を冷やして考えてくれたんだろうと思う。うん・・・

最初の25年間のことは思い出そうとしても思い出せないのに、離婚の寸前まで行った2年間の記憶がまだ鮮明に蘇ってくるのが切ないところだけど、二人がその気になればものの弾みでだってできてしまう結婚と違って、それを「UNDO」するだけが離婚じゃないからなあ。そんなことを考えるのも、日本には離婚後300日以内に生まれた子供は有無を言わせず「元夫」の子供と見なされるという法律があって、その法律のおかげで無戸籍のまま育った女性が出産したけれど、その子供も無戸籍になりそうというニュースに唖然としてしまったから。日本では女性だけが離婚後100日経たなければ再婚できないという。妊娠していた場合にどっちの男の子供かわからないからという理屈らしいけど、300日の規定の方は、離婚前に夫の子供を妊娠したと見なすということらしい。

あのですねえ、離婚するほど破綻した夫婦がですよ、離婚届を出す前の日までは一緒に暮らしていて、フツーに夫婦生活をやっていて、それで夜が明けたら、お役所に薄っぺらな紙きれを一枚出して来て、どっちかが荷物を運び出して、「じゃあね」と別れると思ってるんでしょうか?別居とか、実家に帰るとか、聞いたことがないんでしょうか?ドメスティックバイオレンスって、女が勝手にでっち上げて騒いでいると思っているんでしょうか?戸籍に「妻」と書き込んだらもう夫以外の男には見向きもしないとナイーブに信じているんでしょうか?戸籍、ねえ。戸籍って、誰のものなんだろう。戸籍って、何なんだろうなあ。

いくら日本国憲法が「結婚は両性の同意にのみ基づく」なんてもっともらしくぶち上げても、戸籍制度は旧態依然。戸籍の「戸」は「家」の意味で、つまり、今だに初めに「家」ありき。その家という「箱」に「夫」、「妻」、「長男」などとラベルをつけて入れる行為が入籍。まるで箱に所属する「収集物」のよう。夫婦の戸籍では妻が夫の姓を名乗れば夫が筆頭者になる。戸籍の筆頭者というのは戸籍を検索するための「見出し」だそうで、結婚して夫の姓になった女性の戸籍を検索するには、筆頭者の夫に関する情報がキーワードになる。たとえ夫が先に死んでも、戸籍筆頭者は夫のままなんだそうな。これでは「夫」という男なしではたまたま女に生まれた人間の存在を確認できないというのも同然じゃないの。どうりで、女は男の所有物、子供は親の所有物という、人を独立した人格として見えない観念が蔓延るはずだよなあ。結婚なんて「箱入り娘」が「箱入り女」になるってことのように思える。(まあ、箱入り娘はかわいがられているんだろうけど、箱入り女はどうなのかなあ。)日本の女性は大いに憤ったほうがいいんじゃないかと思うけど、よけいなお世話かなあ・・・


2008年5月~その1

2008年05月16日 | 昔語り(2006~2013)
ゴールデンウィークエンド

5月1日。五月。風薫る五月。ピアノのレッスンをしていた頃、シューマンの「五月、美しき五月」という小曲を練習したことがあった。子供のための練習曲集のひとつで、けっこう好きだった。ピアノの方はずっと初歩のままで忙しくなりすぎて遠ざかってしまったけど、またそのうちにぼちぼちと鳴らしてみようか・・・

月が変わったし、33年ぶりという寒い4月も過ぎて、どうやら春が腰を落ち着けた感じもするし、まあ、特に理由をつけなくてもいいんだけど、タイトル変更ということにした。いわば、『New! Improved!』というところ。あれやこれやとごちゃごちゃ考えるともなく考えてはぶつぶつ書いていることに変わりはない。どうも食べる話が多いような気がするけど、よくこれだけ書くことがあると思う。ほんとに、ごちゃごちゃのぶつぶつばかり書いているなあと感心するけど、ま、頭も体と同じで使わなければだらけるから、これも脳みそのデフラグだと思えば、ある意味で老化防止にもなる・・・かな?

若い人たちの二重国籍の幻想についてはどうしてもよくわからない。国籍については30年ほども前にさっさと結論を出してしまったワタシには理解しなくていいことかもしれない。ジェネレーションギャップということかもしれない。まあ、女は嫁に行って、婚家の一員になるものという考えがあり、また逆立ちしたって自分の子供には日本国籍を持たせられなかった時代だったし、カナダ人の元に「嫁いで」来たんだから、積極的に婚家(カナダ)に溶け込んで「いいお嫁さん」になろうしたことも確かだ。国際結婚には「婚家」という箱のさらに外側に大きな「異国」という箱があって、しかも「嫁しては夫に従え」と言われても、その「夫」は同時に「異文化人」でもあるわけで、どこからどこまで嫁が従うべきなのか、その範囲がいたってあいまいだった。今ならさしずめ「夫を愛しなさい」と言われて、どこまでが愛すべき「夫」で、どこまでが馴染めない、好きになれない異文化の「人」なのか悩むという図式なるのだろうか。

日本ではゴールデンウィーク。おかげで、ワタシの方もゴールデンウィークエンド。連休が明けるまではまず仕事が入ってくる心配はなさそう。カレシとクオリティタイムと行こうか。大学の勉強も少しは進めておかないと後でまた忙しくなって大汗をかくことになりそうだし、のんびりと手間ひまのかかる料理も作りたいし、と相も変わらず気が多いから呆れる。1日の作業時間は少ないかもしれなくても、在宅で週7日体制でやっていると仕事とワタシ生活の時間的な区別がつかなくなってしまう。よく見ると専業主婦をやっていて自分の時間と家族の時間の区別がつかなくなったような状態に似ていなくもない。なんだ、専業も兼業もないじゃないの。

あれだけ「がんばっていい(カナダの)お嫁さんになろう」と意気込んで嫁いで来たのに、いつのまにやら家事はほったらかしで仕事、仕事。なんだか日本株式会社のおじさんサラリーマンのようでもある。そういえば、毎日
10時間も仕事にかまけていた頃、よく「ああ、ワタシも奥さんが欲しい」とほざいていたっけ。ふむ、ひょっとして、その「奥さん」に「今は男女平等、夫婦は対等なの。家事は分担してあたりまえよ」といわれて、おまけに「亭主は稼いで妻(子)を養ってなんぼのものでしょ」とお尻を叩かれたんだろうか。う~ん、それじゃあ疲れるから「女房」はいらないや。それよりも「まだ仕事なの?カクテルは何にする?アイスクリームは何がいい?今日はオール家庭菜園産のサラダだよ。今日のメニューは何?(いつか)そのうちキミが仕事で忙しい時にボクがご飯を作ってあげるね。このテレビ、映りがおかしいよ。きれいな下着がなくなっちゃたよ」と、家庭に参画してくれるカレシという「伴侶」の方が絶対にいいもの。

ま、ほんとうのところは、4、5日の連休などは、何をしようかと思案している間にいつのまにか終わってしまっているのが常。だったら、さて、何をしようかなあ・・・

誰か、冗談だと言って~

5月2日。朝から何もすることのない日もいいもんだ。何もしないでだらだらするってことがあまりない(ような気がする)もんで、なんとなく新鮮な感じがして、つい本格的にだらだら。だけど、ネットサーフィンやジグソーパズルばっかりやって、のんびりと食べて飲んでしていては、胴回りの方に被害が出る。そうでなくても日本から帰って来てからお持ち帰りした体重が思ったほど減らなくて、とうとうジーンズが心なしかきつくなってしまった。おいおい、しらないよ・・・

日本へ行く前は肋骨の故障でさぼって、帰ってきてからは膝の調子が悪かったりでさぼっていたから、天罰てきめんというところかな。この週末こそは待ったなしでトレッドミルに復帰しなくちゃ。走ることで脳みそにも新鮮な酸素を送ってやらないとね。有酸素運動だけじゃなくて、何だかたるんできた腹筋を筋トレで引き締めなおさなきゃね。若々しさを保つってのはけっこう大変なのに、少し気を抜いただけであっというまに元の木阿弥になるからよけいに大変・・・なんていいながら、デスクの整理整頓をやっていて、ついパラパラとめくったカタログで目についた筋トレ用のコンパクトなフィットネスマシンを注文してしまった。おかげでデスクはいつからあるのかわからないカタログや何やらが積み上がったまま・・・

今日は北京オリンピックに派遣されるカナダ選手団のユニフォームが公表された。ファッションショーのような大々的なイベントだったんだけど、市民はただちに「ダサい、アホくさい、カッコ悪い」の拒否反応。ラジオのニュースで聞きながら、「へえ、そんなにひどいのかなあ」と思っていたけど、テレビニュースで見たら、「きゃあ、きつい冗談はよしてちょ~」。ひいき目に見たくても見ようがないくらいにかっこ悪い。パジャマみたいだという声が多いけど、ほんとにパジャマみたいだ。起用された中国系のデザイナーがカナダと中国のモチーフを融合させたと言うけど、いくらオリンピックの開催地が中国だって、カナダの選手団はカナダを代表して行くんじゃないのかなあ。こんなの着て街を歩けるかなあ・・・

バンクーバー冬季オリンピックのマスコットが発表されたときは「日本のアニメのキャラみたいで幼稚」という芳しくない反応だったけど、今度は「カナダは中国じゃないだろ」と悪評なところへ、発注先は中国というニュースが伝わったもので、ふだんは「カナダなんか多民族クラブみたいなものさ」と自嘲しているカナダ人もさすがにナショナリズムの虫がむずむずして来たらしい。まあ、他国の競争相手を笑わせて、力が抜けたその隙に何個かメダルを取ろうという作戦ではないかと勘ぐる人もいるけれど、スポーツもこの頃はかなり心理作戦重視だから、ひょっとしたら効き目があるかも・・・?

それにしても、とも布のあのバンダナは何なんだろう。カナダのものでも中国のものでもないような気がするけどなあ。悪名高い北京のスモッグが発声したときにマスクの代わりにもなるそうだけど、それだとどこかの反政府ゲリラのいでたちに見えてしまわないのかなあ。どう見たって迷彩服みたいなデザインだもの。たとえば、チベット解放を叫ぶ「反中国分子」と思われたりしないのかあ。あまりオリンピックとは結びつかないデザインだなあ。どう見てもパジャマみたいだ、やっぱり。確かに、売れなかったら来年のバレンタインデイに在庫一掃セールすればいいかもしれないけど、でもねえ・・・

友だち一家は孫ラッシュ

5月3日。少しだけ早めに起きて、朝食もそこそこに、イアンとバーバラの引越しの後片付けの手伝いに出かけた。二人が住むリッチモンド市のリサイクルデポでは古いペンキも引き取ってくれるので、ついでに我が家を新築したときに使い残して以来20年も処分に困っていたペンキも一緒に処分してくれるという申し出にカレシは二つ返事でOK。業務用サイズのペンキバケツを4つトラックの荷台に積んで、いざ出発。バンクーバーのリサイクルデポでは「工業用ペンキは引き取っていない」と拒否され、民間の業者には「処理料金徴収制度ができる前のものだから」と拒否された厄介ものの古ペンキ。カレシは「ゴミとして捨てろというのか」と怒りまくっていたのが、川向こうのリッチモンドはイアンが住民であることを証明するだけで、トラックに積んでいったものを全部すんなり引き取ってくれたそうな。

ほぼ空っぽになった家では、数年前に結婚してバンクーバーに住んでいる娘のアーニャのものがまだ元の彼女の部屋にたくさん残っているとかで、娘婿のブライアンがベンツに段ボール箱を積み込み中。広々としたリビング、ダイニング、キッチン、ファミリールーム、書斎があり、さらにベッドルームが5つもある大きな家から、床面積が半分以下しかない2ベッドルームのコンドミニアムでの生活になるわけで、持って行けない家具類は売ったり、救世軍に寄付したりとけっこう大変だったそうだ。目の上のたんこぶだったペンキを処分できてせいせいしたカレシは、アーニャが引き取ったガーデンベンチや植木のような大ものをトラックに積んで、運び役のイアンとにわか引っ越し屋。

その間、ワタシは寝室ごとのクローゼットにびっくりするくらい大量に残ったハンガーの整理。救世軍に寄付するけど、「使えるものは持って行ってね」というもので、お言葉に甘えてしっかりしたものを20個くらいもらうことにした。(ついでに、と観葉植物と雪かきシャベルと脚立までお持ち帰りして来た。)別の寝室に大きなベビーカーが見えたので、バーバラが昔子供たちに使ったものをしまってあったのかと思ったら、アーニャがおめでたで予定は10月初め。しかも双子とわかったばかりだそうな。モントリオールに住む息子のパートナーも9月半ばに出産予定だから、イアンとバーバラは1ヵ月足らずの間に一挙に3人も孫ができてしまうんわけで、これは一大事。イアンはまだ実感なんかわかないよと肩をすくめ、バーバラは「家を売る前に作ってくれれば良かったのに」と冗談とも愚痴ともつかないことを言うけれど、2人ともうれしいのは丸見え。

5才のときから知っている「ハローキティ」が大好きなアーニャは薬剤師。結婚してから博士号を取って、今はある医学研究所の薬局長をしている。アーニャと言うのはアンのポーランド語の愛称で、私たちにとっては姪のような存在だから、ワタシもうれしくて何だかエキサイト。だんなさんのブライアンはものすごくハンサムなフィリピン系の証券マン。これがめったにいないような好青年で、おまけに料理が大得意ときている。その2人の間に双子の赤ちゃんが生まれるのかあ。共働きで双子を育てるのは大変だろうなあ。すでに退職しているバーバラの方は「うちはデイケアじゃないのよ」と毎日のお守りを引き受ける気はないらしい。でも、夫婦が交代で育児休暇をとることは考えても、2人ともアーニャが仕事を辞めるなんてことは思いつきもしないだろう。だって、大変でもやって行っている人たちの方が多いのだから。

ついこの前まで子供が結婚するしないの話をしていた友人夫婦たちも、おじいちゃん、おばあちゃんになって、目を細めて孫の話をするようになって来て、子供が欲しくなかったわけじゃないのに神さまに授けてもらえなかったワタシは、心の奥深くの隅っこでほ~んのちょっぴりうらやましいような気もするけど、家族の孫も友だちの孫も、ぜんぶひっくるめてみんなの「おばあちゃん」になるのもいいかな。第一に、本当のおばあちゃん以上に甘やかして無責任を決め込んでいられるもんね。うん。

まとめ買いと買いだめ

5月4日。何にもしないでいい日曜日。のんびりしていて、たしかにいいんだけど、うん、何だか仕事したい気分になってきた。これ、やばいなあ。ワーカホリックと言われた昔が蘇ってくるし、何だかほんっとにおじさんサラリーマンみたいになっちゃうなあ。たったの2日や3日で「休みモード」に飽きたなんて由々しきこと。することがないわけじゃないのに、何なんだ・・・

カレシが前歯の裏の充填が抜けたとか何とか。緊急で木曜日の朝に歯医者の予約。ということは、木曜日は午前9時起床という、超がつく早起きになるってこと。じゃあせっかくの早起きのついでだから、オフィス用品を注文してしまおう。我が家はダウンタウンのビジネス街へ配達に行く途中で、しかも配送センターの方にずっと近いもんだから、前日にオンラインで注文しておくと朝の9時過ぎには配達が来てしまう。だから、ついでのときに嵩ばるものや備蓄品をまとめ買いということになる。今回の目玉注文はクロスカットできるシュレッダ。今あるシュレッダはカレシと共用なもので少し離れたコピー機の下に置いてある。そこまではほんの数歩なんだけど、どうも席を立つのがめんどうくさくなって、仕事関係の書類がどんどん積みあがってしまうのが難。いっそのこと、新しいのを買って自分のデスクの下に置き、今のはカレシの専用にすればお互いに楽だよねえ・・・と、まあ、ものぐさ極楽とんぼ風の発想。

注文するといったら、カレシが「これも」とリストを持って来た。カラープリンタのインクにDVDケース、大切な音楽と映像のコレクションをバックアップするための1テラバイトの外部ハードドライブ。それからバックアップ用電源もちょっと容量が足りない感じだから新しいのが欲しい。ついでに、床が傷ついて困るからチェアマットも手当てしてくれないかなって。なんかすごい注文になりそうだなあ。でも、午前9時起床なんてそうそうあるわけじゃないし、シュレッダもチェアマットも店先から持って帰るにはかさばりすぎるし、まあ、今がチャンス。ええと、他にはご注文はございませんでしょうか~?

真夜中のランチの定番になってきた冷凍(またはインスタント)ラーメンを食べながら、日本の米の値段について読んだ記事の話になった。今年に入って世界的に品不足気味の米の国際価格が急騰して、あっという間に1トンあたり千ドルにもなってしまい、貧しい国では食糧暴動の原因になっているのに、日本では上質の米が農家の倉庫にだぶついているんだそうな。でも、トン当たり2300ドルという破格の値段では日本国外からの買い手はない。千ドルの大台に乗って食糧危機が危惧される中、日本人はその危機的価格の2倍以上もする値段で米を買って食べていることになる。なんだか奇妙な現実。

だけど、日本人は自分たちが毎日食べる米の値段が異常に高いと言うことをまったく知らないのだろう。知ったら「米騒動」が起きるのかというと、たぶん起きないだろうなあ。だって、日本人にとっては日本米の白いご飯は主食以上の、いわば「母」とつながったへその緒のような存在なんだから、1日1回はおいしい
おかずを添えて食べるのが日本人てものでしょうが。その日本人がまずいという「外米」さえ食べられない人たちが増えているこのご時世に、売れなくて余ってしまうほどのお米がある日本はシアワセだよね。

ここは15年前の平成の大凶作が再び起きないように一億総出で祈願した方がいいかもしれない。だって、自給できないから緊急輸入した米に「まずい」とさんざんケチをつけたんだから、外の世界では米不足の今、いくら凶作だ、米が足りない、国際価格の倍以上払うからと言ってもどこも売ってくれないということに
ならないとは限らない。おまけに小麦も高いし、トウモロコシも高いし、大豆も高い。ひょっとしたら平成の大飢饉になってしまうかもしれないじゃないの。

極楽とんぼはあくび疲れ

5月5日。月曜になっても日本はまだゴールデンウィークの連休が終わっていないから、おかげでワタシも開店休業。イェーイ、確実に休みモード、なんて喜んでいたけど、だんだんに「日本の連休のとばっちりでヒマをもてあましている」ようなかっこうになって来てしまった。何もしないことで逆に疲れるってこともあるわけで、やたらと大あくびが出て困る。「せっかく休暇を取ってどこにも行かないでごろごろしているような半端な気分。やっぱり、仕事があった方がいい」と言うと、カレシは「ワーカホリックは治ってないじゃん」と大爆笑。あのねえ、ワーカホリックも何も、ワタシはまだしっかり現役なんですけど・・・

それにしても何か疲れるし、どうも体が重いから、ここらで年貢の納め時だとばかり、一念「再」発起でトレッドミルに乗る。久しぶりだから、時速8キロのペースで少しゆっくりだけど、20分が終わる頃には汗びっしょり。サボりすぎたせいか足がなんだかちょっとガクガクするけど、終了直後の心拍数は164といつもとほとんど同じレベルだったし、回復力の目安にしている120以下に下がるまでの時間も2分。ふむふむ、体の方は少々だれているかもしれないけど、体調は落ちていないからまずひと安心。後は1日おきに少しずつスピードを上げながら元の時速10キロに戻して、エクササイズマシンが届いたら、トレッドミルがオフの日に筋トレをやることにしよう。シャワーで汗を洗い流した後の気分は何とも爽快。少しだけ体が軽くなったような感じもする。これに味をしめたが最後、もう運動はやめられないのだ!

きのうはバンクーバーマラソンの日で、昼のニュースのキャスターが4時間と10分弱で完走したそうな。彼女は38才。トライアスロン選手のだんなさんがコーチ役だったらしいけど、来年も走るかと聞かれて「Never!」その気持、わかるなあ。4時間も走るんだもんねえ。だけど、ニュースを見てびっくり。同時開催の「ハーフマラソン」で、今年80才の女性がこの年令層の世界記録を20分も縮める新記録を樹立したという。人生80年と言われるけど、この人は実に若々しくて、70にも見えないくらいだからすごい。一夜明けた今日はもう日課のジョギング。脱帽だなあ、もう。う~ん、ワタシも気合を入れなきゃ・・・

それにしても、仕事がないからとダラダラして疲れるというのはあまりほめたことじゃないかもしれない。もう少し毎日の生活習慣を規律正しくして、時間的効率の向上を図った方がいいんじゃないのかなあ。たとえば、毎日1時間は仕事以外のことをする「日課」を決めれば、勉強の時間を捻出できないはずがない。そして、仕事はよほどのことがない限り夕食後に限定すれば、午後は買い物をしたり、遊んだりできて、それでも少なくとも6時間の「勤務時間」は確保できるはず。ふむ、キーワードはすべて「はず」。これが曲者なんだなあ。できないはずはない、「できるはず」なんだけど、そうはいかないのが人間で、「はず」とわかっていても、ついふらふらとしあさっての方へ飛んで行ってしまうのが極楽とんぼ。

まあ、トレッドミルも再開したことだし、少しは弾みがついて、気合も入るだろう、と希望的観測。日本もいよいよゴールデンウィークが終わって、またまた毎日残業三昧体制に戻る・・・よね?

ブドウの嘆き?

5月6日。日本ではゴールデンウィークも終わって、今日からまた仕事というところか。まずは長連休の民族列島大移動の疲れを取って、それからぼちぼち仕事にかかってほしい。なにしろ、ワタシの方はやっとのことで何もしないダラダラになれてきて、さてこれから本格的に「休みモード」を楽しもうという魂胆なのだから、あんまり張り切って仕事モードになってもらっては困るのだ。どうぞ、ごゆっくりと休養をば・・・

日本人の「all together now(せ~の)」は今に始まったことじゃないけど、最初の祝日は4月29日で火曜日。その後に「平日」が3日続いて、土曜日から4連休の週末。みんな大型の休暇を楽しむのかと思ったら、おでかけラッシュが始まったのは後半の金曜日の夕方というから、不思議、不思議。どうやらみんな月曜日に1日だけ出勤して1日だけ休み、水、木、金と3日出勤して、最後の4連休が来てやっとゴールデンウィークの気分になれたということらしい。ワタシだったら、有給休暇を4日取れば何と11日間も休めると欣喜雀躍するけどなあ。有休というものがあるのにそれは取らないで、みんなが休みのときに「せ~の」といっせいに新幹線も飛行機も道路も行楽地も観光地も何もかも埋め尽くしてしまうところが、やっぱり不思議だなあ。それで、混んでいる、疲れるって言っても・・・

日本の社会事象は裏返して見るとわかりやすいことが多い。「他人の迷惑にならないこと」がかけ声のようになっているけど、一見すると「他人優先、自分二の次」の思いやりに満ちた社会のように見えて、裏返してみると実は「自分優先、他人二の次」の心理が見えてくる。なにしろ物心のついた頃から「出る杭は打たれる」という脅し文句を刷り込まれているし、昔から「村八分」という、これまた脅迫やいじめに等しい制裁方法がある。その槍玉に挙げられないためには、自分が周囲から浮いてしまわないことが先決で、そのためには他人を立てる(つまり、自分を下げる)のがてっとり早い。ところが、いつも自分を下げているのはみじめなのが人間と言うもので、どこかでその埋め合わせがないとやっていられない。そこで「他人に迷惑をかけない」という常識論を逆手にとって他人の言動を縛ることで「ワタシ」を持ち上げてもらおうという自己実現の構図になる。要するに下手に出ることで相手を支配、あるいは攻撃するようなもので、なんとなくディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』に出てくるユライア・ヒープを思わせる。

日本には「負けるが勝ち」ということわざがあるけど、これに対応する英語のことわざは見当たらない。相手に勝ったように思わせておいて打ち負かすという戦略的な考え方はあるけれど、日本のは負けとわかって「実は勝ったんだ」と自分に言い聞かせているわけで、イソップの「すっぱいブドウ」の寓話に出てくるキツネの心理に近いかもしれない。勝てない相手のことを非常識、自慢たらしい、上から目線、性格悪いなどとこき下ろすのはブドウを食べ損なったキツネの負け惜しみの捨てぜりふなんであって、まだかわいいところもあるんだけど、これが掲示板にやたらと出てくる見下された、バカにされた、無視されたといった否定的な受身表現になると、「そんなもん食えるか」とそっぽを向いて立ち去るキツネの背に向かって「こんなに甘い自分をすっぱいなんて言うあんたは何様」と息まいているすっぱいブドウのイメージになる。

だから、休暇を取りたいけど、自分が休むと「周囲に迷惑がかかる」からとみんなが休むときに一緒に休むというのは、別に他人の迷惑を考えてのことではなくて、ほんとうは「他人を思いやる自分」を演出して出る杭になれない自分を慰め、同時に休みたいのに休めないのは迷惑をかけるなと「思いやり」を強要する周りのせいにできるからじゃないのかなと勘ぐってしまう。表向きは他人を思いやっているようだけど、裏を返せば「自分」。みごとな建前と本音の使い分け。まさに「包み紙文化」を芸術の域にまで高めたようなもの。でも、それを互いにやっていて、みんな窮屈じゃないのかなあ。どうなんだろう?

自信とは自分を信頼すること

5月7日。きのうごちゃごちゃと書いたことを今日になって全面的に書き直し。だって、ほんとにごちゃごちゃとして意味不明。あんた、な~に考えてたん?と自問して、だって、こっちが日本語に集中して考えているっていうのにカレシがやたらとそばからあれはああだろうか、これはこうだろうかと、英語で考えて答えさせようとするもんで、日本語思考が混乱しちゃったんだもん、と自答。だけどねえ、それ、同時通訳もやって、両方同時に聞いて両方ともわかる~なんて威張っていた人間がいうことかいな。

東京に着いてしばらくの間はすごく日本語を意識していたのは確かで、実際に日本語をしゃべったのは妹のところへ行ったときが初めてだった。その後は急速に慣れてと見えて意識はしなくなった。ひょいと英語が混入するという失態?もなかったようだから、日本語の中枢がしっかり稼動したということだろう。でも、いろいろな場面を思い出してみると、日本語で話していたのは家族や友だち、知人と一緒のときだけで、1人だけのときはとっさに英語の方が出てきて、相手が「なんだ、ガイジンなのか」といった顔だからそのまま英語で通していたような気がする。まあ、いずれにしても変な自意識はなかったようだし、どっちでも自分の自然体でいられたということなんだろう。

小町に山手線の英語アナウンスで目黒を「めぐ~ろ」と真ん中の「ぐ」にアクセントを置くので違和感がある、何で日本語の発音でやらないのかと書いている人がいるけど、あれって日本人のために英語でやってるわけじゃないんでしょ?と突っ込んでしまった。あのさ、変なところで「ここは日本なんだから!」思想を持ち出さないでよね。日本で日本語を話して暮らしている浦島太郎ならともかく、こっちは漢字の「目黒」じゃなくて、ローマ字の「Meguro」のつづりの方がまず頭にあって、欧米語の「U」は日本語の「う」よりも強いもんだから、「めぐ~ろ」と言ってくれる方が自然で違和感がなくて親切なんだけど・・・。ちなみに、東京行きの飛行機での英語の機内アナウンスはほとんど理解不能だった。日本語英語だと思って聞いてもわからなかったけど、あれ、日本人乗客のためにやっているわけじゃないよ、ねえ・・・?

まあ、地名の発音に関しては特に英語コンプレックスの裏返しというわけではないだろうけど、言葉の「裏」を読むことにはちょっと意地の悪いおもしろさがある。たとえば、掲示板でいつも盛り上がる「専業主婦対兼業主婦」のトピック。特に専業主婦が「家事は大変な仕事なのよ!夫や子供のためにやっているのよ!専業主婦は高貴な職業なのよ!」と、こぶしを振り上げている姿を想像させる書き込みが並ぶ。専業だって兼業だって、自分で選んだことならそれでいいはずなのに、ちょっとでもその「選択」に懐疑的な発言があると、まるで自分を否定されたようにいきり立つのは、自分の選択に満足できない、あるいは自信を持てないでいるからだと読めるけど、これは「自信=出る杭=打たれたくない=自信を持つのは怖い」という図式になるのかなあ。

要するに、口では二言目には「人それぞれ」といいながら他人の「それぞれ」は許容できないらしいのは、裏を返せば、自分を肯定しようと必死なんだけど、自分に自信がもてないから、他人を否定することで自分をよいしょしているんだろう。ローカルの掲示板ではこういう人たちがネタトピとか釣りトピとかいう煽りが目的のトピックのまたとない獲物になっている。たとえば、ダンナの収入の話になるとウチの人はこんなに稼いでくれてシアワセ~みたいな書き込みが続出する。まるでバンクーバーの高所得の若い男がみんな日本人と結婚したような勢いだけど、匿名のネットで束の間の夢を見ているというところが裏の真相だろう。最近はこの手の釣りネタが増えたけど、その餌に食いついてもがく魚も多いってことは、それだけ自分を信頼できないでいる人が多いということなんだろう。そうなんだ、自信というのは自分が絶対に正しいと信じることじゃなくて、自分という「人間」を信頼できるってことなんだよなあ。

ジョーホーの価値

5月8日。今日は午前8時45分起床。いつもならまだ夜中のような時間だ。普通に朝食をすませて、カレシは歯医者へ。日曜日が期限の仕事があるんだけど、あまりにも「早朝」なもので気が乗らない。ま、あしたやってもまだ間に合うかとのんきに考えて、今日はワタシのゴールデンウィーク最後の日にすることにした。手持ちぶさただから仕事があった方がいいなんていってたの、どこの極楽とんぼだったかなあ・・・

前歯の修理を終えたカレシが帰って来たところで、前の日に注文してあったオフィス用品が到着。かなりの量なんだけど、チェアマットとシュレッダ以外はみんなカレシのものばかりだからおかしい。クロスカットできるシュレッダは思ったより本格的にがっちりした構え。車が付いているのでデスクの下に置いても片手で動かせる。これでそのままではリサイクルに出せない業務用の書類をその場でジャッ。ジャンクメールも宛名のあるものは即刻ジャッ。今までのは一度に5枚が限度だったけど、今度は12枚まで裁断できるとあって、さっそ、段ボール箱に半分ほどたまっていた不要書類を処理。おもしろがってどんどん紙を入れていたら、あっという間に25リットルくらい入る容器が3度も満杯。カレシ曰く、「一家にシュレッダが3台もあるなんて、パラノイアみたいだよなあ」。うん、人間よりもその人に関する「情報」の方が価値があるみたいな、そういう残念なご時世だってことなんだよねえ。

インフォメーションハイウェイという言葉はアメリカのアル・ゴアの創作で一時はかなり流行っていたけど、そのボールをキャッチして、ジョーホー、ジョーホーと駆け回っているのは日本の方だろうなあ。だって、「情報化」などと言われても英語に訳せないし、「IT化」にいたっては言っている当人がなんにもわかっていないとしか考えられない(というのは、日頃ニッポン思考にデフォルメしてしまったコンセプトと格闘している側の悲鳴みたいなものではあるけど)。常々日本の現代文化は「包み紙文化」だと言っているけど、ある意味でこれは「化かす文化」でもあるような感じがする。

日本文化がどちらかというと女性的に見えるのは、否定的で悲観的、つまり「神経質」なせいかもしれない。どこかの誰かが日本人には「負け犬の美学」があると言っていたように思うけど、ひたすら自分を下げることを「美徳」として押し付けられる環境では、ポジティブな人間観や人生観を持つには膨大なエネルギーを必要とするだろう。いくら自分が好きで自信があっても、人前では「いえいえ、ワタシなんぞ」とダメダメ人間に化けなければならないわけで、「ありがと~」と実にあっけらかんと自分を肯定してしまうワタシにしてみれば、自己否定を強いられるなんて卑屈だなあ、切なそう、さびしそうと思う。

そこへもってして、今のご時世は情報があふれかえって、(サラリーマンの名刺交換の延長なのか)よく知らない相手でもあたりまえのようにメルアドや携帯番号を教えたり、深く考えずもぜずに風説流布に乗ってしまったりと、渾沌を選りわける能力が失われつつあるような感じがする。何かにつけて気軽にジョーホーください、ジョーホー待ってますという構えの教えてちゃんも、どこから手をつけたらいいかを考える最初のステップを省略してしまった結果なのかもしれない。これは「マニュアル化」が進みすぎて、人生にまでマニュアルができてしまったとうことなのかなあ。そういえば、東京は新宿のメディアショップ、薬局、食べ物屋がひしめく狭い路地で見た不思議な光景。店員と思しき若者たちが、商品を運んだり、並べたりしながら大声で何かまくし立てているんだけど、それが最初の「は~い」と最後の「ですよぉ!」以外はまったく何を言っているのかわからない。ひたすら「暗唱」しているのと同じ。要するに機械的に「ジョーホー」をまき散らしていたんだろうなあ。レジの若い女の子もしかり。お札を振り回して「ニャニャニャニャニャンニャン」と早口。まあ、何て言っているのかわからないままおつりをもらって退散したけど、あれもマニュアル化したジョーホーなんだろうか。だったら何を聞き逃したんだろう・・・?

アイデンティティを盗まれないためにこうしてシュレッダで個人情報を隠滅しているわけだけど、実際に自我というものが発達していない環境では、アイデンティティのコンセプトも未発達だろうから、守るべきものが何かもよくわかっていないかもしれないなあ。

違和感という不安感

5月9日。掲示板などの書き込みで、よくいろいろなことについて「違和感がある」という表現を使っているのを見る。字面だけから解釈すれば「和」を乱するものといった印象だけど、「感」という字の通り、もっと身体的な、たとえば、しっくりしない、肌になじまないとかいうような、漠然とした不快な感覚のことを言うのだと思う。あくまでも漠然としっくりしない感覚だから、なぜそう感じるのかを言葉で説明するのは難しいだろう。

この「違和感」を日本語辞書を引いてみると「しっくりとしない感じ、ちぐはぐな感じ」となっている。親切に「malaise」という訳語を添えてあるので、こっちを英和辞書で引いてみると「何となく落ち着かない気持、不安」という定義してある。なるほど、たとえば着ているものが体になじまなければ何となく気持が落ち着かないし、気持が落ち着かないと不快に感じる。その不快感の原因がわからなければ不安になって来るかもしれない。要するに、「違和感」と言うのはそれを感じる人だけがそう認識する自分だけの感覚なんだと思う。

ものごとに「ん?」という違和感を覚えるのは誰にでもよくあることで、風光明媚な観光地のど真ん中にけばけばしいネオンの広告塔があったら「場違いだ」と思うだろう。それはきっと「風光明媚な観光地」に対して持っている先入観や期待感にしっくりとなじまないからで、その違和感を不快に感じるかどうかは人それぞれ。あんがい、場違いな広告塔が存在することよりも、そのおかげで記念写真の構図に苦労させられる方が不快指数が高いかもしれない。異文化の中で暮らしていて違和感を感じるというのも、自国の文化に基づく判断が通用しなくなるからだろうけど、それを「郷に入っては郷に従え」と受け取る人と、それまで無意識に機能していたことを「意識してやらざるをえない」状況に苛立つ人がいるから、違和感に対する対応も人それぞれ。

何かがしっくりとなじまないと感じる裏には心の奥に無意識の比較対象があるからだろう。比べるのは分析手法のひとつだし、誰でもものごとの選択や判断に使うことなので、縦に並べる(優劣をつける)のは当然なんだけど、そのときに自分まで一緒に並べてしまうといろいろとやっかいなことになって来る。自我が未発達で「自分」を客観的に見ることができないからかもしれないけど、自分の目で見た他人の目を通してしか自分を把握できないと人生がややこしくなる。その他人は自分が勝手に「こういう人」と思っているだけで本当の人となりはわからないから、もとから信頼していない。これではその人の目に映る自分像を信じられるはずがない。鏡に映る自分は自分ではない。雑誌には「自分探しをしよう」という誘いがあって、その言葉に従えば(どこかここでないところにいる)自分が見つかるかもしれない。もっとも、雑誌などがもてはやすような「自分探し」は幻の自分を映してくれる鏡がどこかにあるという甘言なんだけど。

他人がやっている自分には実害のないことに掲示板などで「違和感がある」と苦情を言う手合いもこの範疇に入るかもしれない。みんなそれぞれ違っていて当然なのに、それを「違和感」と表現するのはある種の自意識に根ざした不安感が起こるからだろう。自分と違う、自分の思い込みと違う、違うことをしている人がいる・・・秩序(並び順)という安定感を揺すぶられて落ち着かない。不安感が不快感になり、「人を不快にさせないのがマナーなのに」といらついて来る。だけど、それをストレートに不快だと言って反撃されると困るから「違和感がある」と言う。裏を返せば、自分を信頼できないことに対する不安感を違和感と言っているのだろう。その意味で、日本語辞典が違和感の訳語としてmalaiseを選んだのは意味深長。医学用語でgeneral malaiseといえば「不定愁訴」のことだけど、ポストバブルのうつ病的な日本には他人にも自分にも漠然とした違和感を覚える人が多いのかもしれない。芥川龍之介はそれを「漠然とした不安」といったそうだけど・・・

学歴(小・中・高卒)

5月10日。風薫る5月も中旬にさしかかったというのに、いつもならとっくに満開のはずのライラックもまだ色づいたつぼみのまま。好天の日には夜ベッドルームのエアコンをかけている頃なのに、今年はまだリモコンに電池も入れていない。なんでこの春はこんなに寒いんだろう。来週のビクトリアデイ三連休は伝統的に本格的な庭仕事の始動の日なんだけど、このままで伸びた野菜の苗を外に植えられるのかなあ。

今日から気合を入れて仕事にかかるぞ~という心づもりになったんだけど、コンピュータを立ち上げて、ニュースを読んで、ついでに小町のランキングなんぞ見てしまったもんだから、仕事モードはその場で脱線。恋愛と結婚がからむトピックには熱心な書き込みが並ぶので、今どき日本人の恋愛観、結婚観、人生観、はては人間観が読めるおかげでついはまってしまう。前にも「譲れない結婚の条件は」というトピックがあって、求人広告を読むようでおもしろかった。まあ、「これだけは譲れない条件」といったって若さにまかせての希望的観測じゃないかと思ったけど、なんとなく白々しい「三手」の時代とかいうかけ声はどこへやら、バブル時代の「三高」志向がしっかり生きているではないか。

『彼の学歴』というトピックは「わたし大卒、カレ中卒が気になる」というものなんだけど、予想にたがわず「学歴は重要」という人が多い。なぜかというと、「主人を尊敬したいので自分より下の学歴の人は嫌」、「学歴が低い人とは話の程度や性格が合う確率は極端に低い」、「当然「大卒」が前提です。将来性がない人とは基本的に交流も含めてお付き合いは無理」、「中卒の人と同じレベルの会話ができるか疑問。レベルの低い大学出身の人とでも会話が「?」となることもありますので」、「中卒レベルだと何を話せばよいのかわかりません」、「同じような家庭環境、学歴、生活レベルでないと友人ですらしんどいし、結婚するのはさらに難しい」。

ははあ、つまり金太郎飴の類友とでなければ会話ができないってことか。しかも、大学卒は能力があるとか、努力したとか、(非大卒より)社会常識があるとか懸命に弁明?しているけど、レベルが違うから会話ができないって、自分の世界がいかに狭いかを暴露しているようなもんじゃないのかなあ。まあ、議論の本質は知的レベルの釣り合いでも何でもなくて、「高学歴=高収入」という前提があって、相手が低学歴=低収入だとみんながうらやむ結婚ができないからいやだということなんだろうなあ。「やっぱり自分が将来惨めになりたくないし、自分より頭の悪い人はいやかな~」と言うお嬢さんのいう通りで、収入のことだと打算的に聞こえるから、「会話のレベル(知性?)」という見栄えのする包み紙に包んでいるんだろうと思う。だって、夫婦の会話なんかせいぜい30分あるかないかと聞いているんだけど・・・。

だいたい、会話のレベルなんてものは、社会に出たての頃は知識の内容に差があるかもしれないけど、人生の経験を積むほどに「学歴」による差なんてなくなって来るもので、中年をすぎてしまうとその人が人生の中で培ってきた人間としての厚みが会話にも反映されて来るものだと思うんだけどなあ。それに、夫婦は究極の「裸の付き合い」だから、毎日の会話もだいたいそのレベルじゃないのかなあ。それとも、高学歴夫婦は毎日ご飯を食べながら、セックスしながら世界情勢を論じるのかなあ?みんないずれは年を取って「高齢者」の1人になるわけで、介護ホームに入ってから「低学歴の人とは何を話せばいいかわからない」なんて言ったらボケたんじゃないかと思われること請け合い。もっとも、大学卒の肩書きが人の価値を表すと信じている人には「低学歴の人間のたわごと」としか聞こえないか・・・

心の中の母の日

5月11日。日曜日。母の日。今日はバレンタインデイ以上に花屋さんが大忙しの日。レストランはブランチから夜のディナーまで予約でいっぱい。でも、子供も母親もいない人間には関係ない普通の日だからといって、母の日で盛り上がっている世間に僻む気持は微塵もないけど、やっぱり子供がいないことでこういった年中行事にムカムカする人もいるんだろうな。仲間外れにされた気分になるのかもしれないし、自分の宗教じゃないからとクリスマスに異議に唱えるのに似ていなくもないけど、本気で「人それぞれ」を主張するなら、世界のお母さんに「ハッピーマザーズデイ」と言ってあげたらいいのに。ワタシは生まれ変わったワタシのママ。ということで、子供のワタシは心の中でママのワタシに感謝の花束をあげようっと。

ゴールデンウィーク以来だらだらしていて、やっとこさ腕まくりして仕事を始めたら、うわ~肩が凝ること。いけないなあ、だらだらのしすぎでたるんでいる。おまけに1ページ抜かして納品してしまった。連絡が来て大慌て。猛進ダッシュで仕上げて送ったけど、いや~冷や汗がタラタラ。二の腕も首筋もすっかり凝り固まってしまった。せいぜい1週間とちょっと怠けていただけなのになあ。だけど、最近はどうも足がむくみがちで、歩いているとぼってりして心地がよくない。体重も乱高下しながら高止まり。う~ん、成田からバンクーバーまでトイレに行かずに来てしまったのが後を引いているのかなあ。でも、腎臓も心臓もちゃんと機能しているようなんだけど。まあ、これは総合検診の潮時かもしれない。ドクターに「60才の記念にやろう」と言われているしなあ・・・

母の日でなくてもよく思い出すのが、ワタシの母が今のワタシと同じ60才になったときの手紙に書いてあった、「これで自分の母親より長く生きた」という言葉。母の母、つまりワタシの祖母は戦争中に60才で亡くなったらしい。6人の子供を生んだ後、身代を食いつぶしたらしい夫(ワタシの祖父)を離縁した。どうも母方には気丈な女性が多いようなんだけど、ワタシの母は自分の母の一生を超えてまもなく63才で逝ってしまった。まさかそれが人生の目標だったわけではないだろうけど、初孫を見て逝ったのだから満足だったかもしれない。その娘のワタシが今60才。母の一生を越えるまで後3年。なんだか母にあと3年は何があっても死んじゃだめだよと言われているような気がする。

母の一生にも及ばなかったかもしれない一瞬もあったけど、今は大丈夫。母の一生だけじゃなく、父の一生(77才)も超えて生きるつもりだからね。ワタシには生まれ変わった「ワタシ」という子供がいる。ある意味でワタシの中に宿ったけど生まれてこなかったあの子なのかもしれない。宿った命は消えたけど、魂は生きていたのだと思う。だからこそ、その子供を大切に育てて、ひとり立ちさせて世界に出してやるのがママであるワタシの使命。子供のワタシはママの手を必要としなくなったときに、つまり、過去の傷跡が完全に過去のものになったときに、一人でも怖がらずにしっかり歩いて行ける「大人」になる。母のワタシはこの子がワタシの手を離れて一人歩きするのを見届けてあげたい。だから、ワタシはまだまだ死んでいられないの。ハッピーマザーズデイ、おかあさん。

きらきら星33年

5月12日。1975年5月12日。ちょうど33年前の月曜日のあの日。ワタシは当面のものを詰めたスーツケースを3つ持ってカレシのところにお嫁に来た。もっとも、嫁入りと言っても、これから離婚の手続きをしようというワケありの人のところへ来たもので、3ヵ月の観光ビザが切れたらその先も一緒にいられる保証はどこにもなかった。社会保障も受けられないし、永住の申請もできない。外国人の「内縁の妻」を守ってくれる法律も制度もなかった。そんな状況によく飛び込んできたなあとは思うけど、まあ、「恋は盲目」というヤツで、若さのなせる業といえばそうかもしれない。

だけど、そんな思い切った行動を取れるくらいカレシに惚れていたのはほんとうのこと。今のところ人生でたった一度の本当の恋であることに変わりはない。そうでなかったら、元から結婚願望がなくて、適齢期なのに夜な夜な天体望遠鏡をのぞいていたワタシだから、これだけマイナス条件が揃った結婚には気持が傾かなかっただろうと思う。それが、思いもかけず恋をしてしまったら、その延長線上に「結婚」があって、その間にある「条件」なんてものは「お星さまきらきら」状態の目の前にかすんでしまったらしい。それまでは人並みに縁談があっても父がすべて門前払いしていたらしく、まだ大半が見合い結婚だった時代に一度も見合いをしたことがないまま「賞味期限」の25才を過ぎてしまって、結婚の条件、相手の条件なんて考えてみたことがなった。そのせいかなあ、焦ってしかるべき年なのに「お星さまきらきら」の大恋愛をしてしまったのは。

カレシがいわくつきの男とは夢にも思わずにいたのも、そういう未経験から来るナイーブさなんだと思うけど、その「いわく」を知らされたときにその恋がす~っと冷めなかったのは、やっぱり「好き」という気持が勝っていたんだろうなあ。たぶん、ワタシにとっては「好き」ということが唯一の譲れない条件だったのかもしれない。初対面のときのカレシは無職だったし、嫁入りした頃には公務員だったけど、結婚して早々に大学に戻って、再就職するまでの1年間はワタシの貯金で暮らした。カレシは定年より8年早く退職して悠々と趣味とボランティアの日々。共働きを始めてから今まで30年間のうちでワタシの収入の方が多かった年が半分以上。ワタシが100%家事を負担していた期間が25年。カレシにはいい条件だよなあ、これ。

もしも、こんなことが結婚前にわかっていたら、「だけど条件が・・・」と悩んだかなあ、ワタシ。好きだからと、何とかなると目をつぶってしまっただろうなあ。だって、カレシと結婚すれば、身寄りのいない外国で外国語をしゃべって、外国の文化と習慣の中で生きて行くことになるけれども、いいのかと、まず自分の決意を確かめるのが先決だったから、日本と比べようがない収入や職業は悩みの圏外だったと思う。その決意だって結局は「好きだから一緒になりたい」という気持に押されてあっさりできてしまったように思う。もっとも、カレシのモラハラ、浮気ごっこ、離婚話、警察を巻き込んでの修羅場といったことは想定外だったけど、大嵐が収まってみたら、ワタシはやっぱりまだカレシに「お星さまきらきら」。それも一等星だから、ここまできたら、もう深情けどころか、ストーカーかなあ。

今日は二人の満33周年。ワタシの目のお星さまはこれからもずっときらきらだと思う。カレシ、こんなによくできたお嫁さんは今どきどこにでもいるってもんじゃないんだから、そこんところをよ~く肝に銘じておいてよね。二人のこれからは長いんだもの。

ウェストきゅっは無理だよ

5月13日。郵便受けに「不在通知」が入っていた。小包の配達で返事がなかったので入れていったらしい。だけど、だけど、ちょっと待てよ。今朝は11時前に起きていたし、大体いつも配達はお昼少し前。通知を見ると配達時間が書いていない。今日の日付だけ。小包とも封書とも書いていない。転送先の郵便局にいつ以降取りに行けばいいのかも書いていない。翌日以降15日間が普通だからこれはまあいいとしても、ふむ、な~んか怪しい。

我が家の郵便受けは巨大なもので、受取人の署名不要の小包ならよほどかさばらない限りたいていのものは入る。とすると、思い当たるものといえば通販で買った「エクササイズマシン」。カタログには重量45ポンドと書いてあった。約25キロ。重いよなあ。それに折りたたみ式とはいえ相当大きな梱包になる。はは~ん、さては郵便やさん、こんなの配達してぎっくり腰になってはたまらんと、初めから不在通知を入れて行ったなあ。こっちの郵便配達は、身体的に危険と思うものや場所への配達を拒否できるから、ま、しゃあないか。明日、カレシとトラックで取りに行ってこよう。

まじめにトレッドミルで走っているんだけど、日本からお持ち帰りした分の体重がなかなか減らない。ま、「よく食べ、よく飲み」なのはわかっているけど、それにしても高止まりしてしまっている。これはまずい。ということで、トレッドミルで走らない日には筋トレをやろうというつもりなんだけど・・・はて。トレッドミルでひたすら走っているときは「漠然とした考えごと」をしている。こんなときにすごいインスピレーションがわいたりすると悲劇なんだけど、たいていはブログのネタとか、走り終わる頃にはけろっと忘れてしまうようなことが多い。今日も今日で、体重が減らないなあ、ジーンズがきつくなって来たなあと、つらつら考えていて、東京で友だちに「足が長いね」といわれたのを思い出した。ほめてくれたのに、そのときは頭の中を素通りしてしまって、「ありがとう」も言わないで流してしまった。あ~あ、ワタシとしたことが、なんと失礼なことを・・・(頭をコツン)。遅いけど、ありがと。

足が長めということはわかっているんだけど、どうも常日頃から上体が寸詰まりというコンプレックス?みたいなものがあって、あまりそっちの方を意識しないきらいがある。実際に、わき腹にある一番下の肋骨がウェストの下にあるもので、昔からベルトをすると肋骨に食い込んで座れない。ベルトでおしゃれなんて夢のまた夢だった。ドレスなんぞおチビサイズでもローウェストになってしまって着心地が悪い。人体の骨格図を見ると、胸郭と骨盤の間にかなり間隔があるのに、自分のわき腹を手探りしてみると、その間隔がやけに狭い。ふん、これじゃいくら運動をしてもウェストがきれいにくびれてくれないはずだ。そもそもくびれる余地がないんだから、どんなにがんばってみても、いわゆるズンドー。ワタシとて女だから、姿見を見るたびにかな~りがっかりする。足だってあまり長く見えない。直接足を見下ろせば望遠鏡効果と言うヤツで短く見えてあたりまえなんだけど、姿見で全身を見ても・・・う~ん、長くない。

ハムスターみたいにトレッドミルで走っていたら、ふとそのからくりが思い浮かんだ。風呂上りや寝る前に姿見で自分を見るのはコンタクトを外した後。うんと近くに立って見るもので、映った足を見下ろしている形になって、それで短く見えている可能性がある。そこでぐっと離れて立って見たら、うん、やっぱり長めかもしれない(と、自己満足)。角度を変えると見え方も違って来るということなのだ。だけど、ウェストのくびれだけは、う~ん、夢のまた夢だなあ。でも、エクササイズマシンでがんばってみるか・・・

おうちジム、設備拡充

5月14日。起きてみたら小雨模様。天気予報では、明日あたりから急に気温が初夏のレベルまで上昇するという話だけど、ほんとかいな。

朝食もそこそこに、さっそく「不在通知」があった郵便物を取りに行くことにした。トラックで出かけたのはいいけど、途中で「通行止め」。なにやら工事をやっている模様。レーンに曲がって別の通りに出たら、ここも通せんぼ。カレシはムッカムカ。Uターンをするついでに窓を開けて、工事の人に悪態のつき放題。仕事しているんだから怒ってもしょうがないないんだけど、カレシのは「オレを通せんぼしている」という被害妄想的な反応だから、そういっても効き目なし。まあ、工事の人はドライバーの悪態に慣れていると見えて、仏頂面でひたすら無視。

荷物があるワタシ営郵便局の回りはトラックを止めるスペースがない。ブロックをぐるりとひと回りしてもダメ。カレシはますますご機嫌ななめ。ふむ、今日は寝起きが悪かったのかなあ。結局ワタシが先に降りて郵便局へ行っている間に止められる場所を探すことに。荷物はやっぱりエクササイズマシンで、思ったより大きくはないけど、重いことには変わりがない。えっちらおっちらと郵便局の外へ運び出したところへカレシが現れた。二人で持てばいいというのに「オレひとりの方が効率がいい」。ああ、そうですか。重いとか、運びにくいとか、さんざん文句をいいながら角まで運んだところで、トラックを持ってくるから、ここで待っておれ。はいはい。

なんだかんだといいながら、エクササイズマシンの到着。二階まで今度は二人で運び上げて、「あとはまかせるぞ」。はいはい。組立は「ワタシひとりの方が効率がいい」。部品を並べて、さてと説明書を見たら、なんじゃ、これ。「組立」といっても使用時のセットアップのことしか書いてない。あ~あ、またしてもメイドインチャイナの謎々。しょうがないから、部品を説明する解体図を見て、組み立てるべき部分の見当をつける。なんとなくジグソーパズルのような感じだけど、エクササイズ用のフレームにシートのフレームを取り付けるだけで、前の靴箱のときよりは単純な作業。それにしても、組立の説明書を書く人たちって、自分で組み立ててみて、説明が正確かどうか試したりしないんだろうなあ、きっと。

重量のあるフレームを動かすのに大汗をかきながら、小さなアレンレンチ一個で16個のネジを締めて、30分ほどで完了。フレームの後から足元まで通してある強度の違う3本の弾性ロープの組み合わせで、5ポンド(2キロ強)から37ポンド(約17キロ)まで7つのレベルのウエイト(抵抗)を選んで、ハンドルをカラビナで引っかけて引っ張ると言う、まあ、ジムにある「拷問マシン」の簡易版ともいうべき、いたって簡単なもので、39種類のエクササイズの図解カードが付いている。いつの間にかご機嫌がなおって、組立終了と同時のみごとなタイミングで現れたカレシ、さっそく試してみて「ふむ、効果はあるかな」。あっ、そう~。だけど、ワタシは組立で大汗をかいたから、今日はエクササイズはもういいや・・・

古釘を踏んじゃった

5月15日。起きたときの雲がどんどん晴れて、おお、どうやら予報どおり暖かくなりそうだ。晩春どころか「早春」の陽気が長く続きすぎた。郊外のいちごやラズベリー地帯、内陸の果樹園地帯ではかなりの被害がでたという。我が家の梨も花こそ満開だけど、寒くて虫があまり飛んでいないから、期待できないかも。

カレシが英語教室に行っている間に、夕方納期の仕事を早々とやっつけて、エクササイズマシンの試運転。グレーのバンドは約2キロのウエイト相当で、なんだかものたりないから、えいっと思い切って赤のバンドにする。これは約5キロ相当。1セット12種類の運動で、腿、ふくらはぎ、膝の屈曲筋、肩、腹筋、背筋、広背筋、胸腕の二頭筋と三頭筋と、だいたいの筋肉がカバーされるらしい。手始めとして、1種類10回ずつやっていたら、けっこう「重さ」を感じる。最後までやったらかなり汗をかいた。あしたはちょっとばかり腕のあたりコチコチかなあ・・・?

教室から帰ってきたカレシは待ってましたとばかりに庭へ飛び出した。やっとガーデニングの季節。と、思ったら何やらわめきながら飛び込んで来た。片足でぴょんぴょん。「釘を踏んじゃった~」。あ~あ。慌てて消毒薬とコットンとバンドエイドを持って来て、足の裏を点検。たいして出血はないけど、確かにポチンと「穴」が開いている。聞いてみたら、庭仕事用のブーツをはかずにクロックスのまま出てしまったらしい。それで地面に落ちていた古材木の木っ端から突き出ていた古釘をもろに踏んづけたものだから、すぽっと貫通したという。まあ、大きな釘ではなかったからそんなに深くはなさそう。きれいに消毒して、バンドエイドを貼って即席の看護婦さんはおしまい。

だけど、カレシは「破傷風の潜伏期間はどのくらいだろう」と言い出した。よくわからないけど、ワタシが指の爪を爪床ごと切り落としたときは次の日にドクターに見てもらって、この前の注射はいつだったかと聞かれて「15年くらい前だったかな」といったら、その場ですぐに注射してくれた。破傷風の予防注射の効果はせいぜい10年が確実な期間だそうで、それを過ぎるとあてにできなくなるらしい。カレシの注射はいつ?さあ~。ふ~ん、思い出せないならたぶん10年以上前だなあ。外で泥の付いた古釘を踏んだわけだしなあ。破傷風はいったん症状が出始めたら助かる確率が極端に低い病気だから怖い。

結局、カレシは我が家から一番近いクリニックに行って注射をしてもらうことにした。びっこを引いて歩いているから、連れて行ってあげようかと言ったら「1人でたくさん!」 はいはい。医療保健のカード持った?「どこにおいたっけ。キミ、知らない?」 ええ?あなたのなんだから、知るわけないでしょうが。それでも今度は「捜索隊」になって、カレシがいつもの調子でボケッとおきそうなところを片っ端から探したら、見つかったのはいつも財布とキーを入れておく玄関脇の箱。なあ~んだ、もう。財布を出して、その下にあったカードには気がつかなったらしい。やれやれ、さすが置き忘れの名人・・・

冗談はともかく、保険カードをお財布に入れて、「せっかくの庭仕事日よりなのに」とぶつくさいいながら、クリニックへ行った。我が家の庭は新築、改装となんども工事が入っているから、そのときの落ちた釘や針金のような危険物があちこちにある。だから、そのために庭仕事用として頑丈なLLビーンのブーツを買ってあるんだけど、常に「思い立ったら吉日」式のカレシは、手近にあるものを履いて出て行ってしまう。あのねえ、今度からはちゃんと着替え、履き替えをしてよね。そうしたら、こんなふうにせっかくのいい天気をクリニックの待合室で過ごさなくてもすむんだからさあ。ねえ・・・