リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2006年8月

2006年08月31日 | 昔語り(2006~2013)
まずは・・・

8月16日。電子日記なんてのもいいかもしれないと、開いてしまったこのブログ。

日本語を話すことはめったになくなっても、頭の中で日本語でぶつぶついっていることがある。日本語でしか書けないこともあるかもしれない。何が飛び出すかわからないけれども、ノート風に書いておいて分析してみるとか・・・

咳、せき・・・

8月16日。また咳き込みがひどくなった。骨という骨がばらばらになりそう。

もう25年くらいになるかな。いくら精密検査しても何も見つからない。ワタシの肺はきわめて頑丈なのだそうな。そういえば、ジョギングしても咳き込まない。55歳の記念に市民マラソン10キロを完走したし・・・

結局はストレス性ということになった。そういえば、仕事が立て込むと咳がひどくなる。なるほど・・・

そういえば、このところ仕事と勉強で忙しすぎた。カレンダーは締切りだらけ。もっとも欲張って自分で自分にプレッシャーをかけているわけだけど・・・

この頃はカレシが背中をさすってくれる。昔は夜中に咳が出るたびに「うるさい!眠れない!」とかんしゃく起こしていた人がねぇ・・・

今夜はかまって欲しそうなカレシを相手にちょっと息抜きしよう。

年相応?

8月17日。あえてひとくくりにすれば、日本の人は「ものさし」にこだわる。というよりはものさしの「目盛」にこだわっている。例えば年令・・・

「○○才からの~」、「○○才で~はダメですか」という表現。ファッションからライフスタイルまでものさしの目盛に合わせたいのか。自分で判断して決めりゃあいいものを・・・と突っ込んでしまう。

30才になった自分が29才だった昨日の自分とどれだけ違うのだろう。昨日まで着ていたものが着られなくなるほど違うわけがない。メークアップを変えなければならないほど違うわけがない。新しい何かを始めるのが遅すぎるくらい違うわけがない。

何でもこだわればこだわるほど視野が狭くなりそうに思う・・・。

あれとこれ、あれかこれ

8月19日。日本語には相反するものをくっつけた熟語がやたらと多い。

有無、勝敗、愛憎、善悪、与奪、多寡、明暗、可否・・・

たぶん何千語とあるのだろう。両極端にある点と点をひとつの単語で表現できてしまう。英語に直訳すれば間にANDかORが入って、当然意味が違ってくるのだけど、日本語はその違いが不明確。

日本の人のこだわり性を思うと、勝ち組か負け組かというように二者択一的な意味が多いのかな。中間の選択肢がないのは、はっきりと表現しないことを徳とするコミュニケーション文化と矛盾するように見えるけど、「いわなくてもわかるはず」と相手に判断を期待する点では共通しているのかもしれない。自分の手の内を見せないのは一種の心理ゲームみたいだけど・・・

もっとも熟語は漢字という表記法があってこそ。だとすれば、漢字が大陸から渡来する前の日本人はどんな風に表現していたのかな。今の日本語とまったく違う言語があったのかもしれない。縄文語でのおしゃべりなんて想像するだけでも楽しい。

何が言いたいの?

8月20日。ご当地に群れている日本の若い人たちの掲示板をたまにのぞいて見る。

いろいろ評判があるが、タイトルを眺め渡しただけでいろいろといわれるわけがわかるサイト。今日はのっけから「皇太子の子供、カワイイと思う人いませんよね」というトピック。

「いませんよね」って、自分の意見に「みんな異論はないわよねぇ」という念押しなのか、それとも自分の主観的感覚が主流だと確認したい?しまいには、「かわいいという人がいてびっくりしました」というコメントがあって、こちらがびっくり。(あの年頃は誰だってかわいいけど・・・)

いつからこれほどまでに外観が第一、第二に大事ということになってしまったのだろうか。品質管理に関する仕事に関わった経験からして、製造工場の目視検査で、「合格」、あるいは「不合格」というのは、製品の品質を一定レベルに保つために必要とわかる。でも、ヒューマンレベルでの許容基準が「アタシの美的感覚に合わないから切り捨てご免」というレベルまでどんどん狭ばるのは恐ろしい。「姥捨て山」思考がダブって来る。

この人たちが政治経済の中核になったとき、日本は「いつか来た道」をたどるのだろうか。

ジンクスは当たる?

8月20日。恒例のフェアが始まった。いわゆる農業共進会なのだけど、農家はどんどん郊外へ押し出されて、市内にはもう残っていない。フェアの郊外移転の話もあったけど、まだなんとか存続している。

もっとも子供たちのお目当ては遊園地だし、おとなはたぶん子供のお供。この頃は入場料もばかにならない。人気の的だった賞品の「家」も、地価高騰のあおりでとっくに通勤圏外。子供のない私たちが最後に行ったのは20年以上も前のこと。

フェアが始まると雨が降り出すのが昔からのジンクス。テレビのニュースでさえ、キャスターが天気予報のキャスターに「雨、降りそうですか?」

まあ、この週末は好天だったけど、めずらしく庭仕事のカレシは蒸し暑いとこぼすことしきり。そういえば、この夏は暑さが長続きせず、外へ出るとなんとなく湿気を感じることが多い。

長い雨季はもうそこまで来ているのかな・・・

アイスクリームシェフ

8月21日。カレシはアイスクリームが大好き。隠居してからは昔ワタシが買ってたな晒しになっていた「どんびえ」でせっせとアイスクリームを作るようになった。でも、なんとも容量が小さい。ワタシはワンスクープでもカレシはその三倍は食べるから、3日くらいでなくなってしまう。だからいつも「もっと大きいのがあればいいのに」とぶつぶつ。

そんなときにショッピングモールの店先で電動アイスクリームメーカーを見かけた。冷却用の容器をフリーザーで凍らせるのは同じだけど、手で攪拌するどんびえの三倍の量がスイッチを入れるだけでできてしまう。20分もすわってひたすらかき混ぜなくてもいい。これなら材料の分量が多すぎて使えなかったレシピも使える。「これだ!」とまさに衝動買い。

今、だんだんに凍ってくるダブルバニラをのぞいている。次はワタシの好きなエスプレッソにしてね。

国際結婚

8月22日。ローカルの日本語掲示板をのぞくと、カナダ人と結婚した日本人妻が夫の愚痴を並べた挙句に「どうしてカナダ人ってこうなの!」と憤慨していることがよくある。愚痴自体はだいたいがパートナーのいる女性なら誰でもこぼす他愛のないものだから、けっこう頷いてしまう。

でも、「どうしてカナダ人ってこうなの!」と言われると、はたと余計なことを考えてしまう。そうか、彼女にとって夫は「カナダ代表」なのか。ひょっとしたら、当の夫クンにとっても妻は「日本代表」で、「どうして日本人ってこうなんだ!」とぼやいているのかもしれない。

なるほど、国際結婚とはよくいったものだ。そうなると夫婦喧嘩は国際紛争のようなもので、夫が服を脱ぎ散らかせば「カナダ人はだらしない」、妻が「ちっとも片付かない」と小言をいえば「日本人は神経質」いうことになるわけだ。

でも、ちょっと待って欲しい。カナダ人だ、日本人だとラベルを貼る前に、夫はひとりの男、妻はひとりの女で、どちらも人格を持った一個の人間ではないのか。

「どうしてうちのダンナってこうなんだろう」という愚痴ならば、世界中の妻たるものが「うちもそうなのよ~」と共感すること間違いなしだろうに・・・

大黒柱は太い方がいい

8月23日。政府の統計によると、カナダでは妻の収入が夫より多い共働きカップルが約3割に増えたそうだ。

女性の教育水準向上、雇用機会の拡大、子育て支援制度の拡充などで共働きが普通になったけれども、管理職や専門職への進出が増えたことも一因だそうな。

夫より収入が多い妻は、普通の共稼ぎ妻よりやや年令が高く、就学前の子供がいない人がほとんど。学歴も高く、3割以上が夫より高い。学歴と経験で給料の高いポストにつく女性が増えたということ。

統計局はこの割合は今後もっと増えそうだという。それは女子学生が約6割を閉める最近の大学を見れば一目瞭然。医学部では女性の比率がもっと高いそうな。

子なしの我が家も結婚以来ずっと共働き。初めの15年はごく普通のパターン。ひょんなことでフリーになってワタシの収入がカレシのと並び、この10年以上は二倍以上。三倍近かった年もあった。でも学歴では、カレシは大学卒の専門職でワタシは高卒。

夢に描いた「ニッポン女性」を嫁さんにしたはずが大番狂わせもいいところ。カレシは反撃を試みたものの、慌てたせいか手段を誤って結局は早期引退するはめになり、年金暮らしになってワタシの大黒柱の地位が確定してしまった。

いいじゃない、どっちが稼いでも。夫婦は1本の大黒柱。太いほどいいに決まっている。

収穫の季節

8月24日。行きつけの青果店の前にとうもろこしが山積み。どれも太くてどっしりと思い。近郊で収穫されてそのまま持ち込まれるので、毛ももぎ口もまだ湿っている。地元産でも流通経路を遠回りしてくる大手スーパーのとは味も値段も大違い。

去年は夏が暑すぎて収量が減ったのか値段がやたらと高かったが、暑すぎない今年は豊作のようで、あっという間に値段が下がった。先週は5本で2ドルだったのに、今日はなんと12本で3ドル。「今晩はこれにする?」「グレート アイデア!」とカレシ。

数人が大きなコンテナの周りに群がって、太いのを引っ張り出しては、先っぽの皮を少しめくって実の入り具合を見ている。みんな念入りだから、「不合格」になってコンテナに放り込まれるとうもろこしが右、左と飛び交うことになる。ひじがぶつかり、手がぶつかってはソリー、ソリー。ワタシも一角に陣取って、吟味の上に吟味すること20本以上、先まで丸々と実の入った6本を買った。しめて1ドル50セント。

道産子のワタシには茹でたてトウキビの夕ご飯は子供の頃の思い出につながるうれしいメニュー。今年はたっぷり食べられそう!

池掃除

8月25日。久しぶりに暑く感じる日。カレシが突然「池の掃除をする」と言い出した。待ってました!

家の裏庭に池と落差1メートルほどの滝がある。池はほぼ楕円で縦1メートル、横2メートルくらい。水の深さは約1メートル。10年ほど前に専門の業者がコンクリートを流し込み、コテで荒削りな岩場のように造形して、スプレーでみかげ石模様に着色したもので、ちょっと見には天然石のよう。一年中ポンプで水を循環させているが、冷え込んで表面に氷が張っても、流れる水は凍らない。

毎年春には大きなカエルが住み着き、夜ともなればにぎやかなこと。最初はソロなのがやがてデュエットになり、しばらくすると池の中にオタマジャクシが登場する。ところが今年はしばらく声はしていたものの、住み着いてくれなかった。むりもないなあ。もう2年も清掃をサボったから、藻が繁殖して水も濁りっぱなしで、カエルが子育てできる環境じゃないものね。

仕事がひとつ片付いたところだしと、カレシの気が変わる前にまずは水抜き作業を開始。排水口にホースをつなぎ、小さい補助ポンプも動員して、それでも2千リットルはありそうな水を抜くのに1時間はかかる。次にポンプを止めて、底にたまったヘドロをかき出し、落ち葉や鳥の羽根をすくい出し、藻をかき落とし、ポンプのフィルターもチェックして、全体を水洗い。

これがいつも全部ワタシの仕事になってしまう。ゴム長を持っていないカレシは池の外で、道具を渡し、ホースを動かし、電源を入れたり抜いたりと、まるで手術室の助手みたい。結局、たっぷり1時間以上かかってやっと給水開始。夕飯のしたくの時間になっていた。水は満タンになれば圧力弁で自動的に止まるが、八分目ほどになったところで、待ちきれないカレシがポンプの電源を入れに行く。滝がザアザアと涼しい音を立てて勢い良く流れ始めた。作業完了!

カエル君よ、来年こそはまた我が家の池で大いに恋を語って、子育てしてね!

自負と偏見

8月26日。カナダの大学一年生の国語(英語)には、一種の通過儀礼のように、ジェーン・オーステンの「自負と偏見」が必ず登場する。思い立って入学した通信制大学の学士課程も同じことで、小説を読み通して論文を書かなければならない。成績評価の四分の一を占める最後の大きな宿題なのに、仕事に追われているうちに試験まで数週間に迫った今になってやっと着手。

40年前に経験したカレシは「とにかく退屈きわまりないシロモノだぞ~」という。どうやら苦戦したらしい。確かに文体は堅苦しい。でも、読んでみるとこれが意外と愉快で、1日ちょっとであっさり読んでしまった。

主人公エリザベスのママは5人もいる娘に金持ちの婿さんをあてがおうと必死。まあ、女性の自立なんて考えもしなかった頃のことだからしょうがない。一方、エリザベスの姉ジェーンが恋をする気のいいビングリー君の姉妹たちはとにかく高慢ちき。特にエリザベスを憎からず思っているダーシー君を狙っているキャロラインは、エリザベスの容姿がちっともイケてない、ファッションセンスがダサ~い、と自分をアピールする。

読んでいるうちに読売の「発言小町」やローカルの掲示板にならぶコメントとダブってくるからよけいにおかしい。要は200年以上も隔てて、西洋と東洋の文化を隔てても、「男は三高、女は見た目」はあまり変わっていないということか・・・

うちは二銃士?

8月27日。仕事の途中で道草を食っていたら、おもしろい日本の記事を見つけた。

手をつないだカップルの大半が男性が女性の右側を歩いているという。利き手と関係があるらしい。

つまり、女性の右側なら、男性の右手が自由で、いざ!というときに女性を守りながら敵と戦えるし、ついでに彼女の利き手を握ることになるわけで、男の支配欲も満たされるということらしい。逆に男性が女性の左側なら、女性に利き手を預けるわけで、依存性の甘えん坊ということになるそうな。ただし、これは両方とも右利きの場合の話で、両方とも左利きならその逆になるようだ。

じゃあ、右利きと左利きのカップルはどうなるのだろう。

我が家では、9割がたカレシがワタシの右側に来る。つまり標準的にワタシの右手を握っているわけだけど、実はワタシは左利き。つまり、二人とも利き手が自由という構図なわけで、いざというときは二人で共同戦線を張れるということだろうか。三銃士ならぬ二銃士ってところかな。

カレシにその話をしたら、「そんなことないだろ」となぜかちょっぴり守勢の返事。そこで「うちはそろって利き手が自由だから、敵が現れても戦力は倍だよね」とたたみかけたら、「そういわれるとなんとなく心強いねぇ」ともぐもぐ返事をした。

敵が現れたら、ワタシは手を振り解いてさっさと逃げることにしようかな・・・

嵐の予兆?

8月28日。カレシが、ビデオをDVDにコピーできる新しい道具の接続がうまく行かないと、苛立っている。ヘンな口笛を吹いてみたり、わざとに大きな音を立てたり・・・。機嫌が悪いときの示威行動だ。

手を貸してもいいけれど、ワタシは「ただ今勤務中」だし、そうでなくても頼まれない限り手を出さないのが今の方針。かっては手を出せば「よけいなこと」と怒鳴り、手を出さなければ「なぜ手伝わない」と怒鳴った。うまく行かないことはみ~んなワタシのせい。ワタシが泣いて謝るまで怒鳴った。何よりもカレシを怒らせないようにと、そればかり考えていても、些細なことで爆発した。長いこと、二人があり地獄のどん底に落ち込むまでそうだった。最後に爆発してから数年たったけれども、まだ長いハネムーン期なのか、それとも戦いが終わったのかは判断がつかない。

徹底的なカウンセリングでワタシは元の自分に戻れたけど、カレシが本当に変わったのかどうかを知っているのは本人だけ。だから苛立ちのシグナルを感じると、やっぱり「その日」が来るのかなとふと思ってしまう。来ても怖くはないけれど、このまま年をとって、互いに「あのとき離婚しなくて良かったね」といえるようになりたい気持の方が強いから、つい心が揺れるのだと思う。

だって、まだ愛していることには変わりがないんだもの。

どうやら晴れ模様

8月29日。今夜のカレシは曇りのち晴れ。

頑としていうことをきかないビデオ/DVDレコーダはとりあえずお蔵入りということになった。説明書の通りに何度やってもダメなら機械そのものの欠陥という可能性もある。

ずっと昔、カレシは思い通りに動かない高価な機械に癇癪を起こして、くずかごに放り込んだことがある。カレシの父親にも同じようなエピソードがかなりあるらしい。いわば「この父にしてこの子あり」。でも、今度の癇癪玉は膨らんでも破裂はしなかった。ふう~~

機械と格闘する代わりに、カレシは庭になっている二十世紀梨でシャーベットを作り始めた。クッキングはリラックスするのにいいという。

クッキングに目覚めたのは、家庭共同参画か離婚かと迫られた数年前。退職祝いを兼ねて、キッチンを改装してカレシ専用の小さい流しのついたスペースを作った。道具も全部カレシ専用。ワタシのよりそろっているから、ときどき貸してもらう。

前からサラダやドレッシングは作っていたけど、今はデザートシェフとバーテンダーも兼任。二人でマティニを傾けながらいっしょに作る夕食はいつもグルメ。凝り性なだけあって、カレシが自分で育てたトマトで作るサルサやバジルで作るペストソースは一級だし、クレムブリュレはレストラン並み、となると、もったいなくて別れるなんてできないなあ。

ワタシが仕事をしている間、よくジャズを聴きながらなべをかき混ぜている。クッキングは食べられる「禅」なのだそうな。

そう、人間は死ぬまで食べる運命。年をとったら色気より食い気の方が人生豊かじゃないかな。

秋・・・

8月30日。しばらく前に30度に達する「猛暑」がにつかの間だけあったと思うと、曇りがちになって手のひらを返したように20度以下。この週末はまた少し暑くなるらしい。夏もラストスパートをかけようということかな。

案外こんなところにも、今ここに群れている日本の人に「カナダ人はいい加減だ」といわせる原因があるのかもしれない。バンクーバーの季節はカレンダーの通りに動いてくれないのだ。だから、クローゼットにはいつも半袖と長袖が同居している。出かけるときの服装は窓の外の温度計に合わせて臨機応変で決めればいい。

生粋のバンクーバーっ子のカレシに言わせれば、バンクーバーの季節はつまるところ雨季と乾季だけ。10月に入れば雨の日が増え、しかもこれが桜の季節になるまで、よく飽きないものだと思うほど実によく降る。二十四節季なんて細かい目盛はないから、四季を愛でる繊細な感覚がないといわれればそれまでのことで、ところ変われば人間の感覚も変わるというだけ。

それでも、9月には新学年が始まるとあれば、やはり変わり目を感じないわけには行かない。空の色も心なしか何となく違った色調のブルーに見える。

あ~あ、このままつるべ落としでまた一年が過ぎて行くのかな・・・

カタカナ語の功罪

8月31日。読売の小町でカタカナ英語について議論していた。あれは英語じゃなくて日本語なのだという意見が多い。だから英語の発音など気にせず、日本語の発音で言えばいい。日本語なのだから、という点では大いに同感。同感なのだけれども・・・

子供の頃からあったカタカナ語なら、今でも昔のままの日本語発音でいえる。要するに「日本語」として覚えているからだろう。ところが、過去30年に生まれたカタカナ語はそうはいかない。だいたいは目から入ってくるから、その情報だけで脳みそは英語だと早合点するらしいが、英語としては意味をなさないものが多い。おまけに耳から聞くことがあまりないから、日本語として話しているつもりでも、ワタシを知らない人には日本語に聞こえないことがあるらしく、「なんだ、コイツ?」とにらまれ、へたをするとなんとも不愉快な反応が返ってきてしまう。日本語をしゃべるのがますます億劫になる所以なのだ。

人種にかかわらず、第一印象だけで「外国人だ!」とあわててしまうと、相手が自分と同じ言葉を話していてもわからないという現象が起きることがある。概して自信のない自分を守る防護壁だったりするので、同じ言語でも脳の思考回路の方が早回りして「外国語だ。わかりっこない」と決め付けてしまうらしい。

あるとき日本を旅行中に、マクドナルドでランチを食べることにした。元気のいいお嬢さんに「クォーターパウンダー」を注文したら、きょとんとした表情。二度、三度言い直してもわかってもらえない。しかたがないからカウンターに備えてあった写真入りのメニューをつかんで、「これ!」と指差したら、「あ、○○○ですね!イエス、イエス!」

しばらくして彼女がとっても愛想よく渡してくれた○○○、あれは本当にクォーターパウンダーだったのかなあ。らしくはあったけど・・・