リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2010年8月~その3

2010年08月31日 | 昔語り(2006~2013)
ひらがな、ふりがながうらやましい

8月21日。土曜日。ゆうべは久しぶりに寝酒をやりながらおしゃべりをして、頭をリラックスさせてから寝たせいか、かなり良く眠って、正午ちょっと前に起きた。仕事が詰まっているときはやっぱり自分でそう感じていなくてもどこかでストレスになっているところがあって、そんなときに就寝ギリギリまで仕事をしていると寝つきが悪くなるのかもしれないな。車は急に止まれないというけど、人間の脳みそだって、ハイギアでぶっ飛ばしていたら急には止まれない。いや、どんなに頭を絞っていても、急ブレーキでキキッと止まれてしまう人もいるんだろうけど、いいなあ、そういうの・・・。

きのう、BC州最高裁は「HST反対の嘆願署名運動は、法の要件をすべて満たして、合法かつ有効である」との判断を下した。やった。先頭に立って旗を振ってきたバンダーザームは州首相時代のトレードマーク?だった「メガワット級のスマイル」全開で「我々は勝った」。これで70万人の署名は正式に政府に提出されることになり、政府は州民投票にかけるか、州議会で審議をするかしなければならないんだけど、州民投票には拘束力がない。州議会にかけても与党が多数で一蹴されるのは目に見えている。でも、誰がどっちに投票したかわかってしまうから、与党の議員にとってはつらいなあ。決断は11月の半ばになっているけど、勢いづいた反対派はすでにリコール運動の準備を始めているらしい。おもしろくなって来たぞ~。

お子様向けの日本語本をお子様向けに英語訳しているんだけど、日本語はそれなりのお子様口調なのに英語にするとどうしても大人っぽい口調になってしまう場合が多いもので、めっちゃくちゃに難しい。それをシソーラスをひっくり返しながらお子様レベルの英語にしようと四苦八苦しているうちに、はたと気がついた。日本語の原稿には大人が普通に使いそうな用語も混じっているんだけど、お子様の年令に合わせて「ひらがな」で表記したり、一部の漢字にはふりがながついている。そうなんだ、英語にはアルファベット26文字しかないから、日本語のように漢字が難しければひらがなで書けば良い、あるいはふりがなをつければ良いという便利な抜け道がないのだ。どうりでめちゃくちゃ難しいはずだ。

日本語は、10歳の子供の語彙と20歳の若者の語彙の間では難易度でそれほど大きなレベル差がないのかなと思ってみたけど、この年になっては自分が10歳だった頃の語彙の範囲なんて覚えているわけがないし、20歳の頃の語彙は子供のときから知っていたような感覚で使っていただろうから、わからないな。ワタシが小学校2年生のときに読書力診断テストがあって、中学1年か2年のレベルだったとかで学校中がひっくり返ったらしいけど、20歳の頃には普通の大人レベルだったと思うから、実際のところは就学前からたくさん本を読んでいて語彙や読解力が実年令より先に進んでいたというだけのことじゃないかな。(最近は持っていた日本語の語彙がどんどん減っているような感じがするけど、それはまた別の問題・・・。)

最近の日本ではゆとり教育のせいで学力低下が問題になっているそうだけど、そのいわゆる「ゆとり教育」が1960年代のアメリカの「実験的な」教育を手本にしたものだという評論を読んでびっくりした。あの教育手法は日本で「ゆとり教育」が始まる前からすでに失敗だったと認識されていたように思う。カナダでも1980年代には英語を「母語」として生まれ、英語で教育を受けて来たのにアルバイトの申込み用紙ひとつまともに記入できない若者が増えたと騒いでいた。英語(国語)の授業では独創性や想像力を強調するあまり、「スペルにこだわなくていいから感じたまま書きなさい」と教えたため、「機能的非識字者」を量産したといわれている。アメリカもカナダも、教育の基本に戻ろうと20年以上も躍起だけど、一番の被害者は大人の教育理論の「モルモット」にされた子供たち。日本の「ゆとり世代」もある意味で教育政策の被害者といえるかもしれないな。

さて、今まで気づかなかった日本語と英語の大きな違いに気づいたところで、それではどうやってお子様レベルに訳すのかということになるけど、これは英語の初心者向けに英語で英文法を説明するにはどうしたらいいかというのと同じような問題だと思う。まあ、そこは良くしたもので(かどうかはわからないけど)、英語には「ある物事」を表す言葉がいくつもあって、それぞれに難易度のスケールのようなものがあるから、子供と話している感覚で言葉を選んで表現の方法を工夫すればいいという思う。そうは思うんだけど、表意文字に「補助輪」をつけられるビジュアルな言語と違って、たった26個の表音記号で言葉を綴ってコミュニケーションする言語で年令相応にと言われると、やっぱり「ワタシのエベレスト」だなあ。ま、これだから言語というのはめっちゃくちゃおもしろいと思うんだけども・・・。

ゆとり教育はいいんだけど

8月22日。日曜日。晴れたり、曇ったり。気温は20度そこそこ。白い雲の間から見えた空の青がなんとなく秋っぽい青。うん、8月も下旬に入ったからなあ。仕事の方はど~しよ~なんて頭を引っかいているうちにだんだんスケジュールが詰まって来た。まあ、いつものように、もう待ったなしの状況になったら俄然ピッチが上がって来るかもしれない・・・と、考えるのはやっぱり極楽とんぼなんだろうけど。

たしかにど~しよ~とちんたら頭を引っかいているせいもあるけど、きのうは現在進行形の仕事との関連で興味がわいて、いわゆる「ゆとり教育」、「ゆとり世代」についてググりまくりの読みまりだったのも作業のペース配分がすっかり狂ってしまった一因でもある。最近は「ゆとり教育」という言葉をよく目にするし、その前には文科省が「人の痛みがわかる子を育てる」とか何とかぶち上げていたの覚えているけど、あまり興味を持ったことはなかった(ま、あたりまえといえばあたりまえ)。それが、あれこれ読んでみると実におもしろいもので、ふむふむ、へえ~そうなんだ、と読み漁っているうちに1日の「勤務」時間の大半が消えてしまったというわけ。会社でこんなことをやっていたらクビになっちゃうよね、きっと。

ざっとまとめてしまうと、「個性を重視し、自ら学び、自ら考える教育」を目標に掲げた「ゆとり教育」が本格的に始まった数年前よりもっと前から、「新しい学力観」なるものに基づいて「生徒の個性と自主性を尊重して、学習のプロセスや変化への対応力を重視する」ことを掲げた教育指導要領があって、つまりは少なくとも過去20年にわたって「個性を尊重」する教育が行われてきて、それが社会に送り出した成果物が「ゆとり世代」で、今どきの新卒新人から義務教育の途中から新しい「教育方針」の傘下に入ったいわゆる「アラサー」を含む世代までをいうらしい。先頭集団はそろそろ社会でも会社でも中堅に近づいて、これから指導的な役割を担う地位へと発展して行こうという年代だろうな。

このあたりの世代の問題は、「個性尊重の名の下で『やりたいことだけをやればいい』と育てられてきた」ことで、ある有名な学者?によると、「周囲の人間や社会に対する不平不満、批判が多く、問題を人や社会のせいにしがち」、「物事はうまくいって当たり前と考えるため、少しでもうまくい かないと自信を失ってしまう」、だけど「このダメダメな状況を一気に解決する夢のような方法がどこかにあると信じている」のが特徴なんだそうな。この頃はよくそんなタイプを見かけるけど・・・と思って読んでいたら、あっ、それって小町横丁に増えつつある人種のことじゃないの。そっか。日本の日常(というか日本の若い女性の生態)を知りたくて読み始めた小町で、この10年ほどの間に(ひと括りにするなと言われるのは承知だけど)日本人は明らかに変わってきていると感じていたけど、その変化の「謎」が解けたような気がする。なるほどなあ・・・。

勝手にワタシなりに解釈すれば、官僚が「個性」の尊重だ、自主性の重視だとぶち上げても、肝心の現場の教師も子供を育てる親も「個性」がどいういうものであるかをよく理解していなかったために逆の結果を生んだということじゃないのかな。中学生になっても九九ができないのをその子の個性だからと放置するなんてのは育児放棄の虐待に匹敵すると思うんだけど。今どきの大人は年をとってボケてしまったら困るからといってせっせと頭の体操なるものをやっているけど、子供の頭だってガンガン運動させないとボケてしまうんじゃないのかなあ。いや、「ゆとり教育世代」は想像力や知識の応用力が欠如していると言われるのは、ひょっとしたら頭が運動不足で萎縮しているってことかもしれない。子供の脳はとにかく使わせれば使わせるほど発達するものだと聞いているけどなあ。

個性というのはひとりひとりの人間を(自分とは違う)「個」として認識することで初めて生まれてくる概念だと思う。だから、「個性」の尊重とか重視といった考えそのものを自己の観念の形成を危険な利己主義、個人主義として排除しがちな文化に持ち込んで、「みんないっしょでみんな同じが一番」路線を維持したままで、自ら学んで自ら考える(そして自らの責任でやってみる)個性を育てようとすること自体がどだいから無理な話じゃないのかな。第一、中央政府の官僚が作る学習指導要領に縛られた教育に個性もへったくれもないもんだと思うけどね。まあ、お上がやれと言うことだけをやっていれば考えなくてもいいし、バシッと打ち込まれずにすむんだから、楽と言えば楽だろうけど・・・。

女に生まれたら損なタイプ

8月23日。月曜日。目を覚まさしたのは11時ちょっと過ぎ。今日はシーラとヴァルが昼過ぎに掃除に来るからと、正午にセットしてあった目覚ましをオフにして起床。いい天気でまたちょっと暑くなりそうな気配。先に起きたカレシがエアコンをオンにしていた。

ここのところ(というかけっこう長い間)何となくもたついた気分で仕事が遅れているなあと思っていたんだけど、予定した作業日数のだいたい中間あたりで、ここまでの語数が推定数のだいたい半分。なあんだ、遅れてなんかいないじゃないの。といって、いつもならここでだら~んとなりやすいんだけど、今日は何だかちょっと違うような。緩んでいたねじが少しばかり締まってきたような気がする。ずっと頭の中(あるいは胸の内)でもやもやとしつこく漂っていた霧が晴れて来て、見通しが良くなってすっきりした気分とでもいうのかな。自分でもまだはっきりとは説明できないけど、カレシのこと、カレシとワタシのこと、その間に割り込んで来たヒトたちのこと・・・いろんな「謎」が解けたのかもしれない。

ワタシという人間にはどうも「調べ魔」で「分析魔」みたいなところがあるらしく、いつもどこかで「どうして?」に引っかかっているような気がする。たいていのことは答がわからなくても別にもやもやするようなことじゃないんだけど、それが自分の人生を左右するような「どうして?」となると、何としても答を知りたいと思うことがあるわけで、まあ、誰でも一度や二度はそんな疑問に出くわしているだろうと思うけどね。ま、そういうワタシにとって人間として生きて行く上で重要なことが揺らいで、大きな疑問が常に心の奥にあって、それにやっと「答」が出たということ。それが正解かどうかは別の話だけど、「ああ、そういうことだったんだ」と・・・。

ずっと昔、勤め人だった頃にMBTIという性格タイプを調べるテストをやらされたことがあって、3年おいて2回やって、2回とも「INTP」型と出た。Iは内向型、Nは直感型、Tは思考型、Pは柔軟型の略で、つまりワタシはその4つを組合せた性格タイプということだったけど、女だと損をするタイプらしい。哲学や心理学のような抽象的な思考が得意で薀蓄を傾けたがるので、科学者、研究者、法律家、経営者といった職業に向いているということだった。(あの職業は向いていないと遠まわしに言われたのかもしれないけど。)ただし、「思考型」と対極の「情緒型」のスコアに大差がなかったから、INFP型の要素もあって、どっちともいえないということかもしれない。ま、人間の性格や性向なんて、そんな快刀乱麻のごとく分類できるわけがないもん。

なんとなく精神的な区切りがついた気分になれたところで、何の気なしに自分のブログのバックナンバーをスクロールしてみたら、頭に思い浮かぶままをぶつぶつと書くようになってから、もう4年も経っている。初めのうちはごく他愛のないことをちょこちょこっと書いていたのに、いつのまにやら(やっぱり他愛のないことだろうけど)あれこれをああだこうだと書き散らした、長ったらしい日記になっているから、我ながら呆れる。そんなに長く、しかも毎日のように、よくもそんないいろんなことがこの頭の中をごちゃごちゃと往来しているもんだ。読み返してみれば、たしかに自分自身の変化を映した自分だけの自伝のようなものと言えなくもないか。まあ、だからこそあしたはあしたでまた何だかんだとぶつぶつ書くんだろうけどね。

今日は家の事がたくさん

8月24日。火曜日。暑くなりそうだったので、午前9時前後にエアコンがオンになるようにセットしておいた。ところが、ごみ収集のトラックの轟音で8時そこそこに目が覚めてしまった。いっしょに目を覚ましたカレシが「えっ、今日はごみの日だったの?ごみ、出してない」というもので、来週の収集のときでいいじゃないのと言ったら、「ごみ箱がいっぱいなんだよ」。がばっと跳ね起きて、そそくさと着替えして、(なぜかちゃんと防犯アラームをオフにして)バタバタと外へ出て行ってしまった。寝ぼけまなこのワタシは、あのさ~、トラックの音を聞いてから出しに行ったって間に合いっこないでしょ~がと、ぶつぶつ、むにゃむにゃ・・・。

トラックの音で気づいて、あわててごみ袋を引っつかんで行って、トラックの後を追っかけて、後を歩いている収集係の人に「こもれお願いしま~す」と持って行ってもらえたのは昔の話。今じゃ、自動式といって、市から支給されたごみ容器に入れて、容器を指定された向きに置いておけば、収集係がひとりで大きなトラックを運転して来て、サイドミラーを見ながら運転台のジョイスティックを操作して容器を持ち上げ、ごみをバカッとトラックに空けて容器を下ろして行く仕組み。この頃は熟練してきたと見えて、「一、二、三の四で、はいお次」ってなリズムであっという間にガレージの外を通過して行ってしまう。がっかりしてベッドに戻って来たカレシは「いつもは昼近くでないと来ないのに~」とぶつぶつ。まあ、レーンの西側にある我が家は作業所へ戻る「復路」での回収になるんだけど、今は学校も休みだから、バケーションで留守だったりして、容器が出ていない家がけっこうあるのかもしれないよ。

そうこうしているうちに外は静かになり、エアコンがオンになって、2人とも眠り直し。結局、正午過ぎに起床してみたら、気温はとっくに20度を超えていた。朝食を済ませて、ワタシは(通勤?時間20秒の)オフィスに直行。「大仕事があるのはわかっているけど、何とか~」とねじ込まれてしまって(というよりもねじ込ませてあげちゃったのか・・・?)、この分じゃ半徹夜モードになりかねない。カレシは庭に出て、コンクリートにひびが入って水のロスがはなはだしい滝の修理。手伝ってもらいたそうな、やってもらいたそうなそぶりでやたらと質問しに来るけど、自分で考えてやってよ~っての。この、かまってちゃんの教えてちゃんのやってちゃんが。ワタシは稼ぐのに忙しいんだってば。(だけどなあ、言動がどこかの国のいわゆる「ゆとり教育世代」に似てなくもないかなあ、この人・・・。)

今日の「Must Do」のその1は、エコーの自動車保険の更新。めんどうな排気ガス検査が免除で助かるけど、1,195ドルなり。なんでも来年は1.9%だか安くなるらしい。保険代理店の若い人(つき合いの長い経営者の息子らしい)が「それ、20ドルくらいにしかならないよね」と。まあ、自動車保険を半独占している州の保険公社がめずらしく値下げするって言うんだから、20ドルは20ドルとしてもらっとこうか。

Must Doのその2は野菜の買出し。いつも行っていたKin’sの野菜果物の質の低下がはなはだしいもので、夕食後にセイフウェイの代わりにちょっと離れたIGAに出かけた。ここの野菜果物の質はかなりいい。でも、今日のお目当ては会員カードを持っていると10ドルごとにくれるスタンプ。あと3枚でジノリのサラダボウルを2個もらえるんだけど、行ってみたら一番人気とみえてサラダボウルは品切れ。まあ、カレシがうちのサラダには小さすぎると言っていたから、別にがっかりもせずに代わりに大きな丸皿を2枚。アルバイトらしいレジのお兄ちゃんに3枚だけでいいと言ったのに、結局23枚くれた。(ここにもマニュアル族?)余った20枚でエスプレッソカップ2個セットをもらってまだ余る。せっかくだから、後に並んでいたおばさんに「集めてるんですか」と聞いたら「イエス」と言ったので、20枚そっくりあげて来た。カレシが「200ドル分だぞ」というけど、限定期間があと10日で終わりだし、うちはコーヒーカップも2セットもらっちゃったし・・・。

さて、「家の事」が終わったから、今度は「仕る事」。ぐいっと腕をまくってバリバリ稼ぐか・・・。

サケが母なる川に帰って来た

8月25日。水曜日。今日もちょっと暑め。でも、天気予報はこれで夏の盛りはおしまいのようなことを言っている。まあ、来週はもう9月だし、秋がそこまで来ているってことなのだ。秋といえば「アキアジ」。まあ、北海道のアキアジは北太平洋を一般に西へ回遊する「シロザケ」のことで、東にはあまりやって来ないし、たまに「方向オンチ」が釣れてもdog salmonといって下魚の扱い。もっとも、最近はイクラがサーモンキャビアとして売れるようになって、アラスカでは価値あるサケになっているらしく、この頃スーパーのフリーザーで見かけるsilverbrite salmonというのは筋子を採った後のシロザケの切り身という話。かっての高インフレ時代に一時(英語名のchum salmonでは売れないので)学名のoncorhyncus ketaから「keta salmon」と表示した格安の缶詰をスーパーで見かけたけど、最近はないなあ、そういえば・・・。

今日はフレーザー川を遡上してくる紅ザケの漁が4年ぶりに解禁になった。といっても、今日の正午から明日の夕方までのわずか32時間だから、漁師にとっては不眠不休の勝負どころ。今年は2500万匹が母なる川に戻ってくると予想されていて、100年ぶりの大豊漁が期待されているとか。英語ではsockeye salmon、学名はoncorhynchus nerka、日本名の「ベニザケ」の通り、海から川に入ると体がだんだん赤くなる。上流でわっさわっさと何万匹もがひしめくように遡上して来る頃には、川全体が真っ赤に染まって見えるとか。今年は2500万匹が上って来るとなると、フレーザー川下流で網にかからずに何百キロも先の産卵場まで行き着く数もすごいだろうから、さぞかし壮観だろうな。まあ、ワタシとしてはどっちかというと身がとろっとしていて甘みのある大西洋のサケの方が好きだけど、お膝元フレーザー川で獲れた新鮮なベニザケもいいな。でも、そんなすごい豊漁が予想されているのに、値段の方はあまり安くならないらしいのはどうしてだろうな。

今日は新聞もテレビもタイガー・ウッズとの離婚が成立したばかりの「元妻」エリンのPeople誌とのインタビューの話でもちきりの観がある。今さら何でなの?と批判的な人も(当然)いるけど、マスコミの大騒ぎの中で9ヵ月も黙っていたんだもの、すべてが終わったところで自分の言い分を聞いてもらいたいと思ってあたりまえじゃないの。ワタシは読みながら涙が出そうなって、「そうそう、うんうん」と頷いていた。「裏切りという言葉では足りない。私の世界すべてが崩れ去ったような気がした・・・突然それまでの人生は嘘だったのかと・・・子供たちのために仲直りしようと努力したけど、信頼と愛がなくてはできないことだった・・・」。うん、愛する人に裏切られたときのつらさや怒りは身をもって経験した人でなければ想像もつかないだろうな。それまで虚構の中で生きていたのかと思うと、まるで自分自身がこの世に存在していなかったのかもしれないと感じて、絶望もするし、うつ病にだってなる。「地獄のようだったけど、私は生き抜いた」。うん、エリン、あなたは強い。スウェーデンで自立精神を教え込まれてきたからなのかな。「許すには時間がかかる」。うんうん、それでいいんだと思う。ゆっくりとね・・・。

ある日本の新聞によると、タイガーはエリンは「今でも一番大切な人だ」と言ったという話だけど、はたしてどうなんだか。ふと、ひょっとしたらこの人は「愛着」のような感情は持てても「愛する」ということがどういうことかはわかっていないのかもしれないと感じた。それはともかくとして、この頃の地球上には、何をやっても「I am sorry」と言えば許してもらえると思い込んでいる一応は大人の男が大繁殖しているような観がある。大人が悪いことをして謝ると言うことは、悪さをして叱られた子供がママに「ごめんなさい」と言うのとは次元が違うと思うんだけど・・・。

ワタシの自立はアナタのおかげ

8月26日。木曜日。今日は何となく暑そうで、何となく涼しそうで、まあ「過渡期」ってやつかな。どうしてか知らないけど、目が覚めたらもう午後12時半。寝る前に寝酒をやりながら、ちょっとばかり議論していたからかな。北米でウーマンリブ運動が起こって、女が社会参画を求めて外で働き始めたのは、「自分の経済基盤を持っていない」ことに危機感を持ち始めたからだと思う、と言ったら、カレシ曰く、「5、60年前は男は外で働いて、女は家にいたから、子供にとって安定した家庭環境だった・・・」。

つまり、「女が家庭の外に出たせいで家族が不安定になった(離婚が増えた)」と言いたいらしいけど、ワタシが「経済的に自立していなくて、離婚したら子供を養えために不幸な結婚生活に耐えざるを得なかった女性がどれだけいるかわかってない」と言ったら、「離婚はあったけど、(女も男も)すぐ次の相手と結婚したから、安定していたんだ」と反論して来た。おいおい、何を言ってんの、アンタ?ひとりでも子連れでも、食べて行けないからといって男を渡り歩くような女はいないってば!と、ワタシがいきり立って議論は打ち切りになったけど、あんがいカレシだったらすぐに誰かを探すんだろうなあ。(経済的には困らなくても)自分ひとりではやって行けない男は女を渡り歩く・・・。食べて行けない女と自分のめんどうがみられない男がいっしょになれば、割れ鍋に綴じ蓋式にあんがい安定したりしてね。だけどやっぱり、アホか・・・。

まあ、「男は仕事、女は家庭で、安定した家族環境」というのは、子供の頃から両親が共働きで何かとけんかが絶えない不安定な環境で育ったカレシがひそかに憧れて来た「理想の家庭像」なんだと思うな。結婚する前には「働かないで家にいて欲しい」と言っていたのは、日本人と結婚することでその理想を実現できると思ったからだろうけど、日本の習慣の延長で生命保険のことを聞いたときに「そんなものいらん。自分で食って行け!」とキレたのは、日本的な「妻子を養う」という考えがなかったということだろうな。「キミも働いてくれれば、早くマイホームが買えるようになる」と言ったのもカレシ。あの頃のワタシはカレシの真意までは考えたことがなかった。まあ、まだ新婚気分で浮かれていたし、専業主婦業が退屈でしょうがなかったせいもあるけど、周りの女性がみんな仕事を持っているのを見て、「そっか、カナダではそういうことなんだ」と納得して、喜んで働きに出た。

それが結果的に20年以上たって我が身を救うことになったんだけど、もしも、新婚のときにカレシが「ぼくがガンガン稼ぐから、キミは家にいてしっかりと家事をやってね」な~んて甘いことを言ってくれていたら、中年になってカレシが狂乱してしまったときに、どうなっていただろうなと思うとちょっと背筋が寒くなる。カレシとしてはかわいいオンナノコの国際結婚願望に押し切られて(「次の相手」が控えているわけだから)離婚しようと言い出しただろうけど、仮に離婚したとしても、ワタシはカナダで働いたことがなければ自活できるだけの能力も身についていなかっただろうし、日本に帰っても親はいないし、帰る家もないし、第一に雇ってもらえる年令じゃない。ワタシはどうなったんだろうと想像しただけで、新婚の妻に「働け」と言ってくれたカレシに感謝の気持が沸いてくるから、皮肉なもんだと思う。人生って、ほんとに何がどこをどう回っていつどこでどうつながって来るかわからない。

あのとき背中を押してくれた(というか、お尻を蹴っ飛ばしてくれた)カレシ、そのつもりじゃなかったのはわかっているけど、ワタシが自立できたのは愛するあなたのおかげ。ありがとう~。

降れば土砂降り・・・

8月27日。金曜日。就寝は午前3時だったのに、起床は午前9時の目覚まし。普通に朝早く起きる人にとっては、まるで丑三つ時みたいなもので、あたりまえだけど寝足りない気分。特に目覚ましで起きるといつまでもどよんとした雲が晴れなくて困る。こんな夜中に起きだしたのは、今日はカレシが総合病院の中にある泌尿器科の専門医のところへ行く日だから。先月に取り付けてあった予約は午前10時。もう少し早く起きて地下鉄で行くと言っていたのが、行きだけ車で行くから、一緒に来て車を運転して帰って欲しいと言い出していた。理由は「30分長く寝られる」から。ワタシは、一緒に起きれば9時過ぎに送り出した後すぐに仕事にかかれるば遅れ気味なのを取り戻せるかなあ・・・と胸算用していたんだけど、まあ、何となく雨っぽい空模様だし、しゃあないか。

超特急で朝食を済ませて、車に飛び乗って出発。大学系統の泌尿器科のある建物の外でカレシが降りて、ワタシが運転席に移って、帰りなんいざ、と道路へ出たあたりからかなりの本降り。オークストリートからブロードウェイに出た頃にはものすごい土砂降りになってしまった。バケツどころか温泉地の大浴場をひっくり返したような降りようで、ワイパーを高速にしても追いつかないくらい。キャンビーの上り坂では、信号で止まって発進するたびにハンドルが微妙に逆らうし、お尻にズズズズズというタイヤが空回りしている振動が伝わってくる。なにしろ、この2ヵ月くらいまともな雨が降らなかったもので、道路は油が浮いて「スリップ注意」の状態。ひやひや運転しているうちにずっと前を走っていた図体のでかいトラックに追いついたら、これがまたやたらとのろのろ運転で、(減速、加速をやるたびにズズズズとなるもので)えいっと追い越して前に出たら、「ブワァ~ッ」と大音声。アホかいな。ペーパードライバー歴80%のワタシはあんたなんかよりもスリップの方が何倍もコワイのよ。

メガ土砂降りの中をひやひやしながら走っていたら、クィーンエリザベス公園に近づく頃にはごく普通の雨。ラジオでは「ダウンタウンは土砂降り」と言っているのに、そのうち青空が見えてきた。家に着いてみたら、庭には土砂降りの雨が降った形跡はない。どうなってんだ、この天気?時計を見ると10時過ぎ。ああ、この1時間があれば前半の見直しが終わったかもしれないのに。それでも、あくびをかみ殺しつつ仕事をしていたら、雨にぬれずに帰って来たカレシの第一声は「加齢現象だとさ」。どうやら問題は前立腺か。「オレの年だとよくあることだと言われた」ということは、専門医はさして緊急性を感じていないということか。これから3ヵ月の間にPSAの検査やら腎臓の超音波検査やら再診やら。この「悠長さ」がカナダの医療事情を反映しているんだけど。まあ、本人が「オヤジも肥大症やったらしいしさ」と、意外とのんきな構えだから、一応は安心しておこう。

朝食が早すぎたので、めずらしくおやつを食べて、ワタシは仕事、カレシは庭仕事。いつのまにかまぶしい青空が広がっているけど、気温は20度に届かず、やっぱり秋空のような色。やれやれ、1本目の仕事はあと3日分は残っていそうだけど、残り時間は1日半か。ひらがなばかりのお子様向けだから、あまり文章がないように見えて、ページ数がすごいからけっこうな量になるし、Flesch-Kincaidのスコアをチェックしながらの作業だから手がかかる。かわいいイラストがてんこ盛りで、「楽しいよ~」と子供の興味を引こうという狙いはわかるとしても、こと細かに指示して、結果を聞いて、しまいに「想定内」の結果が出たかどうかを確認するあたりは、なんとなくマニュアルを読んでいるような感じもしないではない。なぜか「原因究明(Why?)」がほとんどないところが気になるけど、今どきの8歳児の関心なんてそんなもんなのかなあ。

あ~あ、仕事前線も降れば土砂降り、雨あられ・・・か。

プリクラしたモナリザ

8月29日。日曜日。寝つきはちょっと悪かったけど、ぐう~っすり眠って、正午少し前に起床。なにしろ、傾斜30度の坂を上るような勢いでぐいぐいと仕事を進めて、午前4時半に終了。おお、やった~。ゆとりっ子のお子様とあれやこれやと2万語に及び会話をしたようなもので、いや、くたびれる。やりながら、子育てするってこんなようなもんかなあとつらつらと思ってみたりしたけど、ほんと、疲れるなあ。だけど、呻吟したかいがあって、なんとかうまく読者レベルに合った「作品」になった。ただし、内容のレベルは少し幼いような気がしないではない。まあ、私が書いたわけじゃないから、好き勝手に言えるんだけど。

あまりバンバンとキーを叩いたので、目が覚めたら両手がはれぼったくて、うずうずと痛い。またぞろばね指にならないと良いけどなあ。伸ばした両手をつくづくと眺めると、ひゃっ、指の関節の形がごつごつだし、指全体があちこちで微妙に曲がっている。指関節は両側から押すと痛いもので、この頃は握手する場面に遭遇すると困ってしまう。いるからなあ、グイ~ッと握りしめてくれる人。そういう人に限ってやたらと図体が大きくて、開けっぴろげに屈託がなくて、力がすごい。こっちは罠にパチンと手をはさまれた小動物のようなもので、相手の手にすっぽりとはまってしまった手は引っ込めようにも抜けて来ない。ほんとに罠と同じで、もがけばもがくほど感激?して熱く応えてくれたりする。あの、熱烈友好はわかったから、ワタシの手、返して・・・。う~ん、今ここでこの変形性関節症が悪化するのはまずいよね。医学と工業技術の進歩で、股関節や膝には人工関節があるけど、手の指にはまだないんだもん。手の甲には血管がうねうねと浮いてるし、ま、これも加齢現象ってことでしょうがないんだけど。

とにかく、仕事の間の「端境期」はあれやこれやとデスクの上に積み上がった懸案事項を超特急で片付けなければならない。劇団への寄付と来シーズンのチケットの注文。ライター連盟の会費の支払い。どれも月末が期限。請求書も書かなければならないし、銀行へ行って手元の現金を出して来なきゃならないし、また「不在」扱いになった(ほんとにチャイムを鳴らしたのか・・・アヤシイ)小包を郵便局までとりに行かなければならないし、ええっと、他にも忘れているものはないか・・・。こんなときにはカレシが事務方を担当してくれるとありがたいんだけど、帳簿付けをやってあげるよといったのはいったい何年前だったか。これでも会計士なんだよね、この人。ま、いいか。一見して手のつけられない「madness(狂気の沙汰)」の中にだって、ワタシにはワタシ流の「秩序」というものがあるんだから。ほんとに。

だいたいの事務処理が済んだところで、気晴らしにしばらく見てないJapan Probeをのぞいてみる。遡って行って目に止まったのが「プリクラの進化」。へえ、まだそんなものがあったのかと思ったら、あったなんてもんじゃない。何と、「デカ目」機能や「美肌」機能で、まるで「種類の違う瓜二つ」みたいな写真を撮ってくれるというから、「カワイイ」追求もついにここまで来たかとびっくり。どこかのテレビ局がレポーターを送って「ルポ」。これがけっこうおもしろい。これならどんなオンナノコでもデカ目、美肌で、たしかに「カワイイ」と言えるかな。でも、イケメンといわれそうな男性レポーターが試したら、渋谷あたりのギャルたちに「きゃはは、キモっ」とやられてしまった。たしかに極端に中性的でちょっと気味が悪い。

ダヴィンチの「モナリザ」を使って実験したら、みごとに初々しいお嬢さまのような表情に変貌。そっかあ、モナリザだって13歳くらいの頃はこんなかわいい顔だったのかもしれないなあ・・・と感心して眺めているうちに頭の上で100ワットの電球がポッ。あはあ、今どき日本の若い女性たちがひたすら追求する「カワイイ」の理想像というのは、他でもない「幼女顔」だったのか。幼い子供は顔全体に比例して目が大きい。まさに小顔にデカ目そのものだから、幼い子は誰だってかわいく見える。だけどなあ、アラサーだか何だかの「一応の大人」が幼女顔になりたがるのはちょっと気味悪い感じがするんだけど。そういう「カワイイ」が男にもてるんだとしたら、日本の男は「ペド趣味」ってことになる・・・のかな?まあ、オタクとかアキバとかいう若者文化には何となく幼児化への流れが感じられるから、今どきの「カワイイ志向」は倒錯というよりは幼児化なんだろうと思うけど、この人たち、10年後、20年後にはどうしてるんだろう。次の世代の若者たちに「イタイ、キモイ」と言われているのかなあ・・・。

ドラマの法廷シーンで、ペリー・メーソンのような弁護士が真犯人にダメ押しの証拠写真を突きつけて、「写真は嘘をつかない」と言っていたのは、もう遠い大昔の話。デジタル時代の写真は嘘つき、でっちあげ、虚飾の道具なのかもしれない。ふむ、「写真」(真を写す)という漢字そのものがもう時代遅れで実情に合わないことになるから、「フォト」に言い換えてみる?

アンバーアラート、子供は無事

8月30日。月曜日。いい天気だけど、もう暑くはない(さほど涼しくもないけど)。「ワタシのエベレスト登頂大作戦」の初戦をとにかく全力疾走でゴールインして、ひと息。おかげでぐっすり眠った。そうでないと後が大変。だって、あと3ヵ月間に第2戦、第3戦、第4戦と続く長丁場だし、その合間に別の戦線でもゴリアテを相手に細腕で戦わなきゃならないんだから。そういえば、いつ頃の話だったか「24時間戦えますか」なんて華々しく勇ましい広告があったっけなあ。ま、おなかが空いて(腹は減っては何とかというから)24時間は無理だけど、月月火水木金金でやるか。いや、そのくらいのペースでやらないとダメだろうなあ・・・。

きのう、ラジオを聞いていたら、突然「アンバーアラート」という特別な緊急放送が始まった。これは1990年代半ばにアメリカで9歳の女の子が性犯罪者に誘拐されて殺される事件があって、誘拐犯の特徴や乗っている車のナンバーがわかっていながら報知する手段がなかったためにみすみす幼い命が奪われてしまったことに教訓を得て始まったもので、今は自動的に放送局や道路情報の標識に情報が送られるし、最近はツィッターも利用しているらしい。きのうのは12歳の男の子が祖父母の家から実の父親に無理やりに連れ去られたというものだった。「連れ去られた子供が危害が加えられる恐れがある」というのが発令の判断基準のひとつだから、たとえ実の父親であっても、何らかの事情で警察が「危険」と判断したことになる。ラジオをつけたままでいると、5分か10分おきに警報がなって、車を発見したら警察に通報するようにとの呼びかけがあるから、こっちも心配になってくる。テレビをつけると、連れ去られた子供、連れ去った父親、共犯の(子供の)祖父と親戚の青年の写真入りで報道されていた。

この事件はショッピングセンターで写真を見た人が父親と子供を目撃したと通報して、数時間で解決してほっとしたけど、一夜明けた昼のニュースでは、保護された男の子が(一緒に住んでいないらしい)母親と祖父母に囲まれて、「パパにんな風に髪の毛をつかまれて、肩をこんな風につかまれて・・・」とあざか引っかき傷のできた肩を見せながらそのときの様子を話していた。複雑な事情があって裁判所が母方の祖父母を親権者に指定したらしく、警察の判断と重ねると、どうやらDVのにおいがするな。実の親による誘拐の場合、親が「自分のものにならないなら、誰のものにもさせない」という心理だったら、子供は殺されてしまうこともある。今まで州で発令されたケースはすべて子供が無事に保護されて解決したけど、大半は親による連れ去りだったという。無事を喜ぶおじいちゃんにしっかりと抱きついていた子供の後姿が壊れてしまった家族の愛憎を物語っているようで、ほっとしながらもちょっと胸が痛んだ。いつの世も大人がすることで割を食うのは子供たち。そうでなくても子供にとっては育つことだけでも大変なのに、「おとなこども」に振り回されるのはえらい迷惑だよなあ、ほんと・・・。

フレーザー川を遡上してくる紅ザケの大群は、推定数が3千万匹に上方修正。たった1日半の漁でさえ、獲れすぎてしまって冷却用の氷が足りない、処理する人手が足りない、保管場所が足りない。まあ、母なる川に帰ってくるサケの数が激減して、4年も禁漁になっていたから、さもありなんだけど。漁師から直接買うと安いと言うことで、スティーブストンの桟橋には長蛇の列。3、4キロのが30ドル前後らしいけど、円高の円にすると獲れたての大きな紅ザケが1キロあたり約千円ってことかな。(物価の動きが違うから、円にすると高いのか安いのかわからなくなるけど・・・。)野菜を買いに行ったら、隣にある魚屋の外に「紅ザケ1本、ポンドあたり5.99ドル」という看板が出ていた。川の上流へ行けば先住民の漁師が道路わきでトラックに積んだ紅ザケをその半分以下の値段で売っているという。こんなに獲れちゃって、食べきれるのかなあ・・・。

秋来たりなば、遠からじは?

8月31日。火曜日。8月最後の日。午前7時ちょっと前に轟音で目が覚めた。正確には(といって時計が正確かどうか保証はないけど)午前6時54分。今日はごみ収集の日だけど、7時前って、まさかあ。市のパンフには「ごみは収集日の午前7時までに出すこと」って書いてあるけど、それは(始業時間の)7時より前には収集に来ないってことでしょうが・・・あ、今日は水の配達の日でもあった。それでも、まさかあ。目が覚めたついでにトイレに行ったら、わっ、ものすごい雨。本気で降っている感じ。雨の音に気が休まったのか、ゴミの収集やリサイクル車の音も電話が鳴っていたこともどこ吹く風とばかりにぐっすりと寝なおして、起床は正午過ぎ。

電話は寄付とチケットの注文を送った劇団。締め切りに間に合わせて処理してくれるとのこと。寄付金と同額を理事会が寄付すると言うキャンペーンは今日が期限。ま、こういう文化的な組織だと理事会のメンバーには地元の裕福な名士が多いから、よ~しと腕をまくって300ドルの小切手を送った。補助金は減らされるし、HSTのおかげで税金が上がってチケットの売れ行きが落ちるしで、劇団も交響楽団も美術館も台所は苦しい。福祉や医療に優先的にお金を回すべきなのはわかるけど、世の中がギスギスしてくるほど「情操」を養うって大切じゃないのかなあ。

ママは今週中に退院できそうだけど、とジムからメッセージ。できそうだけど、ママはあまり乗り気じゃないらしい。医者にもリハビリの進歩が遅いと言われて「急がないからいいの」と言ったそうな。「ここの病院のホスピスはいいらしい」と言い出したと聞いて、おやおや。カレシ共々なんとなく好ましくない予感がしてきた。ジムは「ホスピスは死ぬ人が行くところで、骨折しただけで不治の病気じゃないから入れてもらえないよ」と言い聞かせたそうだけど、ママはここのところ日々抑うつ状態と諦観の間を揺らいでいるとか。ママらしくないなあ。高齢者が思うように動けない状態になるとうつ病になりやすいそうだから、退院して自分の生活を取り戻すまでの一過性のものだろうと思いたいけど、やっぱりママらしくない。だんだん心配になって来た・・・。

日本では、妹の次男坊が転落事故で「顔面多発骨折」の重傷を負って4週間近くも入院。顔は(こともあろうに20代最後の誕生日に)数時間に及ぶ手術で修復したけど、顎の機能回復や折れた歯の治療など、まだまだ先は長そうな話。まあ若いんだから身体的な回復力はあり余るほどあるだろうし、がんばってすっかり回復する頃には精神的にもしっかりした頼もしい男になるんじゃないかと思う。つくづく事故は老いも若きも関係なく起こるものだと思ったけど、それにしても、医療制度が整っている日本の病院で土曜日「しか」手術できないというのはどういうことなんだ。カナダの病院では夏休みシーズンになると人手不足で手術の予定をカットすることが多いけど、そういうカナダの医療体制とあまり変わりがないような印象で、ちょっと意外。とにかく、甥っ子よ、サムライの国の男だ、石にかじりついてでも全快までがんばれよ!

けさの雨は8月の1日の雨量としては新記録だそうな。6月末からこのかた70日の間に降った雨はたったの15ミリだったのに、1日で55ミリを超えたというから、マザーネイチャーも気まぐれだなあ。おまけにポーチの最高気温は午後3時になってもやっとのことで12度と、8月とは思えない涼しさ。週の後半にはまたちょっと「夏が」ぶり返すらしいけど、明日から9月。秋は確実にそこまで来ているという知らせだなあ。


2010年8月~その1

2010年08月11日 | 昔語り(2006~2013)
掲示板もブログも狭い世間

8月1日。日曜日。今日から8月。新しい年が明けて、オリンピックが来て終わって、日本へ行って帰って来て・・・と思っているうちに気がついたらいつの間にか8月かあ。だけど、その間にバスルームの改装も無事終わったし、日本にいる間に他界したパパの散灰と追悼パーティも無事終わったし、仕事もちゃんとしたし、まあ、いろいろあっていつもの1年ということになるんだろうな。老後の日々を考えるような年になったら、あまり派手な出来事はない方が良さそうという気もする。

起きてみたら、ちょっとうす曇で、正午前のポーチの気温は摂氏14度と、かなりの下がりよう。天気予報はまたぞろ暑くなるようなことを言っているから、ちょっとひと休みというところか。このあたりでひと雨ほしいところだけど、湿度は平年より高めなのに大気中には雨になって降るほどの水分がないんだそうな。ま、40日以上も雨が降らなかった夏でも、恒例のPNEが始まったらジンクス通りに雨が降り出したから、あと2週間もすれば雨が降り出すかも。もっとも、降り出したら降り出したで、みんな今度は「いつまで降るんだ~」とぼやき出すんだけど。

カレシが菜園で使う土や堆肥を仕入れに行きたいと買うというので、郊外の大きな園芸センターまでトラックでドライブ。その辺の量販店の園芸コーナーで10キロくらいの袋入りで売っている土は中が見えないのをいいことに?木っ端やら石ころが混じっていたりするから、自分で袋詰めできるのを買うことにしたらしい。レジで先に代金を払って、2、30キロは入りそうな厚手のビニール袋をもらう。駐車場の隅にある置き場まで大きなカートを押して行って、備え付けのシャベルで自分で袋に詰めるわけで、ワタシは袋が倒れないように押さえていて、一杯になったら店で買った園芸用テープで口を閉めるのが役目。庭土が2袋、堆肥が1袋、マッシュルーム栽培農場で廃用になった馬糞土が2袋。合計5袋で20ドルとちょっと。袋詰めを買うよりはもちろん格段に安いし、質も目で確かめられるからいい。

帰ってくる頃にはけっこう気温が上がっていて、暑いのでそのままだらだらとネットサーフィン。産経ニュースのサイトに詳細に載っている秋葉原事件裁判の被告人質問のやりとりを読みながら、この人は自分の気持を言葉どころか行動でさえうまく表現できない人なんだろうと思った。掲示板での荒らしやなりすましに対してはひどく婉曲的な脅しを書き込むことで「やめて欲しい」という気持を察してもらおうとするばかり。だけど、誰もやめてくれないし、事件を起こすという脅しも止めてくれなかったから、結局は決行せざるを得なくなってしまったということなのかなあ。「すべてが自分の考え方のせい」・・・まさに期待されている(と思っている)通りに答えているようなところがある。子供の頃の母親の虐待といえるような仕打ちが自分を持てない人、というよりはいい子を演じているうちに「自分」という存在から乖離したような人にしてしまったのか・・・。

ふと思ったのは、もしこの人が掲示板に参加するかわりに個人のブログをやっていたら、少しは違った結果になったのかということなんだけど、どうなのかな。掲示板とブログはまったく性質が違うものだと思うから、そこでの人との交流も性質が違うんじゃないのかな。掲示板はその名の通り、メモやお知らせのようなものが張り出されて、それについていろんな人が多角的にやりとりするし、張り出した本人そっちのけになることも多々あるし、でっちあげのネタでトピックを挙げて反響をおもしろがる不届きな輩もかなりいる。いうなれば掲示板はいろんな人が集まって来る「井戸端コミュニティ」のようなものかもしれないけど、どれがどこまで本当の話なのかわからないし、匿名を隠れ蓑にして誰彼かまわず叩いてやろうと構えている人間も多そうなので、参加がためらわれる。それでも、現実の世界でさびしい人にとっては住みやすいところのように感じられたりするのかもしれない。

一方のブログはというと、(少なくとも日本語で一番多いといわれる形態は)誰かが日記帳を広げっぱなしにしておいて、通りかかる人が勝手に読むのにまかせているような感じかな。それが自己顕示でも自己満足でもいい。たまにgooの「ランダム」のボタンを押して見るけど、実にいろんなブログが百花繚乱という感じがする。(ブログで嘘の自分を演じるのはなんだかなあと思うけど、そういうのは何となくそれとわかる・・・。)ブログだってトラックバック機能を使った多角的交流もあるし、ランキング入りやアフィリエイト商売が目的になっている中身のないものもあるけど、だいたいのところはブログに記事を書いた人と(コメントする、しないにかかわらず)それを読んだ人との一対一の「静かな」接触だろうと思うな。

どっちにしても、参加する、しない、あるいは読む、読まないの選択肢はアクセスした人が持っているんだけど、あんがい何かの理由でのめり込んでしまうとその選択肢を行使できなくなるのかもしれない。マウスのボタンをクリックすればいいだけなのにね。まあ、画面の向こうに広い世界があるというのは幻想で、実はインターネットの世界は現実の世界とは比べものにならないほど狭くて、玉石混交の膨大な情報という「魔物」があてもなく徘徊しているだけの真っ暗な空間のようにも思えるな。もしもそんなところに迷い込んでしまったら、頼りになるのは「自分」というコンパスだけ。そのコンパスをなくしたら、仮想現実空間を彷徨することになるのか・・・。

懐かしいけど恋しくはない

8月2日。月曜日。連休最後の日。気温は午前11時半ですでに20度。今日は暑くなりそう。朝食前に菜園の水遣りをしに外へ出て行ったカレシが「ちょっと蒸してるなあ」といいながら入って来た。たしかに相対湿度が70%近いのはちょっと高すぎだなあ。でも、週末には雨が降りそうな予報だから、それまでの我慢てことかも。う~ん、ほんとに降るのかなあ・・・。

とりあえず仕事をひとつ片付けてからちょっとだらだら。どうもこのところだらけているという実感がするけど、暑くても夏バテするほどには外に出ていないのに、どうしてかな。なんとなくやる気が出てこない。そんなときに限ってやたらとごちゃごちゃした仕事が入って来るから困る。だけど、これが1週間も2週間も何もせずにの~んびりと過ごせる休暇だったら逆に病院に入院しちゃったような気分になってしまいそうだから困る。ふむ、仕事から離れて休むことを「休暇を取る」というけど、仕事から完全に離れる、つまり辞めるのも「暇を取る」というのはおもしろいな。仕事がなければ休みがないだけの暇か。休みがない暇って精神的にきつそう。昔は奥さんが離縁して出て行くときも「暇を取る」と言ったらしいけど、休みも暇もない主婦業を辞めるってことかなあ。ふむ、こっちの方は感覚的に何となくわかるような気がしないでもない。まあ、そんなことをだらだらと考えているワタシはいったい何をやってるんだか。暇じゃないんだから、休んでもいられないだろうに・・・。

だらだらとのぞいていた小町に「海外に住んでいて日本が恋しくない人はいるか」という問いかけを見つけた。小町には日本が恋しくて恋しくて、というトピックがよく上がるけど、恋しくない人はいるかというのは初めてで、おお、けっこういる、いる。日本が窮屈だったから。日本で疎外感があったから。いじめられていたから。機能不全家庭で育ったから。恋しくない理由はいろいろだけど、日本が嫌いだからという人はいない。みんな「日本は懐かしいけど(日本という国・社会は)恋しくない」。ワタシの場合は、日本を離れて初めて日本人が語る「日本」をよく知らない自分を思い知ったということもあって、知らないものは好きにも嫌いにもなれないので恋しいと思う以前のことかもしれないけど、「生まれ故郷(北海道)」はやっぱりいつまでも懐かしい。恋しいとは思わないのは、故郷が遠い昔の記憶になってもう「帰るところ」ではなくなったからだろうな。日本を離れて長く、定住地での生活が確立している人たちの書き込みが多いのも、たぶんそうした心境に達したということだろうと思うけどね。人間いたる所に青山ありっていうじゃないの。

何だか妙に元気付いたような感じがして来たところで、ちゃっちゃと仕事をやっつけてしまおう。明日の午後が期限だってのに、だらだらしている暇なんかないのだ。ま、まずは真夜中のランチで腹ごしらえをしてからだけど・・・。

親は子を捨て、子は親を捨て

8月3日。火曜日。まだ、ちょっと暑い。薄雲が広がって、外はかなり蒸し暑いらしい。なんだかずっと暑い、暑いと騒いでいるようにも思うけど、まあとにかく今年は全体的に暑い。雨なしは今日で31日だそうな。ただし、58日という記録には遠く、遠く及ばないのは幸いというか。

朝食もそこそこに、いつのまにか2つになっていた今日の午後が期限の仕事の仕上げ。なかなか気合いが入らないんだけど、とにかくやらなきゃ商売上がったりだから、がんばるっきゃない。ということで午後いっぱい一心不乱?にがんばって、無事完了。がっくりくたびれた気分。どうしてかなあ。体は元気なんだけど、とにかく気持がぐずぐずしてついて来てくれない。どうしてだ?

ママの骨折した大たい骨の手術が無事に終わって、もうホームに帰りたいと周囲をせっついているらしい。しらばらくは自力で生活するのはもちろん無理なので、(ひとり暮らしの)ジムがガールフレンドのドナが通って来て介護するから自分の家に来ればいいと提案したら即刻却下されたとか。まあ、政府から身の回りの世話をするためのヘルパーが派遣されるらしいから、ママにとってはホームの自室で好きなように過ごす方が気楽でいいということか。

テレビでは、年老いた女性が子供のときに捨てた4人の息子たちを相手取って生活費を請求する裁判が11年も続いているというニュース。母親が行方をくらまし、当時15歳だった息子のひとりは自活するために学校をやめて働き、今は妻と共に細々とビジネスを営んでいるという。BC州では子供に親の扶養義務を課した法律があるそうで、第二次世界大戦前の大恐慌の時代に作られたまま、他の州ではすでに廃止になっているのにそのまま残っていたらしく、それを盾にひとり月750ドルを要求しているんだそうな。15歳のときからひとりで生きてきた息子は、それでは自分たち夫婦の老後どころか子供たちの将来まで犠牲にしなければならないからと戦う姿勢で、その話を聞いた弁護士が無料で弁護を引き受け、政府も急遽法律の廃止を検討し始めたとか。親の仕送りで大学を出たおかげで成功して裕福に暮らしているというのならまだしも、今さら身勝手に捨てた子供たちの前に現れて生活費をよこせと訴訟まで起こすなんて、そりゃあないんじゃないかなあ。

一方、日本では所在も生死もわからない100歳を超えた高齢者たちがかなりいるらしい。だいたい、厳格な戸籍制度や住民登録の制度で国民の動向を追跡している日本で何年も生死さえわからないままの人がいるということ自体が不思議だけど、お役所はいったい何をやってるんだろうな。今は年老いた娘や息子に聞けば「出て行った」と、100歳になろうという親が出て行ったきり帰って来ないのにちっとも心配じゃなかったような説明。年令からしておそらく所在不明の人たちはとっくに死んでいるだろうけど、いったいどこでどんな風に一生を終えたのか。残した屍はどうなったのか。子供たちがネグレクトや虐待で次々と命を絶たれたり、年老いた親がどこかへ行ってしまっても我関せずだったり、集団社会の最小単位ともいえる家族の結びつきこんなにも希薄なものなのかと思うと、もう結婚する意義も、子供を育てる意義もなくなったような感じさえして、なんだかやりきれない・・・。

頼る子供のいないワタシ、カレシしか身寄りのないワタシだから、親の扶養を義務づける法律があってもなくてもどうってことはないか。だけど、独居老人が誰にも気づかれずに孤独死していたのが見つかったという話は聞かないから、(そういうことがまったくないわけではないだろうけど)いつかワタシもうんと年を取ったら、ワタシの政府がヘルパーを差し向けてくれて、ボケたら施設に入れてくれて、死んだら無縁墓地のようなところに葬ってくれるんだろうと、極楽とんぼ的に楽観しているけどね。まあ、カナダの役所は意外におせっかい焼きだから、少なくともどこかで生きているのかどうかもわからないまま何十年なんてことにはならないだろうけど・・・。

近いようで遠いような

8月4日。水曜日。今日も暑くて、今日もなかなか気合いが入らない。困ったなあ。明日の夕方が期限の仕事があるのに、大丈夫なのかなあ。と思いつつ、仕事にかかろうと思っても、頭が半分眠ったまま。というか、いくら揺すっても目を覚ましてくれないような感じ。あんがい頭じゃなくて、体のどこか別のところで「目を覚ましたくな~い。このまま眠っていた~い」と言っているのかもしれないけど、それでは困るんだよなあ、やるべき仕事があるんだから。仕事をやって、お金をもらって、それでご飯を食べて生きてるんだから・・・。

日本のメディアが刻々?と報じる所在不明の超高齢者の数をアメリカやヨーロッパのメディアは「feeding frenzy」と評している。サメの群れが大きな餌に競ってかぶりつく狂乱状態のことで、media frenzyとも言って、要は過熱報道合戦のこと。でも、日本のメディアの関心は家族や社会の絆の破綻に向いているけど、海外には「日本人の平均寿命は世界一」という統計に疑問を投げかける記事があって、視点の違いがおもしろい。たしかに、人口1億2千万人の国に100歳以上の人が4万人以上いたら、平均寿命の計算にかなりの影響があるとだろう。その数の中に実はとっくに死んでいる人たちがたくさんいるとしたら、政府が世界に発表する統計の信憑性が崩れてしまいそうだな。まあ、役所が問い合わせても回答や接触を拒否する人たちが多いそうだから、人口統計なんかよりもっともっと大きな問題がもっと根本的なところに潜んでいるように思うけど。

おりしもバンクーバーでは、カナダの犯罪史上最悪の連続殺人と言われる事件で、裁判で提示されなかった証拠や証言の公開禁止命令を解除する判断を示した。裁判そのものは郊外で養豚業を営むロバート・ピクトンという男が6人の売春婦を殺害した罪で第二級殺人で有罪になった事件。連邦最高裁が被告の再審請求を却下したことで、州の検察がさらに20人の売春婦の殺人についての起訴を取り下げ、今日の解禁になった。この事件では、カナダで最も貧しい地区といわれるダウンタウン・イーストサイドから何十年もの間に何十人もの女性たちが行方不明になったのに警察も行政も動かなかったことが明るみに出た。多くは十代のうちに機能不全家庭や虐待を逃れるために家出したものの、助けを得ることができないまま酒やドラッグに溺れて売春婦になった女性たちだった。家族から捜索願が出されていた女性たちもかなりいたそうだけど、警察も行政も相談されても肩をすくめるだけで腰を上げなかったのは彼女たちが社会の最底辺で生きていた人たちだったから。陰惨な事件が明るみに出たことで、福祉活動家たちが支援に乗り出したし、警察も対応の誤りを認めて謝罪したけど、行方のわからない女性たちのいったい何人がピクトンに殺されたのかは永久にわからないだろうな。

いなくなった人が20代、30代、あるいは40代なら、どこかで働いて暮らしているんだろうくらいに思って放っておかれてもしかたがない場合があるかもしれないけど、10代の子供や高齢の親のような自力で生活できない年代の家族が姿を消してもそのまま何もしないというのは、やっぱりおかしいよね。家族って何なんだろうと思ってしまう。読売新聞の調査では、親類との付き合いも近所づきあいも半数以上が「礼儀を欠かない程度」と答えたそうだけど、この「礼儀」って何だろうなあ。冠婚葬祭のような「義理」を果たすことなんだろうか。同じ調査で半数以上がひとり暮らしになって誰もめんどうをみてくれなくなる「不安」を感じていたという結果はどう解釈すればいいんだろう。家族の絆も、人と人のつながりも・・・ほんとにいったいどこでどうなってしまったのやら。

燃え尽きたくはないのです

8月5日。木曜日。目が覚めたとたんから、今日は暑いぞという予感。ダウンタウンでは正午前にもう気温が25度を超えていた。それでも今年はまだ夜通しエアコンをかけずに過ごせているからから、去年に比べたらまだましなんだけど、いやあ、やっぱりあっつい。なぜか寝つきが悪くて、しっかり眠れなかった後はよけいに暑くて、体の芯から疲労感が漂ってきそう。

きのうは仕事を終わらせようとがんばったんだけど、力が出なくて1時間くらい横になってしまった。その後でふと思いついて血圧を測ってみたら朝よりも低くて、下はなんと52。いつも低めなのは確かだけど、下が60を切ることはめったにない。何なんだろうね。そういえば、ここのところつらつら考えることが何となくくら~い感じだったりするなあ。ウツっぽくなるような要因は特に思いつかないんだけど、まあ、別にめまいがするとか、寒気がするとか、朝起きられないといったことはないから、たぶん大丈夫なんだろう。けさはちゃんとフツーに107/66だったし・・・。

今日の空模様は曇っているのかいないのかイマイチはっきりしない。土曜日に待望の雨の予報だけど、これはその先駆けの雲というよりは、内陸部のあちこちで燃え盛っている400ヵ所以上の森林火災の影響だとか。何千、何万ヘクタールという大規模な火災で巻き上げられた煤が流れてきて、大気の質が低下したために、メトロバンクーバーにも呼吸器疾患のある人に注意報が出ている。(今年の森林火災消火の予算はとっくに使い果たしてしまったとか・・・。)

何はともあれ、朝食もそこそこに、午後5時の納入期限に向けて大車輪。やる気が出ないとか、気合いが入らないとかグチグチ言っていた割にはピッチが上がって、間に合うかと懸念した仕事は20分の余裕を残して納品。やれやれ、切羽詰らないとギアアップできないとしたら考え物だな。だけど、なのだ。指定された「変更部分」だけやればいいといっても、手をつけなくていい部分があまりにもこてこての日本語的英文なものでやりにくいことこの上ない。ググり回って見つけた貴重な参考資料も「ん?ん?ん?」な英文だからよけいにやりにくい。ワタシはこれでも一応は日本語ネイティブだから、ああ、日本語ネイティブが英訳したんだなとわかる。そんなときいつも思うんだけど、どうして高学歴の英語ネイティブに少なくとも文法チェックくらいは頼まないんだろうなあ。そんなこと、英語が「できる」日本人のプライドが許さないのかもしれないけど、正直なところネットに載せられるレベルとは言えないし、これで料金をもらうなんてとんでもないと思ってしまうもん。ま、人さまのことだからいいけど、やっぱり、あ~あ・・・。

ふむ、こんなことをグチグチ言ってるからウツっぽくなるのかなあ。この頃はなんだか愚痴っぽくなったような気がしないでもない、とちょっと反省してはみるけど、この仕事、20年以上もやっていたら、駆け出しの頃のような知らぬが仏の怖いもの知らずのガッツが失せてしまってもしょうがないかもしれないな。でも、二度目の燃えつきだけは何が何でもゴメンだな。もっとも、どうみたって燃え尽きてしまいそうなペースでは仕事をしてないんだけど、つまり疲れてウツっぽくなるのは寄る年波のせいってこと・・・?ま、いよいよあしたは半年も前から特上席のチケットを買って待っていたシルクドゥソレイユのKOOZAに行く日。日本はもう金曜日の午後になっているし、神様、守護天使様、どうかこの週末は仕事が入ってきませんように・・・。

シルクドゥソレイユはこうじゃなきゃ

8月6日。金曜日。ちょっとだけ涼しげな感じ。天気予報はまだ明日には待望の雨が降るとか、降らないとか言ってるけど、ま、それを信用するかしないかは明日になっての話。そういえば、ヴァルが知り合いのお嬢さんとやらが明日の土曜日に市内のヴァンデューセン植物園で結婚式をするんだと言っていたっけ。夏の花が咲き乱れる植物園での結婚式かあ・・・雨、降らないといいね。

朝食が済んで、メールを開いたら、あっちゃあ、仕事だ!もう、神様にいいですから~って言ったのになあ。送信時間を見ると、日本時間午後7時すぎ。そうか、店じまいと入れ違いに入って来たのか。それにしても、日本の会社は社員に残業をさせすぎ!ちょっとなの通ったような会社で誰かが残業すると、連鎖で関係のあるところがみ~んな残業をせざるを得なくなるらしい。電車が30秒遅れただけで大騒ぎする国なのに、時間の「価値」のとらえ方がどこか違うんだろうな。やだなあと思いつつ、参考資料と一緒にファイルに保存したら、あちゃ、別のところからも仕事だ!もう挟み撃ちだ。まあ、あわせても半日程度の仕事だからいいんだけど。週末にお仕事でスミマセン・・・なんて、ほんとはそんなことぜ~んぜん感じてないないんでしょ?ね、ね、すなおに白状しちゃいなさいって・・・?

シルクドゥソレイユの開演は8時だけど、VIPパッケージのラウンジは7時に開いて、お酒が飲み放題、ちょっとしたオードブル食べ放題。(ほんとは食べるよりは、VIP専用の駐車場とトイレがあってめんどうがないのが魅力なんだけども。)入り口でタグを首にかけてもらって、(これもパッケージに込みの)記念プログラムをもらって、シャンペンのグラスを渡されて、開演までギフトショップを眺めてぶらぶら。独特の衣装やメークを反映してTシャツのデザインもかなり斬新だけど、ふむ、Tシャツはもう何枚もあるし、クリスマス飾りもいくつもあるし・・・と思っているうちにすぱっと目が合ってしまったのが30センチ四方くらいの一枚のミックスメディアの絵。カレシとああだこうだ言っていたら、ショップ担当のお兄ちゃんが寄ってきて「お買い上げ品はショーが終わるまでお預かりしておきますよ」と、悪魔の囁きみたいなことを言う。そうねえ、9割がた誘惑されてるんだけど・・・。

半年前に買った席は前から2列目のど真ん中。開演時間のちょっと前に大きなテントの中の席に着くと、さっそく道化師たちが場内を駆け回って雰囲気を盛り上げにかかる。「Mad Dog(キチガイ犬)」という名前の着ぐるみのワンちゃんがステージの端で足を持ち上げたかと思うと、カレシのすぐ横の通路にシャーッ!KOOZAは前評判の通り、シルクの「原点」に立ち戻ったような構成。かってフランコ・ドラゴーネと肩を並べてシルクのクリエイティビティのブレーンだったデイヴィッド・シャイナーが古巣に戻って来て作ったのがKOOZA。なるほど。2人がシルクを離れてからは徐々に「シルクらしさ」がなくなっていくような感じがしていたけど、やっぱり企業的なメカニズムでの「創造」は難しいということなんだろうか。

シルクドゥソレイユを楽しみたかったら、他の曲芸団やサーカスと比べて技術的のどうのこうのと論評するのは野暮ってもので、テントの外の世間などすっかり忘れて、感覚に身を任せて、思いっきり笑って、思いっきり息を呑んで、思いっきり童心にひたるのが一番。ほんとに、これこそシルクの真髄とでもいうのか、感動的だったAlegriaに次ぐすばらしさ。キャストにロシア名前が多いのは、ソ連崩壊で生活の場を失ったサーカス芸人たちがシルクの戸を叩いているからだろう。ロシアの損失はシルクの利益ってことか。涙が出るくらい笑って、手が痛くなるくらい手をたていて、休憩時間にはとうとう件の絵に100%誘惑されて買ってしまった・・・。

北米ではママに叱られた子供が「ボク、家出してサーカスに入っちゃうから!」と脅しをかけるのが昔からジョークの定番になっているけど、こんなサーカスだったら入ってみたいような気もして来るなあ。まあ、仕事は明日までお預けってことにして、今夜は楽しい夢を見て眠ろう。

器はどれくらい大きくできる?

8月7日。土曜日。目が覚めて、ん、なんか涼しいぞ?という感じ。おお、雨だ、雨が降っている。雨が降るのは33日ぶり?34日ぶり?カレシは「庭に出てみろよ、気分がいいぞ~」とはしゃいでいる。スモッグやら森林火災の煤やらで、晴れているはずなのに背後の山並みがぼうっとかすんで見えたていたから、ほんとはもうちょっと本格的な雨降りだといいんだけどな。

ウィスラーからペンバートンを過ぎてさらに北へ65キロのミーガー山のカプリコーン氷河が溶けて、とてつもない規模の「岩なだれ」が起きて、土砂がミーガークリークとリルエット川をせき止めたために、長さ1キロの「湖」が出現したとか。秒速30メートルで斜面を流れ下った幅300メートル、長さ2キロの土砂の量は4千万立方メートル。ダウンタウンにあるスタジアム15個分というけど、ちょっと想像しがたいな。ここは火山性の地質の上に氷河が載っていて、地盤が不安定で、ちょくちょく土砂崩れが起きるらしい。川をせき止めたダムは徐々に崩れて一気に崩壊する危険はなくなったとかで、下流で一時出された避難勧告は解除されたそうだけど、雪崩の現場の写真を見ていると、「現場」という言葉ではとうてい言い表せない規模で、ほんとに自然の力は驚異的としか言いようがないと思う。

自然の力に抗えないからなのか、その中で生きる人間はなんだかんだ言いつつ身近なところでしか自分の威力を発揮できないのかなあと思うことが多々ある。どうしてそう見えるのかという説明はエライ専門家にやってもらうとしても、自分という「よりどころ」がないか、あっても信頼できないでいる人ほど、何か痛いところ(=コンプレックス?)に触れられると猛烈に他人を攻撃するきらいがあるように見える。このあたりは小町の井戸端会議を「傍聴」していて常々思うことではあるけど、あんがい自分が一歩下がってみるまでは割と気づかないんだろうなと思う。つまりは痛いところを客観的に見てみるということなんだけど、なにしろ、意識している、いないにかかわらず(常に気になっている)痛いところに触られたもので、その痛さをがまんできなくて、一歩どころか半歩下がるさえままならないという人たちもいるだろうな。

ひと昔前に大衆心理学で「I’m OK. You’re OK」という表現が流行った。つまり、自分という人間を肯定できれば他の人間も肯定できるということで、ワタシもたくさんの本をドクターに読まされたし、自分でも求めて片っ端から読んだ時期がある。たしかに、「私はこういう人間で文句ないよ(I’m OK)」とすなおに言えたら、目の前に現れる人それぞれに「それがあなたという人間だから(You’re OK)」と言えて、どんな人を相手にしてもかなりうまく対応でできるんじゃないかという気がする。それが「器」と呼ばれるものであるのなら、人間の器の大きさは(4千万立方メートルは無理だろうけど)誰だって広げようと思えば広げられるものなのかもしれないな。だったらどうして自分の器を広げようとしない人が多いように見えるのか。ひょっとしたら、他人ばかり、他人に映る自分ばかり、あるいは他人と比較した自分ばかり見ているから、自分と他人の間の線引き、つまり心理学でいうboundary(境界線)がぼやけてしまって、どれが自分の器なの区別がつかなくなった状態なのかもしれない。自分と他人どころか、自分と「集団」の間の線引きさえあいまいになっているような人もかなりいるけど、そこまで行ったらどんな社会に身をおいても生きにくいんじゃないかなあと、よけいなお世話ながら考えてしまう。まあ、例によって、仕事にかか
る前のワタシの雑念雑考・・・。

ここのところ何となく冷蔵庫の冷凍室の凍り具合が悪いなあと思っていたら、中のものがほとんど半解凍の状態になっていた。あわてて貯蔵フリーザーに移したけど、今日は土曜日だから、修理屋に連絡がつくのはあさっての月曜日。誰かが来てくれるまでに少なくともさらに2、3日。修理屋が来たところで、前の冷蔵庫のときのように「あと数日の寿命」なんてことにならないとは言えない。あのときは翌日すぐに新しいのを買いに行って、それが届く前日に「寿命」になった。夕食のしたくをしながらああだこうだ相談して、前からもうひと回り大きいのが欲しいと思っていたからこの際、ということでとんとん拍子に明日新しいの買いに行くことになった。

それにしても、カレシのPCも瀕死の状態で、前にも似たような現象があったけど、家の中のものってどうして申し合わせたように同じ時期にいっせいに壊れるんだろうなあ。「同じ組合だからかな」と、緊急事態にしてはキレるどころかえらく鷹揚に構えているカレシ。はあ・・・?

誕生日に新しい冷蔵庫

8月8日。日曜日。まだちょっと雨が残っているような空模様。ポーチの気温は正午でやっと13度。大気汚染注意報は解除だそうで、涼しいけど、空気は清々しい。夏、ひと休み・・・。

ゆうべは冷蔵庫の突然死騒動で、完全に解凍してしまったコーンを捨てるのがもったいなくなって、なぜか午前4時にスープ作り。熱いまま鍋にふたをして就寝。カレシは大きな容器に少しだけ残っていた白キムチがもったいなくて、その場で全部食べてしまったら、一晩中「ああ~」だったそうな。ほんっとにもう、あわてて全部食べなくたって小さい容器に移せば、予備の冷蔵庫に何とか保存できたのに。だけど、ワタシが仕上げなければならない仕事と取っ組み合いをしている間に、頼まれないうちから急遽(自分の野菜専用の)冷蔵庫の霜取りを決行して、牛乳や卵を収容するスペースを作ってくれたからエライ。うわっ、ありがと、ありがと。助かったあ~。

一夜明けた冷蔵庫。こっちはほんとにもうダメだ。一応はまだ稼動しているんだけど、冷凍庫はちょっと低温の冷蔵庫に、冷蔵庫はピクニック用クーラーにダウングレードしたような状態。それならば、とカレシの冷蔵庫に入らなくて残されてしまった「できればキープしたいもの」を救出して「冷蔵庫に変身した冷凍庫」に移動して、朝食もそこそこにリッチモンドにあるひいきの家電の店へ直行。前回は収納場所の寸法を測らないで行ってひと回り小さいのになってしまったから、今度はリボンを渡して結び目で印をつけて万全の準備。ショールームで見るとどれも家で見るよりは大きく見えてしまうんだよねえ、なぜか。ショールーム心理学なんてものがあるのかどうか知らないけど。

ショールームではずらっと並んだ冷蔵庫にリボンを当てては「小さいなあ」。まあ、中が効率よく収納できるデザインなら今のと同じサイズでもいいんだけど、使いにくそうなものもけっこうある。そういうのに限ってやたらと値段が高いの、ワインラックだとか、何だとか、よけいな機能を満載しすぎたせいかな。多様化する(おしゃれな)ライフスタイル向けのデザインということなのかもしれないけど。最終的に選んだのは韓国のLG社製のシングルドアで冷凍庫が下についているモデル。壊れたのよりひと回り大きくて、容量は上と下で合計700リットルくらい。冷凍庫は引き出し式になっていてなんとなく使いやすそう。製氷皿を置く浅い引き出しもあって、製氷装置が見えた。外してもらおうと思ったんだけど、メーカーが生産を終了したので、これが最後の在庫品だから、300ドル値引きすると言われて、製氷装置のことはケロッと忘れることにした。

月曜日に現品を店から倉庫に移して、火曜日にドアの開きを変えて(料金25ドル)、水曜日に配達(配達料60ドル)。壊れた冷蔵庫の撤去料が20ドルで、合体した売上税12%が加わって、しめて2千ドルなり。ノートブックが2台買えてしまいそうな値段だけど、もうひとつ「これは?」と思ったひと回り小さいモデルに比べてなぜか消費電力も少ないようだし、冷凍冷蔵庫はもう必要不可欠の生活必需品だからしょうがないな。まあ、この不便はあと2日の辛抱・・・。

今日はカレシの誕生日なのに、冷蔵庫騒動のあおりでお祝いは延期。ええっと、今日からいくつだったけ、あなた?「39才だよ」とカレシ。じゃあ、騒動が落ち着くまであと何日かは38歳を楽しめるってことよね。「うん、急いでないからね」とカレシ。それにしても、しげしげと見たらなんと10年前よりもずっと若々しくてイイ男になったよねえ。ワタシはタテマエ主義者じゃないから、もちろん本音。正真正銘のホンネだってば!ワタシがそう言ってるんだから、ちょっとは喜んだらどうなの、アナタ?そういえば、先だってのディナーパーティでは、「5歳しか違わないのに、年の差婚だと思われて困る」ってヴァルとリッチにこぼしたら、ヴァルに「20歳以上違ってそう」と言われて、「たった5つしか違わないのに~」と口をとがらせていたねえ、アナタ。アジア人の嫁をもらったら、若いときには年が釣り合っていても、年を取るにつれて「見た目の年の差」がどんどん開いてくるってことなんだろうな。ま、オレはずっと年下の女に惚れられるくらい魅力的なんだ、ざま~みろ!と胸を張って歩けばいいんじゃない?とりあえず、ハッピーバースデイ!

それをいっちゃおしまいなの

8月9日。月曜日。2人ともけっこう良く眠って、目が覚めたらもう正午過ぎ。日が差していないせいでベッドルームが暗いせいもあるかもしれない。今日もまだちょっぴり小雨模様。最高気温は15度まで上がるのかどうか。でも、窓の外の緑はほこりを落としてさっぱりして見えるからいいな。雨が降らずに暑い日が続くと、緑もしんなりとだれてしまって、よけいに暑苦しく見えるうもの。

きのうはプラス2度くらいだった冷凍庫内の温度が10度まで上がっていた。モーターは動いていて、風は回っているんだけど、ちっとも冷たくない。あ~あ、これじゃあ冷蔵庫にもならないよ。ひょっとしたら故障の原因は冷凍庫の自動霜取システムの異変かもしれないな。何がおかしいのか、ちょっと端っこを押しただけで大きな冷蔵庫全体がキコキコと変な音を立てる。バラバラと分解しちゃうんじゃないだろうなあ。まさかとは思うけど・・・。とにかく、あさっての午後までの辛抱なんだからがんばってよ、と言ってみたところで始まらないか。たまたま天気が崩れて急に涼しくなったのがもっけの幸い。ワタシの人生、やっぱり「たまたま」で成り立っているみたい。

さて、朝食が済んだところで、久しぶりに洗濯機を回しながらの仕事、仕事。でっかい買い物をしたから、がっちり稼がなきゃね。今日は何となくエンジンのかかりぐあいがいいのは、きのうの閉店間際にいやでも目が覚めるような知らせが来たせいかな。少々大きめのちょっと変わった翻訳プロジェクトを受注したと言うお知らせで、サンプルを担当したワタシにという話。これ、なにしろ対象となる読者が特殊だから、すっごく難しいんだよなあ。だけど、だけど、無名の絵描きが展覧会で金賞をもらったような、売れない小説家が思いがけず芥川賞をもらってしまったような、なんだか「認められた」という気がして、頭がふわ~っとなるくらいにうれしいな。これから数ヵ月、「ワタシのエベレスト」の頂上を目指して、武者震いして、気合いを入れてがんばらなきゃね。

この有頂天の気持をしばらくじっくりと味わっていたいんだけど、とにかく目の前にある仕事を片付けるのが先決。まずは今どき日本の職場環境や対人観がちらりと垣間見える文書。いろいろあるんだなあ、ややこしいんだなあ、めんどくさいんだなあ、大変なんだなあと、つらつらと思いながら粛々と訳して無事に完了、納品。次の仕事にかかる前にひと息ついて、ぶらぶらと小町横町を散歩。タイトルを見ただけで、いろいろあるなあ、ややこしいなあ、めんどくさそうだなあ、大変なんだなあと思うトピックが相変わらずだけど、「あれ、まずいんじゃないの」と思ったのが『日本人がかわいそうと思うとき』というトピック。すごい数の書き込みを見ればわざわざ開けてみなくても、トピックの主が袋叩きにあっているだろうとは想像できる。小町横丁では、海外在住の日本人が(居住国と比べて)日本や日本在住の日本人のことを「悪く」言うのはタブーなんだけどな。(逆は大いに結構らしいけど・・・。)

この「かわいそう」という言葉、いくつか違った意味合いがあるように思うんだけど、元々が複雑な感情のものでなかなか難しい。和英辞書を見れば「かわいそう」に相当する語がたくさんある。大きく分けるなら、相手が対処しかねているかもしれない「痛み」を感じ取って、何とかしてあげられないものかと思う「かわいそう」と、相手がその気になれば対処できる欠点や難点をあげつらって、自分がそうじゃなくて良かったと思う「かわいそう」の二通りの目線があるように思うけど、小町横町の住人が「かわいそう」というときはたいていが後者だな。たぶん、このトピックの主も「日本人なのに故国を貶すなんて、外国かぶれのかわいそうな人なのね」と、さんざんに言われているんだろうな。「それをいっちゃあおしまいよ」と言ったのはフーテンの寅さんだったっけな。

ワタシもよくあれこれと日本のことを話題にするけど、大変じゃないのかな、窮屈じゃないのかな、生きにくくないのかな、めんどうじゃないのかなと、野次馬的なことは考えても、「日本人はかわいそう」とは思わないなあ。だって、日本は民主主義の国で、みんなが変えようと思えば社会の仕組みなんかいくらでも変えて行けるのに(表層的な現象以外は)変わらないように見えるということは、変えたくないか、あるいは今のままで過不足なしという人が多いってことだと思う。だったら、かわいそうなんて言葉はお門違いってものでしょうが。

たぶん、もしも誰かが「医療制度も何もかも(日本と比べて)劣悪で、カナダ人はかわいそう」と言ったら、ワタシはたぶん「へえ、そう見えますかねえ」と言うだろうな。だって、傍目にはもどかしく見えるかもしれなくても、カナダ人はカナダ人なりにのんびりやっていてそれなりにハッピーだし、民主主義もまともに機能しているし、よその国と比べて「劣って見える」ところがあるからって、自分たちはかわいそうだなんて考えたこともないだろうと思うなあ。人間は自分のことがうまく行っているときには他人に対してすごくやさしくなれるもんだから、(自分たちに比べて)よその国の人たちはかわいそうだとひそかに思うことはあるだろうな。誰も彼も人間のはずだから。

死力を尽くしてがんばれよ

8月10日。火曜日。正午を過ぎて目を覚ましたら、うん、今日はかなり明るい。急に暑くならないといいけどと思いつつ、起きて瀕死(というかとっくに脳死状態)の冷蔵庫をチェック。下の冷蔵庫はすでに室温に近い温度になっていて、ただの戸棚も同然。上の冷凍庫はなんとか17度。これじゃあ冷蔵庫にもならないけど、少なくともまだそれほど冷やさなくてもいい食品を入れておける。家電屋からのメッセージが入っていて、明日の冷蔵庫の配達予定を確認の上、到着の30分ほど前に連絡するとのこと。おい、明日の午後までだよ、明日の午後・・・。

きのうは引き受けた大きなプロジェクトをワタシが「勝ち取った」みたいに持ち上げられて、すごくウキウキしてはしゃいで、おかげで今日はその前の仕事にかかったばかりなのに、もう何となくくたびれた感じ。いいのかなあ、こんなんで。頭の血の巡りを良くしたほうがいいんじゃないのかなあ。そのためには、そこいらをぐるっと走って、もうちょっと血圧を上げないといけないんじゃないかなあ。なんか武者震いなんて気取っている場合じゃないような気がするんだけど。

加齢現象のひとつなのかどうかはわからないけど、ときどきは「もういいよ~」という気分になる。まあ、人生、60年を超えて、その間には険しい山も越えたし、谷の底を這いずり回りもしたし、そのおかげで山頂からの眺めも楽しんだし、谷間の穏やかな風景にほっとしたりもしたから、これもまたその山か谷か森の中ってことなんだろうと思うけど、今はやっぱり「もういいよ」と座り込みたい気分かな。ほんとに「ワタシのエベレスト」になるかもしれない仕事が目の前にそびえていると言うのに、どうしてなんだろう。定年まであと何年と指折り数えている人たちも、きっとこんな気分なんだろうな。人生にじゃなくて、仕事をすることにちょっと疲れてきたのかもしれない。指を折って数えてみたら、ワタシも「定年」まであと2年と8ヵ月と2週間になった。

まあ、そのときになってみたら、「まだまだやれる」なんて腕まくりしてしまうかもしれないけど、現役でいる間はちゃんと仕事をしよう。ふむ、なんだか瀕死の冷蔵庫の最後のがんばりをほめてやりたくなってきた。おい、明日の午後までだからね。明日の午後まで、気力を振り絞って、死力を尽くしてがんばれよ・・・って、なんだか日本人的でもあるような。ま、ワタシもがんばるか・・・。