旅枕の夢は
10月1日。ワタシのコンファレンス出席を兼ねてのニューオーリンズ行きは出発日が当初予定から2日ずれて11月1日に変わった。
コンファレンスは正味3日だけども、出席は1日だけだから当初の予定でよかったのだけど、ニューオーリンズを立つ日の夜に同業仲間のパーティがある、ということで、自称トラベルマネジャーのカレシが、到着日と出発日を遅らせ、二人分で大枚250ドル近くの手数料を払って飛行機の予約を変更した。ニューオーリンズのホテルの予約変更も完了。と、そこで初めて、帰りに立ち寄るサンフランシスコでの日程が1日減ってしまったことに気がついた。ああ、たったの二泊三日!
でも、サンフランシスコはいつでも行ける私たちの逃避地。所要時間はフェリーを使ってバンクーバー島へ行くのとあまり変わらない。いつでも思い立ったときに行けるのだからいいかということになったところで、「ホテルはどこにする?」とカレシ。まだ予約をしていなかったらしい。
サンフランシスコの宿はウィンドウショッピングができるユニオンスクエアと決めている。(実はカレシのお目当てはかっこいいキッチン道具の店。ワタシをティファニーあたりにほったらかしてそっちへ行ってしまう。後で後悔しなきゃいいけれど・・・ね。)最後の夜に必ず行くレストランのあるウェスティン系のセントフランシスは何しろ高いから特別なときだけとして、マリオット(東急系のパンパシッフィックだったのが今年マリオットに身売り)かニッコー(日航)ということになる。よし、今度は7年ぶりにニッコーにしよう。
不思議なことに、もう少し若かった頃は飛行機は稼ぎに飽かせてビジネスクラスに乗っても、ホテルは寝るだけの格安ホテルでよかったのに、年と共にそれが逆転した。飛行機は窮屈な格安便でいいから、ホテルは高くてもくつろいで安眠できる方が良い。睡眠の質の違いは翌日に響く。折りから北米ではトップレベルのホテルチェーンはハイテクベッドや贅沢さを売り物にするようになった。ウェスティンもマリオットも最新モデルの高級ベッドを入れている。マリオットのSealy製のベッドは最高に快適だった。果たしてニッコーはどうだろう。7年前は夜半過ぎに道路を隔てたヒルトンに観光バスが集結してうるさかったから、カレシはごていねいに「ヒルトンからずっと離れた部屋」を指定して予約を入れた。
在宅で仕事をしていると、物理的に家を離れなければ心理的にまとまった休暇がとれない。大好きなサンフランシスコでの飲み食い三昧は何よりの骨休め。まあ、ねじり鉢巻で頑張っているのだからそれくらいのご褒美をしてもいいだろう。カレシが色気より食い気に改宗(?)したのも何かの縁に違いないし、5泊6日の旅、二人して大いに食道楽してこようね。
魚、ばんざい
10月2日。今日の夕食のメニューはアヒのピカタ。アヒはハワイあたりで獲れるキハダマグロ。最近は冷凍したものが出回っている。
この数年の間にずいぶん魚を食べるようになった。別に魚が嫌いだったわけではなくて、30年前のバンクーバーでは、レパートリー不足の駆け出し主婦には、スーパーに並ぶ魚の種類が少なすぎたのだ。当時あったのは、ご当地の魚の代表サケ、それにヒラメとタラ。スーパーの魚のセクションはせいぜいワタシの体の幅程度。あまり魚を食べなかったのだろう。カレシにいたっては、魚といえばパパが日曜に釣って来る鮭だけだったそうだ。
それがいつの頃からか少しずつ種類が増え始め、アジアからの移民の急増と共に爆発的に増えた。高級レストランでもいろいろな魚がメニューに登場する。行きつけのスーパーには中国系が多いせいか、何メートルもあるフリーザーに名前を聞いたこともない魚がたくさん並んでいる。珍しいもの好きのワタシは興味を引かれるとつい買ってしまうので、我が家の大きなフリーザーにも多彩な魚介類が詰まっている。
ざっと中身を調べたら、紅鮭、スナッパー、おひょう、ギンダラ、アヒ、バサ(ベトナム産なまず)、ティラピア、ニジマス、キュウリウオ(北海道でチカと呼んでいた)、ホタテ、イカ、タコ、カニのむき身、アサリのむき身、半殻つきのムール貝、小エビにブラックタイガー、イクラ、キッパー(燻製ニシン)と、まるで魚屋の在庫表のようだ。専門の魚屋へ行けばもっといろんなものがある。つい20年前でも想像できなかった。バンクーバーの食生活はほんとうに豊かになったものだと思う。
簡潔にといわれても
10月4日。最後のエッセイの採点が戻ってきた。思ったより良い83点。これで累積49点になった。10日後に迫った試験。まだ何も準備をしていないけど、少し楽になった。
小説の時空間を観察したアングルがおもしろい、背景資料や引用の選択や使い方が良い、でも今回はちょっと抽象論が多い、とのコメント。
エッセイのテーマに「限られた時空間」を選んだときは、「時代」と「地理的空間」を考えていた。男女の出会いから結婚にいたる過程にからむ「自負と偏見」を異文化婚、異人種婚に重ね合わせて議論するつもりだった。ところが、書き始めてみると、相当な資料を必要とする壮大な議論になって来てしまった。これではとうてい規定の語数には収まらない。人間はどうしてこんなに言葉が多いのだろうと、ちょっと恨めしい気持にもなる。
あわてて空間を「心理的空間」に切り替えた。男女の求愛は「限られた時空間」での儀式、恋愛小説の「時空間」はいつの世も、どこの世界でも同じだ。しかもこの空間は「物理的空間」に平行すると同時にこれを超えて広がる・・・。
たぶんこのあたりから抽象論になったようだ。でも、ワタシの目は生まれつき乱視と近視と遠視がごっちゃまぜ。そんな目で物事を見るから、考えることもピカソの絵のように抽象的なのかもしれない。視点や思考がどこへ発展するかわからない。ということは、案外、簡単なことまで自分でややこしくしているのかもしれない。言は簡を尊ぶとはいうけれど、しかし・・・
ちょっとそこまでお買い物
10月5日。感謝祭を月曜日に控えて、7キロもある七面鳥を解凍するためにフリーザーの底から引っ張り出したのはいいけれど、何やかやで冷蔵庫はがら空きの状態。ミルクもコーヒーも野菜もそれこそ在庫一掃だ。仕事はまだ終わっていないけど、とにかくカレシの英語教室が終わったらスーパーで落ち合おうということになった。
することがたくさんたまっていたところでちょうどいい。もう1ヵ月近くも持ち歩いている小切手を入金しなくちゃ。野菜を買う現金も引き出してこなくちゃ。会議でのパーティ参加の申し込みに米ドルの送金為替も必要だし、、ワタシ書箱の郵便も引き取らないと溢れてしまう・・・。結局、早目に家を出て、近くのモールへ早足で直行。まずは銀行の用を全部済ませ、ついでに慈善募金のかわいいブタの貯金箱セットを買ってしまい、郵便局ではついでに切手を買ってやっと先月分の請求書をポストに入れ、ドラッグストアでトラベルサイズのコンタクト保存液を見つけて買い、急がなくちゃとスーパーへ向かう途中に通りがかったのがエレクトロニクスの店。
そうそう、旅行には新しいデジカメがいるんだっけ。6年ほど使ったカメラはこの前の旅行で電池の蓋の爪が折れて使えなくなった。店の前のショーケースに並ぶカメラはどれも小型化してすんなりとカッコよく見える。前のがフジだったからまたフジ・・・なんて考えているうちに、ポケットのケータイが鳴った。カレシが「ちょっと遅れてるんだけど・・・」
今日は何と「ちょうどいい」が多い日。そのまま店に入って、店員さんにショーケースからいくつかカメラを出してもらった。どれも手のひらに載る小ささで、しかも軽い。どれがいいのか迷ってしまう。でも、ニューオーリンズ行きまであと4週間もない。えいっと、セールの札がついていた高くも安くもないカメラに決め、ついでにメモリーカードも買った。
たまに一人で用足しに出るとついこんなふうに「ついで買い」になる。カレシはいつも「稼いでばかりいないでたまには好きなものを買えよ」とそそのかして?くれているのだけど、ファッションには興味がないし、目的のないおでかけはあまり好きではない。それでも、たまの衝動買いはけっこう楽しい。ほんとうにごくたまのことでもあるし・・・。
DELIRIUM
10月7日。7月からチケットを買って待っていたシルク・ドゥ・ソレイユのDELIRIUMがとうとうやって来た。ホッケーのアリーナを使ってのミュージックショー。熱狂的なシルク・ファンのワタシは首を長くしてこの日を待っていた。
アリーナは初めてだから、駐車する場所探しを考えてかなり早めに家を出た。ダウンタウンに入ってみると予想もしなかった混雑。歩道も同じ方向へ人の列が続く。アリーナのすぐ近くのドームではプロフットボールの試合があったのだ。パーキングメーターもびっしりと車が並んでいる。とにかくドームから離れればどこかに空きがあるかもしれない。のろのろ運転で右折、左折しているうちに車の流れが良くなったと思うと、前の車が急に左折した。煌々と「P」のサイン。思わず「ここ!」
地下三階の駐車場を出て、アリーナまでは5ブロックほど。ドームとは別方向に流れる人波があったので、迷わずに間に合った。DELIRIUMとは精神の錯乱状態のことをいうけれど、狂乱、熱狂という意味もある。席に落ち着いた私たちもすでにdeliriousな気分。
ケベックの大道芸人たちが集まって始めたシルク・ドゥ・ソレイユは伝統的なサーカスの観念を根底から変えた。光と色と音楽の中で肉体の美と能力の限界を追求しているといえる。DELIRIUMではこれに映像メディアという次元が加わった。
細長いステージとその上の空間を風船に釣られた人間が漂い、ミュージシャンやダンサーやアクロバットが次々と登場する。時折薄い幕が引かれてスクリーンとなり、そこに映し出される平面のイメージと立体の人間が渾然となって、ふっと無限の空間に舞い上がったような感覚に陥る。シャントゥーズが天井までせり上がってスカートがステージいっぱいに広がると、中で踊る人間のシルエットが、めまぐるしく変わる色やパターンといっしょにデフォルメ。すべては意識下の無限空間での夢なのだろうか。
最後に紙ふぶきと共に大きな白い風船がいくつも漂い始めた。客の手に突き上げられた風船はあっちへふわふわ。そこでまた突き上げられてこっちへふわふわ。なんとすばらしいフィナーレ!
おいしいことはいいことだ
10月8日。土曜日はだいたい外食と決まっている。カレシが太平洋をまたいでのメール恋愛に夢中だった頃(早く言えばカレシの「狂乱期」)に言い出したのがきっかけだ。その前の10年近くは、二人だけで外食するのは旅先でを除くと1年に一度あるかないかだった。それが急に頻繁に出かけるようになったのは、カレシにとっては、ワタシには「忙しいのにキミと過ごす時間を作ってやっている」、海の向こうのオンナノコたちには「友人(!)と食事をした」と、二通りに使えて一石二鳥だったからだ。
オンナノコたちはだいぶ前に私たちの生活圏から消えていったけど、週末の外食は二人の新しい習慣として残った。折からバンクーバーのレストランシーンはグルメ志向と高級化で、カリスマシェフの創作料理が花盛り。ワタシは変わったものが好きだからうれしいし、カレシも頑固に敬遠していたなじみのない食材を試してみるようになったし、何よりもおいしいものを食べる幸せを発見したらしい。これもまさにひょうたんから駒。
さて、昨日の土曜日はお馴染みの店へ。「トマト」という名前のオーガニック志向のレストランで常連客がけっこう多い。限られたメニューはめったに変わらなくても、凝ったところが続いた後はかえってそれがうれしい。前菜に続いてワタシは定番のラム。カレシはスペシャルのバックリブ。豚の背中のあばら肉で、脂が少なくて柔らかめなのだけど、それがフォークだけで肉が骨から外れるほどやわらかく、ソースもクミンの味がするあっさり派。カレシがあまりにも感嘆、感激するので、とうとうシェフがやってきてレシピのヒミツを細かく説明してくれた。簡単料理なのに驚くほど手間がかかっている。もっともそこが忙しい日常の家庭料理と日常から束の間逃避できるグルメ料理の違いかもしれないけれど。
感激ついでに20%のチップを弾んで、おなかも超ハッピー。今度スーパーでバックリブを見つけたら試してみたいな。
七面鳥に感謝の日
10月9日。感謝祭が終わった。おなかがきつくて、きょうはもう何も入りそうにない。
カナダの感謝祭は10月の第2月曜日。いつものように昼頃に起き出して、朝食もそこそこに、オーブンのスイッチを入れて温度をセットし、準備にかかる。七面鳥は重さ7キロ。二人には大きすぎるのだけれど、4キロ以下だと肉が水分が足りないし、10キロ以上だと味がない。おなかに詰めるスタフィングは、たまねぎとセロリと七面鳥のレバーをたっぷりのバターで炒め、角切りにした古パンとどっさりと松の実を入れて、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムで味をつける。(思わずサイモン&ガーファンクルの歌が出て来る・・・)
七面鳥はまず煮立っている熱湯をかけてから、スタフィングを詰めてロースターのラックに載せ、底にたまねぎやニンジン、付いてきた首の骨を放り込んでオーブンにいれる。後はときどきロースターにたまる油をかけ回しながら4時間半ちょっと。その間に明日の朝が期限の仕事を片付けてしまう。最初に熱湯をかけるのは鴨のローストで覚えたトリックなのだけど、焼きあがった皮がカリッとして肉が乾かない。今年はまんべんなくこんがりとした焼き色に仕上がった。
でも二人しかいないのに7キロはさすがに大きい。マティニで元気をつけて、冷やしておいた白ワインを開け、胸肉をスライスして、スタフィングと、いっしょにローストしたポテトとグレイヴィー、クランベリーソース、付け合せに蒸した野菜、そしてサラダ。食べ終わったらもう動くのもおっくう。二人ともコーヒーを片手にテレビの前に直行して、用意しておいた映画を見ながらゆっくりと長~い食後のひとときを過ごした。これが「ほっこりとした時間」というやつなのかなあ、と思いつつ・・・。
男尊女卑?女尊男卑?
10月10日。ローカル掲示板をのぞいて見たら、「男性に厳しく、女性に寛容な日本社会」というタイトルのトピが立っていた。ある外国人起業家が日本のビジネス社会は女性であることで得する国だといったらしい。
ほんとうに女尊男卑の社会になったのだろうか。ワタシとしては、今の日本の社会は「男に甘く、女にはもっと甘い社会」のように見える。これは男女平等や機会均等以前の問題だと思う。誰かが「日本には自立したい女と自立したくない女がいる」と書いている。あちこちの掲示板を見る限りでは、今は「自立したくない女」が主流になっているという印象を受ける。結婚して、専業主婦になりたい。家族を養うのが男の甲斐性。自立することに疲れてしまったのだろうか。ひょっとしたら、バブル時代にちやほやされて、自分を過大評価していただけのことではないのか。
カナダでは専業主婦の年金制度がない。女性もたいてい定年まで働く。勤労所得がないと将来はスズメの涙の老齢年金がもらえるだけ。そんなことを知ってか知らずか、ローカル掲示板ではよく専業主婦是非論が噴出する。ほとんどが国際結婚組だから、議論は女性の自立云々の以前に、英語ができるかできないか、カナディアンの夫に稼ぎがあるかどうかと、自慢とやっかみが飛び交うどんぐりの背比べに堕ちてしまう。
運良く専業主婦の座を射止めた彼女たちの多くが日本ではキャリアを持ってバリバリ稼いでいたというのだが、ほんとうだろうか。まあ、「だって、年を取ってからも働くのはしんどいしぃ」というのはホンネだろう。夫は定年まで働かなければならないことはまったく考えていない。男に依存することを選べるのは日本が女性に甘い社会だからだと思う。でも、甘いということは、とどのつまりは今でも女性は独立した人間として扱われていないということではないのだろうか。
自立は自律
10月12日。コンピュータに「じりつ」と打ち込むと、「自立」と「自律」の二通りの言葉が出てくる。同音異義でありながら、どこか相通じるものがあるように思える。
広辞苑を引いて見ると、「自立」は他の援助や支配を受けずに自分の力で身を立てること、「自律」は自分で自分の行為を規制すること、と書いてある。やはりどこか互いに通じているところがある。
日本ではかって「共稼ぎ」という言葉に負い目があったが、家計の管理は妻の役目だった。北米だって「共働き」は意外と新しいライフスタイルだ。たとえば1950年代のアメリカのホームドラマ。典型的中流家庭の妻たちはみな専業主婦で、しかも家計は夫が管理していた。だから女性の社会進出はまず経済的な自立を意味した。
北米の「機会均等法」は性差別だけなく、人種、出身国、肌の色、宗教などによる様々な差別を禁じている。機会均等がもたらしたのは「広い選択肢」であって、みんなを同じラインに平たく並べる「平等」ではない。
男女同権、機会均等で、女性は「家庭か仕事、あるいはその両方」という選択肢を得たわけだ。専業主婦も、兼業主婦も、キャリア優先も、すべては個人の選択肢。個人の自由を尊重する社会では個人の選択も尊重されるから、優劣はつけられない。だから専業主婦と兼業主婦と結婚しない女が三つ巴になって互いをあげつらうような是非論は出てこない。
選択肢が広くなれば二者択一的な対立構図は崩れる。日本には「勝ち組と負け組」のようにものごとを二つに分けて対立させ、どちらに属するかで自分の価値を判断する他力本願型のものさしがあるようだ。広い選択肢は精神的な自立だけでなく、そのための「自律」も要求する。自力本願のものさしこそ自己責任。個人の精神的自立をわがままと見る集団思考に慣れた依存型の人間にはけっこう疲れる図式だろう。なぜって、この世には「自分」ほど規制しにくい、やっかいな人間はいないのだから。
二枚の濡れ落ち葉
10月13日。今日配達された週刊誌MACLEAN’Sにおもしろい記事を見つけた。
新聞の後ろに隠れている夫と、憮然とした妻の写真に、「退職おめでとう。離婚してください」とでもいうタイトル。どうやら北米でも定年退職した熟年夫婦の離婚が増えているらしい。Grey Divorceという新現象だそうだ。どこぞの国の話と似ていると思っていたら、「日本では・・・」とある。日本では定年退職で人生の目的を失い、やたらと妻にまといつく夫を「濡れ落ち葉」というのだと書いてあるではないか。この問題、日本は先輩なのかもしれない。
今いっせいに退職し始めた世代は結婚生活のほとんどを共働きで過ごして来た。仕事に子育てに忙しくてじっくりと話をする暇がないまま、急に四六時中いっしょの暮らしが始まるのだから相当なカルチャーショックであることは確かだろう。おもしろいのは、職場で鍛えられてきたキャリアウーマンの妻に、夫を訓練するのに、聞き慣れている「長期目標」や「ビジョン」といった経営用語を使いなさいとアドバイスしているところだ。まるで定年退職は「二人家族」という新たな起業といっているようなもので、言い得て妙だと笑ってしまった。
カレシがひょんなことから定年より一足早く退職して丸6年になる。夫婦の間に吹き荒れた大嵐の余波が残っていた頃で、カレシの家族は「これでもうダメだ」と心配したそうだ。なにしろワタシが在宅稼業なので、寝ても醒めても二人いっしょなのだから。
でも、私たちには経営用語は不要のようだ。カレシがボランティアで英語教室に出かける時以外は、同じ部屋でそれぞれコンピュータに向かい、いっしょに買い物に出かけ、いっしょに夕食を作り、いっしょに寝酒を飲む。周りに誰の目もないから、好きなだけいちゃついていられるし、子供みたいに羽目を外すこともできる。なぜか二人して濡れ落ち葉になったようなものだけど、それがまた心地良い。二人でおなかの底から笑うことが増えてきたようにも思える。夫婦としての10何年のブランクを今取り戻しつつあるのかもしれない。私たちのようにカレシが退職したおかげで離婚回避したような夫婦もあるから、結婚の行く末はほんとうに誰にもわからない。
人間のスペクトラム
10月15日。当地の日刊紙「バンクーバー・サン」の記事によると、カナダでは子供の165人に1人が自閉症スペクトラムのどこかに属するそうだ。ほとんどそれとわからない子から、話すことができない子まで、その数は小児ガンよりずっと多いという。
記事のタイトルは「ひとつの障害、さまざまな症状」。20年ちょっと前には子供1万人あたり4人くらいの割だったのが、今は60人。これが今の先進国の平均値らしい。子供の人口の0.6%。数字だけを見ると、まるで自閉症がある種の流行病のように蔓延しつつあるような印象を受ける。でも、急増しているのは単に研究や医療の進歩で診断しやすくなったためで、10年前ならほとんどが知能発達障害、あるいは学習障害の数に数えられていただろうという。ということは、昔からそれだけ多くの子供たちが自閉スペクトラムのどこかにいて、しかもその多くが成人して社会のどこかで生産活動に加わってきたということになる。
考えてみればこだわり性だったり、注意散漫だったり、切れやすかったりする人はどこにでもいる。特定のブランドにこだわったり、人の気持を思いやれなかったり、何ごとにも飽きやすかったりする人間はそこらへんにごろごろしている。ワタシだって小学校の頃は注意散漫だといわれたし、カレシだって些細なことでパニックを起こす傾向がある。カレシのパパも相当のこだわり性だし、周囲の空気にはまったく頓着しない。それでも、他人とギクシャクしたり、生きにくさを感じたりしながら、普通の人間として機能している。
でも、ひょっとしたらこの「普通の人間」が問題なのかもしれないのだ。特にアスペルガー症候群、注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)と診断される「症状」は、人間性スペクトラムの中に誰もが持っている性質の領域にある突出したサブセットなのかもしれない。たまたまその部分が際立っているために、特に突出したもののないごく「普通」の人間が作った「社会の規範」が複雑さを増すに連れてうまくかみ合わなくなり、そのために普通人が「障害」の範疇に入れてしまっているとしたら、こんな迷惑な話はないだろう。
最近出版された『ADHDサクセスストーリー』(トム・ハートマン著、嶋垣ナオミ訳、東京書籍)を読んで、「普通の人間」とは何なのだろうかと考えていたところだった。こうした子供たちが一人の大人として社会で能力いっぱい活躍できるようになるためには、まず「普通の人間」の定義を考え直さなければいけないかもしれない。
赤信号、一億そろって渡れば?
10月16日。日本中に「一億総白痴化」ということばが爆発的に広まったのは50年近くも前。もっとも、ことテレビに関しては、今や世界総白痴化の観がある。
その後に「一億総中流」ということばが続いた。猫も杓子も中流意識。これはバブル後もあまり変わっていないという。というよりは、バブル時代に「一億総成金」のハイソサエティだったのが15年かけて元のレベルに戻ったと言った方が近いのかもしれない。
それにしても、この「一億総なんとか」は日本の社会心理の真髄といえるのではなかろうか。EQUALITYを日本語では「平等」というが、なぜか昔からこの「平」の字が引っかかる。もとより人間は外観、能力、気性、器と、それぞれに違う。元々「個人差」があるのだ。人間の平等とはその個人差に拘らず誰もが人間として同じ価値を持っているということのはずだ。それを日本では「初めに平らありき」で、その差を無視して、とにかく何でもまっ平らに押し均そうとするから、逆に二者択一的な価値判断を強いる「格差社会」を作ってしまっているように見える。
それにしても、いともあっけらかんと「一億総なんとか」になれる社会はちょっと怖い。「一億総」というキーワードでネットを検索してみたら、あるわ、あるわ。目に付いたものだけを挙げるだけでも、「一億総サラリーマン化」、「一億総恋愛時代」、「一億総IT時代」、「一億総うつ時代」、「一億総思春期」などなど。「一億総貧乏時代」という暗いものもある。
さて、日本という枠の外にいて掲示板などをながめていると、日本人は実に不安な人たちだという印象を受ける。何かがあれば不安、なければまた不安。何をするのも不安、しないのも不安、毎日が不安。将来が不安。いっそ「一億総不安神経症」とでも呼べば、みんなと同じで少しは安心できるのではないかと、少々イジワルなことを考えてしまうのだけど・・・
収集癖
10月17日。カレシにはかなりの収集癖がある。
もっとも人間は何かとモノを集めたがる動物だそうなので、カレシが特に珍しいわけではない。ただ、何かを集め始めると執着してしまうところがある。子供の頃に「アニマル・クラッカー」という動物の形をしたビスケットがあって、おやつに買ってもらっては手垢で汚れて食べられなくなるまで並べて遊んだという。
要するに、収集する対象のモノに興味があるというよりは、集めるという行為と、集めたものを並べて、それを並べ替えるという行為に夢中になってしまうのだ。だから集める対象はころころ変わるし、熱の冷めるのが意外に早いものもある。でも、執着の度合いによっては日常生活が疎かになって、立派な中毒と思われる状態になってしまうことがある。客観的に見ると、日本の女子高生ポルノの収集も、Jガールとの恋愛ごっこも、実は子供がお菓子のおまけを集めるのとあまり変わりがなかったのだろう。
オンナノコは多い時には一度に20人以上もいた。これだけの数に毎日のようにメールを書くには大変な労力がいる。よほど執着しなければできないことだ。カノジョたちの名前を取り違えることもしばしばだった。もらったメールはすべて印刷して分厚いバインダーに綴じ、差し替えたり、並べ替えたり。見事にカレシを翻弄した既婚女性を除けば、いっときでも「もしかして!」と胸をときめかせたお嬢さんたちには悪いけれど、昔のアニマル・クラッカーとまったく変わらない。どう見ても大人の男の浮気にはほど遠い感じがする。(だから許せるのかもしれないけれど・・・)
収集癖は一種の強迫神経症と関係があるといわれる。もうひとつ、平面いっぱいにモノを並べないと気がすまないのも奇癖といえば奇癖。空間にしろ、時間にしろ、ぽっかり空いたスペースが怖いのではないかと勘ぐってしまうが、心の奥深いところで「見捨てられ不安」とつながっているのかもしれない。
今、カレシはネットラジオからジャズ演奏を集めるのに夢中だ。一日の大半が録音したファイルを並べ替えたり、自分だけのコレクション作りに費やされる。それでも、オンナノコを集めるよりは健全だと思って、二人の生活に支障がない限りはそっとしておこう。
いくつに見られたい?
10月19日。ひと仕事終わったところで、また読売の小町をのぞいたら、「実年令マイナス何歳くらいに見られたいか」という問いかけ。いつもまでも若くありたいと思うのは世界共通だけど、「若いこと」と「若く見えること」と「若々しいこと」はまったく別ものではないかと思う。
若さのものさしは短い。ワタシが適齢期だった頃は、女は25才で未婚だとクリスマスケーキと呼ばれた。翌日は半額セール、30才は年末の在庫一掃大売出しか。バースデーケーキは毎年のことなのに・・・。
まだ見合い結婚が主流の時代で、ワタシだって縁談がなかったわけではないけれど、実は父がみんな門前払いしたらしい。やきもきする母を尻目に、ワタシはボーナスをはたいて買った天体望遠鏡で夜な夜な星を追いかけ、未婚のまま25才を迎えた。
若さには魔力がある。ワタシが若かった頃は、若いということには経験不足から来る怖いもの知らずの傲慢さがあったように思う。今は若さと同時に「かわいらしさ」も要求されるようだ。若さのものさしが、かっては「子供」とされた年令ラインまで詰められてしまって、女も男もカワイイ志向の観がある。さっさと年を取っておいてよかった、という気にもなってくる。
前に「永遠の少女でいたい」というトピックがあったが、どうも17才がそのラインらしかった。自分も永遠の少女でいるために着るものやメークやしぐさに気を使っているというのもあった。二十代の社会人の目標が「永遠の少女」ではダウングレードではないのかと思うけど、中身と外見が釣り合った方がいいのかもしれない。
さて、ワタシとしては実年令マイナス何歳に見られたいか?ざっと読んで行くと、マイナス5才、マイナス10才、若い方がいい、年相応と反応はいろいろ。ワタシの年令になるとあまり若く見てもらっても素直に喜べないし、年相応といっても精神年令によってはお世辞にも悪口にもなる・・・と思っていたら、「年齢不詳」というのがあった。うん、これはご名答。ワタシもこの先は年齢不詳で行くことにしよう。女はちょっぴりミステリアスな方がいいから。
ロマンス騒動
10月20日。よくカナダの政治は退屈だといわれる。歴代のどの政府もアメリカやイギリス、フランスに伍して世界に注目してもらおうと一生懸命だけど、どう見ても注目度はイマイチ。世界政治の舞台で注目される政治家もあまりいない。そんなカナダの政治家がアメリカのメディアに注目されて、びっくりしたカナダのメディアが大騒ぎした。
アメリカのライス国務長官が、9/11のテロでアメリカに着陸できなくなった旅客機を受け入れ、市民が立往生した旅客を自宅に泊めて世話をしたカナダに謝意を示すためにノヴァスコシア州を訪れた。アメリカの外務大臣であるライス長官の訪問だからカナダの外務大臣が同行するだろう。しかもノヴァスコシアはマッケイ外相の地元だから、当然あちこちの見所に「ご案内」もするだろう。ところが・・・
テレビのニュースには、カジュアルな服装のマッケイ外相とライス長官が楽しそうに談笑しながら海辺をそぞろ歩きしたり、カナダ名物のティム・ホートンで仲良く飲み物を注文したりする姿が画面に映った。そして、共同記者会見で、ライス長官がマッケイ外相をにこやかに「ピーター」とファーストネームで呼んだから、さあ大変・・・。
マッケイ外相は40才の独身。二世議員で保守党の副党首だ。野党時代、億万長者の新人議員ベリンダ・ストロナックと公然の仲だった。ところが、当時の自由党政権の存続が危うくなった時、ストロナック議員は閣僚のイスを約束されてあっさりと自由党に鞍替えしてしまい、マッケイ氏は故郷の農場で「破れた恋」の傷心を吐露して大いに同情されたという経歴がある。
そのマッケイ外相に今度は同じく独身のライス国務長官とのロマンスか、とアメリカのメディアが持ち上げた。そうなるとカナダのメディアも騒ぐ。議事堂で記者団に探りを入れられた外相は「彼女はとてもシャープな人ですよ」とはぐらかして階段を駆け上がって行った。一方、ワシントンのアメリカ国務省では「二人で食事をした」ことについて質問された報道官が、「十何人もの護衛官と何人もの補佐官に囲まれていてはロマンチックも何もあったものじゃない。もちろん、テーブルにはキャンドルはなかった」と水をかけるのに大わらわ。
外務大臣同士という大型ロマンスの噂が冷めきらないうちに、マッケイ外相を袖にしたストロナック議員がメディアの注目を集めた。引退したホッケー選手タイ・ドミの離婚裁判でドミ選手の不倫相手として名指しされてしまったのだ。ドミ選手の特技はグラブを脱ぎ捨てての「けんか」。ペナルティで歴代何位かの記録を持つ。
退屈なはずのカナダの政治家が珍しくメディアを騒がせたロマンス騒動。マッケイ外相は世界を翔るライス国務長官がお相手で大いに株を上げ、一方、ストロナック議員はペナルティの多さが自慢の元ホッケー選手がお相手で大いに株を下げ、天井桟敷の野次馬は久しぶりに沸いたのだった。
仕事が終わったぞ!
10月21日。カレンダーに載っていた最後の仕事を仕上げて納品した。
月末までの予定はゼロ。カレンダーは空白。あまりに久しぶりのことで、空白の日が並ぶカレンダーがまぶしいくらい。まとまって手の空く日を待っていたまっさらなカンバスもまぶしい。そういえば、今年は一枚も絵を描いていないんだっけ・・・
フリーの稼業は仕事がない日が週末だし、まとまって何日か仕事が途切れたときが休暇。なぜか忙しいと週末も休暇もない。誰が「自由業」と呼んだのかわからないけど、明日は明日の風が吹く稼業を17年もよく続けてきたものだと思う。
天職のように思えるこの仕事。人生の危機の中でワタシを支えてくれたこの仕事。今は我が家の家計を支えているこの仕事。万が一この先独りぼっちになってもワタシの経済基盤となるのがこの仕事なのだ。興味があって好きな仕事なはずだけど、やっぱり時々は疲れて、本当に好きなのかどうかわからなくなるときもある。
もう今年はこのまま店じまいしたいなあ、とぜいたくなことを考えたりもする。ぜいたくなのはわかっているのだけど、今年はもう去年1年の仕事量を超えたから、このあたりでたっぷり休養した方が・・・と言い訳を考える。でも、手の空いているときに仕事の依頼があればどうしてもNOとはいえないのがワタシ。ニューオーリンズ行きまであと10日。どうか、どうか、このまま休みが続きますように・・・
引き算人生
10月22日。掲示板などで「引く」という表現に出くわすことが多くなった。日本だけではない、ローカルの掲示板でも、いたるところで「引く」、「引いてしまった」、「引かれた」の連発だ。
ワタシが辞書から解釈する限りでは、「引く」といえば、何かを自分の方に近寄せることであり、「退く」の意味であれば、自分が何かから遠ざかることだ。人目や関心を引くのはけっこう華々しいが、身を引くのはちょっと暗い。よく読んでみると、どうも近頃は自分から遠ざかる「退く」の意味に使うようだ。それも人間から遠ざかる、つまり「距離をおく」ということ、うがった見方をすれば、何らかの理由でその人とは交流を持ちたくないということらしい。
理由というのは、だいたいがその人と価値観が、職業が、見てくれが、ライフスタイルが合わない・・・早く言えば、自分の「好み」や「期待」に合わないということらしい。つまりは、相手が自分のものさしに合わないから嫌だということなのだろう。思い込みが強いと、嫌が高じて「思いっきり引く」となり、ついには「ドン引き」となる。まるで、「こんなの嫌い!」と後ずさりの挙句に踵を返して走り去るような印象を受ける。
引かれる相手の方はきっとたまったものではないだろう。でも、逃げてゆく相手を追ってもエネルギーの浪費というもの。ここは「去るものは追わず」で悠然と見送った方が、長い人生の最後の決算は黒字ということになるのではないだろうかう。自分の短いものさしに合わないものを捨てまくる「引き算人生」では、最後の帳尻はゼロ、へたをすると大赤字になっているかもしれないのだから。
なくて七癖
10月23日。癖といっても、習い性と良くない性質の二通りがある。「癖のある人」というと、ちょっと変わっている人を横目で見ていうらしい。これが「何とか癖」と呼ばれるようになるとあまりうれしい評とはいえなくなることが多い。
だけど、人間は誰しもなくて七癖。ワタシだってひと癖も、ふた癖もある。たとえば・・・
*話しながら手を振り回す癖。 子供の頃からよく「そんなに手を振り回さないの!」といわれたから、たぶんその頃からジェスチャーが大きかったのだろう。夢中になると手が華麗に?踊り、指先まで雄弁になる。何千年も前にどこからかはぐれてきたラテン系の遺伝子が混じり込んだのかもしれない。
*とにかくやってみる癖。 これも子供の頃からだと思う。世の中にはおもしろそうなことが多すぎるのだ。ちょっと興味を持つと、見よう見まねでやってみる。たぶん門前の小僧としては天才レベルかもしれないと内心思ったりする。もちろん、下手の横好きも星の数ほどあるけれど、持って生まれてこなかった才能を恨んでもしかたがない。
*白日夢を見る癖。 コンサートを聴きながら頭の中で詩を書いていたりする。学校時代は先生の話を聞きながら、つい関係ないことを考えてばかり。だから教室にいても講義はあまり頭に入らない。その点、自習しなければならない通信教育はワタシにぴったり。なんだかADDっぽいけれど、ひょっとしたらそうかもしれないという気もする。
*茫漠としたことを考える癖。 人生の酸いも甘いも噛み分けた(はずの)年なのに、今だに宇宙的なとりとめもない超遠視の議論をしたがる。もしかしたらカール・セーガンの「コスモス」の影響かもしれない。いや、天体望遠鏡を覗いていたのはそれよりもずっと前のことだ。何億年、何十億年も前の壮大な出来事を今ちっぽけな地球から見ていると、宇宙のスケールから見たら人間などまさにナノ秒の存在。その瞬く間をどう生きるかが難しい。
*急いでいないのに走る癖。 別にせっかちではないのに、特に急いでいるわけでもないのに、なぜかよく走る。ある職場で上司が「危なくてしょうがない」と笑いながらキーリングにつける鈴をくれた。猫に鈴とはいうけれど、ワタシはねずみ年の生まれ。おまけに牡牛座生まれなので、ねずみのようにちょろちょろ走るかと思えば、牡牛のように猛進する運命なのかもしれない。
それにしても何と変な「癖」の多いこと。何となく自分像が見えてくるようだ。ひとつ自分で良い所だと思うのは、開けっぴろげだということ。確かに無防備すぎるくらいかもしれないけれど、そこが極楽トンボのワタシなのだ。
トラウマ
10月24日。時折わけもなく、とにかく手放しで泣きたいと思うことがある。たいていは仕事がちょっと途切れたときのような、たぶんに緊張感がふっと緩んだようなときに起きる。毎日の暮らしが落ち着いているはずなのに、悲しいことは何もないはずなのに、とにかく思い切り泣きたい。時にはバスルームに閉じこもって、涙が出なくなるまでじっと待つ。
あれは8年前の10月だった。ひと月近く仕事を休んで、二人そろって日本の休暇・・・のはずだった。カレシに何の疑いも持っていなかった。初めて愛しているといわれた25年前の夏と同じに彼を信じていた。カレシがペンパルサイトで知り合ったという若い女性に会うためにいそいそとおみやげまで用意するほどに。
最初の大爆発が起こったのはその女性と神戸で会った翌々日、長崎でのことだった。夜、一日むっつりしていたカレシに何気なく「どうしたの?」と聞いた瞬間、彼は切れた。「もう二度とお前とは日本へ来ない」と。それからホテル中に聞こえそうな大声で、ワタシが気を利かせて留守番をするべきだったのに、日本までついて来たワタシの「身勝手」を罵倒し続けた。二人で日程を計画した旅行だったのに・・・。
あの日、私たちは蝶々夫人の舞台と言われるグラバー邸を訪れた。その後のことはあまり覚えていない。接近する台風に追われるように長崎を後にして、岡山で追いついた台風が吹き荒れる様をホテルの窓から見ていた記憶だけが鮮明に残っている。その後を予言していたといえばあまりにもできすぎた話だけど、それから2年以上も、何かがプツンと切れて発作的に自殺を図ってしまうまで、ワタシは台風に翻弄され続けた。しばらくはその自分の行為さえ受け入れられずに、事故だったと言い訳していた。
きっと、カウンセリングでも、新しい名前の新しい自分になることでも、創作の形で感情を吐き出すことでも、まだ癒しきれないトラウマが心の奥に残っているのだろう。
「泣くのはヘルシーなんだよ」とドクターはいった。何が悲しいのかわからなくてもいい。こうしてときどき泣きたくなるのはワタシの心が生きているからなのだと思えばいい。
1本の木なのだけど
10月25日。我が家と北隣の裏庭の間には大きなトウヒの木がある。というよりは、ついさっきまであったのだ。
トウヒはクリスマスツリーになる形の良い木だ。それが、植えられた場所が悪かったばかりに伐られることになった。というのは、前の住人が我が家との間の塀のそばに若木を植えたのが、15年ほどの間に高さ15メートルほどの大木に育ち、塀を越えて我が家の方へ広がった枝が電気の引込み線をすっぽり飲み込んでしまった。強い風が吹くと枝といっしょに電線が大きく振れる。少し雪が降ると垂れた枝といっしょに電線も垂れる。大雪が降ったら重みで電線が切れてしまいかねない。我が家だけでなくご近所まで停電してしまうかもしれないのだ。しかも個々の引き込み線の復旧費用は家の所有者負担。
冬ごとに心配を募らせていたら、今のお隣さんが根が地表に出て庭がでこぼこになったので伐ろうと思うと言い出した。こちらに異存のあろうはずがない。費用の半分を出しましょう。そうなるとお隣さんにも迷いはなく、利害が一致して話はとんとん拍子・・・のはずがそうはいかなかった。
バンクーバーでは、ワタシ有地であっても許可なく胸高直径20センチ以上の木を伐ることができない。もっとも手続きは簡単だし、許可料はわずか15ドル。問題は許可の条件なのだ。同等の木を新しく植えなければならない。市内の緑を開発から守ろうという狙いなのだが、お隣さんが金がかかりすぎるし、もう大きな木はいらないとむくれてしまった。カレシとワタシが交代で市役所に電線が切れる危険があるのだから代替は免除できないかとお伺いを立てたら、電線云々は市の関知するところではないから、規則は規則とそっけない。停電の心配は電力会社に相談しなさい。電力会社に相談すると、木を伐りなさい。お隣は伐りたいのに市役所が伐らせてくれないんですが、というと、それは市役所に相談しなさい。まさに堂々巡りの行き止まり。お隣さんはアイリッシュの反骨精神で血が沸き立ってしまった。
そんなときに造園業者が「さっさと伐ってしまえばいい。替わりの木は市役所が気づいて文句を言ったら考えればいい」と入れ知恵をしてくれた。そんなの常識だよ、とも。というわけで、今日トウヒは、業者が下のほうから枝を払い、残った幹を上の方から輪切り。その場で機械が全部粉砕して、わずか1時間ほどで大木はきれいになくなってしまった。市役所が気が付くかどうかはわからない。それよりも今は、もう嵐が来ても雪が降っても停電の心配をしなくて済むのがうれしい。
トウヒはクリスマスツリーになる形の良い木だ。それが、植えられた場所が悪かったばかりに伐られることになった。というのは、前の住人が我が家との間の塀のそばに若木を植えたのが、15年ほどの間に高さ15メートルほどの大木に育ち、塀を越えて我が家の方へ広がった枝が電気の引込み線をすっぽり飲み込んでしまった。強い風が吹くと枝といっしょに電線が大きく振れる。少し雪が降ると垂れた枝といっしょに電線も垂れる。大雪が降ったら重みで電線が切れてしまいかねない。我が家だけでなくご近所まで停電してしまうかもしれないのだ。しかも個々の引き込み線の復旧費用は家の所有者負担。
冬ごとに心配を募らせていたら、今のお隣さんが根が地表に出て庭がでこぼこになったので伐ろうと思うと言い出した。こちらに異存のあろうはずがない。費用の半分を出しましょう。そうなるとお隣さんにも迷いはなく、利害が一致して話はとんとん拍子・・・のはずがそうはいかなかった。
バンクーバーでは、ワタシ有地であっても許可なく胸高直径20センチ以上の木を伐ることができない。もっとも手続きは簡単だし、許可料はわずか15ドル。問題は許可の条件なのだ。同等の木を新しく植えなければならない。市内の緑を開発から守ろうという狙いなのだが、お隣さんが金がかかりすぎるし、もう大きな木はいらないとむくれてしまった。カレシとワタシが交代で市役所に電線が切れる危険があるのだから代替は免除できないかとお伺いを立てたら、電線云々は市の関知するところではないから、規則は規則とそっけない。停電の心配は電力会社に相談しなさい。電力会社に相談すると、木を伐りなさい。お隣は伐りたいのに市役所が伐らせてくれないんですが、というと、それは市役所に相談しなさい。まさに堂々巡りの行き止まり。お隣さんはアイリッシュの反骨精神で血が沸き立ってしまった。
そんなときに造園業者が「さっさと伐ってしまえばいい。替わりの木は市役所が気づいて文句を言ったら考えればいい」と入れ知恵をしてくれた。そんなの常識だよ、とも。というわけで、今日トウヒは、業者が下のほうから枝を払い、残った幹を上の方から輪切り。その場で機械が全部粉砕して、わずか1時間ほどで大木はきれいになくなってしまった。市役所が気が付くかどうかはわからない。それよりも今は、もう嵐が来ても雪が降っても停電の心配をしなくて済むのがうれしい。
今日のハイライト?
10月27日。いつの間にか10月も残り少なくなっている。31日は第3四半期に徴収した消費税(GST)の納付期限。翌日はニューオーリンズに向けて出発。やっと手が開いたところで、やることがあれもこれも出てくる。ともあれ、ゆうべやっと3ヵ月分の帳簿付けを済ませたから、今日は集めた消費税の納付と、アメリカドルの手当てと、ヘアカットをまとめて実行することにした。
行きつけのサロンでは、カットはオーナーのジュゼッペさん、カラーは奥さんのアンナさんの担当だ。ジュゼッペさんはロマンチストだから音楽はいつもオペラのアリアやカンツォーネ、たまにスペイン語の歌。今日はフラメンコが流れていた。
カットはいつものようにレイヤーにして、後ろを短か目に刈り上げてもらう。それからハイライト。アンナさんが前髪をかき上げて「白髪が多くなった先に地色に染めなくちゃね」と。そうなのだ、やたらと白髪が目立つなあと思っていたところ。早く女王様のようにきれいな白髪になりたいと思うけど、現実は頭中に白いものが散らばっていて、ハイライトを入れると多色染め。
ということで、まず髪全体を地色に染める。30分ほど待って、シャンプー。鏡を見たら「昔のワタシ」。元の「濃い栗色」(黒ではないのだそう)になってみると、今までぜんぜん気にならなかった白髪がこれからは気になりそう。いくら還暦が近くたって、そこは女なのだから・・・
ハイライトは明るいワインレッドにした。我ながら似合う色だと思う。全体を染めたらカッコいいかな~などとドライヤーの中で勝手に想像してみる。シャンプーをして、ジュゼッペさんが仕上げのはさみを入れてできあがり。自分が明るく、弾んで見えるのがうれしい。
カレシは「ゴージャス!黒のイブニングドレスを着たらエレガントだよ」と持ち上げてくれた。でも、この頃はイブニングドレスでお出かけの機会がないなあ・・・残念。
トラウマの糸(1)
10月28日。トラウマの糸がどこまでつながっているのか。それをたどることは、カレシとの馴れ初めまで遡って自分の気持を検証することでもあると思う。
私たちは1969年3月にペンパルとして始まった。ワタシは秘書学校生、彼は経済専攻の大学生だった。日常や文化だけなく、政治や経済のことまで書きあった。若い女の子との政治経済の話にまじめに応じてくれたのは彼が初めてだった。それはワタシにはとても新鮮なことだった。
初めて会ったのは1973年8月。同時に文通していたイギリス人と日系二世のご夫婦から夏休みに来ないかと招待された。その頃、彼はオタワにいて、飛行機で数時間かけて行くだけのお金も時間もなかったので、残念ながら会えないはずだった。それが、ひと月前になって彼が急に帰郷を決めたことで「運命の出会い」になってしまったのだ。
彼は暑い中をワタシのステイ先まで自転車をこいで会いにきた。ドアを開けた時、逆光でほとんど顔が見えなかったのに、なぜか胸がドキンとした。ワタシの精一杯の英語での話を一生懸命聞いてくれるやさしそうな目を見て、「好き」という気持が芽生えたと思う。
初めて愛してると言われたのはワタシが日本へ帰る前夜。最後のデートの後、玄関先でぐずぐずしていた彼が急にじっとワタシの目を見てそういった。真剣な目だった。うれしかった。そのときワタシは彼に恋をしていた。
ワタシは何も知らされていなかった。実は彼には婚約者がいて、ワタシと会ったときはすでに結婚式の日が迫っていたのだ。(3日後だったことはずっと後になって知った。)前の年に一度結婚式を直前にキャンセルして、帰郷したら結婚すると約束していたのだそうだ。
ワタシは何も知らずに心から好きになって、愛しているという言葉を信じ、日本へ帰ってからも毎週欠かさずに届くラブレターの言葉を信じた。クリスマスには国際電話で「愛している」といってくれた。プレゼントも届いた。
彼は結婚式の最中に、それも誓いの言葉を交わす大事な場面で失神したそうだ。その原因が、元義妹がワタシに言ったように、好きでさえなくなった婚約者と結婚しなければならないことがストレスだったのか、あるいは人を騙した罪悪感なのかは、わからない。
トラウマの糸(2)
10月29日。ワタシが初めて愛した人は知らない間に既婚者になっていた。妻となった人は彼より7才年下の裕福な家のお嬢さん。出会いは大学のキャンパス。彼女が高校から進学したばかりの秋だったそうだ。結婚したとき、彼女は教師になっていた。
実は、ワタシはいちどだけ彼女に会っていた。彼とピクニックにでかけた日、車を持っていた彼女を同伴して来たのだ。彼はファーストネームだけで彼女をワタシに紹介した。二人の間にはもうすぐ結婚するカップルのような雰囲気がまったくなかった。あったとしたら、彼を好きになっていたワタシが直感的に気づかないはずはなかった。
事実を知らされたのは翌年の春。珍しく長い手紙だった。結婚は3ヶ月足らずで破綻したという。彼の両親の家に届くワタシの手紙を彼女が見つけて大喧嘩になり、彼女は出て行った。当時は協議離婚に近い形で離婚するには3年以上の別居が必要だった。その3年を待って正式に離婚したらワタシに経緯を打ち明けてプロポーズするつもりだったのが、彼女のほうから急に「車を買うお金をくれるなら離婚訴訟を起こしてあげる」といわれて、ワタシに告白する決心がついたという。ワタシといっしょに暮らし始めれば、3年以上も待たずに離婚できる、と。
手紙が届く頃に電話で直接話したい、と書いてあった。何その電話が来るまで、ワタシは手紙を何度も読み返して、自問自答を繰り返した。すでに結婚が決まっている知っていたら、ワタシは日本へ帰って彼のことを忘れただろう。もし愛していなかったら、忘れるのはもっと簡単だったはずだ。でも、「愛している」といったあの目は真剣だった。
どうしてワタシに黙っていたのか。ペンパルの関係だから言う必要はないと思っていたのが、「初めて会ったときにこの人しかいない」と思った、と。でも、その時には遅すぎた。本当のことを言ったらワタシは日本へ帰ってもう二度と手紙すら書いてくれないだろう。あの時は他にワタシをつなぎとめられる手立てがなかった。黙っていたことは悪かった、許して欲しい、と。「キミさえ良かったらボクたちは結婚できる」・・・それが電話でのプロポーズの言葉。ワタシはそれを受け入れた。
会ってじっくり将来を話し合おうということになった。ワタシはお金を借りてカナダ行きの切符を買った。ところが、出発の10日ほど前、突然の電話で「すべて忘れてほしい」と。青天の霹靂としかいいようがなかった。でも、電話の向こう彼も何か動転しているように感じられた。ワタシは彼にはっきりと言った。「それはワタシと向き合って直接言ってほしい」と・・・。
トラウマの糸(3)
10月30日。不吉な電話があって、一日泣き明かしてから10日後、ワタシは心配する母の反対を押し切って、バンクーバーに着いた。気持は重かったけれど、もう一度あの真剣な目できちんと説明してほしかったのだ。
仕事を終わってワタシの滞在先のYWCAに現れた彼は少ししおれた白いカーネーションを差し出した。オフィスの受付の花瓶から失敬して来たのだという。彼もひどくやせて、少しばかりしおれていた。でも、食事の間、別れの言葉はひとことも出てこなかった。あの電話はワタシを離婚裁判のような泥の中に引き込みたくなかったからだったという。あれは軽率だった、忘れてくれ、と。
実は、最初に大喧嘩をした後、彼は和解を試みたらしい。ワタシの手紙が妻の目に触れないように、郵便局にワタシ書箱を開いて、ワタシには住所が変わるかもしれないからといい、彼女にはもう何もないと宣言した。(ワタシへの手紙はオフィスで書いていたらしい。)彼女は戻ってきたらしいが、いく日も日が経たないうちにかばんに入っていたワタシの手紙を見つけ、封を切って読んだという。彼が外から戻ったとき、彼女は彼の目の前で手紙を破り捨て、「出て行って」と言い残してまた実家へ行ってしまったそうだ。
そのときのアパートは元々彼女の住まいだった。彼は自分の持ち物を2つの大きなトランクに詰め込み、バスでダウンタウンのYMCA に移った。「あの日のボクは胸のつかえが取れてとてもハッピーだった」そうだ。短い結婚生活の間、家事分担を強要され、小さな癖までうるさく批判され、安らぐことがなかったという。妻に触れたいという気にもならなかった、と。前の夏にワタシと過ごしたほんのわずかな時間を思い出すことが慰めだった、と。
それからの私たちは当面の大きな障壁を乗り越えることばかり話していた。その頃の法律では離婚は簡単なことではなく、3年もの別居期間を待たずに離婚するには、彼が「不貞」を理由に訴えられるしか方法はなかったのだ。ワタシの名前も不倫の当事者として訴状に載る。「それでもいいか」と彼は聞いた。ワタシは「それでもいい」と答えた。
私たちが進む道は決まった。「日本に来て両親に正式に結婚を申し込むこと」というワタシの父の条件を彼が承諾して、来日は秋と決まり、ワタシは帰国の途についた。羽田に降り立って、入管の窓口に並んだとき、初めてワタシは自分の決定が異国で暮らすことを意味することを思い知った。自分が置かれた状況に対応することに無我夢中で、国も人種も言葉も、すべてが違うことに思いが及ばなかったのかもしれない。(こんなことをいっても、世界のどこへも簡単に行けて出会いがたくさんある環境にいる今の日本の人は信じてくれないけれど、ワタシにいえるのは、盲目的な恋はあり得るということだけだ。)
トラウマの糸(終)
10月31日。1974年秋。彼は貯金をはたいて切符を買い、日本へやって来た。
彼にとっては初めての海外旅行だった。社員旅行で伊豆へ行っていたワタシはその朝早くバスに乗って東京へ向かった。前夜の飲みすぎがたたって二日酔い気味だったけれど、胸だけは躍っていた。乗り継ぎに乗り継ぎで羽田空港に着いて待つこと永遠、国際線の出口から彼が出てきた。走り寄って、通路の真ん中で抱きついてキスを交わしたように思うけれども、それはあまりにも映画のラブシーンのようでありすぎるかもしれない。
二人そろって千歳行きの飛行機に乗った。札幌に着いたのは夜遅く。ワタシの両親が市内のバスターミナルで迎えてくれた。彼はワタシが予約しておいたホテルに落ち着き、ワタシは帰宅した。
翌日は確かまだ顔合わせ程度だったと思う。本番の日、きちんとスーツを着た彼は一人でバスに乗って、迷子にならずに我が家に到着した。日本の習慣だからと教えられた通り、ワタシの父に「娘さんをワタシにください」と申し入れ。彼はコチコチに緊張していた。いくつかのやり取りがあった。間に入って通訳をしたのが当事者の「娘」ということもあってか、あまり難しい「尋問」はなく、父は「OK」という返事と共に彼と握手をした。その翌々日、彼はワタシの両親の招きでホテルから我が家に移り、残りの日々を家族の一員として過ごしたのだった。(後で何度も、にぎやかで睦まじい様子が羨ましかったといっていた。)
来日までの間に、彼は弁護士や移民局に相談して、離婚までワタシがカナダで暮らせる最善の方法を探した。弁護士の助言は、その当時の移民法では、ワタシがビジターとして来てビザを延長しながら離婚成立を待つのが最善というものだった。ワタシを当事者にしないで済む方法はなかった。私たちにとって幸運だったのは、移民局で彼の相談に応じた年配の移民官が私たちの事情を理解してくれ、ワタシが来てからも好意的にできるだけの便宜を図ってくれたことだ。彼の父親が離婚を強く支持していたことも追い風になった。(彼女が嫌いだったという以外に理由はないらしかった・・・。)
1975年5月。ワタシはスーツケースを3つ抱えて彼のところへ来た。日本で言うワンルームマンションの慎ましい暮らしだった。わずかな家具もキッチンの道具や食器も、すべて彼が両親の使わなくなったものをもらって来ていた。彼はすぐに別居中の妻の弁護士のところへ出向いて不貞の事実を認め、離婚訴訟が起こされた。財産は何もなかったし、彼女の方が収入が多かったから、金銭的な要求は何もなかった。実は、双方納得ずくで訴因を作っての離婚訴訟は法律上無効なのだけど、別居中の妻の方も恋人ができて離婚を急いでいたようだ。彼女が離婚後すぐに再婚したことを彼が知ったのは24年後のことだ。大学時代に彼とも交友のあった相手とわかったとき、彼は自分のことを棚にあげて「あいつは二股をかけていた」と憤った。
離婚訴訟は、予定の審理の日に彼女が病気になって延期されるハプニングはあったけれども、彼が出廷する必要もなく、翌年の春に仮判決が下り、3ヵ月後には離婚が確定した。
1976年6月26日午後1時。引退した牧師の自宅で、証人の末弟夫婦だけが立ち会ってのひっそりとした結婚式だった。ワタシは妹がデザインして縫ってくれたウェディングドレスを着て、泣きっぱなしだった。式が終わったとき、義妹が「とても感動したわ」とワタシを抱きしめてくれた。夕方、彼の家族を招待して、朝から用意していたワタシの手料理でごくささやかな「披露宴」をした。すべてがささやかだったけれども、ワタシは幸せだった。
トラウマの糸の行き着くところ
10月31日。知り合ってから結婚するまでの間に彼は何度も嘘をついた。その多くは「黙っていただけで、嘘をついたのではない」と主張する。沈黙で隠蔽された事実が相手の人生を変えてしまうものであれば、それはもう立派な欺瞞ではないのかと思う。
それでも、多くの嘘はほんの短い間ワタシに痛みを与えただけで、醜い傷跡を残すことなく消えていったと思う。でも、ひとつだけ、ワタシがずっと知らないでいたことがあった。それはワタシが心から愛した人がワタシをかばってくれなかった、それどころか自分がいい子でいるためにワタシを貶めるような嘘をつき、そのためにワタシは長い間英語で言う「戸棚のがい骨」、つまり外には知られたくない家族の恥だったとういうことだ。トラウマの糸が行き着くところはこのあたりのような気がする。同時にそれは彼自身にも棘のようなものを残したのではないかと思う。
私たちが口論に明け暮れていた頃、「おふくろがお前がカナダに入り込むためにオレを利用しているといった」と何度も彼にいわれた。彼がワタシと結婚することにしたと両親に報告したときに、結婚前からワタシと文通していたことを知っていた母親が、彼が婚約していたことをワタシが知っていたのかと聞いたらしい。そのとき、彼は「知っていた」といってしまったのだ。
もし、ワタシには何も知らせていなかったといえば、彼がワタシを騙していたことがばれる。結婚前から妻を裏切っていたこともばれる。子供の時から「いい子」を演じて来た彼には虚構の自分が露見するのが何よりも怖い。そのときの嘘が彼の母の「利用されている」という発言につながったに違いない。婚約者がいることを知っていて、そして結婚したことを知っていて攻勢をかけ、結婚を破綻させて後釜に納まった・・・彼の嘘が家族の間でそんな印象を作り上げたとしても不思議はない。(あの突然の電話は母親の言葉に動転した彼の衝動的な行動だったのだと思う。)ワタシが最初にその嘘を察したのは、思い余って義母に泣きついたときの、「何も聞いていなかったの」と聞き返した義母の驚きようだった。後でワタシに問い詰められて、彼は「事情を打ち明けて説明したから知っているという意味だったのをおふくろが誤解したんだ」と言い訳した。
今振り返ると、彼がジャパニーズガールに夢中だった間の言動は驚くほど彼の過去の言動に似ている。ドラマの再放送を見ているような感じがする。日本人の妻がいると知りながら積極的だった女性をワタシに見せつけ、独身だと信じ込ませた女性をワタシから隠した。そのとき彼にはワタシがそれぞれかっての母と前妻に見えていたのかもしれない。彼が25年前の自分の言動を再現することで何を解決しようとしたのかは、ワタシにはわからない。
結婚25周年を迎えた後、ワタシは結婚指輪を捨て、彼がワタシに求めた「日本人」も捨て、彼の女たちと似すぎていた名前も変えた。まだ彼への愛があった。でも、この街には若いジャパニーズガールが溢れている。夢に賭けるか、現実のワタシと新しい一章を開くか。彼は現実を選んだ。名を取るよりも実を取ったのかもしれないけれど、最近は時折かってのあの優しい目でワタシを見るようになった。そのときはたまらなくうれしい。いつか二人ともトラウマが癒えて、ゆっくり過去を振り返ることができる日が来るかもしれないと思ったりする。
ひと区切り
10月31日。今日は不思議に心が軽い。洗濯機を回しながら、最後の急な仕事を片付けて送り出し、月末処理で請求書を作って、10月のビジネスはおしまい。
ハロウィーンの夜、爆竹の音があちこちから聞こえて来る。我が家のあたりは子供がいないから、誰もお菓子をねだりに来ない。ハロウィーンは、すべての聖人を祝うキリスト教の万聖節の前夜、霊界の魂や幽霊が人間世界に出てくる夜なのだとか。ケルト人の新年のお祭サーウィンが起源といわれる。この夜はまた魔法の力が最も強くなるのだそうだ。ひょっとしたら惚れ薬の効き目も絶大かもしれない。
明日はいよいよニューオーリンズへ出発する。ワタシには4分の1ほど「出張」で、後はカレシといっしょのバケーション。久しぶりの二人旅なのだから、仕事を持って歩くのは野暮というもの。コンピュータの前を離れ、家を離れれば、たっぷりと二人で過ごす時間がある。
今夜は冷え込みそうだ。氷点下になるとの予報。明日のニューオーリンズは最高気温25度とか。
さあ、そろそろ荷物をまとめにかかろう・・・