リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

2007年8月~その2

2007年08月31日 | 昔語り(2006~2013)
どうでもいいぶつぶつ

8月16日。日本は猛暑なんだって。猛暑日というのができたおかげで、連日文字通りの猛暑日らしい。40度なんて、ホッキョクグマの私には想像もつかない暑さ。うう、あつ~いとこぼす前に、へなへなと溶けてしまいそう。バンクーバーはちょっぴり冷夏で涼しいの~というの、何だか気が引けちゃうなあ。ちょっぴり罪悪感まで感じたり・・・。明日は雨の確率が朝70%、午後60%で、予想最高気温は19度だって。

夏の終わりを飾る恒例のPNEが始まると雨が降るというジンクスがある。Pacific National Exhibition (太平洋国立博覧会)といって、1910年に農業共進会として始まったフェアだ。トロントのCNEにならったもので、30年前でもまだ家畜の品評会なんかやっていた。赤い風車のロゴがちょっとイケてるけど、今は隣に遊園地があるし、いろんなパフォーマンスもあって、子供たちにとっては新学年が始まる前の最後の遊び時なのだ。だけど、なぜかまだ雨期でもないこの時期によく雨が降る。連日雨で閑古鳥が鳴いた年もあった。だから、今頃雨の予報が出るとバンクーバーっ子は「PNEタイムだもんな~」と肩をすくめる。

どうしようもなく飽き飽きしているEXCEL仕事も最後のファイルになった。この後はすぐには来ないらしい。やれやれ、どうやらしばらくは「まともな言語」の仕事ができそうだ。人格がどうこうと言うわけじゃないけど、日本のIT人の言語はキカイ語じゃないかと思うくらい無機質。英語のだといかにもガキンコ風なんだけど、日本語のはまさに典型的な定型表現マニュアル語。ソフトウェアのマニュアルならそういうものかなと思うけど、普通のビジネスまで何でIT語で、無機質なことはなはだしい。ひょっとして、奥さんやカノジョにまでこんな調子でしゃべってるんじゃないだろうなあ。「メシを食います」、「フロに入ります」、「寝ます」。互いに愛情がなくなったら、ESCキーをポン、それとも右上のバツをクリック・・・?

小町に彼女の「お口ポカン」が気になるという高校生の相談があった。このお口ポカン族はダウンタウンでもよく見かける、「日本人の女の子はすぐにわかるよ。だって、お口ポカ~ンにアヒル歩き」。これは口の悪い若い男がよく言うんだけど、よく見たらお口ポカ~ンにアヒル歩きがいる、いる。

歩き方の方は姿勢が悪いのか足の運びが悪いのか、前かがみになって、膝を曲げて、小またでペタペタ。ほんとにアヒル歩きとはよく言ったものだ。お口ポカ~ンの方はいくらキュートでも「おつむ空っぽ」にしか見えないから要注意。柔らかいものばかり食べて育ったから下あごが発育不良で、でも舌の方は正常な大きさなので口の中はいっぱいいっぱい。鼻呼吸を妨げて口呼吸になるのだとかいう記事を読んだことがある。ちなみに、口呼吸は鼻呼吸に比べて酸素の取り込み効率が格段に悪いそうだ。歯並びが悪いのも永久歯が並んで生えるスペースができていないからだとか。ご当人たちはそれがモテるカワイさのヒケツと思っているらしいし、日本人の口ぐせになったみたいな「人それぞれでしょ」ってことだし、おばさんが気にしてあげてもしょうがないしで、どうでもいいことなんだけど・・・

極楽とんぼ亭の魔法のお皿

8月17日。天気予報は大外れで今日は一日サングラスの要る天気。午後のうちに野菜類を買って来て、後は仕事、仕事。でも、繰り返して同じような仕事をしていると、何となく頭の回路が寝ていてもちゃんと仕事をやってくれる「オートパイロット」モードみたいになるからいけない。日曜日夜の締切(日本は一足先に月曜日)に間に合えば、あとは人間語(おや、まだIT語に八つ当たり?)で行けそうだから、「あとちょっとだよ~」という自己激励にも力が入るってものかな。いや、やっぱり気が散ってる・・・

今日のディナーはポークロースト。ポークの味はあまり自己主張してくれないからソースが難しい。鴨でもチキンでも、基本的に同じ調理法でもソースが違えば雲泥の差が出るから、ほんとに難しい。なんて午後いっぱい仕事をしながらモヤモヤと考えていて、はたと思いついたのがカレシが使い残したチェリー。ほとんど紫色の大きなさくらんぼだ。ずっと冷蔵庫に入っていてそろそろ熟れすぎに近い。鴨料理にはよくベリーのソースを添えてあるし、七面鳥だってクランべりーソースだし、いっちょやってみるか・・・

ポークはガーリックパウダーだけたっぷりまぶして、その周りにオリーブの種を取るパンチで種を抜いたチェリーを20個くらいごろごろと転がした。ホイルでカバーしてオーブンに入れて、ほぼ焼き上がりの頃にロースト皿にたまった肉汁と柔らかくなったチェリーを鍋にあけてソース作り。ここから先はまったくの極楽とんぼ流。ハンドミキサーでチェリーをピューレ状にして、ブランディを多めに入れて、バターを少し。ちょっと煮詰めてから味見をしたら・・・おお、いけてるではないか!

というわけで、極楽とんぼ亭の新メニュー「ポークローストとブランディ風味チェリーソース、蒸した青梗菜とバターナットかぼちゃ添え」は大成功。白いお皿に赤紫のソースの色が映えたし、味見の時はちょっと気が強そうだったソースもポークといっしょだとけっこうマイルドになって、カレシは残りのソースまでかけてきれいに食べてしまった。フランス料理だったらソースが命というところだろうけど、普通の家庭料理だってソースを工夫するだけで変哲もないポークローストがちょっとした「レストラン気取り」のお料理になるから、エスコフィエもびっくりだろうな。だけど、お客を呼んでのディナーパーティならまだしも、二人だけの食事にちょっぴりソースを作るのはすごくめんどうだし、即興でやるのはいくらレシピ無視常習犯の極楽とんぼでもやっぱり難しい。

う~ん、それでもやってみたくなるのが「やりたがり屋」の私。でも、ありきたりの夕食を出すのに彩りだの盛り付けだのを考えなくちゃ~という気分になってしまうこの白い四角いお皿、ひょっとしたら魔法のお皿なのかしらん・・・

Use it or lose it

8月19日。終わったぞぉ!きのう一日、ディナーのお出かけもやめにしてがんばって、う~んざりしていたEXCELのファイルを終わらせた。ほんとうにくたびれた~っという実感。考えたら今月はまだ休みの日がゼロだった。24/7のCNNじゃあるまいし。常時接続のインターネットじゃあるまいし。だけど、フリーの稼業は仕事があれば週日、なければ週末。仕事が続けば、月月火水木金金なのだ。わっ、戦時体制だ、これ。

きのうはサラダ担当のカレシがガドガドを作ってくれた。ピーナッツソースのインドネシアのサラダだ。レシピの本を読んでは、「~て何のこと?」といちいちオフィスまで聞きに来るのが難だけど。男って自分で「メカニズムを合理的に理解した」つもりにならないと不安なのかもしれないな。スチーマーやフライヤーの使い方は簡単な説明(このダイアル回して、このスイッチ押して・・・ITマニュアルみたいに)でいいとしても、ピーナッツソースは全部自分の手作業。材料は揃っているから、その間私はオフィスに降りてトレッドミル。だくだく汗を流していたら、あれれ、なにやら焦げ臭い・・・

汗びしょでキッチンへ上がったら、カレシが「ソースがカチカチなんだよ」と困惑した顔。「レシピ通りの分量なのに」と口をとんがらすカレシ。鍋をのぞいたら、茶色のかたまりの中に黒い点々。えっ、これ玉ねぎ?ははあ、焦げ臭かったのはこれか。高温で炒めたから焦げちゃったのだ。カレシは「これじゃ使えないよ~」とオロオロ。慌てることない。水分が足りないのだ。使い残したココナツクリームを少しずつ足しながら緩めたらちゃんと使いものになる。「そんなこと、本に書いてない」とカレシ。「レシピ通りに行かなくてあたりまえ」と私・・・

まったく同じ条件でやるならともかく、料理は「レシピの通りには行かない」が前提。早い話、世の中だって想定通りには動いてくれない。人生はon the spotで対応を考えなくちゃならないことだらけだ。そうやって学習して、それが積み重なってcoping skill(対処能力)になり、経験として積み重なって、やがて年寄りの知恵になる。だけど、最近はみんなマニュアル化して、だんだん自分で考える余地がなくなってきたように見える。まあ、人間の「もっと便利に、もっと楽に」という願いが技術の発展を押して来たんだから、自分で考えなくて済むことも「便利さと楽」のうちなのだろう。だとしたら、自分で考えてアイデアを生み出して来た人たちは意図せずして人類を退化させているのかもしれないなあ。小町なんか見ていると恋愛や結婚までマニュアル化しているような印象なんだけど、人生のマニュアルにはトラブルシューティングの章がない。あるとすれば、「状況を分析して、対策を考えて、対処します」ということかな。でも、これでは「このボタンをポン」というけにはいかないよねぇ。Use it or lose it(使わなきゃダメになる)というから、やっぱり自分の頭くらい自分で使わなくちゃ・・・

カレシのガドガドはとってもおいしかった。かなり大量だったけど、メインのアヒを「たたき風」に焼いて、しょうが醤油をつけただけの簡単料理にしたので、野菜も豆腐もぜ~んぶ平らげてしまった。「インゲンがまだ青臭さかったから、この次はもう少し長く蒸すことにする。豆腐も自分で揚げてみるよ」と、カレシ。また作ってくれるってことだ!今度は自分流を追求して。その調子、その調子・・・

生きとし生けるもの

8月20日。次の仕事にかかる前に、ちょっとひと息。今日は曇り空で20度以下。やっぱりPNEタイムのお天気模様。新聞には、この夏は低温で家庭菜園のトマトがなかなか熟さないという記事があった。これから雨の季節になると病害も起きるとか。そういえば、ジャングルみたいに茂っているうちのトマトもまだ青いのが多い。カレシがパスタソースを作るのを楽しみにしているんだけど、間に合うのかな。

冷夏のせいかどうか、今年はスズメバチの数もえらく少ない。いつもの年だったらどこかしらに大きな巣を作ってブンブン飛び回っているんだけど、この夏はあまり姿を見ない。カレシは庭の害虫を食べるからと追い払ったりしないので、スズメバチの方でもカレシはノータッチでうまく共存しているからおもしろい。庭に来る小鳥たちもカレシには慣れっこになっているらしく、ちょっと別の枝に移る程度なんだそうな。別に動物愛護精神でも何でもなくて、単に自分に関わってこないから無視しているというところらしいけど、ドゥーリトル先生みたいにチッカディー語なんか覚えたら、いながらにして情報通になるかな?

東京農大がマウスの卵子だけから子を作って、それを成功率40%、成体になる確率を30%以上にまで改良したそうだ。つまり、精子だけでは子を作れないけど、卵子だけで作れるってことは、オスがいなくてもいいってことになるなあ。ふ~ん、「もうオレたちはいらなくなってしまうのか~」と悲痛な悲鳴がどこからか聞こえてきそうだなあ。でも、原始の海に誕生した生物は原理的にメス。初めに女ありき、なのだ。動物の社会で繁殖期に相手を選ぶのはメスの方。だから、メスに選ばれるためにオスは角だの、たてがみだので飾って目立とうしているだけで、オスの方が見栄えがするからって別に格が上なわけじゃないのだ。

人間だって、生存のための知恵では女の方が男より上だと思う。だって、太古の昔から戦う男の後ろには「あなたがいないと生きていけないのよ~」とか、「あなたの子供(=子孫)を産みたいわ~」とか、なんとかいって尻をたたく女がいたんだもの。でも、子供を持つのに男がいなくてもいいとなったら、結婚しない女が増えるのかしら。女だけの世界になったら、政治も戦争も様変わりだろうな。「あなた、作る人、私、使う人」みたいな「分業」の構図が成り立つんだろうか。「女の敵は女」っていうくらいだから、平和な世界ができるという保証はどこにもなさそうな感じ。

ふ~ん、何だか怖い世界になってしまいそうだなあ。やっぱり男がいないよりはいた方が世の中が楽しいかもしれない。少なくとも、私には「父」という尊敬すべきすばらしい「男」がいたし、今だって、カレシという「男」がいる方がずっといいし・・・

水漏れ対策

8月21日。ブログを書き始めてからいつのまにか1年を過ぎた。日記なんて始めても確実に三日坊主の私がこれだけ続けられたのは奇跡みたいなもの。我ながら感心するのは、よくこんなにいろんなことが頭の中をぐるぐる回っているものだということ。これじゃあ少々「思考は混乱、感情は交錯」の状態になっても不思議はない。書いたものをまとめておいたファイルをゆっくり読み返してみると、自分の脳細胞のスパークの飛跡とでもいえるイメージが見える。ちょっとばかり、サイクロトロンの中をぶんぶん駆け回って、勢いよく衝突してはてんでな弧を描いて拡散する原子の軌跡のようにも見える。ふむ、「徐行」の標識でも立てようか・・・

バンクーバー市役所のストは33日目。ゴミの収集はもちろんストップしたままだ。聞くところによると、市のゴミ収集サービスを利用している世帯は全市の3割以下しかなくて、7割以上は民間業者に委託している賃貸アパートや分譲コンドミニアムに住んでいるんだそうだ。つまり、たまるゴミに頭を悩ませてはいないということ。(どこでも住人しかゴミを捨てられないようにゴミ箱に鍵をかけたそうだ。)どうりでゴミ収集だけを強制的に再開させろという声が上がらないはずだよなあ。

キッチンから出るゴミは、野菜のくずはコンポストにするからゼロ。調理くずのような腐るゴミからペーパータオルや包装を分別するとボリュームは意外に少ない。これをスーパーの野菜バッグに入れてぎゅっ~と圧縮するともっと嵩が小さくなる。ゴミ入れにはベーキングソーダをまいて臭い消し。ガレージにおいてあるゴミ容器があまり臭っていないのはラニーニャの冷夏さまさまというところかな。それでも、このままストが続けば、また川向こうのリッチモンドの友だちに助けてもらうことになりそう・・・

今日はウォータークーラーの水漏れを発見。ボトルに残っていた水の量が夕べの半分になっている。すぐ電話したら、「ボトルにピンホールがあるんだろう」と意外な返事。穴があって空気が入ると内外の気圧のバランスが崩れて、タンクが溢れるのだそうだ。ボトルを抜いて中を見たら、なるほど、タンクがいっぱい。そういえば、このボトル、セットした後に中が小さい気泡だらけになっていたっけ。説明通りに水を抜いて、ついでにクーラーを掃除して新しいボトルをセット。今のところは漏れていない。やれやれ。

このクーラーは何年も前に水の配達の契約をしたときからのものだ。ポラリスという名前だったその会社は数年前に今の会社に買収され、今の会社もやがて大手企業グループに買収されて、最近別のグループに売却。企業の離散集合は男女の仲のよりめまぐるしい。私のクライアントのひとつもつい先ごろ同業他社に吸収された。しかも老舗の大手。レートなどの条件に変更はありませんというけれど、今まで通りに仕事が来るという保証はない。それがビジネスなんだけれど、下請けの私まで新会社に引継ぎなんて、なんだかこのウォータークーラーと同じような気もする。ま、新しいところからの契約のお誘いが2つほどあるから、ここはまじめに「水漏れ対策」をとるか。

商売?お仕事?

8月22日。水曜日。最後に残った仕事2件。納期は木曜の午後と日曜の深夜。その後のカレンダーは久々に空白。仕事メールが飛び込んでこなければ良いなあ、と何となく祈るような、ドキドキの気持になる。カレシはノー能天気に「断ればいいのさ」なんていうけれど、You’ve got to make a living(生活がかかってる)なの。よく「フリーの稼業は自由でいいねぇ」なんていわれることがあるけど、自分がボスだなんてと~んでもない。クライアントが生殺与奪券を握っているようなもので、まともな仕事をしなければすぐに干される。おまけに失業保険もない。好きでなければ長くはやってられない商売なのかもしれない。

下請負契約のお誘いは今のところ手ごたえは上々。これはと思って返事をした2社のうち、日本の会社はトライアルでも安いけどきちんと料金を払ってくれるんだそうだ。今どきそういうところもあったのかと感心。だいぶ前だったけど、シンガポールの会社から電話とメールでうるさく催促されてトライアルに同意したら、指定の分野とは全然かけ離れた原稿が送られて来た。どうも実際の仕事をトライアルに名を借りてただでやらせようという魂胆だな~と判断して、「バカにすんな」と突っ返したことがある。たった1行だったから、初めてだし今回は無料にしますといったら、次から1行ずつ依頼して来たアホがいた。「月単位にするか、一定額ごとにまとめて請求するか」と持ちかけたらぱったりと止まったけど、今はそれも昔話・・・

華やかな女性雑誌に描かれるファッショナブルでかっこいい「お仕事」のつもりでいると大やけどするのがこの商売。だけど、若い人は年長者の現実的なアドバイスにはあまり興味がないらしいから、ま、やけどをしながらも自分なりにで学ぶしかないんだろうし、そのほうが良いのかもしれない。この世界にはいろんな商売人がいて、いろんな商売のスタイルがあって、対面でなくたって人と人との商売である以上はどれだけがんばってもうまく行かない関係もあるということだ。ある意味ほんとうに男女の関係に似ていなくもない。

小町にもこの商売に入りたいという相談は多い。学歴?TOECの得点?語学留学の経験?そんなの何の保証になるんだろうか。まあ、私は高卒のOL/秘書上がりで、30何年を「たまたま」英語で生活して来たというだけなもので、学歴や経歴のことになるとちょっぴり肘を突っ張るようなところもなくはないんだけれど、究極的には「売れるもの」を生産することで生計を立てている人間だ。売れなければ商売あがったり。商売が立ち行かなければ、おまんまの食い上げになる。子供のいない私にとっては、いずれ年を取って天涯孤独の身にでもなれば、頼りになるのは自分の足で立てる生活基盤。将来が不安だの、怖いだのとのんきなことを言ってられないんだよなあ、もう・・・

というわけで、久々の休みまで指を折って胸算用しつつ、あと4日、腕まくりしてがんばってしまおうか。でも、ほんとうは、何だかすご~く疲れているみたい・・・

新バベルの塔

8月23日。たまに日本語訳を頼まれる。送られてくる原稿を見ると、なぜか「ヘンな英語」が多い。社内で扱いかねてギブアップしたらしい。ちょっとしたタイプミスのせいで一見意味不明なのは、そのミスに気が付けば意味がわかるだろうと思うんだけど、「英語人が書いたものだから」という思い込みがあると、意味不明の元凶である「単語」が実はタイプミスでスペルが変わって別の単語になっているのだとまでは思いつかないらしい。こんなときは、似たようなスペルの単語に置き換えてみたり、それがだめなら、アナグラムというつづり換えパズルの要領で「正しい」単語を探り当てる。そういえば、動詞の「puzzle」には「頭をしぼる」という意味があるんだった。(途方にくれるという意味もあるけど・・・)

EFLやESLの人が書いた英語にはひとクセもふたクセもある表現や単語の選択が多い。一瞬「はあ?」、「ええ?!」ということになるけど、それぞれのお国柄を発露したような英文のクセを飲み込めば、二度目、三度目はかなりすいすいと仕事が進むようになる。中国語の漢字をひとつずつ訳したようなのはそのまま漢文が書けてしまいそうだったりする。著者の母語がラテン語系統らしければ、フランス語やスペイン語の辞書を調べたり、英語の語源から意味を探ったりして、「正しい」英語表現を判断して解釈することもある。ちょっぴりミステリーの探偵気取りかな・・・

英語が実質的な世界共通語のようになって、イギリス英語にアメリカ英語、オーストラリア英語(Strine)にニュージーランド英語にカナダ英語にアイルランド英語。カリブ海の英語も独特なら、その上にFranglish、Japlish、Chinglish、Singlish、Spanglishときりがないほど色とりどりのEFL英語があって、それぞれお国柄が出てくる。もう、一種の方言のようなものかもしれない。だから、英語を日本語に訳すといっても、英語以外の言語で書かれたものの英語版ということも多々ある。こうなると、まさにLost in translation、お国柄が二重、三重に訳し込まれて、バベルの塔再現の様相を帯びてくる。いながらにして異文化体験をしているみたいで、おもしろさにはまったら最後、なかなかやめられない。

だけど、英語がこれほど多彩になったからこそ、自分のルーツがある日本語から英語訳の方がずっと楽に感じるのかもしれないとも思う。だって、何よりも何よりも、めんどうでイライラする「漢字変換」というものがなくて、パカパカ~とタイプすればいいから楽ってこともあるし・・・

あの日

8月24日。私にとって、8月24日はその後20数年の人生を知らないうちに檻に閉じ込められることになった、序章のような日だ。あの日も金曜日だった。幸せな日であるべきだったのに、あの日はいったい何だったのだろう。あの日、私を見つめていたあの優しい目は何だったのだろう。

若すぎたのかもしれない。無知だったのかもしれない。人を信じすぎたのかもしれない。あの優しい目にすっかり騙された私が悪かったのかもしれない。私を知りもしない赤の他人に何度もいわれたように、私が「それだけの人間だった」からかもしれない。だけど、あの日カレシが私についた大嘘はやっぱり人を騙すためについた「うそ」に他ならない。私は「in the wrong place at the wrong time」だったのだ。

だけども、生まれつき良心のかけらもない詐欺師でもない限り、嘘をつき通すのは正直を通すよりもずっと難しい。あの日からずっと、カレシは嘘を隠すために嘘で飾り、嘘を重ねた。いくら嘘を嘘で隠しても、やがては真実が明らかになるものだと思うけど、カレシにも自分で積み重ねた嘘を支えきれなくなったときに、そのDay of reckoningが来たのだろう。

長い間私が知らないでいた一切の真実がさらけ出されて、私はよけいに傷ついたかもしれない。だけど、さらけ出された真実がどんなものであれ、どれもそれなりに私の人生の記録であることには間違いない。少しだけ賢くなった自分がいるのがわかる。あのまま知らぬが仏で騙され続けていた方が幸せだったのか、たとえ傷を癒しきれずに泣くことがあっても真実を知った今のほうが幸せなのか、それは一生わからないだろうと思う。

ちょっと泣きたくなりはしたけれど、カレシが「この日」を覚えているはずはないし、忙しさに紛れているうちに夜中になって、30何年目の8月24日はそうっと過ぎて行ってくれた。いつかきっと「むかし、むかし、あるところに、純情でうぶな女の子がいました・・・」という話になるときが来るんだろうな。

忘れないで

8月25日。よほどぐっすり眠ったらしく、目が覚めたらとっくに正午を過ぎていた。水を配達に来たトラックの音で目が覚めたらしい。いろんな夢を見ていたような気がするけど、断片さえ覚えていない。目を覚ましたとたんに見た夢をけろっとと忘れてしまうのは健康なんだそうだ。眠っている間に脳がデフラグしたのかもしれない。

人間の脳というのは不思議なもので、一見してまったくつながりがなさそうな記憶の断片をつなぎ合わせて新しい思考や感情を喚起することがよくある。けさ、通りかかったテーブルの上にあったDVDのカタログが視界の隅をかすめた時にふと思い浮かんだのは、最後のデートだった「あの日」にカレシと見た映画が当時大ヒットしていた『Jesus Christ Superstar』だったことだ。もっともあの頃の私の英語力では字幕なしでわかる台詞は半分くらい。歌詞はほとんどわからなかったんだけど、イエスが十字架上で死んで行くシーンで聞いた「My God, My God, Why have you forgotten me?」は強烈な衝撃で耳に残った。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という、十字架にかけられて死に近づいたイエスが叫んだ言葉だ。英語版の聖書ではMy God, My God, Why have you FORSAKEN me?」となっている。この「forget」と「forsake」では意味合いがまったく違うのだ。映画の歌詞は「どうしてわたしをお忘れになったのですか」といっている。でも、聖書のイエスは「なぜ見捨てたのか」と叫ぶ。そこには死の苦痛に悶えているわが子をなぜ救おうとしないのか、と親である神に詰め寄っているよう感さえある。

日本語だって、誰か(特に愛する人、信頼する人)に「忘れられる」のと「見捨てられる」のとでは心理的なショックが違うはず。「見捨てる」という行為には悪意が含まれているように感じられるからだろう。なるほど、「あの日」と映画の間に何か因縁があったとしたら、それはたぶん、私のガーディアンエンジェルがあの日私のことを「忘れた」のかもしれないということだろうか。

だとしたら、しょうのない天使だけど、まあ、私を見捨てたということではないようだから、いいっか。きっと私に似て少々おっちょこちょいな、極楽とんぼならぬ極楽エンジェルなのだろう。だけど、なのだ。やっぱり私の「守護天使」なんだから、もうちょっとしっかりしてほしいなあ。ふらふらと飛んで回らないで、ちゃんと私のそばにいてくれなくちゃ。でなかったら、もう少し頼りになる天使に担当を替えてくださいって神さまにお願いしちゃうからねっ

リスが忘れたどんぐり

8月27日。夏の最後のひと踏ん張りらしい良い天気の月曜日。昨夜はこれが最後とがんばった仕事が終わるのと同時に「緊急大至急!」というミニ仕事が飛び込んで来たけど、それも日本の朝一前に送り出して、今月初めて一応の失業モードになった。ちょっと気が抜ける感じ。もっとも、スケジュールの問い合わせが2つ、3つ。それにバックオフィスの雑用も山ほどある。体はひとつしかないから、フロントオフィスが忙しくなると放っておかれて、デスクの上は雑多なペーパーの山。小切手一枚サインするスペースさえない。う~ん、今週はいっそ「開店休業」ってことにしようかなあ・・・

カレシはメガネが見つからないと、空っぽのケースを手に朝から家中をうろうろ。二人ともそれなりの年令だから老眼鏡は必需品。私は4個持っていて、それぞれの使い場所を決めてあるから、必要なときにいつもそこにあるんだけど、カレシは何でもテキトーなところに「ちょっと」おいて忘れてしまう癖がある。メガネなんかはその典型で、6、7個持っているのに、外したところにおいたままになるから、そのうち全部がどこかに「置き忘れ」になってしまうこともある。今日現在、老眼鏡3個とサングラス1個が行方不明・・・

うっかり置き忘れは誰でもやるけど、カレシは意識的に「安全なところ」にしまったものまで忘れるから困る。「しまったオレが見つけられないんだから、これ以上の安全な場所ないだろ」というけれど、なんだかどんぐりを埋めた場所を忘れるというリスみたい。しょうがないから、背の高いカレシは上の方、チビの私は下の方と手分けしての家宅捜索。家中の棚やら戸棚やら何やらを見て回っていると、メガネ以外にもカレシに「ちょっと」おかれて忘れられていたものがぞろぞろ見つかるからおかしい。ひょっとして、私の目をかすめるつもりで隠したものが出てきてしまっても知らないよぉ・・・

今日の捜索では電動チェーンソーのマニュアルが出てきた。だいぶ前にチェーンが外れて、私のところに持ち込んで来たはよかったけど、自分で直そうとして読んだマニュアルがどこかにちょっとおかれて「行方不明」。そのマニュアルがメガネ探しの途中でひょこっと、それもけっこう目に付きそうなところで見つかったからケッサクだ。カレシには一番前にあるものしか見えないらしい。(男ってそういうものらしいけど。)まあ、せっかくだから「開店休業」を決め込んで修理屋さんの帽子を被ることにするかなあ。ねぇ、チェーンソーはどこにおいてあるの?

月食は何を占う?

8月28日。きのう、というか今朝の丑三つ時に月食を見た。こっちでは始まったのが午前2時少し前。まるで眠気でまぶたが下がるように、上からだんだんに欠けてきた。午前3時過ぎのピークには、月食のお月見がてらカレシと近くのポストまで郵便を出しに行った。南西の空に高くかかったダークレッドの月は、なんだか火星がそこまで迫っているみたいで、ちょっと不気味だった。

もう10年も前になるけれど、ヘールボップ彗星が見えていた頃に月食があった。月の出の直後に始まったこともあって、大きな月がどんどん欠けてピンク色に染まって行く中、振り向くと彗星が西の空にかかっていた。天文好きの私は道路のど真ん中でくるくる回りながら、東の空に月食、西の空に彗星という、たぶん一生に一度もないかもしれない光景に見とれていた。

太古の昔から、月食も、彗星も、日食も、みんな悪いことが起きる前兆とされていた。彗星と月食のダブル現象はカレシ火山が大噴火する前年だった。まだ独身だった頃、深夜に巨大な火の玉が空を横切り、音もなく空中で大炸裂するのを見た。初冬のしし座流星群の時期だった。まるでスローモーションでも見るような光景に、「大きなこと」でも起きるのかもしれないという、漠然とした予感のようなものがあって、妙に興奮したのを覚えている。それから1年もしないうちに、夏休みに来たバンクーバーで会えないはずだったカレシと会って、私の人生が変わってしまった。はたして彗星や月食や火の玉流星は私の運命を予言していたのか・・・

だけど、待てよ。だけど、だけど、、なのだ。人間が未来の運命を見透かせるわけはなく、宇宙が銀河系の辺境にある太陽系のちっぽけな惑星に住む人間のことにまで頓着するわけもない。もちろん、急に太陽や月が欠け始めたら、そりゃ古代の人間はびっくり仰天して、世界の終わりが来ると思っても不思議はない。だけど、実際に世界は終わらなかったし、日食や月食がなくても、彗星が飛んでこなくても、人間は戦争をし、疫病は蔓延し、王者は暗殺されたのだ。早い話、大事件の責任を問われそうになって「そういえば・・・」とたまたまあった宇宙の現象に後付けで責任を押し付けたといったほうが良さそう。

彗星と月食が同時に見えた時のカレシはすでにいつ爆発してもおかしくない精神状態だったんだし、寝静まった夜更けの空で静かに、激しく炸裂する火の玉を見て、なんか大きな変化の前兆かな~なんて感じたのは、24才という当時は大きなプレッシャーのかかる年令だったからで、あれがしし座流星群の時期で、カレシの星座が獅子座しし座だったというのも、「運命」を読み込めるネタが揃いすぎている。それにしても、今朝の月食は誰の何を占うものだったのかなあ・・・

ビッグみかんもひと皮むけば?

8月29日。開店休業の休みを決め込んで丸二日目。幸いメール前線は静か。小さな飛込みはあるけど、ローカルの一見さんだからノーと即答。だけど、ぼけっとしているの慣れるまでにはちょっと時間がかかるから、うちの中をうろうろ、ットの中をうろうろ・・・

市役所のストは続行中。雇用者側が出した2種類の妥結案は組合が蹴った。周辺の各市の組合が受け入れた条件では不足ということか。回答期限だった今日正午のちょうど1時間後に職員のデモ行進。もっとも先週から予定されていたというから、拒否は初めから想定内だったんだ。労働組合の交渉委員というのはストでも打たないと存在感を誇示できるチャンスがないし、ストに突入した以上は譲歩しすぎといわれるような妥結はできないし・・・だから、テレビのニュースに出るたびに「タフガイ」をアピールするタイプが多い。何だか時代錯誤的で滑稽に見えるんだけど・・・

久しぶりにローカル掲示板をうろうろしてみる。スカイトレインという、86年の万博のときにできたいわゆる新交通システムがある。これ、なぜか初めから改札口がない。どこの誰が考えついたのか知らないけど、切符の販売機はあっても改札口がないから、昔からただ乗りが横行。ついには交通警察なるものができて、無賃乗車の摘発をやるようになった。こう書くとすぐ「だからカナディアンは・・・」ということになりそうだけど、どっこい、最近は「つかまっちゃった」という日本人が増えているらしい。要するに、改札口がないんだから払う必要はないという理屈らしい。やれやれ、昔の日本人は正直なことで評判だったんだけどなあ・・・

ホームステイの文句も相変わらずらしい。部屋に無断で男を連れ込んで追い出されたという話。契約書に男を連れ込むなと書かなかった方が悪いんだそうな。金を払ってるんだから何をしようと勝手だろうという輩もいる。ふ~ん、ここまでマニュアル化してしまっているんだ。マニュアルに書いてないことはやらなくていい。マニュアルにダメと書いてなければ何をしてもかまわない。そういえば、日本の最近の世論調査でも「権利のみを主張して他人の迷惑を考えない人が増えた」と答えた人が85%もいたとか。こっちの日本人社会で調査をやったら答えは100%かも・・・

日本人だから見下された、白人じゃないから差別された、と相変わらずの自意識過剰。有色人種が多数になろうとしているこの土地でいちいちアジア人を差別していたら商売にならないんだってば。それに日本人だって見分けはつかないんだし・・・あんがい、態度でわかるようになってしまったのかな?自分の期待に沿わないとすぐ見下された!と騒ぐけど、その舌の根も乾かないうちに中国人は~、韓国人は~と来る。いくらなんでもそりゃないでしょうに。まあ、バブル景気以来チヤホヤされて育ったせいで、日本人と言えばチヤホヤしてもらえると期待するのはわかるけど、バブルははじけたんだし、見下され病は自分に自信がなって宣伝しているようなものじゃないの・・・?

まあ、「所詮はたがの外れた空っぽの桶よ」と笑い飛ばせばいいんだろうけど、人さまの国で、まるで「来てやったみたいな尊大な態度」(客なんだから神さま扱いしろということか)でいい加減のやり放題をされると誰だってムカつく。だって、ここは私の国なのだ。誰が安倍さんの文部大臣になったのか知らないけれど、「美しい日本」のマニュアルに、「よそのおうちではお行儀よくしましょう」と書きこんでよね・・・

がんばってのんびりしよう

8月30日。おお、今日は久々に25度まで行っている。でも、青空は何だか秋っぽいような。明日からはまた下り坂の予報だけど、その後の青空は確実に秋の空だろう。8月も明日で終わり。7月の終わりと8月の終わりではやっぱり気分的に何か違うからおもしろい。

レイバーデイの三連休が明けたら学校は一斉に新学年が始まる。コンサートも芝居も新シーズンが始まる。交響楽団のシーズンチケットも届いた。劇団のチケットも・・・と思ったら、スタンリー劇場のチケットがない。この劇団は劇場が二つあるからややこしい。去年はグランヴィルアイランドの劇場のチケットが届かなくて迷子になったかと思ったけど、今年はスタンリーの方かい。シーズンチケット更新の電話作戦ではちゃんとボランティアの人に説明して、確認してもらって、記録を訂正してもらったんだけど・・・

カレシが予定していた英語教室は生徒数不足で当面キャンセルになった。好況で人手不足だから、英語がまだイマイチでも仕事を見つけられた人たちが多いのかもしれない。最初の仕事さえ見つかれば、職場によって多少の差は出るかもしれないけども、たいていの人が英語でやって行けるようになる。毎日使って慣れることで自信がつくからだろう。日本では日本人が毎日そうとは意識せずに日本語で暮らしているように、英語人も毎日そうとは意識せずに英語で暮らしている。英語圏カナダでは英語が国語なんだから、家では母語でも一歩家を出たら英語だ。移民にとって英語は第二言語(ESL)なのであって、訛りが千差万別でも社会の共通言語であることに変わりない。誰それはペラペラだとか、下手だとか、TOEICのスコアがどうのこうのと言っている英語はあくまでも外国語(EFL)なのであって、本来は教え方もESLとは違うのあそうだ。まあ、ボランティア先生のESL教室が繁盛しないのはいいことだと思うんだけど。

開店休業も3日目。少し長めに続いてくれないかなと期待したけど、どうやらおしまいの様相。明日は月末処理だし、週末から始めなければ納期に間に合わない仕事が確定してしまった。その後には納期はいいけれど見積りが予算オーバーで・・・という常連さんの仕事。めんどうくさいなあと思っていたグラフィックの部分やあまり必要なさそうな部分を省略したら予算内に納まるし、納期も早まると提案したらOKになった。かなりまけてあげたことになるんだけど、手間がかかるのにお金にならない部分がなくなったわけで、私にとってもめっけもの。

さてさて、「お休み」の残りは数時間。がんばってのんびりしなくちゃ・・・ん、何だか変?

ついでのついでが多すぎて

8月31日。とうとう8月最後の日。友だちとランチの約束があるカレシにくっついてダウンタウンに出た。ついでにパスポート用の写真を撮り、さらについでに、産卵期も過ぎた頃だろうからRodney’sで生牡蠣を食べようという計画だった。カレシのランチの間、私は久しぶりに自由行動。ウィンドウショッピングもたまには楽しい。

ところが、車を降りて歩き出したとたんに履いていたサンダルが壊れてしまった。けっこう何年も履いたものだから縫い目が擦り切れたらしい。カレシと別れて急遽近くのアウトレット店に駆け込んだ。何十回と通りかかっているのに入るのは初めて。来週から新学年が始まるとあって、ジュニアセクションは通学用の衣類を買う女の子がぞろぞろ。新学年のときに新しい服や靴、学用品をまとめ買いする習慣があるので、今はどこも「Back to School」セールが花盛り。特に女の子を持ったママは大変だ。ジャリタレのステージ衣装かと思うような「際どい風」のもあって、こんなのを着て歩いていたらヘンな男に目をつけられないかと心配になる。ああ、今どき思春期の娘を持つ身でなくてよかったなあ。

「通学服」選びに駆け引き、綱引きをしている母子をよそ目でみながら、私は靴探し。私のサイズになると品揃えはあまり良くない。とにかく履ければいいと思って端から見ていて、ジーンズに合いそうなクログを見つけた。足の納まりは上々で、サンダルよりも「闊歩している」感がある。喜んだついでに近くのちょっとおしゃれでクラシックなハイヒールも買ってしまい、ついでのついでに、通りすがりに「あ、いいなあ」と足を止めた真っ赤なフーディーも買ってしまった。黒の刺繍とフードを絞る紐の先についた真っ赤なポンポンが気に入ったんだけど、アウトレットにしては安くない値段と思ったら、ラベルにLiz Claiborneとある。聞いたことがあるからきっとバカ高い有名ブランドなんだろう。

靴といえば、1週間の間に運動靴を履いたままの人の足(足首から先)が2本、バンクーバー島の別々のビーチに打ち上げられたそうだ。これだけでも十分ミステリーなのに、2本の足はどちらも男性の右足だというからますますもってミステリー。サイズ12はカレシのより大きい。でも、どちらの靴も同じサイズというところがまた「事実は小説より奇なり」を地で行っているような話だ。不思議の国のアリスが聞いたら、「Curiouser, curiouser(ますます奇妙)」といいそうだけど、そういえば、背が伸びすぎたアリスが自分の足に靴を贈らなきゃと考える話がある。その行先が「アリスの右足」。ますますCuriouser・・・

それはともかく、ダウンタウンに出たついでだからとDVDをまとめ買いして、Rodney’sで生牡蠣をたらふく食べて、ついでにコリアンスーパーに寄って帰ってきたけど、想定外のついでばかりで、肝心の「ついで」に撮ってくるはずだったパスポート用写真のことはけろりと忘れてしまった・・・やれやれ


2007年8月~その1

2007年08月16日 | 昔語り(2006~2013)
サイバーコンドリア

8月1日。いよいよ8月、といっても朝起きてみて別にきのうと変わったところはないんだけど。だけど、やっと夏らしくなりそうな感じがする。カレシも私も一応すっかり落ち着いて、どうやら「うるさいかもしれない」週末は乗り切れそうな予感。そう思ったらやっぱりほっとするから、私も凡人だなあ。

新聞によると、ネット世界の大人の実に84%が「cyberchondrial(ヒポコンドリアのサイバー版)」なんだそうだ。ふ~ん、大人が5人いたら4人は確実にサイバーコンドリア患者で、あとの1人も気をつけないと、というところかな。ちょっとあそこが痛いといっては、ネットで医学情報を検索しまくるのだとか。そういえば、読売の小町でも自分がADDかもしれないと心配している人がいたっけ。本やテレビ番組やネットで知った症状がことごとくあてはまるんだそうだ。トピックには「私もそうじゃないかと思う」なんて書き込みがずらり。この分では日本は一億総ADDになってしまいそうな・・・

ネットには何についてもありとあらゆる情報が肯定、否定が入り乱れてあふれているけど、こういう人たちは自分の意見を肯定してくれる情報ばかりを選択的に取り入れる傾向があるからしまつが悪い。「あ、この病気かも」と思ったら、「そうじゃなさそうだ」という、本来なら安心感をもたらせる情報は無視してしまって、自分の「かもしれない」を肯定してくれるような情報にズームインする。そういう人たちのほとんどがネットの医学情報は信頼できると答えたそうだ。それで実際に医者に見てもらおうという人は少ないらしいところを見ると、あんがい求めているのは「病気じゃないんだ」という安心感ではなくて、「やっぱり病気だったんだ」という安心感の方なのかな。どこを見渡しても漠然とした不安が漂っている二十一世紀を象徴するような心理なのかもしれない。

そうかもしれないと思ってググッていたら、どんな情報でもそうだという意味に解釈できるもので、私だってその気になれば、あてはまるADDの症状が「私ってADDだったんだ~」といえるくらいたくさんある。でも、そんな「傾向」はあるかもしれないなあと思う程度で、変わったところはあるけど自分はいたってフツーだと思っている。その視点から見れば、カレシだってボーダーライン人格障害(BPD)の症状にあてはまりすぎるくらいだけど、ちょっと情緒不安定が過ぎるようだからそういう「傾向」がありそうだと私が考えているだけで、カレシ自身は自分をまったくフツーの人間だと思っているはずだ。まあ、ちょっとヒポコン的なところは超ヒポコンのパパ譲りみたいだけど・・・

ガーディアンエンジェル

8月3日。木曜日のきのうは、昼間はヘアカットに行って、夜は芝居。終わってから一緒に行ったイアンとバーバラ(25年の家族付き合い!)に立ち寄ってもらって、飲みながら夜中過ぎまでおしゃべり。とうとう1日休みを取ってしまった。芝居は『Suds』という、60年代のヒットソングをつないで物語にしたミュージカル。Sudsというのは泡のことで、ランドロマットを舞台に、失恋した女の子と、どうやら神様の手違い?で二人も来てしまった「守護天使」が繰り広げる荒唐無稽なソープオペラ(メロドラマ)。ティーンの頃に聞いたなつかしいヒット曲が次々と「せりふ」代わりに歌われる。北米の社会に大変動が起きるちょっと前のあの頃はみんなまだずっと純情だったんだ・・・

土曜日はカレシの提唱でイアンとバーバラが住む川向こうのリッチモンドでディナーということになった。リッチモンドは市役所の組合がさっさと妥結してストなし。夫婦二人だけの暮らしで1回に出すゴミは制限量の半分だからと、我が家の「腐るゴミ」を引き受けてくれるという。それでディナーということになったんだけど、スコッチ1本くらい下げて行くとなれば、また夜中までおしゃべりになる。カレシは「他人の騒音」ストレスから逃げられるけど、私はその分の時間もどこかにねじ込まなければならない。結局は、またまた仕事がアコーディオンプリーツ。この調子では、週末明けは徹夜モードも覚悟しなければ・・・。

それでしっかりねじり鉢巻モードにならなければならない今日なのに、先月もらった駐車違反切符が支払期限だったり(開店休業のはずの市役所から「お忘れなく」の手紙が来た!)、家の外の歩道の芝生刈りをしてくれるガーデナーの請求書があったり。寝ていて「不在通知」をもらった小包はカレシの誕生日のプレゼント。ということで一人で出かけて、郵便局の前に車を止めたのはいいけれど、エンジンも切らずにドアをロックして、降りてドアをバタン!あっと思ったら後の祭りだ。郵便局で電話を借りて家にかけたけど返事がない。(なぜかカレシは私が出かけると庭仕事に出てしまう習癖がある。)

しかたがないから家まで1キロ半の距離を走った。走りながら、いつのまにか「助手席」に慣れてしまった自分にいやというほど腹を立てた。腹が立って、ボロボロと涙が出た。カレシのキーを借りて、郵便局までポンコツ車で送ってもらって、荷物を受け取って帰ってきたけど、「誰だってうっかりはあるさ」と慰めてくれるカレシに「こんなんじゃダメだ」と泣いてしまった。

助手席に慣れてしまってはダメだ。人任せに慣れてしまったら、他人に自分の人生を運転させるようなもの。他人が私の人生を目的地へ安全に運転してくれるという保証はない。他人にハンドルを握らせたら最後、自分はまったく無防備になってしまう。モラハラ人間にハンドルを取られた私の人生は壁に激突して、私は大怪我をしてしまった。確かに誰にでもありそうな「うっかり」なのに、なぜかそんなトラウマのような苦しい思いの方がこみ上げてきて気持が大きく揺れたのかもしれない。このところ、鉄砲水のような激しい洪水を目撃する夢を見たりしていたから、やっぱり気づかないうちに精神的なストレスが重なって、どこかで人生行路の「標識」を見落としていたのかもしれない。今日の「うっかり」は、神さまが守護天使を送ってくれて、「ほらほら、居眠り運転は危ないよ」と、肩をたたいてくれたのだろうと思う。私のガーディアンエンジェルよ、ありがとう!

海からの風

8月5日。あ~あ、土曜日はやっぱりほぼ開店休業になってしまった。出かける前に少しでも、と仕事を始めたのに、カレシが「少し時間があるから」野菜を買いに行こうと言い出した。私は「少しも時間がない」んだけど、冷蔵庫には私が使う野菜もない。土曜日は外食だからいいとしても、仕事が終わる前に私の野菜入れは空っぽになってしまう。やれやれ、どうせ買いに行かなければならないのなら、どうせ後は仕事にならない今日のうちに買いに行った方がいっか・・・。

ディナーの後はバーバラの発案で『カジノ ロワイヤル』を鑑賞。息子の元の部屋がテレビルームになっている。(ちなみに、独身の息子は医者、フィリピン系の証券マンと結婚した娘は薬学博士。)アペリティフのリレをおみやげに持って行ったので、カジノでボンドがカクテルを注文する場面で休憩して、カレシがそのカクテル(ヴェスパー)を作った。ついでにマティニの作り方のレッスンまでしたもので、イアンのジンとウォッカは空っぽ。ほろ酔いになって映画を見終わった後は、ブルーベリーをつまみながらまたひとしきりおしゃべり。しっかり遊んだ気分になって家に帰り着いたのは午前2時半だった。

イアンとバーバラが選んだレストランはスティーブストンのフィッシャーマンズウォーフにあった。昔からの漁港でサンフランシスコのをミニチュアにしたようなものだ。レストランやカフェ、クラフトショップがずらりと並び、そばにコンドミニアムが林立している。ここを本拠にしていた水産加工会社の跡地もプロムナードに整備されている。パティオのテーブルで、海からの風に涼みながら食べたパエリャはおいしかった。

今はリッチモンドの一角だけど、スティーブストンは日系カナダ人の歴史が始まったところ。太平洋戦争の勃発で日系人が内陸に強制移動させられた時、日系漁師たちの船は没収されて二束三文で売られた。波止場に並んで獲れたての魚を売っている漁船を見ていて、ふと、あの時に船を手に入れた漁師たちの末裔がいるのかなと思った。20年前、カナダ政府は正式に非を認めて日系カナダ人に謝罪し、賠償した。おりしも、この週末はバンクーバーでは日系コミュニティ恒例の「パウエル祭」。パウエル・ストリートは昔日本町があったところだけど、もうその面影はない。今、日系カナダ人の95%が異人種婚だそうだ。まあ、わずか数万人がこのだだっ広いカナダに散らばっているのだから、当然の成り行きだろう。五世、六世ともなると、日本の苗字であっても見たらもろに紅毛碧眼だったりする。

だけど、頭にどんな「系」が付いていようがみんな海を越えてきたカナダ人。たまたま人種の違うカナダ人同士が結婚したというだけのことだから、どこぞの国のように国際事業か何かのように騒がれはしない。何百年か先の地球上には、きっと「カナダ人」という民族がいて、独特の民族文化を展開しているだろう。異人種婚は人類が大昔から繰り返してきた民族移動と民族形成のひとつの要素に過ぎないんだから。

ぶつぶつ・・・

8月6日。頭の中ではまだ月曜日の夜なんだけど、実際には火曜日の午前2時。(サイモン&ガーファンクルの歌は『水曜の朝午前3時』だったっけ・・・逃亡する男の歌。)別に悪い事をしたんじゃないけども、どうもこのまま徹夜になってしまいそうで、何となく逃げ出したいような心境にもなる。(ぶつぶつ・・・)

洪水となだれと大雨がいっしょにやって来たような仕事ラッシュ。この稼業、なぜかニッパチはフル回転になるから不思議だ。このままでは8月も缶詰め状態だなあ・・・とためいき。ご近所の大パーティは結婚式の今日が最終日とか。外へ出るとかなりの騒音だけど、家の中ではほとんど聞こえない。大山鳴動しているわりにはねずみはゼロかな。カレシはちゃっかり耳栓をしているから、話しかけたって馬の耳に念仏。まあ、これも彼なりの努力だし、カリカリして噴火するよりはずっと大人というものでしょ。

朝起きてみたらあごの下が何となく痛い。そのうちに首の横のリンパ腺が点々とはれて来た。左へ向こうとすると痛い。何となくまた喉が痛い。手の指の関節も痛い。み~んな痛い。カレシのいう通りストレスだ。まさにストレス症候群というヤツかもしれないなあ。工事の騒音だ、近所の騒音だ、カレシの騒音だと大騒ぎの中で、しちめんどうくさい仕事、さっぱり意味不明の仕事に頭を突っ込みっぱなしでは、さすがの私だってストレスがたまっちゃうよなあ、ほんと。(ぶつぶつ・・・)

水曜日はカレシの誕生日。プレゼントを包むのを忘れないようにしなくちゃ。カードは買ってあるけど、ラッピングペーパーはあったっけかなあ。カレシはディナーは週末まで待ってもいいよ、といってくれるけど、フリーザーの食料もかなり底を付いてきているし、何が何でも今週は買出しに行かなくちゃならない。あ~あ、知らないよお、もう。(ぶつぶつ・・・)

静かな雨上がり

8月7日。雨の朝は静かでいい。緑もすっかりほこりを洗い落とされて鮮やか。それにしてもしょぼい夏だなあ。雨が降り出したら気温はまた20度以下。日本もヨーロッパも猛暑らしいのに、どうなっているんだろう。

きのうは外が薄明かりになった午前5時半に「本日の営業は終了しました」にした。クライアントはメールの送信時間を見て仰天するけど、な~に、日本標準時で仕事をしているだけのことで、日本では午後9時半だから、ちょっと残業をしたようなもの。普通の時間に起きれば数時間の睡眠だから、実は徹夜なんていうほどのものじゃないんだけど、徹夜といった方が何となく「がんばったぞ」という感じ。

アドレナリンが過剰なのか、やたらと元気がいい。カレシが庭に出た隙にプレゼントを包んだ。何しろ大きいからラッピングペーパーで包みきれない。何が入っているかは内緒だから、何も印刷していない底だけを残して何とか包んで、てっぺんの真ん中にちょこんとボウを付けた。カレシは誘導尋問してくるけど、ないしょ、ないしょ。忘れずにレストランの予約もした。「C」という一文字だけの名前のかなりおしゃれなシーフードレストラン。「連れ合いのバースディなんです~」と付け加えておいた。

塀越しにお隣のパットにつかまっていたカレシが戻ってきた。パットも引退してひとり暮らし。ご近所の情報通だ。きのうの夜の婚礼パーティの大騒音が突然ぴたりと止んだのは、レーンの向こうのゴードンが怒鳴り込んだからなんだとか。「ほらみろ、非常識に頭にきたのはオレだけじゃないんだよ」とカレシ。突然ぴたっと止んだとは知らなかったけど、ゴードンの仕事は朝が早いから、怒ってしまう気持もわかる。だって、ほんとうにインド音楽の野外コンサートをやっているみたいにすごかったんだから。いくら前もって近所に断っておいたといっても、あれはちょっと良識がなさすぎた感じ。

騒音といえば、市役所の近くを掘っている地下鉄工事。下水管を移動させるのに、夜間工事をするそうな。交通に支障を来たすといけないという「配慮」なんだそうだけど、午後11時から朝がたまで工事の騒音を聞かされる近所の住人はたまったもんじゃない。とっくに半分になってしまって交通に支障を来たしている道路なんだから、昼間に交通止めにしても大して支障があるわけないだろうに。どっかでプライオリティが狂っている。どうしてオリンピック関連となるとこうも良識がなくなっちゃうんだろう。

バンクーバー市役所のストはもう3週間になる。周囲の市は「5年間に合計約17%の賃上げ」で妥結したリッチモンドを始め、どこもストなしで妥結した。もうひとつ同時にストに入ったノースバンクーバーもリッチモンドと似たような条件で妥結してしまったから、残されたバンクーバーの組合はあわてて交渉再開を申し入れ。だけど、噂によると5年間で合計30%の賃上げと有休1週間追加」を要求したんだそうな。連休からメディアを完全にシャットアウトして、ぶっ通しで交渉が続いているけど、高々と振り上げたげんこつをどうやって下ろすのかなあ。街にはゴミが溢れてるってのに・・・。

人はパンのために働く

8月9日。やれやれ、間にあった!ゆうべずいぶん残っていたから、今日午後の納期に間に合うんかいと思ったけど、バンザイ、30分余裕を残して間にあった。似たりよったりの言い回しが繰り返し出てくる時は、OFFICEのクリップボード機能がお助け隊。WORDもEXCELも「アホか~」といいたくなることが多いけど、コピーしておけばクリックするだけで何十ものキーストロークを節約できるクリップボードは「進歩」だといっていい。

きのうはカレシの64才の誕生日。朝食が済んだところでうやうやしくプレゼントとカードを贈呈。まあ、テーブルいっぱいの大きさなもので、よたよたと運んだといったほうがいいけど。中身は生垣の剪定をするキカイで、ついでに刈ったくずをマルチにして、専用の袋に集めるからめんどうな後始末は不要というもの。カレシはだいぶ前にカタログを見て「いいなあ」といっていたから、喜んでくれた。だって、生垣が伸び放題なのは、後始末がめんどうだからなんで、これでラクラクになるよねぇ・・・といっても、庭仕事をしてよとせっついているわけじゃないんだけど。

レストランは、天気が良かったせいかみんなパティオに出て中はわりと静かだった。まずシャンペンで乾杯。カレシはつき出しにフォアグラのパテ、前菜はラベンダー漬けのおひょう、メインはニジマスのクスクス添え。私はビーフとホタテのカルパッチオ、カニのサラダでメインは鴨のローストとフォアグラソース。数は多いけど、それぞれの量はたいして多くないのがいい。ワインはロゼを注文。最近はなぜかロゼが流行でレストランのワインリストに載る数も増えた。いつもだったら肉料理にも合うドライなローヌ川のを選ぶけど、ほとんどがシーフードなので、ガメイとグロローを使ったロワール川のを選んでみた。少しばかり甘口でもイチゴのような軽い味わいが良くて、結局二人で1本丸々空けてしまった。

さて、デザートはどれにしょうと迷っていて目を付けたのが「Taster box」というお二人様用の詰め合わせ。小皿二枚と一緒に小ぶりのデザートが5種類、日本の違い棚をデザインしたような木箱の棚に乗って出てきた。ブルーベリーとホワイトチョコレートのケーキ、チェリーパイ、ラズベリーのサブレ、チョコレートトリュフ。チョコ。一番上のヘーゼルナッツとチョコレートのアイスクリームケーキの上には火のついたろうそくが1本。(ハッピーバースディ、ハニーラヴ!)どれもさっぱりしておいしかった。最後の仕上げにディジェスティフは大好きなカルバドス。レストランを出た後はフォルスクリークを巡る遊歩道をのんびり散策しながら、「ああ、いいディナーだった~」と、二人とも大満足。

でも、家に帰れば目の前はまた仕事の山。午後の盛りの日本から次々とメールが入る。「これが終わればあと3つ」だったのが、4つになり、5つになりして、6つになる寸前でやっと「ノー」といった。これで「8月の予約受付は終了しました」というところだけど、ため息のひとつもでる。それでも、女の細腕をまくり上げて働いた分、おいしいもの(パン)をおなかいっぱい食べてシアワセな私は、うん、やっぱり極楽とんぼ。

四角いお皿

8月10日。今日もちょっと曇りがちだけど爽やかな日。気温は午後になっても20度前後。世界のあちこちから異常な猛暑のニュースを聞くと、ちょっぴり申し訳ない気もしないではないけど、典型的なラニーニャの夏らしい。それでも肌に直接当たる日差しは暑く感じる。紫外線が強いのか、湿気がないからか・・・。

今日は久しぶりに遠い方のスーパー(IGA)へ食料品の買出し。フリーザーに常備の肉類のパスケットは底が見えているし、ランドリーシュートには洗濯物がびっしり詰まっているけど、洗剤が足りないから洗濯することもできない。冷蔵庫にマグネットで止めてあるメモ用紙には二人の字で買い足すものがずら~り。近くのスーパー(セイフウェイ)にこまめに出かけているわりにはないないだらけ。計画性がないってことはないんだけど・・・。

ふだん食べる肉類だけは月に1度くらい、IGA で1ドルずつ値引きになるファミリーパックをどさっと買って、帰ってから日付を書き込んだ袋に二人前ずつ小分けして冷凍する。処理するのに30分くらいはかかってしまうけど、小さいトレイのものをたくさん買うよりもフリーザーのスペースを節約できて効率的だし、捨てるトレイも数が少ないし、しかも大きくて厚いから捨てる前に使い道があって一石何鳥。レジの合計は春からやっていた、Villeroy & Bochのナイフがもらえるスタンプが1枚足りない金額。あと25ドル分の買い物をすればローストを切り分けるナイフがただになるんだけど、う~ん、どうしても欲しいというものでもないし、そんな時間もないし、ま、いいや・・・。

今日の夕食は久しぶりに手に入った子牛のレバー。カレシの大好物だけど、なぜか近頃はめったに手に入らなくなった。狂牛病のせいかもしれない。そういえば、キドニーも見かけない。レバーのソースは玉ねぎとトマト。これに蒸したアスパラガスを添える。真四角のお皿を買ってから、盛り付けのたびに考えてしまうようになった。今までは模様のある丸いお皿だった。結婚して3年くらいの貧乏時代にシアーズで買った、初めからキズものを集めた安いセット。それでも初めて揃えることができたまともな食器だった。30年もこのお皿に肉と野菜1品をどんと載せて出していたのが、大きくて真っ白な四角いお皿になったら、盛り付けのデザインを工夫しなきゃというプレッシャーを感じた。これは丸と四角の違いだろうか。それとも真っ白だからなのか。付け合せの野菜も1では格好がつかなくて2種類。そうなると彩りも考えなきゃ。

そういえばちょっといいレストランはどこもお皿は形はいろいろだけど、みんな真っ白。ソースをポチポチとたらしたり、刷毛でさっとおいたり、ある意味でシェフのアート。料理が出てきたときにお客が「おお」と感歎するしかけだけど、これは見た目も味のうちとする日本の会席料理から学んだものらしい。だけど、それを家庭で毎晩やろうというのは楽しいんだけれども、けっこう難しいものだ。ま、胃袋は男のハートへの近道だというから、ここは大いに工夫して、毎晩カレシに「おお」といわせてやろうっと・・・

マーリン釣ってナイフをゲット

8月11日。 また土曜日か。リッチモンドで遊んでいたのはつい1週間前だったのがウソみたい。もう「遠い昔」になってしまっている。時間よ、止まってくれなくてもいいから、せめてスローダウンして~

水曜日はバースディの特別ディナーだったからと、いそいそと週末ディナーにおでかけ。久しぶりにダウンタウンの「Cin Cin」。有名ブランド店が並ぶおしゃれなロブソンストリートのおしゃれなイタリアンレストランなんだけど、すごく満足するときと??というときと、ムラがあっていけない。でも、シェフが交代したというから、ちょっと偵察しに行こうというわけ。名前は「チンチン」と発音する。変なことを考えて思わずギクッとする人もいるけど、これはイタリア語で「乾杯」。グラスを高々と上げて賑やかにやる、あれのこと。料理の方は「Good」かなあ。二度くらい行って見なければ真価はわからない。でもアヴェルナというシチリア産のリキュールを発見。いろんなハーブが入っているらしく、何だか煙たいような、病み付きになりそうな味だ。この次酒屋に行ったら探してみようっと。

帰りはダウンタウンのIGAに寄り道。きのうの買い物でもらったおまけスタンプがタダでナイフをもらうのに1枚足りなかったといったら、「適当に何か買ってスタンプもらえよ」と、カレシ。さすが、おじいちゃんがケチで知られるスコットランド人だっただけある。スタンプをくれるのは今日が最後。でも、テキトーに何かといわれても、いるものはみんなきのう買ってしまったの。もっとも、ダウンタウンは住人の構成が違うから、同じチェーンでも品揃えが違う。魚の売り場をのぞいてみたら、ブルーマーリンがあった。クロカジキという、あのでっかい魚だ。スーパーでは初めて見たけど、カジキマグロというからにはマグロやメカジキと同じに料理すればいいだろうと決めて、ついでにとなりにあったアヒ(キハダマグロ)といっしょに買ってしまった。アヒはハワイ語でマグロの意味だとか。アヒに比べるとマーリンは身の色が薄い。どんな味かな。グリルにしようか、ピカタにしようか・・・

カレシが見つけたアボカドオイルと合わせて、レジでめでたくスタンプをもらった。店を出る前にさっそくカードの最後のマスにスタンプを貼って、ナイフを陳列してあるところに直行。カーヴィングナイフはあまり人気がないのかまだけっこうの数が下がっていた。1本とって、回れ右してレジに直行。いっぱいになったカードを渡して、めでたく「タダ」のナイフをゲット。カレシは早いうちにパンを切るナイフをもらっているから、何だか得した気分。ああ、これで今年の感謝祭は七面鳥を切り分けるのが楽になりそう・・・

外でおなかいっぱい食べた日は真夜中のランチはパス。仕事を中断しないで済むのがいい。カレシが雨が降っていると言いに来た。この週末はペルセウス座流星群がピークという話だけど、せっかくいつも丑三つ時まで起きているのに、雨が降ってはいては見られないよなあ。ネイチャーおばさんのイジワル!

強くなったのは・・・

8月13日。相変わらずEXCELのファイル。量が多いからじかにやるのは逆に効率が悪い。しょうがないから、列ごとにコピーして、WORDで作業のやりやすい表にして、終わったらまたEXCELのセルごとにコピーして・・・やれやれ、肩がこる。このくらい続くと、さすがに飽きが来て集中力が落ちるから、効率も悪くなって、気が散って・・・と堂々巡り。あ~あ、もう2月からダラダラ続いているこのプロジェクト、いつになったら終わるのかなあ。な~んていってたら同じところからまたねじ込み仕事。もう、知らない!

な~んていいながら、小町をのぞいて気晴らし。つくづく日本も時代が変わったなあと思うようなトピックが多い。おもしろいのが共働き夫婦のお金の悩み。北米では昔から夫婦不仲の最大原因は浮気でも何でもなくて、お金。夫婦間のコミュニケーションでも、セックスのことは気軽に話せるけど、お金の話はしにくいというカップルが多いそうだ。私たちは最初の25年間これと正反対だった。カレシにはお金のことなら何でも話せたけど、セックスの話になるとはぐらかされておしまい。世紀末の大げんかの最中に長い間の不満をぶちまけるまで、まともに話したことなんかなかった。

でも、お金のことになると、特に使うことに関してはみごとに価値観が一致しているのだからおかしくなる。今は、ずっと二人して働いて来たその投資の配当のような形でそれなりのぜいたくを楽しむ余裕ができたけど、お金の「使い方」では一度もけんかになったことがない。二人の給料も何もみんな共同名義の口座に入って、お小遣いは、家計簿の担当の私から渡していたけど、二人とも同じ額。ある程度高額なものは「経理担当(=私)」が残高を見てOKを出すけど、ふつうは各自の「自制心」に任せるという何とも大雑把な方式だったのに、家も買えたし、二度のローンもさっさと払ってしまえた。

だから、誰がどれだけ稼ぐかが不和の種になるとは思っても見なかった。二人がいて初めて夫婦・家庭になるわけで、どっちがどれだけ稼いでも合わせて二人のものだと思っていた。だって、最初はカレシの方がだんぜん稼ぎが多かったけど、養ってもらっていると(私は)思ったことはなかったら、私の稼ぎの方が多くなったからって養っているという考えは浮かばず、誰が稼いでも二人のお金という気持のままだった。でも、カレシの方はどうやら養われていると思ってしまって、「男は妻子を養ってなんぼ」という北米では時代遅れもはなはだしいプライドが傷ついたということらしい。結婚を何だと思ってんの、ニッポンか!と私は怒り狂ったけども・・・

でも、小町でお金の悩みを抱えているのはこれから結婚する女性が多いような感がある。相手の年収が低くて(自分の将来が)心配というのはよくあるけど、自分の年収の方が多くて悩む人もいる。カレシが持っていたような姑息なプライドが傷ついた男に振られたのかと思ったら、そうではない。相手の年収では生活費にしても、家のローンにしても、「自分の負担が大きくなってしまう」と悩んでいる。妻が稼いで夫を養うのは大変そうだから、男に負担を背負って欲しいけれど、それも難しい・・・。あ~あ、寅さんでなくても男はツライよ、といいたくなるだろうなあ。

つまりは、(しばらく)働くにしても、退社するにしても、自分の負担はできるだけ軽くして、男には妻を養う気概を持ってもらって、だけど「家事や育児は分担してね、男女平等なんだから」・・・かあ。カナダに来た日本人妻たちだって「男は家族を養ってなんぼのもの」とガイジン夫たちのお尻をたたいているのだから、日本の女性はほんとに強くなったもんだなあと感心する。

我が家はアンティークショップ?

8月14日。午後2時半の気温は21度。今朝は早くに目が覚めたカレシに起こされて10時前に起き出したから、何だか眠い。「だって、目が覚めて、眠くなかったんだ」と、カレシ。「だからっていい気持で眠っている私に抱きつくことないじゃん」と、私。「だって、かわいかったんだ」と、カレシ。「ばか~」と、私。朝からアホっぽいやりとりは楽しいし、おかげで仕事の時間がちょっぴり増えることだし、まあ許しとこ。

早起きしたついでに、使わなくなったディナー皿をキャビネットの一番上の棚に移した。30年ごくろうさま。椅子に上がってよっこらしょ。考えたら、キッチンのテーブルで使っているこの椅子はお皿よりもっと古い。一緒に暮らし始めてまもなく買った2脚の椅子は、組み立てたまま仕上げなしで売っていたシンプルなもの。アパートのバルコニーで自分でウレタン樹脂を塗って仕上げをした。普通のダイニングチェアを買うお金がなかったからだけど、10年ほど前にテーブルとセットで買ったダイニングチェアは4脚ともすでにがたがたなのに、飾り気のないこの椅子はまだがっちりしているから驚き。そしてまた毎日向かい合って座る椅子に戻っているんだから、さらに驚き・・・

私がカナダに来た時、カレシはワンルームのアパートに住んでいた。別れることになってカレシは前妻が結婚前から住んでいたアパートから追い出される形になったけど、5ヵ月も経っていなかったので、カレシの荷物はスーツケース2つ。車も前妻のものだったから、当座の家具付きアパートまでバスに乗って運んだとか。そんな状況だったから、ワンルームにあったのはパパが作ってくれた合板のテーブル、お下がりの古い椅子2脚、お下がりのひび割れした食器や調理道具、建築用ブロックに板を挟んだ本棚、ほとんど映らないテレビ、時代がかった大型トランク、そして友だちの友だちから買った中古ベッド。着いたその日に私の枕を買いに行ったし、クリスマスにはママと義妹たちが鍋やフライパンをプレゼントしてくれたくらいで、ビンボーな新生活といえばそうだったんだろうけど、私は幸せいっぱいだったので・・・

二階建タウンハウスに引っ越した時は、コーヒーテーブル、食器戸棚、自分のデスクなどを自分で作った。器用貧乏といわれる私だけど、作った家具は、最後のテーブルを処分したのが2年前だから、何と26年も使い続けたことになる。いくらひいき目に見たってプロが作ったものとは比べられるものじゃなかったけど、果たすべき役割は果たしたってことだろう。

改めて我が家を見回してみると、ちょっとした二人のアンティークショップ。カレシが高校時代に使っていたデスクはオフィスでコピー機の置き場だし、私が日本から持ってきた組立式本棚もバインダーだのの事務用品置き場。ワンルーム時代に私が作った「げた箱」も玄関の脇で活躍中だし、当時の食器類もまだ使っているものがあって、中にはママが結婚した時にママからお下がりでもらったというビクトリア朝のお皿まであったりする。私の嫁入り道具のナショナル電気釜も未だにたま~にだけどカリフォルニア米のご飯を炊いてくれる。何と物持ちのいいこと、と我ながら呆れるけど、二人とも新しいのを買おうとは思わなかったからなわけで、このあたりは割れ鍋にとじ蓋みたいな似たもの夫婦なのかもしれない。金の切れ目は縁の切れ目というから、お金のことでだけはけんかをしたことがない私たちは、結婚生活のほかのどこで嵐が吹こうとも、結局は元の鞘に納まるべくして納まるべき二人だったのかもね・・・

アップ、アップ

8月15日。くたびれた、くたびれた。EXCELやパワポ(ともいうんだそうな)の原稿はもうげっぷが出るくらい見たから、そろそろおしまいにしてくれ~といいたんだけど、まだあるんだそうだ。うへぇ~

急に円高になってきたもので、日本に滞っていた円を移動する手続きをしてもらった。あれよあれよという間に10円くらい上がったから、1万ドルだと千ドル、2万ドルだと2千ドル。こうやって見るとすごい違いだ。ひとりぼっちのグローバルビジネスは自分で為替相場も監視していなければならないわけ。

手続きのお願いついでに家族の近況うかがい。実家はなくなっても日本にはまだちゃんと家族がいるのだ。めったなことで電話もメールもしないのは私が極楽とんぼだから。まあ、ずっと日本語をしゃべっていないと声に出してしゃべるのがおっくうになってしまうということもあるんだけど。ふ~ん、極楽とんぼというよりは、何だか糸の切れた凧みたい。だけど、凧は元気に空を舞っているぞ・・・いや、仕事台風に吹き飛ばされてきりきり舞いしているといった方が近いのかも。

凧、凧、揚がれ~・・・いや、上がっているのは円相場の方。キリモミになって目を回しているしっぽのないこの凧、果たして天まで上がれるか・・・