人間の剣は「愛」なのか「怨」なのか。
無銘剣は人の「怨」を集めて、「怨」を持つ者のところへ行く。そしてその者が刀を手にした瞬間、刀はしっくりとその者と馴染むのである。
無銘剣を次の者に引き継ごうとするとき、前任者(?)は「その刀はあなたのもとへ行きたがっています」といい、引き継ごうとする者は、はっとしてうなづく。
つまりは「怨」-「愛」-「怨」の連鎖がこの物語なのではないだろうか。
戦国時代から昭和まで、無銘剣は「怨」を抱く弱い者に引き継がれてきた。
そして、無銘剣を持つことによって、弱者は「怨」を晴らし、普通の人へと戻っていく。無銘剣がなければこれら弱者は「怨」を抱いたまま現世をさまよいそのまま死んでいったに違いない。
無銘剣は弱者の「怨」を集めて巨大な力を持つようになったが、この剣を持ったものには「愛」を与えている。つまりは「怨」-「愛」-「怨」の連鎖であるが、決して「怨」のままでは終わらない。
森村誠一の描く世界は、強と弱、悪と善が、からみあい、しかし最後には弱であり善であるものが生き残る。いわば勧善懲悪であり、なおかつ悪はステレオタイプである。
怨みを持つ者はかわいそうである。だから助けるが、助けあげたときは「0」のポイントで、そこから先は自力で生きよ!と森村誠一はいっているのだと思う。
だから、悪は薄っぺらだ、と思いながらも私は森村誠一を読むのだ。
物語に出てくる人物は薄っぺらであっても、物語そのものが骨太であれば、それはそれでじっくりと読むことができるのだ。
追伸
やっと心に余裕がでてきたので、前から読もうと思っていた高橋克彦の「炎立つ」を購入した。
そして長篇の小説を読むときには必ず「エッセイ」が側になければならない。というわけで「あの日あの夜」(森繁久彌)と「虹色の記憶」(岸香織)も買ってしまった。
無銘剣は人の「怨」を集めて、「怨」を持つ者のところへ行く。そしてその者が刀を手にした瞬間、刀はしっくりとその者と馴染むのである。
無銘剣を次の者に引き継ごうとするとき、前任者(?)は「その刀はあなたのもとへ行きたがっています」といい、引き継ごうとする者は、はっとしてうなづく。
つまりは「怨」-「愛」-「怨」の連鎖がこの物語なのではないだろうか。
戦国時代から昭和まで、無銘剣は「怨」を抱く弱い者に引き継がれてきた。
そして、無銘剣を持つことによって、弱者は「怨」を晴らし、普通の人へと戻っていく。無銘剣がなければこれら弱者は「怨」を抱いたまま現世をさまよいそのまま死んでいったに違いない。
無銘剣は弱者の「怨」を集めて巨大な力を持つようになったが、この剣を持ったものには「愛」を与えている。つまりは「怨」-「愛」-「怨」の連鎖であるが、決して「怨」のままでは終わらない。
森村誠一の描く世界は、強と弱、悪と善が、からみあい、しかし最後には弱であり善であるものが生き残る。いわば勧善懲悪であり、なおかつ悪はステレオタイプである。
怨みを持つ者はかわいそうである。だから助けるが、助けあげたときは「0」のポイントで、そこから先は自力で生きよ!と森村誠一はいっているのだと思う。
だから、悪は薄っぺらだ、と思いながらも私は森村誠一を読むのだ。
物語に出てくる人物は薄っぺらであっても、物語そのものが骨太であれば、それはそれでじっくりと読むことができるのだ。
追伸
やっと心に余裕がでてきたので、前から読もうと思っていた高橋克彦の「炎立つ」を購入した。
そして長篇の小説を読むときには必ず「エッセイ」が側になければならない。というわけで「あの日あの夜」(森繁久彌)と「虹色の記憶」(岸香織)も買ってしまった。