久しぶりの「平安寿子」である。
この本は連作短編「なんにもうまくいかないわ」(5編)プラス短編小説「亭主、差し上げます」の6つの短編小説で構成されている
彼女の小説に登場する人物たちは「あけっらかん」としているところが魅力である。
「なんにもうまくいかないわ」は『志津子シリーズ』ともいうべきもので、並河志津子という42歳(最初の物語『マイガール』時点)の女性について、5つの視点から語られるものである。
第1話「マイガール」では、幼稚園からの幼馴染で、家族ぐるみで交際している「令子」の視点。
第2話「パクられロマンス」では、志津子の勤める会社(市場調査会社)の部下「ナツキ」の視点。
第3話「タイフーン・メーカー」では、同じく志津子の部下「片上直哉」の視点。
第4話「恋駅通過」は、志津子と恋人関係にある(あった?)編集プロダクションの社長「永明」の視点。
そして最終話「なんにもうまくいかないわ」では、かつて志津子と恋人であった泉井連の未亡人である「涼子」の視点である。
志津子は、飲み屋で知り合った人と名刺を交換し、その4分の3が男でそのうちの3分の1と寝ているのは周知の事実、という女性。そして「気持ちよく一緒に酔える相手だったら、そういうコトになってもおかしくないでしょう?」という。
恋をしてそれを失って、そういう話を皆にして、という志津子を周りの人たちは時に迷惑と思いながらも好きである。
5つの話を通して語られる「志津子」という女性は、遠くから見ている分には魅力的であるが、お近づきになると大変で(でもそれなりの見返りもある)、私などは敬して遠ざけたい、噂話だけで「知っている」くらいの距離がいいかなあと思うのである。
このごろ良く思うのであるが、女性たちが恋愛についてアケスケに語るようになった。
「固い」と思われる『週刊朝日』でさえ、倉田真由美や室井祐月が「ええこんなこと書いていいの」と思うようなことを書いている。
また、小説新潮では柴門ふみが「恋のネタ」で、恋に生きる女性を紹介している。
本書もそうであるが、こういうものを読むと、私などは「なんだかなあ」と思ったりしてしまうのである。
女性が男に求めているものは、自分にとって「完璧」であることのようである。
しかし、完璧なんてあるはずがないのである。
まして、現在の男たちには、欠点を補って余り「魅力」に乏しいのが多い。
だから、そのあたりは「ガマン」というのがこれまでの男女の間(或いは人間同士)にあったもののように思える。
その「ガマン」も無くなった。「ガマンしすぎ」という反動なのかもしれない。
というわけで、この「なんにもうまくいかないわ」は痛快な物語ではあるが、昔から比べれば女性の男性化、男性の女性化が進み、それゆえに巻き起こる新たな時代の混乱、のようなものも感じられるのである。
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彼女の小説に登場する人物たちは「あけっらかん」としているところが魅力である。
「なんにもうまくいかないわ」は『志津子シリーズ』ともいうべきもので、並河志津子という42歳(最初の物語『マイガール』時点)の女性について、5つの視点から語られるものである。
第1話「マイガール」では、幼稚園からの幼馴染で、家族ぐるみで交際している「令子」の視点。
第2話「パクられロマンス」では、志津子の勤める会社(市場調査会社)の部下「ナツキ」の視点。
第3話「タイフーン・メーカー」では、同じく志津子の部下「片上直哉」の視点。
第4話「恋駅通過」は、志津子と恋人関係にある(あった?)編集プロダクションの社長「永明」の視点。
そして最終話「なんにもうまくいかないわ」では、かつて志津子と恋人であった泉井連の未亡人である「涼子」の視点である。
志津子は、飲み屋で知り合った人と名刺を交換し、その4分の3が男でそのうちの3分の1と寝ているのは周知の事実、という女性。そして「気持ちよく一緒に酔える相手だったら、そういうコトになってもおかしくないでしょう?」という。
恋をしてそれを失って、そういう話を皆にして、という志津子を周りの人たちは時に迷惑と思いながらも好きである。
5つの話を通して語られる「志津子」という女性は、遠くから見ている分には魅力的であるが、お近づきになると大変で(でもそれなりの見返りもある)、私などは敬して遠ざけたい、噂話だけで「知っている」くらいの距離がいいかなあと思うのである。
このごろ良く思うのであるが、女性たちが恋愛についてアケスケに語るようになった。
「固い」と思われる『週刊朝日』でさえ、倉田真由美や室井祐月が「ええこんなこと書いていいの」と思うようなことを書いている。
また、小説新潮では柴門ふみが「恋のネタ」で、恋に生きる女性を紹介している。
本書もそうであるが、こういうものを読むと、私などは「なんだかなあ」と思ったりしてしまうのである。
女性が男に求めているものは、自分にとって「完璧」であることのようである。
しかし、完璧なんてあるはずがないのである。
まして、現在の男たちには、欠点を補って余り「魅力」に乏しいのが多い。
だから、そのあたりは「ガマン」というのがこれまでの男女の間(或いは人間同士)にあったもののように思える。
その「ガマン」も無くなった。「ガマンしすぎ」という反動なのかもしれない。
というわけで、この「なんにもうまくいかないわ」は痛快な物語ではあるが、昔から比べれば女性の男性化、男性の女性化が進み、それゆえに巻き起こる新たな時代の混乱、のようなものも感じられるのである。
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