尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『わが悲しき娼婦たちの思い出』、90歳の大冒険ーガルシア=マルケスを読む⑥

2024年07月15日 21時52分42秒 | 〃 (外国文学)
 ガルシア=マルケス連続読書6回目は、『わが悲しき娼婦たちの思い出』。2004年に発表され、日本では木村榮一訳で2006年に翻訳された。ガルシア=マルケスの生前に発表された最後の小説だった。1928年生まれなので、77歳の時である。冒頭に川端康成眠れる美女』が引用されていて、日本でも評判になった。それは1961年に刊行された小説で、1899年生まれの川端は62歳だった。今なら「老人」扱いはまだ酷だが、当時は(特に睡眠薬中毒で悩んでいた川端は)相当の高齢という年だった。それを反映して、『眠れる美女』には濃厚な死と退廃(デカダンス)の匂いが立ちこめている。

 ガルシア=マルケスは以前にも、『十二の遍歴の物語』所収の短編「眠れる美女の飛行」(1982)で『眠れる美女』に触れている。川端康成は相当に異様な性愛小説を幾つも書いた作家だが、中でもこの小説はぶっ飛んでいる。大昔に読んだきりで、細かいことは忘れてしまったが、当時としてもかなり気色悪い設定だろう。何しろ特殊な薬物で眠っている若い女性とただ添い寝するだけの「秘密クラブ」というのである。僕にはよく判らない感覚なんだけど、この小説は内外で5度も映画化されている。

 僕に理解出来ないというのは、「高齢になっても元気な男」が「若い女性」を求めるというなら、それは理解可能ではある。しかし、そういう「理解可能」な話はエンタメ小説にはなっても、純文学としては底が浅い。だから、すでに性的能力がなくなった「老人」がただ添い寝するに留まるという方が小説としては面白い。だけど、わざわざそんなことをするのが僕にはよく判らないわけである。そこには当然「金銭」が絡んでいる。金持ち老人の「悪趣味」みたいな気がする。ところで、そういう話をガルシア=マルケスも書いたのかというと、ある意味その通りなんだけど、本質的には逆方向の作品とも言える。
(2009年のガルシア=マルケス)
 『わが悲しき娼婦たちの思い出』は翻訳で120頁ほどの中編と言ってもよい作品だが、案外手強い。主人公はもうすぐ90歳を迎える新聞のコラムニストである。いつの話かというと、1960年だという。場所はコロンビアのカリブ海沿岸最大の都市バランキージャだと思う。(いつもカルタヘナを舞台にすることが多かったが、この小説では事件が起こってカルタヘナに逃げていく場面があるので別の町。)そして「90歳を迎える記念すべき一夜を処女と淫らに過ごしたい」と思ったのである。異様である。そんな90歳がいるのか。そんなことを妄想するもんなのか。

 帯の裏を見ると、「これまでの幾年月を 表向きは平凡な独り者で通してきた その男、実は往年 夜の巷の猛者として鳴らした もう一つの顔を持っていた。かくて 昔なじみの娼家の女主人が取り持った 14歳の少女との成り行きは…。 悲しくも心温まる 波乱の恋の物語」と書いてある。1960年のコロンビアの話だから、「女性差別」とか「小児性愛」と言っても始まらないだろうが、それでも21世紀に書かれた小説としては問題がありはしないか。
(映画)
 この小説はメキシコを舞台にして、2012年に映画化されたという。日本未公開だが、特に海外で評判になったという話も聞かない。ヘニング・カールセンというデンマークの監督作品である。この映画化においては、メキシコで「児童の人身売買と性売買を助長する」と批判が上がったという。ただ製作者側は(主演女優も含めて)、これは愛の物語だと論じたらしい。確かに原作を読むと、「死への誘惑」を漂わせる川端作品と違って、ガルシア=マルケス作品には生へのエネルギーがある。もう辞めるつもりだった主人公は元気を取り戻し、90歳にして人気コラムニストとして再生する。しかし、ここでも主人公と少女は性的な接触はない。それを「愛」と呼べるのか。僕にはどうも疑問が多かった。単に創作力の衰えかもしれないが。
(バランキージャ)
 90歳で新聞にコラムを書くというだけで、相当に凄い。さらに裏の生活として、少女と日々逢いたいと思う。それがある事件をきっかけに不可能となるが、それでも生きることに執着する主人公は何とか少女を見つけようとする。お互いに直接は何も知らないし、話をしたこともない。そんな二人に「愛」が成り立つのか。それはよく判らないけれど、何で作者はこの小説を書いたのかは、解説にヒントがある。『コレラの時代の愛』の中でも、ここでは触れなかったが親戚の少女が登場して悲しい運命をたどる。もう老人の主人公を愛してしまうのだが、主人公は半世紀前の恋人を待ち続けていたわけである。

 それも実に変な設定で、周囲に若い少女がいて愛してくれるんなら、半世紀前に振られた高齢女性に執着するのが理解不能なのである。しかし、それを言語のマジックで何となく納得させてしまう。しかし、その影で物語の犠牲になった少女を悲しい運命に追い込んだ。この『わが悲しき娼婦たちの思い出』は、その時の少女の再来なんだという。確かにそう解釈すると、『眠れる美女』が死の気配に満ちていたのに対し、この小説が生きるエネルギーに向いた「反・眠れる美女」とも言えることが理解出来る。ただ、やっぱり内容以前に作品としての面白さが減衰してるんじゃないか。どうもそんな気もしてくる小説だった。

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