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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日中戦争と海軍の責任-「日中戦争全史」を読む①

2017年12月09日 23時14分36秒 | 〃 (歴史の本)
 笠原十九司「日中戦争全史」(上下、2017、高文研)を読んだ。今年出たもっとも重要な本(の一つ)じゃないかと思う。上下2巻それぞれ2300円もするけど、日中戦争に関して長く研究を続けてきた笠原十九司氏(1944~、都留文科大名誉教授)の集大成的な一般書である。日中戦争が本格化して80年である2017年に読んでおきたかった。新知見がずいぶんあった。

 本の帯に「戦争には『前史』と『前夜』がある」と書いてある。戦争は突然起きるのではなく「前史」がある。それがいよいよ開戦「前夜」になったら、謀略でも偶発事件でも簡単に戦争になってしまう。日本国民が日中戦争の歴史から学ぶべきことは、いつから「前史」が始まり、いつ「前夜」に転換したかを知ることだという。こんなに判りやすく歴史を学ぶ意味を教えてくれる言葉はない。一般書と専門書の中間のような本だけど、ぜひ多くの人が読んで欲しい。

 まず「前史」だが、1915年の「21か条要求」から書かれている。ずいぶん早いと思うと、その時に認められなかった条項が日中戦争で「実現」したことが多い。そして、1928年が「前史の転換点」となった。蒋介石の国民革命軍の「北伐」に干渉した「山東出兵」、そして「張作霖爆殺事件」である。この認識は誰も異論がないだろう。そして、1931年、「満州事変」が起きた。

 「満州事変」の発端となった柳条湖事件は、よく知られているように関東軍の謀略だった。その後「満州国」建国に至る過程も国内外で謀略的に進められた。関東軍とは関東州=中国から租借した遼東半島や満鉄を守備する陸軍部隊である。一方、「満州事変」から日中戦争への過程は案外知られていない。その後、「アジア太平洋戦争」になると、日中戦争もその一環とされ戦争の意味も大きく変わった。その期間も含めて日中戦争だけをまとめた研究はほとんどない。

 今回ビックリしたのは、日中戦争を本格化させた責任は海軍が大きいということだ。すでに1936年段階で「帝国国防方針」を改定して、盧溝橋事件の前に日中戦争を準備していた。史料を虚心に読めば、なるほどその通りである。満州事変を起こして、陸軍は国防予算の大増額を勝ち取っていた。陸軍は満州国をベースに「北進」、つまり対ソ連戦を想定していた。それでは海軍の存在価値がなくなってしまう。日中戦争から対米英開戦に至る海軍の事情はぜひ本書を直接読んで欲しい。

 1937年7月7日に起こった盧溝橋事件は、確かに偶発事件だった。しかし、本書を読めば現地は「マッチを擦れば火事になる」状況だったことが判る。それでも「北支事変」、つまり中華民国の首都だった南京や国際都市上海には飛び火させず、「華北」で戦闘を止める可能性は十分にあった。それを本格的に大戦争にしたのは、海軍の謀略だった。衝突を上海に飛び火させた「大山事件」は海軍が起こしたのである。これは笠原氏が2015年に刊行した「海軍の日中戦争」で初めて論証した。

 海軍にも「陸戦隊」という組織がある。僕は1937年に作られた「上海陸戦隊」という熊谷久虎監督(原節子の義兄)の映画を見て知った。その上海陸戦隊で派遣隊長をしていた大山勇夫中尉が中国軍に狙撃されて死亡したのが「大山事件」である。中国側の不法な発砲なら、「予想しない死」である。しかし大山中尉は遺書のようなものを残し、身辺整理をして部下にも講話した後に、運転手に命じて中国側が支配していた飛行場に突入した。「自爆テロ」である。

 大山は26歳で妻子もない三男で、父もすでに亡く長兄が家を継いでいた。国家主義者の頭山満に心酔するマジメ一途の皇国青年だったらしい。(「童貞中尉」と呼ばれていた。)「後顧の憂い」がない点に上司が目を付けて、彼にお国のために命を捧げることを求めたのである。そして、その事件をきっかけに戦争は上海に飛び火し(第二次上海事変)、それが南京攻略戦につながっていく。恐ろしいことだが、このように謀略で戦争が拡大したのである。そんなことを海軍が命じるのかと思うかもしれないが、それが軍隊なのである。大山中尉の家族が異例の厚遇を受けたことも証拠になる。

 海軍と言えば、何となく陸軍より平和的だったイメージがある。満州事変を起こしたのは陸軍の関東軍。二・二六事件では海軍出身の岡田啓介首相や斎藤実内大臣が襲撃され、以後陸軍が主導権を握った。陸軍出身の東条英機内閣で米英との戦争が始まり、敗戦時の御前会議でも、陸軍はポツダム受諾反対を主張した。それらを見ると、確かに戦争は陸軍が勝手に始めたような感じで、比べれば海軍の方が平和的だったイメージになる。しかし、それも再検討が必要だろう。天皇の戦争責任を免責するため、「すべては陸軍の軍閥が悪かった」と陸軍にすべてを負わせる方針が作られた。そこで天皇とともに、海軍は免責される側に回れたんじゃないか。

 当時の海軍は伏見宮軍令部総長を務めていた。(旧憲法では「軍政」は軍部大臣だが、「軍令」(作戦や用兵)は天皇直属で、陸軍は参謀本部、海軍は軍令部で行っていた。)皇族という権威には誰も逆らえず、海軍では伏見宮の寵臣のみが出世できたのである。山本五十六井上成美らが、「内心では日米戦争に反対だった平和主義者」とされることがある。だが彼らこそ、中国各地の都市、特に南京や重慶に対する不法な大空襲の責任者だった。真珠湾攻撃の準備は、すべて中国空襲で行われていたのである。他にも論点は多いが、とりあえず2回に分けたい。
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