尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ボヴァリー夫人」ーフローベールを読む①

2019年06月12日 23時10分50秒 | 〃 (外国文学)
 最近フランス文学をずっと読んでるから、ついに「ボヴァリー夫人」を読もうかという気になった。なにしろ19世紀フランス文学の最高峰であり、世界文学史に屹立する偉大な小説である(とされている)。なんだか読みにくそうで敬遠していたけど、持ってるんだから(しかも2冊も)、読めるうちにチャレンジしようじゃないか。しかし、これが予想以上の難敵だった。読めども読めども進まない。リアリズムが極まって、「クソ」とか付け加えたいぐらいだ。恋愛心理を描くときに、現場に飛んでるハエまで書いている。

 作者のギュスターヴ・フローベール、Gustave Flaubert 1821~1880)は、パリ西方のルーアン(ノルマンディー地域圏の中心地で、有名な大聖堂がある。ジャンヌ・ダルクが火刑にされた町)の外科医の子どもとして生まれた。ルーアンや周辺の農村地域がよく描かれている。法律を学ぶも途中で病気になり退学、以後は家で療養しながら文学修行をしていた。「ボヴァリー夫人」が最初の作品で、長年の苦闘の後、1856年に友人の雑誌「パリ評論」に連載され評判を呼ぶが、風俗紊乱とされて起訴された。その裁判は1857年2月に無罪判決が出て、4月に刊行されるとベストセラーになったという。

 日本でも昔から何種類もの翻訳が出てきた。僕は中村光夫訳の講談社文庫を持っていたが、2015年に新潮文庫から吉川泰久新訳が出た。(新潮文庫は海外の名作を続々と新訳で出している。新研究を踏まえつつ、字も大きくなっているので、読みたい本は買い直してしまう。)今度の吉川訳はずいぶん新工夫がなされているという。それは最後にある解説で判るけれど、ここでは細かな話になりすぎるから省略する。日本語的には読みやすいけれど、原作の描写が細かいから読みにくいのである。
 (フローベール)
 「ボヴァリー夫人」(Madame Bovary)は、簡単に言えば田舎の開業医シャルル・ボヴァリーの二度目の妻エンマ・ボヴァリーの姦通を描いている。フランス文学には「人妻の恋」がよく出てくるけど、上流階級には恋愛ゲームが許されても、単なる農民の娘ではいくら美貌を誇っても認められない。エンマには厳しい結末が待っているけれど、その転落の状況をこれでもかと描いてゆく。それでもエンマが不倫に走るのは、「凡庸な夫」にガマンできないという「結婚生活の倦怠」という感性を持っているからだ。それは数多くのロマンス小説などの読書体験から作られている。

 エンマの家は農民と言っても下層の小作農ではないから、修道院で娘を教育させるぐらいはする。(村に義務教育の小学校はまだない。)だから文字は読めるし、都会のブルジョワ文化に憧れている。ただ地方の農村だから、脱出の手段がない。たまたま父がケガして診察に来た医者のシャルルを知った。その時シャルルには母が見つけたものすごく年上の妻がいたけど、都合良く死んでしまう。シャルルは美貌のエンマを後妻に迎える訳である。エンマはシャルルを通して、まずは一つ上の階級に脱出できたのである。しかし、次第にシャルルの凡庸さにガマンできなくなってくる。たまたまシャルルが看病した侯爵家の舞踏会に招かれる。そして完全に舞い上がってしまう。

 その後エンマは体調を崩し、シャルルは他の村へ移る。エンマは何回か体調不良になるけど、これはどう見ても精神的な疾患だ。うつ病というか、適応障害というか。あるいは「恋愛中毒」と言うべきかもしれない。「情報」が「現実」に先立つという20世紀以後の人々の存在を先取りしていた。100年後なら、エンマ・ルオー(結婚前の名前)は映画スターになるとか、もっと違う生き方が可能になる。下層階級に生まれても、美女だということで上昇していった女性がたくさんいる。(もちろん今度はハリウッドで女優になることを夢見て、家出したものの転落したという悲劇がたくさん起きるが。)

 もう一つの大問題は「お金」である。結局エンマは不倫ではなく、借金で破滅する。金がかかるのである。夢のような生活を送るなら。衣装代もかかるし、町へ出るにもお金がいる。貸してくれるサラ金みたいな人がいるのである。その頃も貨幣経済が村に浸透していて、エンマもシャルルをだましながら為替を先送りし続ける。ずいぶん返してもいるから、今ならきっと「過払い金」が発生しているだろう。だから、この小説は「不倫小説」であるとともに、「カード破産」による「借金地獄小説」でもある。19世紀フランス農村の話だけど、本質は現代小説なのだ。だから今も読まれているわけだが、それにしても細かい。

 エンマのお相手は二人いて、一人は若い書記のレオンと田舎紳士のロドルフ。どちらも夫が医者だから知り合えるんだけど、エンマは夫より惹かれてしまう。ロドルフがエンマに言い寄る農業共進会のシーンはすごい。共進会というのは農業振興のため開かれる祭りだが、知事代理が空疎な演説をしているところで、建物の2階に隠れてロドルフが口説き続ける。空疎な演説は今までなら省略するだろうが、フローベールは両方を交互に描写していく。この映画的とも言える手法は発明だ。ルーアンの劇場にオペラを見に行ってレオンと再会するシーンなど、文学史上の名場面がいっぱいある。

 フローベールは今までに自伝的小説「感情教育」を読んだことがある。これも新訳で読み直したいと思うけど、ボヴァリーに疲れて今は違う本を先に読んでいる。「ボヴァリー夫人」の前に、地域の図書館で見つけた「ブルターニュ紀行」という本を読んでみた。これは当時は刊行されなかった本で、友人と旅行して交互に書いた原稿のうちフローベール分だけ翻訳された。これがまた異様に面倒くさい本で、完全に閉口した。歴史も風景も、描写が詳しすぎるのだ。「ボヴァリー夫人」の前だけど、とにかくフローベールのリアリズム描写はすごすぎて大変。僕が思うに、フランス人が翻訳で島崎藤村「夜明け前」を読んだら、ここまで詳しくては読めないよと思うんじゃないだろうか。僕の場合はその反対だった。
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