尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

現場を責めないということ

2011年03月21日 20時01分32秒 |  〃 (教育問題一般)
 震災報道を見ていて、少しずつ「責める論調」が多くなってきたように思います。
 特に、福島原発関連の報道では、今まさに危険をかえりみず危機に対応する人々がいるときに、責任者出てこい!的な論調もあるように感じます。

 しかし、現場の人々は懸命な努力をしているはずです。まだ東北の多くの地区で、停電、断水等が続いているようですが、復旧に向けた作業が継続中のはずです。「はずです」で、具体的には知らないけれど、今までの災害時の対応から、そう信じられるのです。

 救援が遅いという人もいるけど、まだガレキの中に多くの遺体が残され、行方不明者が膨大な数にのぼるという想像を絶する災害規模でした。普段でも行きにくいところで、道路が寸断された中、従来の支援活動にない多くの避難所があります。それでも一週間もたたずに、仙台港、釜石港、宮古港が復旧しました。恐らく関係者の不眠不休の尽力があったのだろうと思います。

 地震発生日の朝日新聞朝刊は、菅首相に「外国籍の人からの献金があった」と報道しました。特別永住資格のある在日韓国・朝鮮人を、一般的な外国人扱いして非難してよいのかと思いますが、その問題はちょっとおいて。前原前外相が辞任した直後です。まさに菅内閣は追い詰められていました。

 だから、今まで反民主党の論陣を張っていた立場の人は、つい内閣を批判したくなるのもわかります。でも僕は、今は首相も官房長官も「現場の人」だと思うから、批判はしません。
 原発の検証はやがてするべきですが、今は東京電力の個々の対応を批判しません。

 「現場を責める」ということの弊害は、大きく二つあります。一つは、冷静な論議を封じ込めることで、将来の検証の場を閉ざすこと。日本では、時間がたってからの検証がほとんどありません。国政の最高機関である国会こそ、しっかり検証すべきだと思いますが、「阪神淡路大震災」も「オウム」も検証されませんでした。諸外国で行われている「イラク戦争」の検証もまだ行われていません。(まだというのは、岡田元外相は、検証の必要性は認めていたので。)

 検証すべき時には、次の責める対象を見つけて大騒ぎしているからだと思います。
 こういうことをしていると、「その場しのぎ」の発想ばかりになり、(政府や企業の幹部ばかりでなく、全部の)人間は歴史の中で裁かれるのだということを忘れてしまうでしょう。

 もう一つの弊害は、何かあったときに、現場が責められないようにということだけを行動の基準とし、平時のルールを墨守し、臨機応変の対応ができなくなるということです。
 そして、そうやって責められない対応だけうまくなった人物が、マイナス点が少ないという点で、リーダーシップもないのに出世していくということが起こります。

 こうして、日本ではどこの世界でも「小人」が跋扈(ばっこ)する社会になっていったのです。

 これは政治の世界の話をしているのではありません。

 学校に問題が起こるたびに、学校現場を責める声がマスコミで発せられ、それに対応して教育行政や管理職が守りの対応だけ強めていく…ということをずっと見てきました。
 教育に関しては、全国民が一家言あるでしょう。何かあるたびに、昔の学校は、昔の先生は…と言ってくる人がいるのでしょう、きっと。一般市民ならともかく、それが地方議会の議員だったりすれば、行政も対応せざるを得ません。で、くだらない通達や調査ばかり増えていくわけです。

 学校には、それはいろんな先生や生徒がいるでしょう。でも、大体は普通にきちんと仕事してるんじゃないでしょうか。信じて任せて、手を携ええて一緒に学校作りをしていくべきです。

 同じように、自衛官や警官や消防士にもいろんな人がいるでしょう。東電社員にもいろんな人がいるでしょう。被災した地方の役場にもいろんな人がいるだろうし、避難所にもいろんな人がいるでしょう。
 でも、大方は家庭にいれば「フツーにいい人」で、今は危機にあたって懸命に活動している人だろうと思います。

 僕は直接今できることはない。だから、信じて任せて応援するしかありません

 むろん、そのことと、たとえば福島原発で最悪事態を想定することとは矛盾しません。最悪の事態を想定する冷徹な頭を持ちつつ、信じて応援していくということです。
コメント (1)
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