ブッダが菩提樹下で考えていたことは、何だったか。これについては、いろんな人が、いろんなことを言ってきた。
でも、仏典を読んで額面どおりに受け取るならば、わざわざ議論するまでもなく、一目瞭然なのである。解脱したブッダが菩提樹下でやっていたのは、「十二因縁を順逆に観ずる瞑想」だった。
十二因縁。「縁起の理法」(原因と結果の法則)の神髄だ。これこそが、ブッダの悟りの核心部分。
これに対して、禅僧は(もちろん、全員がそうだというわけではないが・・・)、異論を唱える。いわく、「学者は、何かといえば『縁起の理法』がどうのというが、釈尊の悟りは、そんな小難しい理屈などではないのである」。
彼らは、釈尊が菩提樹下でやっていたのと同じように、ひたすらに座禅を組んで瞑想してきた。そこで到達する「心境」を、何よりも重視する。禅の道は、真剣勝負。過去も未来もなく、この一瞬に全存在を賭ける。やがて到達するのは、「無我」の境地だ。「自分」がみるみる小さくなり、やがて消え失せる。残るのは、大いなるすべて・・・。
でも、仏典を素直に読めば、たしかに釈尊の悟りとは「縁起の理法」であること、少なくとも、それが核心部分であることに疑う余地はない。これは、どちらが正しいかということではなく、両方とも真実なのだろう。すなわち、釈尊が悟った内容は、「縁起の理法」。悟ったときの心境は、「無我」。この2つは別々のものではなく、深いところでつながっている。
ただ、「縁起の理法」というのは、名前からして、なんだか小難しい理屈に見えるというのも事実だ。実際にはそれほどでもないのだが・・・。中身は、いたってシンプル。
もっとも、こんなエピソードがある。あるとき、釈尊は、仏弟子のアナンに聞いた。「どうだ、『縁起の理法』は難しいか?」。アナンは、「いえ、別に。難しくはないですよ」と答えた。すると釈尊は、「いや、あれは難しいのだ。甘く見てはいけないよ」と言ったとか。
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