中国の人権活動家、劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞した。劉氏は、89年の天安門事件の頃から名を知られた活動家で、今も獄中にいる。永年の苦労が、ノーベル賞委員会によって顕彰された。
これを見て、あの天安門事件を思い出した人も多いのではないか。政府が、自国の学生を、首都のど真ん中で何千人も虐殺したという大事件。まったく、信じがたい出来事だった。もちろん、日本ではありえない。現代はもちろん、明治時代や江戸時代でも、こんなことはできないし、やらない。あえて事例を探すなら、織田信長が、伊勢の一向一揆で一万人の信徒を虐殺したという「史上最大の暴挙」くらいまで遡らなければならないだろう。
こんなことが、ほんの20年前に起きたのだから、まさに恐るべき事実だ。「最近の中国は、だいぶ自由化が進んできましたな」とか言って、なんとなく世間では水に流されているようなのだが・・・。
最近の日本では、科学者がノーベル賞を受賞するのは珍しいことではなくなった。でも、中国では、反体制活動家がやっと「平和賞」を受賞しただけ。この差は、あまりにも大きい。中国政府は、例によって激怒しているようだ。「ノルウェー政府に外交的な圧力をかける」と言い出して、またしても先進諸国をあきれさせている。
そういうのを見て思うのは、中国政府の外交戦略のまずさだ。現代の国際関係にいまひとつなじんでおらず、先進諸国の感覚とズレている印象を受ける。例の尖閣諸島の事件だって、せっかく好転しかけていた中国の国際的イメージが、再びドス黒いものになった。日本でも、「やっぱり、アメリカとの同盟を強化して、中国の脅威に対抗しなければ」という意見が強くなり、今までの日米離間工作が水のアワと化している。
「中国人には四千年の歴史があるから、世界一の外交上手なのだ」という見方をする人が多いのだが、個人的には、それは過大評価なんじゃないかと思う。欧米の政治家の方が、明らかに優秀だ。むしろ、あれだけの国家規模がありながら、国力がいまひとつパッとしないのは、ここ百年~二百年くらいの政治家の資質に問題があったからなんじゃないかとも思える。
「これからの日本は、米中という2つの超大国のはざまで生き延びていかなければならないのである」というような論調を、誰もが認める当然の前提であるかのように語る人が多い昨今なのだが、それには異議を唱えたい。アメリカはともかく、中国には、「日本が小さな国に見える」というほどの圧倒的な国力などないからだ。経済規模は日本と同じくらいだし、将来的にも、この先、順調に伸びていくという保証はない。軍事力だって、兵隊さんの数は多いけど、これからは地方の反乱を抑えるだけで手一杯だろう。アメリカと違って、食糧の生産力もイマイチだし、資源もたいしてない。
違うのは、日本は民主主義国で、政府が何をやろうとしても反対意見が噴出し、国内の意思統一が図りにくいのに対して、中国では政府が強権を振るって意思統一がしやすいことくらいのものだろう。それは確かに、戦略的には有利だ。でも、国内が民主化を求めてさらに不安定になってくれば、そのアドバンテージもなくなる。
そもそも、「中国に四千年の歴史がある」ということ自体、錯覚によるものが大きい。「二千年前の日本は、辺境の地だった」という人が多いのだが、それを言うなら、現代の中国の圧倒的な中心となっている沿海部の北京・上海・香港あたりだって、二千年前の東アジアではほとんどが「辺境」とされる地域だった。その点では、日本や韓国と似たようなものだ。
北京は、古代人が建てた、当時としては北のはずれの辺境にあった小さな都市国家が、完全に破壊されて更地になってから、後で入ってきたモンゴル人や満州人が新たに作った街。古代の先住民など、とっくの昔に消えてしまって久しい。
このような考え方は、江戸時代から日本にはあった。それは、「今の中国は、古代の偉大なる黄河文明が滅びた後に、後から入ってきた連中の天下であり、もはや中華とは呼べない」というもの。これを評して、「日本人が中国をバカにするようになったのは、江戸時代からだ」という中国の知識人もいる。
それに比べて、今の世の中は、どうも中国を過大評価している人が多い・・・。
またしても、話が脱線してしまった。それはともかく、このノーベル平和賞を機に、中国の国家体制そのものが見直されることを、強く期待したい。
アースチェンジ情報の宝庫 →