宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

急に寒くなった今日この頃

2010年10月28日 | 異常気象
 
異常に暑かった8月・9月も遠い過去となり、すっかり寒くなった10月末。ニュースによれば、北海道は「27日午前の最深積雪は伊達市大滝37センチ、札幌市南区小金湯33センチ。同市中央区でも7センチを記録した」というから、かなりの大雪だ。さっそく、停電などの被害が出ている。
 
夜明け前には、札幌市電でササラ電車が出動した。10月なのにササラ電車が出動するというのは、過去に前例がないらしい。少なくとも、「記録が残っている1980年以降初めて」だという。
 
北海道だけでなく、全国各地が冷え込んでいる。東京も、急に寒くなった。筆者の周囲も、カゼを引いている人が多い。「急に寒くなりましたね」というのが、アイサツ言葉だ。街には、コートを着て歩いている人ばかりで、すっかり冬景色。
 
雨のせいもあるけど、これだけ寒いと、「やっぱり、今年の冬は寒いのか・・・」と思ってしまう。 
 
それにしても、秋が短すぎる日本。春も、春らしい日はほとんどなく、長い長い冬が開けたら、すぐ猛暑になってしまった。いよいよ、「もはや春夏秋冬の四季はなくなり、二季になってしまった」という指摘に説得力がある。
 
 
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運命は変えられる ~ バシャール×本田健

2010年10月27日 | バシャール
   
運命は、変えられる。それが、バシャールと本田健氏の対談本、第2章のテーマ。

バシャールによると、地球に生まれる人には、それぞれ運命がある。ただし、どんな人生を送るのか、すべてが事前に決まっているわけではない。たいていの人は、「この人生では、こんなことを探究してみよう」といった、選択テーマのようなものを設定しているという。

人生で何を探究するかは、人それぞれだろう。テーマは、ひとつとは限らない。「この人生では、国際派ビジネスマンになって、世界に打って出てみよう」という人もいれば、「幼稚園の先生になって、子供たちのお世話をしてみよう」という人もいる。あちこち旅行している人や、徹底的にギャンブルに打ち込んでいる人もいる。「ひとつ、この人生では、思う存分に酒を飲んでみよう。自分がどれだけ飲めるのか、限界に挑戦するのだ」というようなテーマを掲げている人もいるだろう。
 
もちろん、事前に決めたとおりには進まないケースもよくある。それが人生というものだ・・・。
  
テーマは、人それぞれだ。だが、バシャールによれば、いま地球に生まれてきている人々には、全員に共通するテーマがあるという。それは、実にハッキリしている。そのテーマとは、「変容やスピリチュアリティ、意識の拡大」だ。暗いものを明るいものに、ネガティブなものをポジティブなものに、変容させていく。それが、いまの地球人類に共通するテーマ。

バシャールいわく、そのための探究ルートは、ひとつではない。いわく、

>たとえばある人は、絵を描くことによって非常に情熱的に、そしてワクワクしながら、それを探究しようと思うかもしれません。また別の人は本を書いて、さらに別の人はヒーリングを通して、そのテーマを探究しようと情熱を感じ、ワクワクするかもしれません。またほかの人は教えることによって、あるいは別の人は歌うことによって、あるいはスカイダイビング、綱渡り、皿回し・・・、いろいろな方法で探究することができるのです。

たしかに、いろいろな方法で探究できるのは事実だろう。でも、筆者の見たところでは、やはりそこに「精神世界」への関心が伴っていないと、意識の変容を探究するのは難しいように思う。どんなに仕事や勉強・スポーツその他でがんばっていたり、健全な日常生活を着実に送っていたとしても、「私は精神世界になど関心がありません」と公言しているようでは、「残念な人」で終わってしまう恐れがある(笑)。カンジンなところを避けて通っている以上、他の道を通って意識進化するのは格段に難しい。もちろん、あえて回り道を通って意識進化するのも自由だし、意識進化を放棄するのも自由なわけだが・・・。
 
それはともかく、バシャールによれば、人生の脚本にはいろんなタイプがある。「10歳のときにこうして、13歳のときにこうなって・・・」という具合に、かなり細かく決まっている人もいれば、「物質レベルの現実に生きることが、どんな感じなのか、しばらく体験してみたい」というくらいの、大まかなシナリオもあるらしい。
  
事前に細かく設定されたシナリオどおりに人生が進むのを喜びとする人もいれば、そうでない人もいる。人にはそれぞれ、好みがあるのだ。テーマを変更するのも、自由。だから、「私の人生は、事前に計画したとおりに進んでいるのでしょうか?」とか、「私が果たすべきだった使命は、何なのでしょうか?」といった具合に、気にする必要はない。
 
そもそも、昔と違って行動範囲が広く、関わる人の数もケタ違いに多い、変化に富んだ現代人の人生を、「計画」でしばるのは難しくなってきていると思われる。バシャールによれば、事前に計画したとおりに人生が進んでいると、かえってパニックになる人もいるという。そういう人は、計画そのものに問題があったのかもしれない。計画には、見直しが付きものだ・・・。

運命、つまり人生の計画にしばられなくなった人が、これからの人生を変えていく原動力は何なのか。それは、「シンクロニシティ」だという。


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アマゾンの熱帯雨林で、史上最悪の干ばつ

2010年10月20日 | 異常気象
  
REITERS (動画ニュース)
 
  
異常に暑かった九月も過去のものとなり、ようやく秋らしくなってきた日本。本当の衣替えのシーズンが到来した。異常気象も、ようやく一服した感がある。
 
だが、世界に目を転じると、まだまだ異常気象が続いている。
 
異常に寒かった南米が、今度は干ばつに見舞われている。乾季を迎えたアマゾンの熱帯雨林が、「この数十年間で最悪の干ばつ」だという。「この数十年間で」というのは、今年の異常気象ではよく聞かれるフレーズ。要するに、「気象観測が始まって以来、こんなの初めて」ということだ。
 
ニュースによると、各地で水路や河川が干上がり、漁業や農業、水運に大きな影響が出ているという。アマゾン本流の水位低下も懸念されている。アマゾン川の水運は、ブラジルという国の屋台骨だけに、不安は大きい。

アマゾン川は、世界でも飛びぬけて巨大な川だ。ウィキペディアによれば、「アマゾン川全体の年平均流量はコンゴ川の5.7倍、長江の10.5倍、ミシシッピ川の14倍、ナイル川の78倍、利根川の850倍という途方もない量」だという。
 
 
日本にいると、たっぷりあるように思える水なのだが、地球上では、極端に偏っている。なにごとも極端なのが、地球の特徴だ。海水は塩辛くて使えないので、問題は淡水なわけだが、地球上の淡水は、南極の氷だけでかなりの部分を占められている。とはいえ、南極の氷は、凍っているから使えない。残りの、使える水の何割かが、アマゾン川の水系だけで占められている。他にもミシシッピ川とか、ナイル川とか、大河は世界にいくつもある。中国の長江なんかは、川というより海に近いほどの存在だ。だが、そんな中でも、アマゾン川の水量は別格で、飛び抜けている。 

これほど水の量が多いのは、広大な低地を流れているから。長いだけでなく、途中から高低差がほとんどなくなるので、川はゆっくりと流れている。川幅はきわめて広く、特に河口では何百キロメートルにもわたって広がっている。本流だけではなく、支流が無数にあって、流れは入り組んでいる。川を流れている水だけではない。流域全体に湿地が多くて、ジャングルや地下水脈にも膨大な水がプールされている。「太古の昔には、全体が湖だったんじゃないか」と考えている人もいるという。実際、川というより、「地球規模の、超巨大な貯水池」みたいな役割を果たしているのかもしれない。
  
これほどの大河だけに、地球環境への影響も無視できない。「地球上の酸素の三分の一が、アマゾンの熱帯雨林から出ている」というのは有名な話だ。幸か不幸か、ハリケーンの水分補給は不十分となるため、今年の北米では「ニューオーリンズ水没」みたいなことにならないだろう・・・という話になっている。また、今年末から来年にかけて、海流や気流に大きな影響が起きるのは、まず間違いない。
  

 
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自由な社会

2010年10月18日 | お金が要らない世界

  
中国や北朝鮮のテイタラクを見て、「やっぱり、社会主義国はダメだな」と思う人は多いだろう。
 
思えば、1990年代の始め頃、筆者はまだ大学生だったのだが、東西ドイツの統一、ソビエト連邦の崩壊と、大きな歴史的事件が立て続けに起きた。まさしく、人類の意識の進化が大きなうねりと化したかのような、巨大な変容だった。
 
それを見て、「中国や北朝鮮の体制も、こんな具合にすぐ潰れるだろう」と思っていたのだが、残念ながら、20年近くたった今も存続している。これは、予想外だった。しかも、いまだに、他国の領土を奪って地下の資源を分捕ろうというような、時代錯誤な発想で動いている。それが、東アジアの悲しい現実だ・・・。
  
もっとも、日本もかつては政府のコントロールが非常に強く、「最も成功した社会主義国」と言われていた。昔は、それがうまく行っており、居心地のよい社会だったのも事実だ。でも、だんだん限界が見え始め、行き詰まってきた。その矛盾が最も集中的に表れているのは、破たん寸前で、いまや次年度の予算を組めるかどうかさえ危ぶまれている財政だろう。

1990年代の始め頃、学生仲間が集まって、「将来はどうするか」という話をしていたことがあった。そこでは、「中央官庁の官僚になって、天下りたい」という人が少なくなかった。そこで筆者は、未来予測を述べた。
  
それは、「この先、日本の財政は破綻に向かい、国家予算を組むことも難しくなるだろう。郵便局は、国鉄や電電公社のように分割民営化される。政府系金融機関や特殊法人は、次々に統廃合される。このため、天下り先は激減する。日本はアメリカ型の社会に近づいていくだろう。ベンチャー企業が花形となり、官僚は『冬の時代』を迎えることになる」・・・といった内容だった。

コレを聞いた友人たちの反応が、印象に残っている。ひとことで言えば、「あきれて、モノも言えない」という雰囲気だった。今じゃ考えられないことだが、この話は、当時の彼らの想像の範囲を超えていた。「宇宙人」を通り越して、アタマを疑われかねない状況となったため、筆者はそこで未来予測を打ち切った。

その後、5年経ち、10年経つうちに、世間では官僚批判が当たり前になってきた。最近では、逆に批判が集中しすぎているくらいだ。でも、これはつい最近の傾向にすぎない。ホンの20年前には、考えられないことだった。世間の人々の考え方というのは、変わる時には本当に変わる。
 
もちろん、自由主義に対する批判は根強い。特に、「自由主義のおかげで、貧富の格差を拡大した」ということが、よく言われている。
 
ただ、「最近の日本では貧富の格差が拡大してきた」というのを、常識というか、当然の前提として話す人が多い昨今なのだが、それには違和感を覚える。というのも、筆者の知る限り、多くの資産家たちは、ここ2~3年のデフレで大きく資産を目減りさせている。羽振りの良かった企業オーナーも、あまりに景気が悪いので、資金繰りに四苦八苦している人が少なくない。大企業のサラリーマンも、給料が減っている人が多い。

たしかに貧しい人は増えているのだが、「貧富の差が拡大している」というより、どちらかと言えば「全体的に、貧困化している」という印象だ。今の日本では、経済成長がストップして久しい。この背景には、日本人の意識の変化がある。「もはや、経済成長を求めない社会」へと、気づかぬうちに突入してしまった日本。この点では、まちがいなく世界の最先端を走っている。「世界の成長から、日本が取り残されている」という危機説も多いけど、どちらかといえば、遠からず世界全体が今の日本みたいになっていくだろう。
  
そもそも、「自由主義は失敗なのか、成功なのか」ということばかりが、語られすぎているように思う。右も左も、「自由主義のおかげで、生活は良くなったか、悪くなったか」という話ばかり。「自由」そのものが追求すべき価値であり、他の目的を達成するための単なる手段ではないということが、忘れられてはいないか。
  
来るべき、意識が進化した人類による精神文明は、社会主義などとは正反対のものになるだろう。政府による上からのコントロールは、ドンドン小さくなり、最終的にはほとんど消滅する。あとは、自立した人々が、勝手に作った小集団で自由に活動する社会になるだろう。各自がやりたいことをやっていても、全体がうまくいくという、自律的な社会。これこそ、非常に民度の高い社会にしか、なしえないことだと言えるだろう(笑)。
  
 
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中国各地で反日デモが拡大

2010年10月18日 | こっくり亭日記
    
まったく、現代の世界にとって、「中国」はあまりにも頭が痛い問題と化してきた。「地球に残された、最後にして最大の難問」と言っても言いすぎじゃないくらいだ。
 
世間の空気も、大きく変わってきている。日本共産党までが、「尖閣諸島は日本固有の領土」と赤旗に書いて、中国を批判していた。あの朝日新聞も、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞を大々的に報じて、民主化運動を賞賛していた。
 
「中国は、発展するにつれて横暴になってきたな」という人が多いのだが、それは事実ではない。中国は、昔からこういう国だ。中国の実態が、最近になってようやく世間一般に知れ渡ってきたから、そう見えるにすぎない。
 
中国各地で、反日デモが拡大している。数年前の悪夢が、再びよみがえってきたようだ。特に四川省がひどい。成都で2~3万人のデモが起き、暴徒化してイトーヨーカ堂や伊勢丹の店舗を襲撃した。さらに、河南省でも大規模なデモが起きている。報道されているのは、いずれも内陸部の都市だ。
  
「デモの背後では、中国政府が暗躍している」という話が、盛んにささやかれている。まあ、デモを煽ることまでやっているとは思えないが、政府が黙認している可能性は高い。さもなければ、デモがやれるはずはないからだ。
 
今回の尖閣諸島の事件は、中国側が一方的に仕掛けてきた奇妙な「侵略」だった。まったくの一人相撲で、お互いさまでもなんでもない。国際社会からは受け入れられず、「船長を帰せ」を除いて、中国の要求は通らなかった。当たり前だ。でも、中国の国内では、それに対して、なぜか怒っている変な人たちがいるらしい。
   
だからといって、日本企業や日本人ビジネスマンにとって、中国進出をやめるわけにはいかないというのが、頭の痛いところだろう。こればっかりは、仕事だから仕方がない。
 
実際のところ、中国の民衆が暴徒化して危険な状況になるのは、今に始まったことではない。19世紀の昔から、何度も繰り返されてきたことだ。ただし、今と違って昔は、暴徒があばれだすと、日本やイギリスを始めとする先進諸国の軍隊が、治安の回復に乗り出したものだった。歴史の教科書では、「暴徒の鎮圧を口実に、先進国が出兵して中国を侵略しました」ということになっているのだが、それは後付けの理屈。当時の人々の意識としては、そうではなかった。「中国人が暴れだして治安が悪化しすぎた。危険だから、先進国が治安回復に乗り出すしかない」というのが、当時の人々にとっては切実な問題だったのだ。
 
もっとも、良い悪いは別にして、今の時代に、中国に派兵するというのは無理がある。数年前の暴動では、あまりにも危険な状況となったため、上海に自衛隊を派遣することも取り沙汰されたのだが、実現しそうになかった。まったく、シャレにならない現実だ・・・。
 
清の時代から、中国政府は、こういうときの対応がよくない。自分たちが批判されたときは、学生を何千人も虐殺してまで強引に鎮圧するくせに、外国を対象にしたデモだと、「これを外交カードにして、先進国に心理的な圧力をかけよう」というような姿勢をとり始める。「スケールの大きな大陸国家」という一般向けのイメージとは裏腹に、姑息な浅知恵で、事態を悪化させるのが常だ。
 
それにしても、いよいよ、中国社会の崩壊が近づいてきたのではなかろうか。インターネットの書き込みを規制したところで、携帯電話や電子メールのやり取りまで押さえ切れるものではないし、政府のコントロール能力も限界に近づいている。反日デモをやってる連中も、本当に怒るべき相手は、日本ではなく中国政府だろう。貧富の格差がひろがって民衆が抑圧されているのは、外国のせいではなく、中国政府の責任だ。「自由で民主的な、新しい政府を作ろう」という前向きな発想に、彼らが早く目覚めてくれればよいのだが・・・。 
  
 
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中国の人権活動家がノーベル平和賞を受賞

2010年10月12日 | こっくり亭日記
 
中国の人権活動家、劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞した。劉氏は、89年の天安門事件の頃から名を知られた活動家で、今も獄中にいる。永年の苦労が、ノーベル賞委員会によって顕彰された。
 
これを見て、あの天安門事件を思い出した人も多いのではないか。政府が、自国の学生を、首都のど真ん中で何千人も虐殺したという大事件。まったく、信じがたい出来事だった。もちろん、日本ではありえない。現代はもちろん、明治時代や江戸時代でも、こんなことはできないし、やらない。あえて事例を探すなら、織田信長が、伊勢の一向一揆で一万人の信徒を虐殺したという「史上最大の暴挙」くらいまで遡らなければならないだろう。
  
こんなことが、ほんの20年前に起きたのだから、まさに恐るべき事実だ。「最近の中国は、だいぶ自由化が進んできましたな」とか言って、なんとなく世間では水に流されているようなのだが・・・。
 
最近の日本では、科学者がノーベル賞を受賞するのは珍しいことではなくなった。でも、中国では、反体制活動家がやっと「平和賞」を受賞しただけ。この差は、あまりにも大きい。中国政府は、例によって激怒しているようだ。「ノルウェー政府に外交的な圧力をかける」と言い出して、またしても先進諸国をあきれさせている。

そういうのを見て思うのは、中国政府の外交戦略のまずさだ。現代の国際関係にいまひとつなじんでおらず、先進諸国の感覚とズレている印象を受ける。例の尖閣諸島の事件だって、せっかく好転しかけていた中国の国際的イメージが、再びドス黒いものになった。日本でも、「やっぱり、アメリカとの同盟を強化して、中国の脅威に対抗しなければ」という意見が強くなり、今までの日米離間工作が水のアワと化している。

「中国人には四千年の歴史があるから、世界一の外交上手なのだ」という見方をする人が多いのだが、個人的には、それは過大評価なんじゃないかと思う。欧米の政治家の方が、明らかに優秀だ。むしろ、あれだけの国家規模がありながら、国力がいまひとつパッとしないのは、ここ百年~二百年くらいの政治家の資質に問題があったからなんじゃないかとも思える。 
 
「これからの日本は、米中という2つの超大国のはざまで生き延びていかなければならないのである」というような論調を、誰もが認める当然の前提であるかのように語る人が多い昨今なのだが、それには異議を唱えたい。アメリカはともかく、中国には、「日本が小さな国に見える」というほどの圧倒的な国力などないからだ。経済規模は日本と同じくらいだし、将来的にも、この先、順調に伸びていくという保証はない。軍事力だって、兵隊さんの数は多いけど、これからは地方の反乱を抑えるだけで手一杯だろう。アメリカと違って、食糧の生産力もイマイチだし、資源もたいしてない。

違うのは、日本は民主主義国で、政府が何をやろうとしても反対意見が噴出し、国内の意思統一が図りにくいのに対して、中国では政府が強権を振るって意思統一がしやすいことくらいのものだろう。それは確かに、戦略的には有利だ。でも、国内が民主化を求めてさらに不安定になってくれば、そのアドバンテージもなくなる。

そもそも、「中国に四千年の歴史がある」ということ自体、錯覚によるものが大きい。「二千年前の日本は、辺境の地だった」という人が多いのだが、それを言うなら、現代の中国の圧倒的な中心となっている沿海部の北京・上海・香港あたりだって、二千年前の東アジアではほとんどが「辺境」とされる地域だった。その点では、日本や韓国と似たようなものだ。

北京は、古代人が建てた、当時としては北のはずれの辺境にあった小さな都市国家が、完全に破壊されて更地になってから、後で入ってきたモンゴル人や満州人が新たに作った街。古代の先住民など、とっくの昔に消えてしまって久しい。

このような考え方は、江戸時代から日本にはあった。それは、「今の中国は、古代の偉大なる黄河文明が滅びた後に、後から入ってきた連中の天下であり、もはや中華とは呼べない」というもの。これを評して、「日本人が中国をバカにするようになったのは、江戸時代からだ」という中国の知識人もいる。

それに比べて、今の世の中は、どうも中国を過大評価している人が多い・・・。

またしても、話が脱線してしまった。それはともかく、このノーベル平和賞を機に、中国の国家体制そのものが見直されることを、強く期待したい。


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情熱のおもむくままに生きる ~ バシャール×本田健

2010年10月01日 | バシャール
   
「自分の情熱、ワクワクにしたがって生きよ」と、バシャールは説く。現実にはなかなか難しい。でも、難しいと思うのは、「ネガティブな観念が自分にしかけているトリック」なのだという。
 
つまり、やってみればできる、ということらしい。ほかならぬ、本田健氏がよい見本。情熱、ワクワクにしたがって著述と講演に専念し、大成功している。バシャールとの出会いが、そのキッカケだったという。ほかにも、成功者はたくさんいる。彼らにできたことは、他の人々にもできるはずだ。バシャールいわく、「みなさんは、創造主によって無条件にサポートされています」というのが、宇宙的な真実。
 
まあ、ワクワクといっても、大きなことから小さなことまで、いろいろある。たとえば、筆者が精神世界ブログを巡回してアセンション情報を漁ったりするのも、情熱とワクワクにしたがって行動している一例だろう(笑)。犬の散歩が好きな人なら、犬が大喜びで走り回っているのを見て、一緒にワクワクすればいいだけだ。
  
せっせと日常業務をこなしている人や、簿記の計算を必死で練習している人なども、当人がイヤイヤやっているとは限らない。情熱のおもむくままに行動した結果、そうなっている人は少なくない。
 
バシャールによれば、それぞれの瞬間において、自分が一番ワクワクする選択をする・・・ということが大事なようだ。それは、いきなりライフワークや、大きなプロジェクトに取り組むというようなことではない。いわく、

>なぜなら、どんな小さな一歩であれ、自分の情熱、ワクワクから行動を起こすと、それがより多くのワクワクや情熱につながる糸となり、さらに、その糸がどんどん太くなって、情熱が成長し拡大していくからです。

どちらにしても、「ボクは、ワクワクする人生を送ってないんじゃないかな?」というような具合に、人生に疑問を持つのが、精神衛生には最もよくない。ポジティブで前向きな人は、シンプルな人が多い。逆に、ネガティブな人には、フクザツで考え深い人が多いのである。
 
でも、ネガティブな人がクヨクヨと思い悩むのも、意味がないわけではない。すぐれた文学や哲学は、そこから生まれてくることが多い。太宰治の文学などは、「ボクは人間失格だ~!」みたいな調子で悩んでばかりなのだが、桜桃忌には太宰をしのぶ文学ファンがいつも大勢、集まっている。これなどは、ネガティブなパワーが、ポジティブに活用された、ひとつの例といえるかもしれない。
 
それでもポジティブな人生を送りたければ、思い切って人生を方向転換するのもいいだろう。バシャールと本田健氏は、「明日から会社を辞めて、海外に行ってしまう人」の例について話している。
 
バシャールによれば、「この会社で働き続けなければ、生活が破綻して大変なことになってしまう」というような強い信念を持っている人が、急にそういうことをすると、その信念が現実化して、本当に大変な人生になってしまうこともあるらしい。だが、「会社を辞めて海外に行っても、自分はやっていける」と本当に信じていれば、それが実現する。いわく、

>だからこそ、自分の古い観念システムを無視してはいけないのです。自分が古い観念を手放す前に、行動してはいけないのです。

なるほど。情熱にしたがって行動する前に、まずは古い観念を手放すことから始めなければならなかったのか。失敗するのは、まだ古い観念にしばられているのが原因。行動する前に、それを手放しておくことが重要だったのだ。「オレは、早まったか・・・!?」と後悔、ホゾをかんでいる人も多いことだろう・・・(泣)。
   
 
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