宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

もうすぐ、2022年の冬至 ~ 2012年から10年が過ぎた

2022年11月28日 | こっくり亭日記
早いもので、もう11月の月末だ。もうすぐ、また冬至が巡ってくる。

並木良和氏が「冬至、冬至」といつも言うものだから、なんだか影響を受けて、こちらも冬至が特別なものに見えてきている(笑)

「冬至」がクローズアップされたのは、あの「2012年の冬至、アセンション」のときだった。あれから10年たつんだな~。なんとも、感無量。

あの頃は、アセンションに燃えていた。2000年代の後半は、毎年「船井オープンワールド」に行っては、アセンションの話にハマッてた。船井会長に対しては批判的な目で見ていた自分だが、船井オープンワールドは好きだった。今となっては、本当に懐かしい思い出。

2012年から、地球人類の意識進化は急カーブを描いて上昇している。もちろん、誰もがそう思ってるわけではないだろう。中には、「地球人類の意識はますます退化しているな」と思っている人だっているかもしれない。まあ、人はそれぞれ、別の世界に住んでいるから。筆者の住む世界では、地球人類が急速に意識進化している。他の世界は、どうか知らない(笑)

冬至は、一年で最も夜が長くて、最も昼が短いとき。この日を境に、夜と昼の関係が逆転し始める。冬至そのものは、別に事件でもなんでもないんだけど、「ここから、すべてが再び始まる」という、再生の日なのだ。

いまは冬至に向かって、どんどん夜が長くなり、暗さと寒さを増していく時期。冬の寒さは苦手だが、ここが我慢のしどころだ・・・。


もうすぐ、戦争の無い世界になる

2022年10月13日 | こっくり亭日記
ロシアがウクライナに攻め込んで、半年以上が過ぎた。開戦当初はロシアの圧勝と見る向きが多かったが、英米の支援もあって大苦戦している。クリミア半島にいるロシア軍は、本国との補給を断たれて孤立した。いよいよ、ロシアの敗退も見えてきた。  

ロシア兵の死傷者は10万人近いと推定されている。大変な犠牲者だ。日本だったら1人でも大騒ぎなのに。国情が大きく異なるとはいえ、あの国だって少子高齢化している。1人っ子が多い。いくらロシア人がガマン強くて愛国心に富んでいるとはいえ、そんな若者がバタバタと死んでいくショックは計り知れない。これほどの犠牲に、いつまで耐えられるのか?

悪いがロシアには、ここで負けてもらったほうが良い。これは以前からの持論なのだが、世界が平和になるためには、ロシアと中国が潰れるのが一番だ。この2国こそは、世界の脅威。戦争を起こす側の国だからだ。

かつては、日本とドイツがその立場にいた。だが、第二次世界大戦で打倒されてしまった。いまや、この2国には、戦争を起こしそうなムードが皆無。まったくの平和国家と化した。 

フランスだってそうだ。昔の太陽王ルイ14世からナポレオン・ボナパルトまで、フランスはものすごい軍事大国で、しょっちゅう周囲の国々に攻め込む怖い国だった。そんなフランスも、怖い国じゃなくなって久しい。どの国も、そうやってひとつひとつ潰されてきたのだ。まるで、モグラ叩きそのもの。

早い話が、ロシアと中国もそうなってしまえば良い。この2国さえ負けて潰れてくれれば、今の世界を見渡すに、もうそんなに怖い国は残っていない。

いや、1つだけあった。もっと、ずっと強くて怖い国が。他でもない「アメリカ合衆国」だ。数年前からアメリカでは「中国の脅威」が叫ばれるようになり、メチャクチャな勢いで軍備増強している。「中国を百回くらい滅ぼすつもりなのか?」というほどのクレージーな勢いだ。バイデン大統領も、「目前の脅威はロシア、長期的には中国が最大の脅威」と断言した。

でも、アメリカというのは、もともとそういう国なのだ。あそこは、「巨大な敵」を常に必要としている。イギリス、スペイン、ドイツ、日本、ロシア、中国・・・と、敵は何度も入れ替わってきたが、常に敵がいることに変わりはない。いまは、中国が主要な敵だ。

なんで敵国が入れ替わってきたかというと、アメリカが前の敵国をひとつひとつ潰してきたからだ。でも、前の敵国を潰しても、またすぐに次の敵国が現れるから大丈夫。現れるというより、「アメリカ自身が次の敵を育てた」というのが実態に近い。

でも、それだって、いつまでも続くものではない。どんなネタでも、いつかは尽きるときが来る。いまの世界地図を見渡して、どうだろう。ロシアと中国が元気なくなったら、もう強くて怖い国になれそうな国は見当たらない。こればっかりは、なろうと思ってなれるもんじゃないからだ。インド人やアフリカ人のようなノンビリした南の国の人たちじゃ、とても無理。

今までは、世界を敵に回して戦うカタキ役が負けて退場しても、また次の敵が登場して、代役を務めてくれた。プロレスと同じだ。先日、アントニオ猪木が世を去ったが、いくら猪木だって、ブッチャーとかアンドレ・ザ・ジャイアントその他の敵役がいなければ、活躍しようにもできなかっただろう。アメリカも、そういう国なのだ。

だが、いくらアメリカだって、敵がいなくなってしまったら軍備増強を続けられない。「何のためにやってるのか?」という目的意識が失われる。「軍需産業に回ってきたカネを、俺たちに回せ」と言い出す声が大きくなって国内がモメ始めると、あの国は意外と脆い。

まあ、そんなこんなで、戦争そのものの終わりは着実に近づいている。もちろん、ロシアはともかく、中国がそう簡単に潰れるとも思えない。あそこは、まだ登場したばかりの新しい敵。もうしばらくはカタキ役を続けてくれることだろう。それでも、中国だって、いつかは敗れ去るときが来る。

真の平和を実現するには、「敵がいなくなる」というのが一番。日本の国内は、とっくにそうなっている。

戦国時代の日本では、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が宿命のライバルで、何度も戦火を交えていた。でも今、山梨県と新潟県が戦争するなど考えられるだろうか。その可能性は、1ミリたりとも無い。織田信長と豊臣秀吉が、各地の敵をひとつひとつ潰して天下統一し、江戸幕府がさらに敵を潰した。明治政府が廃藩置県して、西郷隆盛の反乱を鎮圧してトドメを刺した。今や、日本の国内に内戦の危険は完全消滅して久しい。

いずれ、世界中が日本みたいになる。その日は、すぐに来るとは言えないが、意外と遠くないと見る。一応、「2039年頃」と予想しておくが、どうだろう?(笑)
  

発達障害人の特徴 その3 ~ 精神世界に関心を持つとは限らない

2021年09月26日 | こっくり亭日記
「2012年アセンション」が過ぎ去って久しい。早いもので、あれからもう10年近くが過ぎた。「次のターゲット」と目されていた2020年も過ぎた。今は2021年の秋分も過ぎて、冬至に向かっているところ。2021年の冬至は重要な節目になると、アチコチで言われている。

筆者は昔から「アセンション」が大好きで、この話になると、他のことがどうでも良くなってくる。発達障害人だから人生が難しいので、もっと生きやすい世界へと地球が変容することを望んでいるのではないか・・・と言われることもある。まあ確かに、そういう面もあるかもしれない。もっと順調な人生を送っていたら、また違う人生観になっていたかもしれない。こればっかりは、他の人生を送ってみないと分からないが。

でも、やっぱり、そうじゃないと思うんだよなあ。というのも、類は友を呼ぶで、学生時代の友人とか、若い頃に筆者の周囲でとくに親しかった人たちは、メンタル面になんらかの問題を抱える人が多かった。でもって、彼らに「アセンション」の話をしても(その時代にはまだアセンションという言葉が使われてなかったが、要するにそういう主旨の話をしても)、「そんなバカな」と笑い飛ばされることが多かったからだ。

メンタル・プロブレムを抱えて人生で苦労しているからといって、「地球という環境そのものの変容」を望むかっていったら、それとこれとは別問題だということを、彼らを通じてよく知っている。「地球は、いまでこそ生きるのが難しい環境だ。でも、これから大きく変わる。地球の変容は遠くない」という考えに、幼少の頃から取りつかれているのは筆者の個人的な属性であって、他の人たちはそうではなかった。

たとえば先日、昔の友人と15年ぶりに再会した。若い頃は大変な行動力の持ち主で、単身、アメリカ西海岸に渡り、そこでフリーター生活してたほどフットワークが良く元気だったが、帰国後になぜか精神を病んでしまった。もともと、メンタル面でなんらかの問題を抱えていたのだろう。だから筆者と波長が合ったのだ。久しぶりに再会して、「元気だな。年齢のわりにすごく若いな。とても自分と同じ年齢と思えない」と言われた。こちらは七転び八起きの人生を通じて発達障害をほとんど克服し、昔よりずっと元気になっている。一方、彼は精神の病気と闘う人生を通じて、さすがに老いが感じられた。でも、筆者の考えでは、そういう人もこれからの地球環境の変容により、健康を取り戻すはずなのだ。そこで「アセンション」の話をしてみたが、反応は良くなかった。「相変わらず、奇妙なことを考えているな」と一笑に付されてしまった。

そういう若い頃の友人が、他にも何人かいる。東大の学生だった友人が、大学を卒業したばかりの頃、「ボクは子どもの頃から勉強ばかりしてた。小学生のとき、中学受験予備校で成績が上から5番目だった。◯◯君が1番だった。アイツには勝てんかった」としきりに言うので、「まあ、どっちにしても昔のことだ。あんな奴に勝たんでもいい。気にするな」と筆者は励ましたが、本人はいたって真剣で、「人生は1度きりだというのに、なんとも凡庸な人生。こんな生き方してていいのか?」とますます悩みを深めていた。そこで、「いや、人生は1度きりなんかじゃない。人は何度でも生まれ変わっているんだ」という話をしたところ、彼はビックリしていた。「なにを奇妙なことを言い出すのか?」とあきれられた。彼は結局、精神を病んで早期にリタイアしてしまった。性格がマジメすぎる人ならではの辛さで、残念なことだった。筆者もマジメといえばマジメだけど、根がイイカゲンなので、こうはならない。でも、彼のような人も、今後の地球環境の変容により、元気を取り戻すはずだ。

というようなわけで、メンタルな面で問題を抱えることと、精神世界・スピリチュアルの探求に向かうこととは、筆者の経験では直接の関係がない。何も問題がない人と比べたら、探求する上でやや有利かもしれないが。でも、それとこれとは別問題。そうとしか言いようがない。

それより、地球はいよいよドン詰まりを迎えている。現状を維持するのは無理なので、変わるしかない。アセンションは避けられない。もっと、アセンションを本気で目指す人が増えないものか。筆者の関心は、なんといってもそこにある。正直なところ、自分自身の人生のことより、「地球の変容」の方がもっと気になっている(笑)


発達障害人の特徴 その2 ~ 発達障害の3大分類

2021年09月24日 | こっくり亭日記
「発達障害」という言葉もすっかり世間に定着し、広く一般に知られるようになった。でも、「発達障害」といっても種類がいくつかあり、それぞれに特徴が大きく異なる別モノだ。主なものは、「自閉症スペクトラム」、「注意欠如・多動性障害(ADHD)」、「学習障害(LD)」の3つがある。

自閉症スペクトラムというのは、「自閉症、広汎性発達障害、アスペルガー症候群」などのいろいろな名前で呼ばれていた症状を、「自閉症とその仲間たち」みたいな感じで1つにまとめたもの。極めて強いコダワリや行動パターンを持ち、「相手の反応を見ないで、一方的に話し続ける」など、対人やコミュニケーションに困難を抱えることが多いとされる。映画「レインマン」とか、アメリカのコメディー「ビッグバン☆セオリー」などでもオナジミ。これこそ発達障害のなかの発達障害と言えるだろう。単に「発達障害」と言えば、たいてい自閉症スペクトラムを意味する。

これに対して、「注意欠如・多動性障害(ADHD)」は、「不注意(活動に集中できない・気が散りやすい・物をなくしやすい・順序だてて活動に取り組めないなど)」と「多動-衝動性(じっとしていられない・静かに遊べない・待つことが苦手で他人のじゃまをしてしまうなど)」というような特徴があるとされる。筆者は昔から、この傾向が強かった。でも最近は、この傾向をあまり指摘されないし、自分でも感じなくなってきたように思う。この人生を通じて自分自身の脳を刺激されてきた結果、鈍かった箇所がようやく活性化したのかもしれない(残念ながら、ちょっと遅かったが・・・)。

もう1つは「学習障害(LD)」で、これは端的に言えば、「読み書きが苦手」とか「計算が苦手」とか、何かが極端に苦手なことを意味する。それも、「ちょっと苦手なようですね」なんてものではなく、「なんで、こんなに出来ないんだろう?」と不思議になるくらい、妙に全然できない人だ。筆者はひところ学習塾で働いた。そのときに、学習障害の子どもに勉強を教えた経験が印象に残っている。発達障害の児童にアリガチな、人形みたいに可愛い子ども。ヒトケタの足し算はなんとかできるけど、フタケタになるとお手上げで、何度も教えたけど翌日には必ず忘れていた。こちらはもともと教えるのが好きなので、何度も教えるのは楽しかったが、本人は大変そうだった。もっとも、そういう人でも、成長すると普通に計算ができるようになって、「あれは一体、何だったんだろう?」ということになることもある。

他にもあるけど、主な分類はこの3つ。発達障害と一言で言っても、自閉症とADHDではかなり傾向が異なる。たとえば、自閉症の人は、「毎朝6時15分に起きて、6時30分に歯を磨いて、6時45分に朝ごはんを食べて・・・」というような、カッチリしたパターン化を好むコダワリ派が多い。逆にADHDの人は計画性が乏しく、思いつきで衝動的に行動することを好むことが多い。たとえば筆者のように、何年も更新してなかったブログを何の前触れもなく急に熱心に更新し始めるような、行動パターンが読めない人。そういう人には、ADHDの傾向がある。こんな具合に、自閉症とADHDでは、まるきり逆の特徴を示すこともあるから一概には言えない。しかも、これらの発達障害は1つではなく、混ざり合って起きることが多い。

問題は「バランスが悪い」ということだろう。たとえば、学習障害でいえば、計算能力は高いのに、何歳になっても言葉がなかなかしゃべれるようにならないとか。このように、何かの発達が人並みより早くて、何かの発達が人並みより遅いというような偏りがあってバランスが崩れると、発達障害になりやすい。思うに、車でいえば右の車輪の回転が速くて、左の車輪の回転が遅いようなものか。これだと、まっすぐ走るのが難しい。いちいち調整しないと走れなくなる。

症状はいろいろあれど、共通するのは、「これがあると人生が難しくなる」ということだろう。バランスが取れた人間のほうが、人生は生きていきやすい。でも人生は、生きやすいほうが良い人生かっていったら、そういうわけでもない。重要なのは、この地球での人生経験を通じて意識進化することだ。課題は人それぞれであり、進化の道もさまざま。スマホのゲームでも同じで、簡単なヌルゲーを周回したい人もいれば、難易度の高いゲームにあえて挑みたい人もいる。どっちが良いというわけでもない。

精神世界を探求する上では、どっちかっていったら発達障害人のほうが有利かもしれない。お釈迦さまもイエス・キリストも、ショーペンハウアーもクリシュナムルティも、明らかに発達障害人。ごく普通の人生を無難に生きているようでは、なかなか探求へと向かう強烈なエネルギーは生まれないということだろう。

科学的に見れば、「これは、アナタの脳の特定の部位の発達度合の偏りが原因です」というようなことになる。確かにその通りとは思うのだが、背景としては霊的な要因がある。

これはいつも思うことだけど、宇宙の成り立ちとか生命の仕組みとか、そういったものを科学的・合理的に説明できるのは事実で、間違っていない。でも、その背景には霊的なものがあって、それも大きな影響を及ぼしている。

男性なのに女性みたいな(あるいはその逆も)、「性同一性障害」とかもそうだ。男性ホルモンとか女性ホルモンとか、そういう科学的なところに原因があるのも事実だけど、その背景には霊的なものがある。

重要なのは、「どっちか一方だけが原因ではない」ということ。中には、「霊的には女性の意識なのに、間違って男性の身体に生まれてしまった」というような、霊的な要素だけが原因の人もいるだろう。逆に、「霊的には何の問題もないのに、たまたま身体のホルモンバランスが化学的な要因で崩れてしまった」というような、純粋に物質的な要因でそうなったケースもあるだろう。その中間の多くのケースは、その両方が混じり合って起きたと考えられる。

物事は、物質的な要因と、霊的な要因がカラミあって起きている。あの世ならともかく、この世では両方とも無視できない。大昔の人は、何も分からなかったので、何もかも「神さまの意思」で片づけていた。つまり、物質的な要因が分からなかったので、霊的な原因を探すしかなかったのだ。現代人は逆に、科学的・合理的な理由ばかり探すようになった。「これは前世での体験に原因が・・・」なんて言おうものなら、一発で異常者あつかいだ。

でも、未来の人類は、その両方に原因があるのを前提として、すべての物事を考えるようになるだろう。筆者は、日頃からそれを実践している。科学的な説明をしてはスピリチュアル系の人たちから反対され、スピリチュアル的な説明をしては科学的合理主義者たちから反対される。これは周囲の無理解というより、両方いっぺんに語るのはそれだけ難しいのだ(笑)。それは仕方ないんだけど、いずれ、どちらか一方だけではなく、両方をいっぺんに論じるのが当たり前になるだろう。

発達障害人の特徴 その1 ~ 言語性IQと動作性IQ

2021年09月23日 | こっくり亭日記
その方面に詳しい人によると、発達障害人にアリガチな特徴として、「言語性IQと動作性IQのギャップが大きい」というのがあるらしい。どういうことかというと、どちらも名前の通りで、言語性IQというのは、主に言葉を使う能力。しゃべったり、文章を読み書きしたり。テストでいい点を取るためには、言語性IQが高いと有利だ。それに対して、動作性IQというのは、動作とか作業をする能力のこと。飛んでくるボールを捉える動体視力、それに素早く反応する動作の速さ。そういうのが典型的な例だ。これが高いと、作業系の仕事には有利になる。詳しいことは専門家に聞いてみないと分からないけど、だいたいそういうことだと思っていいみたい。

言語性IQと動作性IQが両方とも高いのは、何をやっても出来る人。そういう人は優秀だ。逆に、両方とも低いと、ちょっとスローでマイペースな人になる。でも、それはそれで生きる道がある。難しい仕事は避けた方が無難だけど、生きてく上で特に支障はない。

問題は、どちらか一方が高くて、どちらかが低い。つまり、バランスが悪い人。そういう人が「発達障害」になりやすい。高学歴で一見優秀そうなのに、何をやっても妙に作業が遅くて「やる気あるのか?」と言われるような人は、言語性IQが高くて動作性IQが低い可能性が高い。

筆者の場合は、言語性IQが高くて、動作性IQが低い。正式に調べたことはないけど、おそらくそうだろう。身体を使ってやることは、たいてい何をやっても下手だ。昔から、野球のキャッチボールもマトモにできない。ボールを投げたら真っ直ぐ飛ばないし、よほど撮りやすい球でないと、まず捕球できない。日常生活においても、驚くほどドジな人間。今はそうでもなくなってきたけど、昔は「よく、これで無事に生きてこれたな?」と感心されるくらい、いつもボーッとしていた。

その代わり、国語は極端に得意で、偏差値80の国語大王だ。高校生の頃などは、参考書も問題集もマジメにやった試しはないけど、国語のテストの成績は自然体で抜群。その辺のクラスで一番、学校で一番などという程度ではなく、全国規模でトップクラスだった。いくら世間は広くて色んな人がいると言ったって、筆者ほど国語や社会に強い人など滅多にいるものではない。そんな人が古今東西の宗教書や哲学書を手当たり次第に読みまくってきたのだから、詳しくなるのは当たり前。日本語だけでなく、英語でもたくさん読んでいる。難解な文章を読んでも、作者が何を言いたいのかがすぐに「ピン!」とくるのが特技。哲学するためには有利な特技だ。

言語性と動作性のバランスがこれだけ悪いと、人生は本当に難しくなる。こうして考えてみても、「よく、これで無事に生きてこれたな?」と我ながら感心してしまう。「動作性IQ」という言葉を知ったのは数年前だけど、それが低いのは昔から分かっていた。別に悩んではいなかったが。なぜ悩まなかったかというと、この地球で過ごす人生はたったの数十年か、長くても百年程度にすぎない。悩んでいるヒマがあったら、情報収集を急ぐ必要がある。早い話が、宗教書や哲学書を読みまくるのに忙しくて、悩んでるヒマがなかった。

とはいうものの、動作性IQの低さが弱点なのは分かりきっていた。「第一印象では見るからに賢そうな人だなと思ったけど、じつは底抜けにドジなので、ギャップが凄すぎて逆に感心してしまった」、「いい悪いは別にして、とにかくユニーク」、「ある意味、貴重なキャラだ」とかなんとか、盛んに言われた。

動作性が弱点なのは明らかだ。この弱点を補強しようと、実にさまざまな努力をしてきた。小学生の時などは、スポーツばかりしていた。正直なところ、子どもの頃の筆者にとって、小学校の勉強など簡単すぎて勉強する必要なんか無かった。目標は、「ドジでノロマな亀」から卒業すること以外に無かった。いつも走り込みでヘトヘトになり、鉄棒の練習のやりすぎで手はマメだらけだった。

学校で掃除をしても、「ホウキの掃き方が、普通の人とは違って、なんだかおかしい」だの、「雑巾の絞り方がかなりおかしい」だのとよく批判されたものだ。実際にその通りなのだから、批判は甘んじて受け止めるしかない(改善できなかったが)。大人になってからも、工場作業員になって半年くらいバイト生活を送ったことがある。他に仕事がなかったわけじゃないんだけど、動作性IQを鍛えようと思って試しにやってみたら、ハマッた。不器用なので足を引っ張ることもよくあったが、「辞めます」と言ったら、「もうちょっとガンバってみようよ」と周囲の人たちから言われた。なるべく器用さと反射神経を要求されないところに置いてもらって、しばらく続けた。

さすがに限界を感じて学習塾の仕事に転じたところ、子どもに人気が出て順調に生徒が増え、「これは天職だな」と周囲の人々にも言われた。でも、あるとき、雑巾で学習塾の机を拭き掃除していたところ、小学生の女の子から「先生の雑巾の絞り方は、なんだかおかしいね」と言われた。

(続く)

最近は、スピリチュアル系 youtube動画が増えてきた

2021年08月26日 | こっくり亭日記
ブログの更新を、何年もサボっていた。まったく、情けない限りだ。

「宇宙となかよし/Qさん」なんか、16年間ブログを毎日更新しているというのに(笑)。やはり、滝行で根性を鍛えると違うということか?
でも、なんの前触れもなく突如として意欲を回復し、数日前から更新を再開した。
べつに、何かキッカケがあったというわけでもないし、脈絡がない。
「極端から極端に走る」・・・これもまた、発達障害人の特徴だろう。

それはともかく、この数年の間にも、精神世界・スピリチュアル系ジャンルは、大きく変化してきたように思う。
なんといっても、youtubeの動画が充実してきた。もう、精神世界はブログよりyoutubeの時代 (・・・とまでは、さすがに言いすぎだけど)。

スピ系 youtuberは大勢いる。有名なのは、「MOMOYOチャンネル」とか「感じるスピリチュアルしゅうさん」あたりか。
筆者のyoutube によく表示されるのは、「並木良和/Namiki channel」とか、「吉濱ツトム/Y’s spiritual」とか。
よく表示されるから、自然と見る。そうすると、ますます表示されやすくなる。
なんで表示されるようになったのか、最初のキッカケは忘れたが。

日本に限らず、海外の youtuberも多い。ていうか、世界は広いので、海外のほうが多い。
個人的に、海外モノのほうが好きだったりする。でも、外国のことなので情報は得にくい。

まずは定番の、Eckhart Tolleから見始めた。抜群の安定感を誇る。こういう精神世界の王道モノは、やはり外すわけにいかない。
ドイツ人だし、喋りがゆっくりすぎなので、英語のリスニングを鍛えるのには適してないが。
あと、“Brian Scott”って人、インド人の ”Sadhguru”って人もなぜかよく表示される。
これまた、なんでこの人たちが表示されるようになったのか、最初のキッカケは覚えていない。

あとは・・・。
いろいろあるけど、人に紹介するのはまだ早い。
怪しい人が多いことにかけては定評のある業界だけに・・・。

というわけで、結局、「クリシュナムルティ 最後の講話」のリンクを貼るのだった(笑)

クリシュナムルティ 最後の講話 https://youtu.be/cJGkL7vzU8U

(続く)

来るべき爆発的進化

2017年11月19日 | こっくり亭日記
前回まで、地球の意識的進化に対する筆者の考えを語ってきた。わりと独特な考え方なので、分かりにくいのは承知なんだけど、地球生命系の進化の歴史や、地球人類の文明の歴史を見れば見るほど、このような結論にならざるを得ない。

個人的に、精神世界によくある、「今まで地球はアセンションの機会を6度むかえました。今回が7度目のチャンスです」とか、「過去の地球には、もっと進化した文明がありました。文明のレベルは、上がったり下がったりしてきたのです」といった考え方を好まない。というより、それはまったく意味をなさないように思われる。

筆者にとって、地球のアセンションの機会は、今が最初で最後であり、まさに「一期一会」。ラストチャンスもなにも、もともと1回しかない。

でもって、生物の進化も、文明の進歩も、過去のどの時期より現在が最高段階なのは確実だ。しかも、その進歩のスピードが、過去のどの時期よりも今のほうが圧倒的に速い。

さらに、これからはそれが、もっと速くなる。ウン十億年、地球が蓄えてきたエネルギーがクライマックスに達するのだ。ここで起きる爆発的な進化こそが、地球のアセンションの本質だと考えている。

精神世界にまったく関心がない人でも、この「加速」に関しては、たいてい同意する。「それは、その通りだねえ」という。「アセンション」については、必ずしも同意が得られているとは言えないが(笑)。

つまり、これは精神世界で言われていることとは、直接の関係がない考え。もちろん、数々の宇宙からのチャネリング・メッセージを本ブログでも取り上げてきたし、大きな影響を受けてはいるけど、基本的には、それとは別に上記のように考えている。

というのも、筆者は、精神世界マニアであるのと同じくらい、歴史マニアでもある。でもって、生物学や地質学にもそこそこ詳しい。仕事をサボってでも、会社を辞めてでも本を読みまくるくらいの勢いがないと、こうはならない。真っ当に生きてたんじゃ無理。そこで得たものを綜合した結論として、このような考えに至った。

ていうか、もともと幼少から根拠もなしにそう思ってたのだが、周囲の人々といまひとつ考えが合わないので、実際のところはどうなのかを確認したかった。そして、長い年月をかけて、せっせと各分野の情報を収集し、確信できるまで裏づけてきたというところ。

まあ、そんなこんなで、「アセンション」が好きな人も嫌いな人も、これから地球が急速に変容するということだけは、知っておいて損はない。

どこかの教祖じゃないけど、こればっかりは、「私を信じなさい」といったところか・・・。

地球生命系の意識は、着実に進化してきた

2017年11月16日 | こっくり亭日記

精神世界系のブログを見て思うことだけど、ひところは下火になっていた「アセンション」が、最近また復活してきているようだ。やはり、「2012年12月」のインパクトが強すぎたおかげで、ここ数年は目標を失っていたということか?

でも、さすがに5年もたって、目標を見失った脱力感も薄れてきたのかもしれない(笑)。

それはともかく、いよいよ地球が変わってきている。最近の異常気象や社会現象を見ていれば、そう思わずにいられない。とくに、日本よりも外国の変化が速い。良くも悪くも、ますます変化のスピードが速くなっている。

この変化の原動力になっているのは、今のところ、人類の意識進化というよりも、コンピュータの発達だ。21世紀の初頭に起きたIT革命で、コンピュータの性能が飛躍的に向上した。いまは、その途方もなく高性能になったコンピュータが、いろんな分野で予想外の進歩を引き起こしている。まさに、ドミノ倒しというべきか、玉突き現象というべきか、変化が次の変化を起こしている状況だ。

筆者は、根本的にモノの考え方が過激で、安定や継続よりも変化や革新を好むタイプ。つまり、新しモノ好きだ。とくに若い頃は、人生に強烈な生きづらさを感じていたので、「こんな世界がグレンとひっくり返らないものか」といつも思っていた。でも、世の中のみんながそうではない。誰もが、今のような変化の速い世界を喜んでいるわけではない。

精神世界関係者でもそうだろう。とくに、正統派で本流をゆく人ほど、こういう物質世界の変容よりも、個人の意識改革を重視しているはずだ。たしかに、そのとおり。個人の意識改革こそ、何よりも重要だ。

でも、今はそういう時代ではない。個人で無理してがんばるよりも (なんの無理だかは別にして)、世界の急速な変容の流れに乗ったほうが良い時代だ。

たしかに、世界が良い方向に変わるとは限らない。とくに日本の場合は、近隣にトンデモない波乱要因の国々があるだけに要注意だ。北朝鮮が海に向かって撃ったつもりのミサイルが、てちがいで頭上に落ちてくる可能性だってある。中国のバブル崩壊をキッカケに世界経済が大恐慌に陥り、また生活が大変になることも考えられる。

しかし、そんな怖れを乗り越えて、すべての変化を受け入れて生きていくしかない。

前々回も書いたように、地球の変化がだんだん速くなっていること。それも、一年や二年なんてものではなく、何十億年という気の遠くなるようなスパンで、だんだん速くなっていること。人類の歴史も、何万年から何千年へ、何千年から何百年へ、何百年から何十年へと、どんどん進歩が速くなっている。いまじゃ、一年の変化があまりにも大きい。

筆者の考えでは、これは単なる物質世界の変化ではない。それだけではなく、確実に意識の進化を伴っている。

それは、生物の進化を見たって分かる。人間や動物と比べたら、魚類の意識は、眠っているに等しい。水槽の魚に何年もエサをやり続けたところで、飼い主と心が通じ合うことはない。おなかが空いてるから食べるだけで、人間を飼い主だとか、自分の仲間だとか認識するのは無理。魚はそんな難しいことを考えてないから分からない。

カメとかヘビだって、魚よりは心が少しあるけど、まだまだ意識の眠りは深い。大きなカメをペットとして飼うマニアも、「かわいいから飼っているのだが、飼い主とペットとして心が通じ合うことはない」と言っている。

それに比べて、犬や猫には、明らかに心がある。人間の赤ちゃんをかわいがってペロペロしたり、飼い主を命がけで助けたりする犬の姿は、ペット愛好動画などでオナジミだ。飲食店街の丸々と太った野良猫はノンビリしていて人懐っこいが、「エサやり禁止」の住宅街に住む野良猫は、険しい目つきをしていて常に身構えている。

猿に至っては、人間の子供と意識レベルは変わらない。猿の赤ちゃんも、「高い高い」されれば、ニッコリ笑って喜ぶ。人間の幼児と同じだ。

これが、生物の進化というものだ。やっぱり、生物として物質的に進化しているだけではなく、深いこん睡状態のような意識から、より覚醒した意識へと確実に向かっているのである。しかも、生物進化の歴史をたどってみれば、その進化は後になるほどだんだん加速している。

もちろん、高度に進化した人間も、良い人ばかりではない。逆に、だんだん心がねじけて、悪い人になっていくこともある。しかし、個別の人間を見て判断してはいけない。全体の流れを大局的に見れば、意識は覚醒する流れに向かっている。

これは、人類の歴史を見てもそうだ。「現代の社会はおかしい。昔のほうが良かった」という人も多いし、そういう面もあるとは思うのだが、これまた、個別の事象はともかく、大局的に見ればどうだろう。

大昔の世界にタイムスリップして、未開で野蛮な人間たちと、槍で突き刺し合ったり、こん棒で殴り合ったりしたいだろうか。現代の文明人にも、良い人もいれば悪い人もいるが、古代人の意識レベルは、それよりも、ずっと未開発の状態にあった。

古代の地球人類の多くは、現代の文明人と比べたら、「何も分からないけど、とりあえず生きてます」というレベルで、眠っているのに等しい意識状態だ。それに比べて現代人の意識は、ずっと鋭敏になっている。これまた、あきらかに覚醒状態へと向かう流れにある。

筆者の周囲にも、クスリでも打ってんじゃないかというような、妙にハイテンションな人がよくいる。いや、それはまた別の問題か(笑)。

 もちろん、「それと精神世界でいう意識覚醒とは、別の問題じゃないのか」という意見もあるだろう。それはそれで見識だと思う。でも、筆者の考えでは、そうではない。

地球の歴史を見れば見るほど、全体的な流れとして、ぐっすり眠っているような意識状態から、シャキッと覚醒したような意識状態へと変わってきたとしか思えない。

しかも、その意識状態の変化は、だんだん速くなってきている。ここ最近になって、いよいよ、とめどなく速くなっている・・・。

 


仮想現実での生き方

2017年11月08日 | こっくり亭日記

 

この世は、よくできた仮想現実である。仮想といっても、きわめて壮大、かつ精緻にできている。あまりにも良くできているので、本物の世界のように思える。でも、やっぱり仮想現実でしかない。このことは、いまや広く知れ渡ってきた。

最近は、この世を、コンピュータのゲーム内世界に例えるのが流行している。実際のところ、これほどピッタリな例えは他にない。共通点を挙げたら、たくさんある。いろんな面で、驚くほど似ている。「この世は仮想現実」という話は、コンピュータと切り離しては成り立たない。

この世は、一見、切れ目なくつながったアナログの世界に見える。でも、本当はデジタルの世界だ。物質は、原子と分子でできている。原子と分子は、とても小さい。自分も、身の回りの物質も、小さな小さな粒子が集まってできているということを、日頃は意識することがない。だけど、原子や分子はレッキとした粒であり、数を数えることもできる (数えるのは大変だけど)。

物質だけでなく、宇宙空間にも、これ以上の小ささはないという最小単位がある。それはプランク長と呼ばれる。具体的には 0.0000000000000000000000000000000000016 メートルくらいらしい。

時間にも、これ以上の短い時間はないという最小単位があって、プランク時間と呼ばれる。それは、約 0.0000000000000000000000000000000000000000000539121 秒だそうな。

物理の話にはいろんな異論がつきものだけど、とにかく、宇宙には最小単位がある。 

コンピュータの画面も、いくら滑らかに動いているように見えたとしても、ドットが集まってできている。ドット数が少なければ画面が荒くなるから分かるけど、細かくしていけば、画面は限りなく滑らかになっていく。それでも、ドットの集まりであることに変わりはない。

こういうのが、この世とコンピュータが似ているところ。

 われわれは、仮想現実の中を生きている。でも、自分を取り巻く現実には圧倒的なリアル感があり、本物としか思えない。仮想現実だからといって、「そこで何が起きても関係ない」ということはない。それとこれとは、話が別だ。

それは、コンピュータのゲームを考えても分かる。ゲームの中で起きる出来事は、客観的に見れば意味がない。ゲームをやってる間は重大事に思えるのだが、ゲームをやめてしまえば、まったくどうでもいい。

筆者も、最近はあまりやらないけど、以前はよくゲームをやっていた。たとえば、「艦隊これくしょん」というゲームで、せっかく育成した艦をうっかり轟沈させてしまったときには、凄まじい衝撃を受けたものだ。「うぎゃあー、やっちまった」という感じ。あのときは、マジで精神的に打ちのめされた。

今にして思えば、それは、まったくどうでもよいことであった。しかし当時は、きわめて重大な出来事に思えた。他のゲームでも、大なり小なり、そういう思い出がある。

いくら仮想現実といったって、ゲームでさえそうなのだから、リアルの日常生活の出来事がシリアスに受け止められるのは仕方がない。

ただし、それも時間がすべてを解決する。当時としては重大な出来事に思えても、時間がたつにつれて意義が薄れてくるのが普通だからだ。最終的には、この世を去ってしまえば、すべてが思い出になる。

地球の物質世界での出来事は、すべて、ここにいる間だけの問題。いったん離れてしまえば、なんの意味もない。

「いや、そんなはずはない。こんな苦労をするからには、何か意味があるはずだ」と、必死になって「人生の意味」を探す人もいる。気持ちはわかるが、もともと無いものを、探しても見つかるわけがない。

でも、意味がないからこそ、かえって面白いのである。ハマるほど真剣になる。それも、ゲームと同じだ。

今日も、いろんなことが起きるだろう。また地球が回って、日本の夜が明け、朝が来た。もっと寝ていたかったが、仕方がない。また、起きて出かける自分がいる。数時間後には、この世が仮想現実であることなど、まったく念頭にも浮かばないほど、また目前の「現実」にハマッていることであろう(笑)。

(つづく)