(前回からつづく)
前回は、筆者がいかに「なんでも知っている」かについて書いた。人文系・理科系・社会系を問わず、なんでも消化吸収して生きてきた。この世的に見れば、これはバカげた、非効率的な生き方だ。それを思うと、なんとも虚しいものがある。
というのも、自分の周囲には、ひとつの分野を極めたエキスパートが多い。まず、理系の技術者が多い。特に、建築士や土木技術者と波長が合うことが多い。それから、税理士・会計士とか、会計関係の専門家が多い。そんな人たちも、筆者と話をすると誰もが、理解の速さと記憶の確かさにビックリして感心する。「こんな難しい話をしているのに、あっという間に分かってしまったな。独特のセンスがある」と言われる。でもって、その話をもとに書きあげたレポートを見ると、「いやあ、ボクたちには、とてもこんな具合にスラスラ書けない。なんとも便利な人がいたものだ」と言われる。
それでいて、こちらには、これといって専門分野というものが特にない。というのも、勉強だけでなく、仕事も、実にいろんなことをやってきた。不動産屋も、保険屋もやったことがある。「看板を持って一日中、立ってるだけ」というバイトもやってたことがある。
つまり筆者は、科学や哲学、経済や歴史、音楽や美術その他に詳しいだけではない。それだけでなく、じつに広い世間を知っているのである。
職場の同僚たちが高学歴のエリートサラリーマンばかりだった時期もあれば、「俺は少年院を出てからはマジメに働いてきたんだぜ」というような人たちばかりだった時期もある。両方とも、同じように一緒に働いて、一緒に酒を飲んで話し込んできた。
廃棄物処理工場のバイトの現場で一日だけ一緒に仕事をして、そんなに話をした覚えもない相手から、帰り際にポンと肩をたたかれ、「いやあ、君はなんとも、いいキャラだな。また会おう」と言われたこともある。なんでそう言われたのか、皆目見当もつかなかった。残念ながら、廃棄物処理工場のバイトはあまりにもキツくて、一日で嫌になったから二度と行かなかったのだが(笑)。
十年以上前のこととはいえ、今でもハッキリ覚えている。薄暗い工場に、でっかいトラックが入ってきた。荷台が斜めに上がって、ザーッと滝のように「燃えないゴミ」が流れ落ちてきた。「さあ、金目のモノが混ざっていたら、せっせと拾い集めろ」というわけで、みんなで必死になって拾ったものだ。「世の中には、こういう仕事もあるんだな」と大いに感心した。それはいいんだけど、その後がよくなかった。蛍光灯を棒で叩き割って粉々にする作業に関しては、先端恐怖症の筆者には無理だった。
また例によって話がズレてきたので元に戻すと、この高度に分業化された現代の産業社会において、ひとつの専門分野を極めたほうが人生を生きやすく、効率が良いのは言うまでもない。それこそが、社会に適応した生き方だ。
要するに、この人生は、客観的に見れば、かなり効率の悪い人生。いっぺん生まれ変わって、最初からやり直した方がいいくらいだ。しかし、最初からやり直したところで、また同じような生き方をしてしまう可能性も高いので、意味があるかどうかは何とも言えないのだが。
そもそも、筆者の最大の関心は、「これからの地球の変容」にある。率直にいって、自分自身の人生のことより、「地球の変容」に対する興味関心のほうが強い。
だって、「大は小を兼ねる」と言うではないか。地球の環境が変われば、自分の人生も変わるに決まっている。だから、「地球の変容」こそが本当に重要な問題だ。それに比べて、自分の人生は小さい。
でも、逆に、「自分の人生が変われば、地球の環境も変わる」という考え方だってある。長いこと精神世界に慣れ親しんできたおかげで、このような考え方にも一理あると感じている。
「過去と他人は変えられない。変えられるのは未来と自分」という人生訓は、月並みだが真実を突いている。
そう考えて、やっぱり、これからも前向きに生きていくことにした。これからは、いよいよ、長年かけて蓄積してきた総合力を発揮するときだ(笑)。
(とりあえず、終わり)