宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

対機説法

2008年09月29日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
☆ウィキペディア「六道」より

六道(りくどう、ろくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の迷いある世界のこと。


天道(てんどう)  人間道(じんかんどう)  修羅道(しゅらどう)  畜生道(ちくしょうどう)  餓鬼道(がきどう)  地獄道(じごくどう)


仏教では、輪廻を空間的事象、あるいは死後に趣(おもむ)く世界ではなく、心の状態として捉える。

たとえば、天道界に赴けば、心の状態が天道のような状態にあり、地獄界に趣けば、心の状態が地獄のような状態である、と解釈される。
 
(引用おわり)  


ブッダは、次の2つを使い分けていました。
 

① 一般の衆生に対しては、「死後、善い人は天に赴き、悪い人は地獄に赴く」と説く。
 
② 出家したプロの修行者に対しては、「解脱した人はどこにも再生しない」と説く。


でも、①にしたところで、「善い人は天に赴く」というような一般論だけ。 

「死後」に関して具体的な話を一切しないのが、釈尊の特徴でした。

釈尊が問題にしているのは、たった今、この瞬間の「心境」だけ。
 
下で引用した「マハーナーマン」の話が典型的な例です。

「修行した人の心は上方に赴き、すぐれたところに赴く」というのは、一見、死後の世界のことを語っているように見えて、よく見れば、「心境が上がります」としか言ってないということに気づく。
 
もちろん、どうしてもという向きは、「ボクは死後、『上方のすぐれたところ』に赴くんだな」と思ったとしても、別に差し支えありません(笑)
 

汝の心は上方に赴き、すぐれたところに赴く・・・

2008年09月29日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
「マハーナーマンというシャカ族の人が、死んだらどうなるか、という質問をしたときに、釈尊は次のように答えたという。
 
マハーナーマンよ、恐れることなかれ。汝の死は悪からず。・・・しかし長い間信仰を修し、戒め・学問・捨離を修したその人の心は上方に赴き、すぐれたところへ赴く。

「人は死んだらどうなるのか」というテーマに関して、「○○界の△△になる」とかなんとか、そういう具体的なことを一切語らないのが釈尊の流儀。
 
この場面でも、「その人の心は上方に赴き、すぐれたところへ赴く」と述べるにとどまる。

よく読めば、「心境が上がります」と言ってるだけ。
 
でも、聞く人によっては、「そうか、ボクも天国に逝けるんだな」と思って安心できる内容になってます。

「死後について具体的なことを語らない」というポリシーを貫いている一方で、無用な不安は起こさせないように出来ている。
 
ありがたや。

合掌・・・・・。
 

自他不二

2008年09月23日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
  
我は無い。
 
じゃあ、何が有るのか。
 
有るのは、すべてがひとつであるところの、全体。
  
自他は、不可分にして不可同。

分かれているけど、分けられない。

つまり、自分と他者は、違うけど同じ。 同じだけど、違う。

それは、見る角度による。

これを「自他不ニ」(じたふに)と言います。
 
禅僧によると、ひたすらに座禅を組み、心を無にしていれば、やがて「無我」の境地に到達するという。

「無我」と「自他不二」は、表裏一体。

我々は、すべて、ひとつだ。

自他不二。

それは、トータルなワンネスの目覚め・・・。
  
 

五蘊仮和合

2008年09月23日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
ブッダの言葉


 
比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。
 
彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、
 
したがって、彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、色の中に我有りとも、見ることはない…。

一切は因縁の結ぶがままに有り、一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。

かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、

われ(アートマン)というものはない。

また、わがものというものもない。


すでにわれなしと知らば、

何によってか、わがものがあろうか。

と知ることができるのである。


(サンユッタニカーヤ22.55、増谷訳)
 
 
我は無い。

それが、お釈迦さまの教え。

ここで言う「我」とは、インド思想でいう「アートマン」。

アートマンとは、「生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する個の実体」 (真我、要するに霊魂)。

つまり、「霊魂は無い」というのが、お釈迦さまの教えです。

もちろん、「自分」はいます。

でなきゃ、今ここでブログを書いたり読んだりしている、私は一体だれ?・・・ということになる(笑)。

自分は有る。 でも、自分の実体は無い。

言ってみれば、ブッダの人間観とは、実体がなく、中身がカラッポな人間。

じゃあ、人間って何なの?・・・という疑問に答えて、ブッダは「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)という人間観を提示しました。

五蘊とは、色・受・想・行・識。

ざっくりと言えば、色は肉体作用。 他の4つは精神作用とでも言おうか。

これらは、人間を構成する5つの要素。 すべて、壊れやすくて、一瞬で壊れるのが特徴。(ただし、壊れるたびに一瞬で再生する)。
 
人間は、これらの要素の寄せ集めで出来ています。 

ただの寄せ集め。 中身はカラッポ。

永遠に存続するモノなど、何もない。
 
真実の自己は、たった今、この瞬間(即今)にしか存在しない。
 
 

無我

2008年09月23日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
われ(アートマン)というものはない。

また、わがものというものもない。


すでにわれなしと知らば、

何によってか、わがものがあろうか。

と知ることができるのである。


(サンユッタニカーヤ22.55、増谷訳)
 
 
われは無い。

それが、お釈迦さまの教え。

釈尊の自己放棄は、どこまでも徹底している。

それは、「エゴを抑えろ」というような、生易しい教えではない。
 
ずばり、「われは無い」。

われは無い。ただ、全体あるのみ。

つまるところ、それは「分離の消滅」・・・。