宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

なぜ、輪廻転生を終わらせるのか

2009年10月22日 | 釈迦 ~ 輪廻転生からの卒業
 
「輪廻が生じる原因」と、「輪廻を滅する方法」が、釈尊の悟りであり、教えの中核部分であるということは分かった。

現代の日本人には、これは奇異に映る。でも、古代インドの思想界では、これは奇妙でもなんでもなかった。一部の特殊な思想家(唯物論者など)を除いて、全員が輪廻転生を当たり前の前提として物事を考えていたし、釈尊の師匠や先輩、修行仲間たちも皆、輪廻転生を終わらせることを目標にがんばっていたのだ。

輪廻そのものを否定する人は、残念ながら対象外。「輪廻には興味ないけど、お釈迦さまには興味がある」という人(そんな人がいるというのが不思議だが・・・)には、この中核部分を避けて、残りの人生論その他に目を向けてもらうしかない。

ここでは、精神世界ファン特有の、輪廻思想に対するなじみ深さがモノを言う。その意味では、古代インド人と思想基盤を共有していると言っていい。

ただし、現代日本の精神世界ファンと、古代インド人とでは、重大な相違点があるのも確かだ。

というのも、現代日本の精神世界ファンの多くは、輪廻転生を、ポジティブにとらえている。「輪廻転生とは、永遠の魂修行を通じて、意識を進化させるプロセスなのだ」といったような、輪廻を前向きにとらえる発想だ。これ自体は、もちろん悪くない。だが、お釈迦さまの教えに、このような発想はまったく見られない。

初期仏教に、輪廻転生を前向きにとらえる発想があるだろうか。はっきり言おう。ありません。初期仏教において、輪廻は、はてしなく続く、苦しみが苦しみを呼ぶ連鎖反応、迷いが迷いを生むチェーン展開。目を覚ませば、それは終了する。これはお釈迦さまに限らず、古代インドの輪廻思想に共通する特徴。「輪廻を終わらせる」というのが、皆に共通する究極目標といっていい。

これを見れば、「古代インド人は、なんでそんなに、輪廻転生を終わらせたかったのでしょうか?」というのが、素朴な疑問といえるだろう。

これに対する、よくある通俗的な解釈は、こうだ。いわく、「インドは、暑くて伝染病が多い。当時は都市国家が乱立して、戦争が続いてた。インド人の人生は、苦痛だったのだ」。
 
たしかに、そういう面もあっただろうとは思う。だが、いくつかの理由で、これは当たっていない。

そもそも、これは、「この世での生活は苦しい。さっさと死んで天国に行きたいな」というような話ではない。「天国に行きたいな」というのと、「輪廻転生を終わらせたいな」というのは、似て非なる話・・・。
 
次に、「インドでの人生は苦しい」というのは、偏見じゃないかということ。悠然たるガンジスの流れ。 花咲き乱れ、孔雀は舞い、牛は草を食む。古来から、北方や西方の異民族 (アーリア人、トルコ人、イギリス人・・・)がインドに侵入したが、彼らは一様に、想像を絶するインドの豊穣さに圧倒されてきた。現代のように、何億人もの貧民が群れる世界だったわけでもない。釈尊自身、インドの自然に見とれ、「美しい・・・」と嘆息する場面が、仏典にも出てくる。
  
それ以上に、最も根本的な問題として、たしかに現代の日本では寿命が伸びた。でも、それにしたって寿命は百年かそこらにすぎず、「死」という問題が解決されたわけではない。むしろ、余生が長くなった分、老化の脅威がさらに大きくなっているとも言える。アンチエインジングが流行するのも、無理からぬところ。

「十二因縁」は、最初の「無明」(生まれる前の、何も分からない状態)から始まり、最後は「老死」で終わっている。「老死」こそ、迷いと苦しみの最終結果。古代インド人たちが最も恐れた人生の「苦」とは、この「老死」だった。

結局のところ、古代インド人たちは、輪廻を本当に真剣に考えていたからこそ、輪廻が怖かったのである。何千回も何万回も生まれ変わっては、そのたびに老いて、苦しんで死ぬ。ラクな死に方など、できる方が珍しい。その上、死後、どれほど悲惨な境遇に再生するハメになるかも分からない。これは、怖いことだ。

輪廻転生とは、トテツもなく怖いものだ。「輪廻転生」というものを、夢いっぱいのオトギ話としてではなく、本気で真正面からとらえたならば、そういうことにならざるを得ない。

マラソンにも、ゴールは必ずある。生まれ変わり死に変わる流転の日々は、いつまでも続けられるものではない。「もう十分だ」という人は、そろそろゴールを意識することになる・・・。

精神世界ファンの集い → にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へ 
  

最新の画像もっと見る

コメントを投稿