宇宙のこっくり亭

意識の覚醒に向かって、精神世界を縦横無尽に語る本格派ブログ!!

チャクラを刺激するトレーニング ~ 本山博氏 その2

2014年07月28日 | ヨーガ瞑想

 
本山博氏によると、人間は、太陽エネルギーだけで生きているわけではない。ふつうの人間は、酸素や水や食物のないところで生きていくことはできないが、修練を積んだヨガの行者なら、そんなところに1ヶ月くらいいても死なない。

もちろん、元気ハツラツ、ふつうの環境と同じように動き回るというわけにはいかない。「呼吸は止まったと思えるほどわずかで、心臓もかすかに動くくらい」という仮死状態だけど、生きていられるという。

クンダリニーヨーガでは、物質的なエネルギーのほかに、もっと次元の高い宇宙の生命エネルギーと呼ぶべきもの、「プラーナ」があると考えている。

空気や水、食物といった物質的なエネルギーを取り入れるのは、口とか鼻、皮膚。

それに対して、プラーナを取り入れる窓口は、「チャクラ」ということになる。

チャクラは、もともと「光の輪」という意味で、ここから取り入れたエネルギーが、全身、とくに内臓に送られる。その通り道は、「ナディ」と呼ばれる。酸素や栄養が、血管を通して送られるようなものだ。ナディは、言ってみれば、見えない血管みたいなもの。

おなかのマニプラチャクラには、「太陽神経叢」というのがあって、ここが第二の脳のようなコントロールセンターとなり、内臓を動かしている。そこには、プラーナを取り入れ、内臓に送るセンターもあるのだ。

普通の人は、このチャクラが目覚めていない。これでは、吸収できるプラーナが、質・量ともに限られる。それに比べて、チャクラが目覚めている人は、次元の異なるプラーナを吸収できる。不食でも生きていけるのは、そのためだ。

チャクラを目覚めさせることができれば、超能力は自然に身につくのだという。

そのためには、固い自我のカラをかぶって人間くさい欲望にとらわれている心を磨き、もっと高い次元に引き上げていかなければいけない。

そこで、トレーニングなのだが、本山博氏が推奨するのは、「腹筋のトレーニング」。

これによって、プラーナが集まっているところ(募穴)を刺激するんだそうな。

カンタンに言えば、座禅で半分だけ足を組んだような姿勢で、腹筋を前後左右にグルグル回すような気持ちで動かすのだ。「右に3回まわしたら、次は左に3回」というように、必ず、左右の回す回数を同じにするのがポイント。

食後すぐとか、おなかの調子が悪いときには、やってはいけない。できれば、朝起きたときとか、夜の寝る前にやるのが効果的だという。

もちろん、そんな具合に腹筋をグルグル回せる人など、世の中には滅多にいない(笑)。ここは、あくまでも、「そういうつもりになって、腹筋を動かす」ということ。左右にヒネリを加えることで、おなかのチャクラへの刺激を強化するのだ。
 

 
 
(つづく)
 


超能力ヨーガ瞑想 ~ 本山博氏

2014年07月26日 | ヨーガ瞑想

 
前回の「なんたって背骨が大事」を書いてから、もうだいぶ経ってしまったけど、本山博先生の話の二回目。

ここで取り上げた「自分でできる超能力」という本は、ほかの本山博氏の著書が通常、あまりにも分厚くて難解なのに比べて、本山ヨーガ理論の入門書として最適だ。
   

本山氏によると、超能力トレーニングとは、基本的には、「心のトレーニング」だという。

生まれてから現在まで、何十年かをかけて固めてきた心のカラを破り、心を自由にすることが本来の目的だ。それによって、眠っていた超能力が、目を覚ますのだという。 

そのために重要なのは、なんたって、背骨。

ヨーガでは、背骨をとても重視する。ヨーガのアーサナ(座法)には、背骨を伸ばしたり、曲げたり、左右にひねったり・・・というポーズが、とても多い。

これにはワケがある。というのも、背骨に沿って、「スシュムナー管」という、クンダリニーが通る通路があると考えられているからだ。だから、クンダリニーを昇らせるためには、通路が大事・・・ということになる。

とくに、背骨が「ゆがんでいる」というのは、大問題。もしも、背骨がズレてゆがんでいるようなら、これを矯正することが最初のテーマになる。

背骨がゆがんでいるかどうかは、人に指で触って診断してもらえば良い。自分でもできるけど、よほど腕が長い人でない限り、届かない範囲がある。

そこで連想するのは、「神の使者」の著者、ゲーリー・レナード氏。子供の頃から、セキツイ側わん症(背骨が曲がっている症状)に悩まされ、病院に通っていた。背骨をまっすぐにするために、いろんな手段を用いて、ものすごい努力をした。
 

本人は自覚していないが、これこそ、知らず知らずのうちに、ヨーガ行者のトレーニングをしていたようなものだ。それが超感覚的認識の開発につながり、ひいては現在の彼につながったとも考えられる。

 ちょうど筆者が、ADHD(注意欠陥・多動性障害)を克服するため、集中力を強化するトレーニングに取り組んだようなものだろう。修行せざるを得ないように、人生ができているのだ。昔の野球マンガに出てきた「大リーグボール養成ギプス」と同じで、これこそ、「災い転じて福となす」というもの。


>「心のトレーニングをするのに、なぜ背骨が関係あるのだろう?」という疑問の声が聞こえてくるような気がしますが、ここではただ、「背骨にゆがみがあると超能力開発がうまくいかない。そればかりでなく、身体に悪い影響をもたらすこともありうる」とだけ覚えておいてください。

背骨をまっすぐにするためのトレーニングは、ヨーガにはたくさんある。なんたって、最も根本的なテーマだけに、そういうメニューがたくさんある。

代表的な基本ポーズには、次のようなものがある。
 






それぞれのポーズには、意味がある。たとえば、上のポーズは、「飛び出した背骨を引っ込める」というのが目的で、真ん中のポーズは、「引っ込んだ背骨を、元に戻す」、下のポーズは、「左右にゆがんだ背骨を、まっすぐにする」というのが目的。

前にも書いたけど、筆者は身体に関することがどうも苦手で、ハタ・ヨーガの難しいアーサナのポーズには苦手意識がある。というより、まずムリだ。

上に挙げた画像も、こんなに深く曲げるなど、マネしようったって、到底できるものではない。

ただし、ここまでの域に達するのはムリでも、本来は、とても簡単なポーズばかりだ。しかも、難しいことをやるより、こういう簡単なポーズを繰り返すほうが、ずっと効果が高くて有意義だという人が多い。「継続は力なり」という、典型的な例だろう。
 


YOGA.jp ポーズ辞典 

(続く)


UFOに愛されたパイロット ~ その4

2014年07月20日 | UFO

東京の地上で暮らしていたのでは、UFOどころか、星もポツンポツンとまばらにしか見えないのが普通だ。もっと宇宙を感じられる場所で生活したいものだけど、個人的に、まだその時期じゃないみたい。  

山奥で生活するのもいいけど、頻繁に空を見上げる生活をしないと、あまり意味はないだろう。

もっとも、長くパイロットをやっている人でも、誰もがUFOと遭遇するわけではない。よく遭遇する人と、そうでない人がいる。不思議なことに、東北の三沢基地とか松島基地あたりが、妙に多いらしい。なぜ、東北の上空に、よくUFOが出るのか。通常、日本でUFOの聖地とされているのは、長野の八ヶ岳だけど、微妙に修正すべきかもしれない・・・。  

 「レーダーに、ナゾの物体が映った」というケースが多い。でも、スクランブル発進したところ、何もいなかったり・・・とか。 「空中に、黒い点が見えた。ずっと見えているので、『なんだろう、あれは?』と不審に思いながら近づいたところ、その黒い点が急に動き出した。最初はゆっくりした動きだったが、4~5秒には急に速度が速くなり、あっというまに、薄く煙ったような三沢の上空付近に消えてしまった」というケースもそうだ。  

 どこかの国の新兵器なんてことは、ありえない。そんな動きのできる飛行機など、地球には存在しないからだ。

「光る雲や、光の玉がついてきた」というようなエピソードも、いくつかある。そういうものだけでなく、「名古屋近辺の上空で、信じられないほど巨大な飛行物体を見た」というような証言もある。  

また、小さな飛行機に乗って飛んでいるのは、命をかけた特殊な状況だけに、UFOに限らず、さまざまな神秘体験も起きるようだ。  

 「分厚い雲から、急に明るい光がさしてきた。そのとき、『早く帰れ』という声が耳元で聞こえた。翌日、その飛行機は故障して爆発事故が起きた」というエピソードなどが、それだ。

  佐藤守氏が取材したなかで、UFO遭遇回数が最も多かったのは、「船附昇・元三佐」という人。この人は、「UFO に愛された三佐」として、特別に実名で紹介されている。  

 船附三佐は、パイロット練習生の頃からUFOと遭遇していたらしい。練習機で編隊を組んで飛んでいたところ、真っ白く光った球状の者が現れ、ものすごい速さで飛んでいるのに気づいた。  

 それは、ありえないほどの速さで飛び去ったため、他の人は誰も気がつかなかった。でも、しばらく経ってから、それは再び姿を現した。今度は、後部座席にいた教官も、「船附、お前がさっき見つけたのは、あれか?」と聞いてきたという。球状の飛行物体は、異常な速さで横切り、急旋回して飛び去った。 実は、教官は、以前にもナゾの飛行物体を見たことがあった。「以前、三沢基地勤務時代に、F-86Fの四機編隊で飛行中に、UFOが同高度でわれわれの編隊の前方を横切っていったのを見た経験がある」と、船附三佐は教えられたという。  

 船附三佐は、他にも、白くて丸い点がジッと動かずに止まっているのを、仲間とともに目撃したりしている。これまた、「雲をUFOと見間違えた」というような、よくあるケースではありえない。というのも、高い上空では、ジェット気流が常に吹き続けているからだ。「今日は、風がないですね」というのは、地上ならではの話。   風に流されずに一時間以上も止まっているというのは、それが何であれ、きわめて異常なことだった。  

 この人は、本当によくUFOと遭遇する人で、後に退官して民間の航空会社に就職し、海外で宿泊したホテルからもUFOを目撃したんだそうな。まさしく、「UFOに愛されたパイロット」と呼ぶにふさわしい・・・。  

 いずれにしても、UFOの正体が何なのかはともかく、地球の上空には、自然現象や、地球人類の科学技術ではあり得ない飛行物体が、けっこう飛んでいるのだけは間違いない。

(いつの日か、続く)


UFO発見と同時に、機体に異常発生 ~ その3

2014年07月19日 | UFO


航空自衛隊によるUFO目撃情報が信頼できる理由のひとつに、「自衛官はリアリストだから」というのがある。不思議な現象に遭遇しても、「あれは、何かの気象現象ではないか?」というような、合理的かつ科学的な解釈を、真っ先に考える習慣がついている。

ただし、いつも個人的な体験ですませられるわけではない。中には、UFOが出現したのと同時に、機体にも異常が発見されたことがあった。このときは、さすがに「原因を究明せよ」ということになり、かなりの騒ぎになったという。

このときは、東北の三陸沖を、教官2人が練習機で飛んでいたところ、後部座席にすわっていた教官が、不思議な「葉巻型」の飛行物体を発見した。

翼がなく、高高度で変則的な飛行をしているだけに、民間航空機とは考えられない。しかも、発見すると同時に、機体の電気系統と操縦系統に異常が発生した。パイロットと2人で、必死で対応しているうちに、ナゾの飛行物体は見えなくなり、機体も正常に戻った。

飛行中にトラブルが発生したときは、点検のため、確認飛行をすることになっている。このときも、もう一度、同じように飛ぶことになった。

すると今度は、もう一人の教官が、まったく同じ「葉巻型」の飛行物体を発見した。しかも、それと同時に、また同じトラブルが機体に発生したという。
 
さすがに騒ぎになって、調査されたのだが、結局は、「パイロットの証言に問題があった」ということにされた。このときにUFOを目撃したパイロット2人は、よほど嫌な思いをしたらしく、後々まで、この事件のことを語りたがらなかったという。

広々とした空をいつも飛んでいるパイロットは、UFOを目撃する機会も多くなる。いつも下を向いて歩き、滅多に空を見上げないような人が、頭上にUFOがいても気がつかないのとは、まさに正反対(笑)。

ひとつには、「目の機能が、どれだけ発達しているか」というのも、あるだろう。

「犬笛」というのがある。犬笛を吹いても、人間の耳には聞こえない。でも、犬は、耳がピクッと動いて反応する。人間の耳には聞こえないが、犬には聞こえる波長なのだ。

それと同じように、一般人には見えない波長の光が見えるという、特異体質の持ち主がいても不思議はない。世の中には、いろんな人がいるからだ。UFOをちょくちょく目撃する人というのは、そういう目を持っているとも考えられる。

その点、航空自衛隊のパイロットは、特に、日頃から視覚を鍛えている。日本の領空に不法侵入した中国やロシアの軍用機を、いち早く発見するのが仕事だからだ。

つまり、パイロットにも、UFOを見ない人もいれば、よく見る人もいる・・・ということ。

しかも、なぜか、UFO目撃談は、東北の基地の周辺に多いらしい。

(続く)
 


なかなか表に出ない、パイロットのUFO目撃情報 ~ その2

2014年07月16日 | UFO

 
飛行機のパイロットがUFOを目撃することは、民間の航空でもよくある。

でも、週刊誌にUFO目撃談を語ったおかげで、「精神状態がおかしいのではないか」と疑われ、飛行停止になってしまった人も、実際にいた。このため、パイロットはなかなか語りたがらない。

自衛隊でも、「UFOを見た」という話は、長いこと、表に出てこなかった。

でも、「日本の上空で、未確認飛行物体を見た」というのは、それ自体が大きな問題のはずだ。どこかの国が飛ばしたものかもしれないし、軍事的にも無視できない。

ご存知のとおり、日本近海の上空では、北朝鮮がミサイルをちょくちょく飛ばしている。中国の無人偵察機も飛んでいる。つまり、「未確認飛行物体」は、増える一方。

そのためにも、こういう目撃情報は、やはりチェックしておかなければいけない。米軍にUFO資料の蓄積があるのも、ひとつには、そのせい。

もちろん、自衛隊は日夜、レーダー管制に取り組んでいる。レーダーに探知されるのは、航空機の他にも、渡り鳥とか、気象観測用のバルーンとか。そういえば、あの有名なロズウェル事件でも、アメリカ政府の発表では、「真相は、気象観測用のバルーンでした」ということになった。

逆にいえば、そんな鳥や風船でさえ、レーダーには探知される。そのくらい、現代のレーダーの精度は高い。そんなレーダーに、「未確認飛行物体」が映ることが、ときどきある。逆に、「レーダーには探知されないけど、パイロットには飛行物体が見えている」というナゾの現象も起きることがある。

そんな体験談を集めたのが、佐藤守氏の著書、「実録・自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO」。米軍による長年の調査研究と比べたら、ささやかな内容だけど、日本では画期的な本だ。

この本に登場する自衛官OBによると、民間航空に勤めた同期の元機長が、UFOを見たとして新聞で報道されたことがあった。その機長には、誇大妄想狂だというウワサが立って、長いこと、飛行停止になってしまったという。

他にも、元機長のエピソードとして、「未明のホノルル便で、真っ暗な中、ハワイ方面の空中に白い輪ができていたのを見た。その白い輪は、まったく動かなかった。コックピットにいた3人全員が確認したので、会社に報告したところ、翌日に回答があり、『米軍がレーザー兵器の実験をしたのだ』ということだった」と語っている。その機長は、「そんな問題には、深入りしないほうがいい」とも言われたんだそうな。

これこそ、この手の話がなかなか表に出てこない、2つの大きな理由だろう。ひとつには、「パイロットとしての信用にかかわる」と懸念して、語りたがらないケース。もうひとつは、「軍事機密にかかわるから話すな」というケース。

それでも、不可解な現象はしばしば起きる。

F14の優秀なパイロットも、そういう体験談を語っている。

夜間の東シナ海上空で、二機編隊で飛んでいたところ、ほぼ同じ高度で、同じ方向に向かって飛んでいる、白い光が見えたという。それも、蛍光灯に近い青白い光で、点滅せずに、ずっと光り続けている。そんな飛行物体は、自衛隊や米軍にも、中国軍にも存在しない。

まるで、幽霊船ならぬ、幽霊飛行機みたい。サン・テグジュペリの小説、「夜間飛行」には、真っ暗な中を小さな飛行機で飛んでいるうちに、どっちが上で、どっちが下なのかも分からなくなり、気がつけば逆さに飛んでいたパイロットの話が出てくる。そんな真っ暗闇の中の飛行で「幽霊機」に遭遇したら、さぞかし、ゾッとすることだろう。

二番機が自分の横を飛んでいるわけもないし、もしそうだとしても、ライトは点滅しているはずだ。

無線でストレンジャー(正体不明機)情報を聞いても、「ユーハブ・ノーストレンジャー」(周辺に他機はいない)という答が返ってきた。念のため、飛行諸元(高度、速度、針路)を伝えて確認してもらったが、それでも、他機はいなかった。二番機に、「私の右横方向に、何か見えるか?」と聞いてみても、「何も見えない」という。

この事件以来、優秀なパイロット氏は、すっかりUFOの存在を信じるようになった。そして、「もしも、UFOが飛来する目的が地球侵攻なら、遥かに進んだ技術を持つ彼らに、とても勝ち目はない。できれば、友好的に飛来してもらいたい」と考えるようになったという。

こういう話は、なかなか表に出てこないが、気心の知れたパイロット同士では話題になる。やがて、「自分も見た」という話が、続々と出てきた。


(続く)


自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO ~ その1

2014年07月15日 | UFO

 
航空自衛官OBが断言!! 「UFOは日本上空にウヨウヨいます」 というのは、3年前に書いたブログ記事だけど、いまだにアクセスが多い。

当時、話題になった一冊の本。それは、「実録 自衛隊パイロットたちが接近遭遇したUFO」。 

著者の佐藤守氏は、いまや、軍事評論家としてもオナジミになった。航空自衛隊ひとすじで、元・空将だった人。この本では、佐藤守氏が集めた、現役当時の多くの同僚や部下からの情報が集まっており、何人かは実名で遭遇体験を明かしている。

なんといっても、航空自衛隊員による目撃談であるというところに、この本の意義がある。

というのも、UFOの目撃談というのは、見まちがいがとても多いからだ。飛行機や、雲の反射を誤認するケースが多い。なかでも多いのは、航空自衛隊や米軍の飛行機・ヘリコプターを見て、UFOだと思うケース。

その点、当の航空自衛隊員なら、その道のプロだから、誤認するケースが格段に少なくなるのは当たり前と言えるだろう。もともと、飛行機をよく知っている上に、視覚を強化する訓練も積んでいる。だから、情報に信頼性が高い。

実際のところ、アメリカでも、UFO研究の専門家が一番アテにしているのは、米軍からの情報だ。アメリカではこの手の研究が盛んなだけに、資料も豊富で、日本とは比較にならない。

日本にも、やっと、こういう本が出てきたのだ。といっても、もう3年も前の話だけど・・・。

佐藤氏も、自身の乗る飛行機が、UFOと間違えられたケースを紹介している。

あるとき佐藤氏は、東シナ海を飛行したあと、九州の基地に向かっていた。すると、故障で酸素が漏れていたため、みるみる酸素不足になっていった。危険なので、基地の上空に到着してすぐに、左右ジグザグに振れながら急降下を開始した。

長くパイロットをやっていれば、こういう危険とは隣り合わせだろう。ところが、これが、地上で意外な騒ぎを引き起こしていた。いわく(抜粋)、

>当時、私は基地の剣道部長でした。そして、隊員たちとともに基地周辺の子供たちに剣道を教えていたので、その日も剣道着に着替えて道場に行くと、子供たちが、「先生! 今日、UFOが飛んでいるのを見た!」と、口々に騒ぎます。

>翌日の西日本新聞を見て、驚きました。

>新聞記事・・・夕日に染まった福岡市の西部上空に、キラキラ光る帯状の怪しげな物体。「UFOだ」、「巨大隕石ではないか」など、諸説紛々。新聞社や気象台には問い合わせの電話が殺到した。

>光は最初遠ざかり、下降し始めたかと思うと、鋭角的に右旋回。ジグザグに向きを変えるたびに赤くなったり、白くなったりしながら、午後五時半ごろから十数分間ほど飛び続けた。

>正体はすぐに判明した。「自衛隊の小型ジェット機の航跡が夕日に照らされて光って見えたのでしょう。こちらでも確認しました」(航空自衛隊の基地)。

UFOとまちがえられただけでなく、見まちがえた経験もあるらしい。当初は、空中に、真っ白な大きな点が見えた。それが、日が暮れるにつれて、オレンジ色の光に変わっていった。隊列の先頭を飛んでいた同僚も、「あれ、UFOじゃない?」と、興奮気味に通信してきたという。

そのときも、正体はすぐに判明した。やがて、薄ねずみ色の主翼が見えてきて、「ジャンボ機だ」と分かったんだそうな。

このように、たいていの場合、UFO騒ぎは、実につまらない結果に終わる。なんといっても、その道の専門家だけに、すぐ分かるのである。

それでも説明がつかない、ナゾの現象がある。それも、かなり多いらしい。

この本を出したところ、「自分もUFOを見ました」という声が、数多く出てきたという。

(続く)
 


プロティノスの、一なる神 ~ ギリシャ哲学 その5

2014年07月08日 | 精神世界を語る

    
ギリシャ哲学といえば、プラトンとアリストテレスが有名だ。でも、後世に大きな影響を残した人が、もう一人いる。それは、プロティノス。

プロティノスは、ちょっと後の時代の人で、古代ローマ帝国期のエジプトに住んでいた。

プロティノスこそは、「ワンネス思想の祖」と言える人。

ひとりの人間とは、コップの中の水のようなものだ。ただの水なのに、コップの中にいるおかげで、「俺は、オレだよ」という自我意識を持っている。

大いなる海に向けて、コップをひっくり返したら、どうなるか。コップの中の水は、膨大な海水の中に溶け込んで、すぐに見えなくなってしまう。でも、なくなったわけではない・・・。



これこそ、典型的なワンネス思想のイメージだろう。

こういうのを言い始めたのが誰なのかといえば、それがプロティノスなのだ。

プロティノスといえば、流出論。

プロティノスは、神を、「一」とか「一者」と呼ぶ。英語でいえば、“the one”。そのままズバリ、数字の「1」のこと。

一からは、二が生まれる。三も、四も、五も・・・、すべては、一から流れ出す。

つまり、一から、多が生じる。すべてが流れ出してくるから、流出論。

イスラム教やキリスト教の信者は、しばしば、「全知全能の神さまが、この世界をお創りになったというのに、どうして、この世はこんなに不完全というか、ハッキリ言えば、ロクでもないのばっかりなんでしょうか?」という疑問を抱く。

聖書やコーランをどれだけ読んでも、その答は見つからない。「神さまには、わたしたち被造物には分からない、深いお考えがあるのでしょう」とでも言うしかない。

その点、この哲学者の流出論は、すべてを説明するスマートな世界解釈だ。

最上層には、「一」がある。その下には、「知性」(ヌース)がある。

さらに、そのヌースから、多くのものが流れ出す。本当は、そこからまた、いくつもの段階があって、九つの層に分かれているんだけど、細かい話をしたらキリがない。

とにかく、最上層は、一なる神。その次は、ヌース。そして、一番下の最下層にあるのは、物質界。そこがポイント。

 

 
 
世界は九層に分かれていて、物質界は、その最下層にある。

その物質界にいる、われわれ人間は、文字通り、シモジモの存在だ。だからといって、なんの希望もない絶望の日々をすごしているのかと言ったら、そうでもない。

なんと、最上層の「一」に向かって回帰するという、上昇運動への道が残されているのだ。

もしも、首尾よく最上層の「一」にまで到達し、そこで一なる神と合一することができたなら、最高にハッピーな気分になれる。それが、「エクスタシー」といって、哲学者にとって最高の境地。

流出論は、プラトンの思想をさらに一歩進めたものとはいえ、プロティノスならではのオリジナルな思想だった。

でも、どういうわけか、アラビア人もペルシャ人も、「ギリシャ哲学とは、こういうものだ。プラトンもアリストテレスも、こういう世界観だったのだ」と思い込んでいた。それが、中世ヨーロッパにも伝わった。

このため、プロティノスのワンネス思想は、西洋哲学の伝統的な世界観として、すっかり定着した。

でも、それは別におかしくない。

そもそも、なんで、プラトンが「イデア」なんてものを考えたのかといったら、それは、この世には個別でバラバラな存在がたくさんあるからだ。

「世界の本質は、こんなバラバラに分かれたものじゃない。普遍で全体的なのが、本来あるべき姿なのだ」というのが、その根底にある。

つまり、プラトンの世界観も、ワンネス思想か、その一歩手前にある。アリストテレスだと、そこから一歩か二歩ほど後退してるけど、やっぱり、基本は変わらない。

だから、プロティノスのワンネス思想を見て、「プラトンやアリストテレスもこういう世界観だった」と、後世の人たちが思い込んでいたのも、不思議ではない。

こういうワンネス思想を見て、ピンと来て共感できる人といったら、現代では、なんといっても精神世界マニアだろう。

現代の哲学マニアには、残念ながら、精神世界・スピリチュアル系にあまりにも弱い、というより、世間の一般人をもしのぐ疑いの目を向けている人が少なくない。

でも、それだと、昔の哲学者たちと同じ心になって、一緒に哲学するのはムリだ。

その点、精神世界マニアなら、とくに意識しなくても同じスタンスに立てるのが強み。

要するに、だから、ここは筆者の出番というわけなんだが・・・(笑)。

(いつの日か、続く)

(画像出典  


現実主義者のアリストテレス ~ ギリシャ哲学 その4

2014年07月07日 | 精神世界を語る

 
  
西洋哲学の祖といえば、2人いる。プラトンとアリストテレスだ。

お釈迦さまが始めた仏教には、いろんな宗派が広がった。それぞれの宗派は、ほとんど別モノに見えるほど違いが大きい。でも、どの宗派もみんな、お釈迦さまの教えを学んだ弟子であることに変りはない。

儒教もそれと同じで、どんなに多くの学派が広がっても、やっぱり、基本的には孔子さまの教え。

それと同じように、西洋哲学も、基本的にはプラトンとアリストテレスの教えと言っていい。つまり、宗教じゃないんだけど、宗教に例えるなら、この2人が開祖。

西洋の哲学者たちは、見た目ほど、バラバラにものごとを考えていたわけではない。

基本的には、プラトンとアリストテレスの教えを学んで、そこから考えを発展させる。それが、「西洋哲学」というものだろう (ただし、宗教と違って、「論理の積み重ね」が重視される)。

といっても、この2人は、対照的な人たちだった。プラトンは理想主義者、アリストテレスは現実主義者、それぞれの代表選手といったところ。

上の有名な絵でも、プラトンは天上界を、アリストテレスは地上界を指差している。つまり、この師弟コンビはそれぞれ、そういう人たちだったのだ。

師匠のプラトンとは異なり、アリストテレスは、地上の現実を見ていた。プラトンは、この世を「影絵」あつかいしていたが、アリストテレスは、そんなことなかった。

ただし、これほど哲学者らしい哲学者は、後にも先にもいない。まさに、空前絶後のスーパー大哲学者だった。アリストテレスのおかげで、哲学だけでなく、科学も大きく発展した。

アリストテレスは、「万学の祖」と言われる。つまり、アリストテレスは、理系だろうが文系だろうが、あらゆる学問を究めていた。当時の知識人としての、すべての知識を身につけていた。

人類史上、そういう人は、アリストテレスで最後だろう。現代では、知識の量が多すぎて、絶対にムリだ。故・小室直樹博士あたりは、それを目指していたみたいだけど・・・。

とはいうものの、万学に通じたアリストテレスにも、専門分野はあった。それは、生物学。

とくに、動物を観察して、とても深く研究していた。

昔から、生物学をやっている人には、現実主義者が多い。毎日、いろんな生物を分解して調べていれば、「生命の神秘」どころじゃなくなってくるからだろう。

もちろん、中には、「生物学をやって、生命の神秘に目覚めました」という人もいる。村上和雄博士や、ブルース・リプトン博士のように、精神世界で有名になった人もいる。でも、そういう人は少数派で、生物学をやると、たいていの人には、生物が「機械」に見えてくる・・・。

その代わり、アリストテレスは「成長重視」だった。というのも、生物は、まだ何になるのか分からないタマゴの状態から、摩訶不思議にも成長して、魚とか、カエルとか、ヘビになっていく。

アリストテレスにとって、世界のすべては、そういうものに思えた。

地上のすべてのものは変化し、成長している。理想形は、その成長の先にある。

師匠のプラトンが語る、「イデアの世界」の話を、アリストテレスは認めなかった。

「天上のイデア界には、光り輝く、ニワトリの真実在がある。地上でコケコッコーと鳴いている普通のニワトリは、その影絵みたいなものなのだ」。

・・・そういう話を聞いても、アリストテレスには、「そんなバカな」と思えた。

アリストテレスにとって、ニワトリの真実在、つまり、本来あるべき姿とは、どこかの「イデア界」などにあるのではなかった。

それは、タマゴの中にある。

タマゴがかえって、ヒヨコになる。やがて、ニワトリになる。それは、完成されたニワトリという理想形が、もともとタマゴの中にあったからだ。

犬の赤ちゃんが、成長して犬になるのも同じ。木材が机やイスになるのも、ブドウがワインになるのも同じ。

いずれにしても、地上の事物はみんな、それぞれ、どこか不完全にできている。しかも、バラバラに分かれている。

なんで、そうなるの?

・・・いくら現実主義者といったって、哲学者である以上、アリストテレスの問題意識もそこにある。

要するに、「本来は完全無欠の世界であるはずなのに、なんで地球という環境は、こんなにデキが悪くて住みにくいのか?」という素朴な疑問と、根っこのところは一緒。

そういう不完全でバラバラな地上の事物には、元になる「オリジナルの理想形」がある。それは完全な、本来あるべき姿なのだ。

それは、アリストテレスも否定しなかった。そこまでは、プラトンと変らない。

ただし、それは、天上の世界にあるわけではない。それは、地上の事物それぞれの中に含まれているのである。

例えてみれば、目には見えない、透明な「型」がある。それは、本来あるべき、理想的なカタチをしている。

そこに粘土を入れて、粘土細工を作る。できた作品は、オリジナルの型と比べたら不完全ではあるけれど、一応それらしくなる。

地上に存在する事物は、作っている最中の、まだ完成していない粘土細工みたいなものなのだ。

ここでいう「粘土」にあたるものが、地上の世界では、「物質」ということになる。

こうして、優秀すぎる弟子のアリストテレスは、師匠が描いた天上の理想の世界を、地上の現実へと大きく引き戻したのであった・・・。
 
 
(続く)
 


プラトンの洞窟 ~ ギリシャ哲学 その3

2014年07月06日 | 精神世界を語る



あるときプラトンは、人間を、「洞窟の中の囚人」にたとえた。

洞窟の中で、囚人がしばられている。囚人たちは、壁に向かってすわっている。壁には、影絵が映っている。

囚人たちの背後ではタキ火が燃えていて、火の前には、人形その他が置いてある。囚人たちは、壁にあかあかと照らし出された、その影を見ているというわけだ。

この「影絵」というのが、いまいち分かりにくいところなんだけど、これは仕方がない。プラトンの時代には、映画がなかったからだ。

現代人なら、ここは「映画」と読みかえていいだろう。つまり、囚人たちは、洞窟の中にいて、壁に映った映画をじっと見ているのである。そういうシチュエーション。

あるとき、みんなと一緒に黙って壁に向かい、影絵をじっと見ていた囚人の一人が、洞窟の外に出してもらえた。

洞窟の外に出た囚人は、驚いたのなんの。なんと、そこには太陽が輝き、光に満ちあふれているではないか。しかも、草が生え、蝶が舞い、動物たちも生き生きしている。

世界とは、これほど明るいものだったのか。あの「影絵」なんかとは、えらい違いだ。

ビックリした囚人は、洞窟の中に戻って、仲間の囚人たちに、この話をした。洞窟の外は、メチャクチャ明るくて、生き生きしているぞ。こんな影絵なんかとは、えらい違いだ。お前らも、こんなの見てる場合じゃないって・・・。

しかし、その言葉は、仲間の囚人たちには届かなかった。かえって、「コイツはどうやら、精神に異常を来たしてしまったようだな」と思われてしまった。

 

・・・とまあ、こういうのが、有名なプラトンの「洞窟の比喩」。

言うまでもなく、洞窟の中の囚人というのは、われわれ、地球の物質世界の中に生きる人間を意味している。

人間が見ているのは、洞窟の壁に映った「影絵」でしかない。

天上には、真実在の世界がある。そこは、途方もなく明るい、光り輝く世界だ。

この実在界には、前回も書いたような、「本質存在」がある。プラトンは、それを「イデア」と呼んだ。

犬には、犬のイデア。机には、机のイデア。人間には、人間のイデアがある。どれも、この世の犬や机や人間・・・よりも、ずっと素晴らしい。

「理想の犬を育てる方法」という本があったけど、そんな理想の犬と比べても、さらに非の打ち所のない、完璧な犬だ。

それに比べて、この世にあるのは、影絵みたいなものだ。アチラこそが、ホンモノなのだ。

そういうホンモノが集まっているのが、イデア界。われわれの頭上のどこかには、そういう世界があるらしい・・・。





というのも、この世は、相対的な世界。ここは、百人の人がいれば、百通りの意見が噴出する世界だ。

「大島優子は、すごい美人だな」と誰かが言えば、「エ~?」と言い出す人がいる。「渡辺麻友こそ、本当の美人だ」と言えば、他の人が「ハァ~?」となる。ここでは、万人の価値観が一致することがない。

理想の犬に育てようと思って、犬を厳しくシツケている人がいると、それを見て、「犬が叱られて、かわいそう。なんてひどい飼い主だ」と思う人もいる。

かといって、散歩していても、あっちにワンワン、こっちにワンワンと勝手きままに飛び回っている犬を見れば、「なんだ、あの犬は。飼い主のシツケがなっとらんわい」と顔をしかめる人もいる。

このように、何が正しいのかは、人それぞれに異なる。国や地域によっても、異なる。

古代ギリシャは、エーゲ海に浮かぶ小さな島や半島が多くて、しかも当時は、今でいうイタリアとかトルコあたりにまでギリシャ人の世界が広がっていた。海を通じて、違う環境の人たちの異文化交流が盛んだったのだ。だから、ますますバラバラだった。

そんな中でプラトンは、「これは違う。どこかに、絶対的な美とか、絶対的な善とか・・・があるはずだ」と考えた。

この世は、個別の具体的なもので満ちている。そんなバラバラな世界は、どこかで統合される。そこには、普遍で全体的なものしかない。

どこかにあるはずの、絶対的な真・善・美。

その究極には、世界を統合する、絶対的な根源がある・・・。

ここまで来れば、ワンネス思想まで、あと一歩。

(続く)

画像出典 影絵


本質存在 ~ ギリシャ哲学 その2

2014年07月05日 | 精神世界を語る

 
「哲学」と一言で言っても、いろんなテーマがある。

もっとも、現代の哲学の研究者がやってることは、ほぼ別モノなので対象外。ここでいう「哲学」というのは、それよりも昔の話。
 
古代ギリシャの哲学者は、それこそ、なんでもやっていた。数学も物理も生物も、政治や法律も・・・、みんな、哲学者が考えたのだ。

「人は、いかに生きるべきか?」といった、道徳の先生みたいなことも、哲学者の重要な役割のひとつだった。
  
そんな中でも、最大のテーマといえば、「存在」だった。
  
 
「最後の大哲学者」こと、ハイデッガーは、古代ギリシャからの哲学の歴史を、とても深く研究していたことでも有名。

そんなハイデッガーは、「哲学史上、最大の問い」として、こう語った。

>「なぜ、存在者があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか?」。

ハイデッガーによれば、この疑問こそ、哲学で最大のテーマだ。「これがあるから、2500年もの間、ボクたちは哲学をやってきたんだ」という感じ。

ここでのポイントは、後半の、「むしろ、無があるのではないのか?」というところにある。
 
というのも、「この世がある」というのは、考えてみれば、とても不思議なことなのだ。

なんで、こんな、地球だの太陽だのが存在するのか。空の雲とか、雨とか雪とか、動物とか植物とか・・・なにもかもが、「そもそも、なんで、こういうものが存在するんだろう?」と考え始めたら、キリがない。

考えれば考えるほど、ナゾに満ちている。

この世があるから、「なんで、こんなモノがあるんだろう?」という疑問が出てくるのである。それに比べて、なにも無いほうが、よほどスッキリしている。なにも無かったら、なんの疑問も起きない。

とくに不思議なのは、人間、なかでも、自分自身の存在だろう。
 
いつかは死ぬに決まっているのに、とりあえず生きている、この自分。「俺は、オレだよ」という自己意識を持って生きている。
 
「ひょっとしたら、人間の中で、本当に存在するのは自分だけで、あとの人たちは、演技するロボットみたいな架空の存在なんじゃないかな?」というのは、子供なら、たいてい一度は考えてみることだろう。
 
実のところ、ハイデッガーにとっても、最も不可解な「存在者」とは、自分自身だった。そもそも、自分自身がいなかったら、何も認識できないのだから、この世は存在しないも同然。
 
つまり、もしも自分自身が存在しなかったならば・・・。その代わりに、無があるのである。

それにしても、なぜ、存在者があるのか。そして、むしろ、無があるのではないのか・・・?

考えれば考えるほど、不思議なことだ。
 
ここで、宗教の信者さんが登場すれば、一言ですべてが解決する。

「それは、神さまがお創りになったからですよ」。

ある新興宗教の信者さんに至っては、「ウチの教祖の先生が、人間としてこの世に下生される前の、天上界にいたときにお創りになったんですよ」とまで主張していた。

これが最終回答になるとは、信者とは、なんとも幸せなものだ・・・(笑)。
 

それはともかく、哲学者たるもの、目の前にある存在を、ただ見るだけで終わりではない。

目の前に、四つ足の動物がいる。シッポを振っているのが見えるし、ワンワンという声も聞こえる。

しかして、それは世を忍ぶ、仮の姿なのだ。この者の本質は、いかなる存在か・・・!?
 
哲学者なら、そう来なくてはいけない。
 
というのも、世の中は、バラバラに存在するモノで満ちあふれている。あの人、この人、その人。机にイスに、タンスに、冷蔵庫・・・。

完全なモノなど、何もない。どれも、どこか不完全な上に、時間がたてば劣化していく。しかも、バラバラに分かれている。
 
世間の一般人にとっては、それでいい。「世界とは、こういうものだ」と割り切っているからだ。

でも、哲学者は、そういう不完全で個別的なモノの奥に、「本質存在」を見ようとする。
 
 
東アジアの日本人や中国人には、そういう哲学者タイプの人が珍しい。それでも、たまには出てくる。
 
かの高名なる明の儒学者・王陽明は、若き日のあるとき、自宅の庭の竹林を、思い詰めたように見つめていた。

「竹なんかをジッと見て、いったい、何をやりたいの?」と聞かれたら、「ボクは、竹の理を見たいのだ」と答える。ここでいう「理」(り)というのは、儒学の基本概念で、要するに、「存在の本質」ということ。
 
3日3晩、竹の理を見きわめようと必死だった王陽明。あまりに根を詰めたおかげで、ついには、「ウ~ン」と目を回して倒れてしまったという。

これぞまさしく、哲学者のカガミともいえる姿勢だろう。
  
 
(続く)